16_ラストリゾート(4)
――その日は、随分と春らしくなってきた冬の終わりだった。まだ若い娘であったシャルロットは幾ら春めいてきたとはいえ凍えてしまうほど冷たい海に好き好んで入ってくる人間――まるで絡まった糸のように複雑な様相の崖と、その下の洞窟にまで立ち入ってくる物好きなど居ないと思い込んでいたのだ。否、油断していたのだ。それは思わずいつもマレノスタリアでも有数の断崖絶壁に巣を作るあのウミツバメのペアは今年も来ているだろうかと、また再会出来るだろうかと、心の底から楽しみにしていたからだった。それはどうにも娯楽の少ない海において、まだまだ若者のシャルロットにとっては貴重な楽しみのひとつだった。周囲――それこそ幼馴染や妹はさっさとパートナーを見つけて結婚してしまったけれど、どういうわけか恋愛というものにはあまり興味の湧かないシャルロットはまだ小さな子供だった頃からの貴重な楽しみであるウミツバメの繁殖だとか、はたまた海底鉱山から貴重な鉱石を拾ってくることだとか、あるいは綺麗な貝殻を集めては子供相手に見せびらかすだとか――そういうことばかりに精を出していた。
祖父母はいつまで経っても落ち着きのないシャルロットに早く身を固めろと再三口を酸っぱくして告げていたが、シャルロットにとって誰かと番になるということはそれほど重要なことではなかった。というよりかは海底鉱山から持ち帰ってきた宝石や鉱石の美しさや価値は無論のこと、シャルロットが義務としての仕事ではなくそれを心の底から楽しんで生業にしていることを理解してくれる異性というものが、からっきしだったのだ。つまりは恋をするだけの価値のある男が、いなかったのだ。
故にシャルロットは聞き慣れたを通り越して聞き飽きた、両親や祖父母の「早く結婚しなさい」というお小言や「いい加減に遊び歩くのは止めなさい。」という、なんとも有難い説法に生返事を返しながら傷一つないエメラルド並に貴重な楽しみを求めて、悠々と通い慣れた海食崖までやってきたのだ。
「――――――居た…!!」
ソワソワ、期待に落ち着かない気持ちと。まだ初春なのだから期待してはいけないと自らを戒める気持ちとを、半分ずつ。何度落ち着けと窘めても疼いて仕方がない胸の内で燻らせながら、シャルロットは崖の上を見上げる。するとそこには去年と全く同じ位置――この断崖絶壁の中でも雨風や夏の嵐をものともしない、特に奥まった場所――にて、小枝やら枯れ草やらを集めては2羽で協力して巣を作る仲睦まじいウミツバメのカップルを見つけると、シャルロットは思わず声を上げた。それから自然と緩む頬に任せて、心ゆくまで微笑んだ。
――嗚呼、良かった。今年も、楽しみが損なわれないで済んだ。
そんなことを考えながらシャルロットは海食崖の端、激しい海水の侵食により滑らかになるまで磨き上げられた平らな岩の上に腰掛ける。そして海面から尾びれを引き上げると、人間でいうところの太ももに該当する箇所に肘を乗せると頬杖をつく。そうして勝手に友達だと思っているあのウミツバメの夫婦の作業を心ゆくまで見守ろうと、ひとり考え込んでいる時だった。不意に頭上から尾びれの先に掛けて、人間が漁で使う網のようなものが被せられた。次いでそれに反応を示すよりも先に、シャルロットは全身に走る痛みに声を上げる間もなく意識を失った。
――それが一般に広く流通している雷の系統の魔法を閉じ込めた護身用の魔石であることと、それを悪用した密猟であると知るのは、もう少し先のことだった。
――――――――
気を失ってから、一体どれくらいの時間が経ったのだろう。シャルロットはふと目を覚ますと、自分がほの暗い空間の中で旋回も出来ないほどに小さなガラスの箱に閉じ込められていることと、目を覚ました自分を見つめる幾つもの瞳――それも単なる好奇心ではなく、悪意や高慢さ、あるいは強欲さといった特に下品で下劣なものに塗れた――に見つめられていることとに気が付くと、声にならない声を上げた。それから早くどうにかして逃げなければとパニックになると、狭い水槽の中で尾びれが傷付くのも構わずに暴れた。けれどこの仄暗い空間――これもまた後で知ったことだが、そこは皇帝の目を盗んで建設された地下で行われていた、国内外の富裕層に向けての闇オークションだったらしい――にて、シャルロットに下卑た視線を向ける人々は、彼女が暴れれば暴れるほどに熱狂した。
特にシャルロットが『陳列』されているステージに最も近い最前列に座るとある近隣諸国の大臣は、彼女が暴れれば暴れるほどに水槽から零れ落ちる水を浴びながら「なんて活きのいい人魚なんだ!」と心底喜んでは、相場の1.3倍の値段を業者に提示した。するとその3列後ろに座っていた、如何にも成金と言った風貌の貴婦人はシャルロットの美しい青緑色の髪と尾びれを逃すものかと1.5倍の金額を口にした。そうすると同じくシャルロットの持つ鮮やかな夏の色に心奪われていた、最後列から2列目の某国の軍人は1.52倍の値段を叫ぶ。シャルロットはわけも分からないままに少しずつ上がっていく値段と、どんどん正気を無くしていく人々の狂気とに押されると、遂には抵抗をやめた。代わりにこの場から逃げ出したい、海に帰りたい一心でその整った顔を歪ませると、声も上げずに静かに泣き出してしまった。だというのに瞳から零れる涙さえも人魚という希少種に狂った人々を喜ばせるにしか過ぎなかったものだから、シャルロットはとうとう絶望すると力なく俯いてしまった。
「――――500。」
そんな時だった。小さく値段の釣り上がっていく様を、なんとも貧乏くさい取引だと嘲笑せんばかりの凛とした声が会場に響き渡った。と同時に、相場の3倍を優に超える圧倒的な値段を提示する存在に今まで細かく値段を刻んでいた人々は思わず声を失った。
「――ご、500。500が出ました!他に入札なさる方はいらっしゃいませんか?!」
過去最高値のその金額に、業者さえも声を震わせながら声を張り上げる。そして改めて500という法外な値段が仲介人の口から告げられると、先程までの熱気と狂気に包まれた様からは一転。会場は静寂に包まれた。誰もが固唾を呑んで、それを超える者はいないのかと腹の中を探りあった。
「――――で、では。他にいらっしゃらないようですので、本日は此方のレディの500で落札とさせていただきます……!!」
業者は落札した少女をステージ上へと手招きすると、皆の目の前で落札の証――皆が求め、焦がれて止まない品――急遽開かれた闇オークションが故に本日の唯一にして目玉商品であるシャルロットを閉じ込めているガラス製の箱とステージとを固定している器具を外す鍵を手渡す。少女はそれを仲介人から受け取るや否や身を屈ませると、会場の誰もが羨ましさと悔しさにハンカチを噛みながら涙を呑む中、静かに鍵を開けた。
次いで少女は鈍い音を立てて落ちた錠前を拾う素振りを見せながら、その実わけも分からないままにどんどん進んでいく取引にぐったりと項垂れてはポロポロと涙を零すシャルロットとそうっと目を合わせた。そして声を発さずに、唇の動きのみで「大丈夫よ。」と彼女に告げると、ぱちりとウインクをした。
シャルロットは何が大丈夫なのか、どうしてそんなに楽しそうですらあるのか分からないままに、ぼんやりと少女を見つめる。それからこんなことになるのならもっと慎重に行動すべきだっただとか、生まれたばかりの甥の顔をもっと見たかっただとか、はたまた人間に捕まって噂通り売り捌かれるくらいならば、の中で大人しく自分を理解してくれない誰かと結婚した方がずっとマシだっただとか、そんなことをぐるぐると考える。後悔の海に沈んでは浸る。そうして、せめてもの抵抗になんともお気楽な様子の少女を睨みつけようとしたその時だった。不意に少女は懐から取り出したナイフを仲介人の素早く喉元に宛てがうと、にんまりと笑いながら告げた。
「――――全員動かないで。わたしはマレノスタリアの現皇帝であらせるレオニス様直属の文官です。あなたたちは禁止されている人魚の密猟と売買に関わったとして、全員拘束させて貰いますのでそのおつもりで。」
「…………う、嘘でしょう?!だってここは秘密の売買会場じゃ…?!」
「くそっ…!――おい、そんなことは後だ!早く逃げるぞ。さっさとズラかれ!!」
少女が仲介人を人質に、会場に居る全員に向けてそう言い放った途端、方々から悲鳴にも似た声が上がる。次いでなんとかして拘束とその先に待ち受けているであろう裁判を免れようと、出入口に近い者から我先にと立ち上がっては半ば走るようにそこへ駆けていく。その様は、まるで巣穴を掘り当てられたネズミかウサギのようだった。
けれどそんな非捕食者にも思える彼らとは反対に、出入口の警護を任されている重厚な鎧を着た体躯の良い兵士はどれだけ人々が殺到しようと1歩たりとも退かない。寧ろ地上と地下とを結ぶ唯一の出入口であるそこを守護するかのように堂々とした立ち振る舞いで彼らの行く手を阻むものだから、思わずイラついた誰か――おそらくは身なりからして小国の貴族だろうか――が、舌打ちと共に彼の腹にパンチを入れた。が、兵士は少しもよろけないどころか寧ろより腹に、腕に、全身に力を入れて、人々を逃すまいと扉の前で仁王立ちする。その様子をステージから見ている少女は、これまた心底楽しそうに凛とした声を弾ませるとチッチッチッ、と空いている左手で人差し指を振った。
「無駄ですよ?だって今、あなたたちが楯突いているその人こそ、裁きを下す人なのですから。……それに。怪我をしないためにも、罪を軽くするためにも。此処は素直に大人しくしておいた方が身のためですよ?」
「………………まさか。」
少女の声に、真っ先に逃げ出そうとしていた青年――それも苛立ちから、兵士にパンチを喰らわせていた――は興奮した赤い顔から一転、一気に青ざめると後ずさる。すると彼の後ろに控えていた人々は少女の声とビクともしない兵士の姿とに青年と同じ可能性に辿り着くとひとり、またひとりと力なくその場にへたり込んだ。少女はその様を眺めながらも、まだ心の何処かでこの一連の流れがタチの悪いジョークかショーだと信じてやまない人々の視線を感じると、呆れたようにため息を着きながら懐に手を入れる。そしてこの国の文官たる証の、国章が刻まれたエメラルドのバッジを突き出すとふっと笑った。
けれどそれを見遣り、そして少女が本物のこの国の文官だと知っても尚、此処から逃げることさえ出来ればどうとでもなると考えた青年は次々とへたり込んでは諦める周囲を尻目に鋼鉄の鎧に身を包んだ兵士に飛びかかる。その青い顔を再び赤くする。どうせあの少女の言葉ははったりだ、本物の皇帝陛下がこんな薄汚い地下の闇オークションになど来るものかと、ついつい自分の国の王族貴族と同じ尺度でその人を測る。歴代のマレノスタリアの皇帝がどのように国を大きくしていったかも知らずに。
――そして、王族貴族とは総じて宮殿に籠っているものという先入観が、この国においてはリカバリーが不可能な重大な間違いだとも知らずに。
「……退け。退けよ。どうせ皇帝なんてはったりだろ?お前なんて、見掛け倒しの木偶の坊だろ……!?」
青年は腰に下げている小剣を抜くと、分厚い鎧の隙間と隙間を目掛けてその剣先を滑らせる。重装歩兵を思わせるその装備が、恐らくは相当に固いことを見込んでの選択だった。どうであれ帯刀している身としては、この上なく正しい判断だった。
けれどそれは、間違いではないけれど正解でもなかった。否、きっちりと固い装備の隙を突くとか突かないだとか、そういう問題ではなかったのだ。いくら剣の心得があるとはいえ所詮は貴族としての嗜み程度の技術しか持ち合わせていない青年の剣は、自ら兵を率いる彼の前にはまるでそよ風のようだった。加えてそこに圧倒的な体格の差、即ち腕力の差までもがあったものだから、結果として青年の剣は兵士の鎧の隙間を貫通するどころか、逆にあっという間に取り上げられてしまった。剰え宛ら見せしめかのように鮮やかに取り押さえられてしまったのだから、青年は漸く再び赤くなった顔を今度は深海よりも青ざめさせると絶望に染まった瞳で兵士を見上げた。
「――全く、散々な言われようだな。だが、それくらい堂々とされた方が、却って良心を痛めずに裁けるというものだ。」
兵士は自身を見上げる青年のすっかり怯え切った表情に心底呆れたようにため息を吐いてから、顔全体を覆っていた兜を脱ぎ捨てる。そして僅かに灰のかかった薄いシルバーの髪と、その色に仄かに茶を足した不思議な色の瞳と、日焼けした褐色の肌とを薄暗い地下の闇オークション会場の元に晒す。――それは誰もが知っている、かの大国マレノスタリアの現皇帝の顔だった。
青年は本当にマレノスタリアの皇帝だったことと、あんなにも暴言と暴力を振るってしまった以上は極刑を免れないこととを今更ながら悟ると口から泡を吹きながら気を失ってしまった。皇帝はその様を猛禽類のような鋭い瞳で見下ろすと、先程自分に向けてきた小剣に刻まれた紋章を確認する。そしてこんな腑抜けが自国民でなかったことに心底安堵すると、次いで遠巻きにその様子を見ていた人々に向けて睨みを効かせた。
「――――――チェックメイト、ですね?」
少女は皇帝と青年の一部始終を見届けた後にそう告げると、仲介人の喉元に突き立てていたナイフを遠ざける。代わりに脚力こそ弱いものの、力強い蹴りを仲介人の背中に一発食らわせると主君同様に鋭い視線を向けた。そうして念の為に「地上には兵士を待機させてあります。……逃げられると思わないことね。」と吐き捨てると、一体目の前で何が起こっているのか全く理解出来ていないシャルロットへと微笑みかけた。
シャルロットはどうにもただの人間ではないらしい少女に、つい反射的にびくりと肩を震わせる。それからどうであれ少女に買われた身故に、これから先どうなることかと嫌でも最悪の想像をしてしまうとまたしてもその瞳から涙を零した。それを目にした少女は、急に再び泣き出したシャルロットに目を見開いて驚いた後に、そうっと水槽の蓋を外すと手を伸ばした。
――掴まれる。
シャルロットは咄嗟にそう考えると、またしても狭い水槽の中で暴れようと身構えた。けれどその予想に反して少女がシャルロットを掴むことはなかった。代わりに暴れ回った結果として出血している腕だとか、尾びれだとか、細かい傷のついた肩だとかを家紋の入った真っ白なハンカチで押さえながら、心配そうに。なのに無言で、自分を見つめてくるものだから、シャルロットは尚更どういうことなのか理解出来ずに困惑した。混乱もした。
が、この少女と彼女の仲間である『コウテイヘイカ』という人は、どうやら自分を捕まえて売り捌こうとした業者やそれを買い求めた人々とは何かが違うことを漠然と感じると、シャルロットはほんの少しだけ強ばった身体の力を抜いた。とはいえ警戒は怠らないまま、暫し同じく無言で少女を見つめる。
――とても綺麗な、ルビーの色をした瞳だった。




