13_ラストリゾート(1)
結局一睡も出来なかったとは言わないものの、どうにも眠ったような気がしないまま迎えた朝はジェラールの心情に反して気が滅入るほどの晴天だった。夏の訪れを感じさせる、清涼かつ何処までも澄み渡る青だった。とうとう開け放ったまま眠ってしまった窓の向こうからは、漁帰りの海の男たちの喧騒がジェラールの心をわざと乱すように風に乗っては、やいのやいのと鼓膜を揺さぶる。
宛ら祭りのような騒ぎ声に、ジェラールは深々とため息をつくとのそりとベッドから起き上がる。それから朝のほんのりと冷たい潮風に揺れるカーテンを開け放つと、途端に耳障りな喧騒を押し退けるように耳に届く潮騒に思わず目を瞑った。マレノスタリアで生まれ育った子供にとっては子守唄代わりのその音は、まるで自身のたいして面白くもない話に無邪気に手を叩いては喜ぶトルテの声のようで。ジェラールはアステルの言う通り、寝ても覚めても頭から離れない存在にいよいよこれは一時の気の迷いだとか、心が弱っていたからだとか、そういった言い訳が通用しなくなってきたことを改めて悟ると額に手を当てた。それからどんな感情であれ何かを抱き、自覚し、認めてしまった以上は責任が伴うことを、寝不足の頭ながらもしっかりと理解すると深々としたため息を吐いた。
「……ジェラール様?そろそろご起床なさらないと、大学に遅れてしまいますよ!」
「――――ああ。今、行く。」
ジェラールは暫し開け放った窓の向こう、幼少の頃から見慣れた海を見つめる。北国特有の少しばかり濁った海の中に潜む、色鮮やかなエメラルドグリーンをぼんやりと考える。それはひとりで抱えているには少々苦しすぎるこの想いをもしトルテに吐露したら、その時彼女はどんな反応をするのだろうかとつい考えずには居られなかったからだった。そして深く考えるまでもなく、何度も何度も『友達』と口にする彼女のことだから、良くて自分が異性として見られていたことにぽかんとした後に気まずそうに顔を背けるか、もしくは困惑したように眉を下げるかだろう、とジェラールは想像する。それから最悪のパターン――「そんな人だと思わなかった」と苦々しく吐き捨てられては永遠の別れとなってしまう場合や、そこまでばっさりと切り捨てられなくとも生理的な嫌悪感に顔を歪ませる様がありありと目に浮かんでしまうと、ジェラールは本当に僕は心底嫌な想像だけは誰よりも上手いなと、鼻から吐息を漏らした。
次いで考えていても仕方がない事象に頭を悩ませていても仕方がないと寝間着を脱ごうとした瞬間、長年アルスヴィズ家に仕えてくれている乳母の声と共にやや激しく叩かれた自室の扉に、反射的にびくりと肩を震わせた。それから霞がかかったような胸の内とは反対に、自分以外の人間にとっては今日という日も昨日までとなんら変わらない、ただの延長線上にある世界でしかないことをまざまざと知らしめさせられると眉を下げる。
ジェラールはやけに目敏い乳母や母親にこの動揺と迷いを悟られないように、努めて普段の調子で振る舞おうと心に決めると、たっぷりと深呼吸を繰り返した後に扉の向こうのその人へ向かって言葉を返す。それから寝間着を脱ぎ捨て、素早く普段着――といっても、大学の制服――マレノスタリアの国章が入った白のシャツと黒のズボンに着替えると、何食わぬ顔で自室を出た。
――あの日。見慣れたはずの海岸で色鮮やかなエメラルドグリーンを目にしてからというものの、日に日にどんどん自分に対して嘘をつくのが上手くなっていくなと苦笑しながら、ジェラールは口元に笑みを称える。それからその笑みを維持したまま乳母に「おはよう。」と声を掛けると、いつもよりもずっしりと重い鞄に少々ふらつきながら朝食の席へと向かった。
ジェラールは食堂に近づく度に妙に嗅ぎ覚えのある鼻を擽るほんのりと甘い香りが、つい先日友達では居られない友達にプレゼントした、あの焼き菓子屋のクロワッサンであることを寝不足の頭で悟るとほんの少しだけ苦笑する。それからどうせ自分だけが意識してモヤモヤとしているならば、こうなればヤケにだと。いっそとことん喜ばせてはひとり、どうしようもない自己嫌悪と胸の高まりに浸ってしまおうと考える。――つまりは今日はお土産と称して同じものを大学帰りに買ってから海岸に行こうと、そんなことを考えつつ既に席に着いている両親へ頭を下げながら、ジェラールは椅子を引いた。
――――――――
単に寝不足故に鈍い頭だからと言うべきか、あるいは恋などという責任を伴うくせに非効率的かつ非論理的な気の迷いを自覚してしまったせいか。結局ジェラールはその日1日、風邪の引き始めか微熱でも患っているのかと錯覚してしまうくらいに授業に身が入らなかった。その浮つき具合というか心ここに在らずといった雰囲気といえば、帝国大学に入学して以来と言っても差し支えないほどだった。一体どれほどのものかといえば、授業に来た教師が思わず口を揃えて「具合が悪いならばもう帰りなさい。」と心配するほどだったし、普段は全くと言って良いほど近寄らない同級生さえもが「……あの、ジェラール公?もしかしてこの間貸して貰ったノートを汚したこと、実は怒ったりしています…?」とおそるおそる尋ねてくるほどだった。
つまりは、未だかつてないほど――こんなにも他人に自分を気にして貰えたのは、数年前の入学式以来だと苦笑してしまうほどに人という人に話し掛けられては心配されてしまうものだから、ジェラールはほとほと参ってしまった。それから自分としてはなんとか普段通りに努めているものだが、そんなにも昨日までとは雰囲気が違うだろうかとつい疑問を抱いてしまうと余計に落ち着かなくなるものだから、本当に参ってしまったと眉を下げる。
と同時に、こうも他人に話し掛けられる度にどうにも疲れるというか、落ち着かないというか。居ても居なくても同じような存在を気にかけてくれている感謝から一転、だんだんと居心地の悪さを感じるようになってしまったものだから、ジェラールは今日も今日とて昨日のように早々に大学を後にした。あまりにも普段と様子が違うせいか、教師は無論同期の誰も――幼馴染であるフレオニールもオライオンも、彼を引き止めはしなかった。最も、もともと幼馴染というカテゴリーの人間なだけで特別プライベートで親しいわけでもない彼らが自分に積極的に関わってくることなんて滅多にないけれど、とジェラールは心の中で呟いてから鞄を手にすると、門をくぐって大学を後にする。
そうしてマレノスタリアの首都であるデルマリスの中心街に位置する例の焼き菓子屋でクロワッサンと、それからトルテが先日特に美味しいと喜んでくれたチョコレートのマカロンをみっつ、箱に詰めて貰うとすっかり慣れ親しんだ海岸へと向けて歩き出した。
「――ジェラール!来てくれたのね!」
「うん、来ちゃった。……こんにちは、トルテ。迷惑じゃないかな?」
「ええ、ええ。こんにちは!勿論迷惑なんてことないわ。わたしは今日もあなたに会えて嬉しいわよ!!……でも、どうして?変なジェラール!」
さも人の少ない海岸で休んでから帰りますと言ったような顔をしながら、ジェラールはすっかり約束を取り払ったいつもの待ち合わせ場所の大岩へと足を運ぶ。するとほんの5分と経たずに海面が盛り上がって、ざぱりと音を立てながら結局この24時間、脳内を占めていたエメラルドグリーンが顔を覗かせたものだから、ジェラールはびちびちと上下する尾びれも相まって本当に犬みたいだなと目を細めてしまった。それから自分が彼女に抱いている気持ちが迷惑かどうか――を尋ねる勇気は流石になかったから、代わりに連日顔を合わせていることが負担じゃないかと問い掛けてみた。すると案の定というべきか、トルテはどうしてそんなことを聞いてくるのかと心底不思議そうな顔を一瞬だけ浮かべた後に、眩いばかりの笑顔を覗かせるとくすくすと笑った。ジェラールはあまりにも無邪気で無垢なその笑顔に、ああ、本当に彼女という女性は限られた陸で生きていくことを決めた人間とは違って、この海のように何処までもおおらかで純粋で。穢れのひとつもないような、怖くなるくらいに綺麗な存在なのだなと少しだけ自己嫌悪した。
それから昨日交したさようならからまだ丸1日経っていないにも関わらず、自身がプレゼントしたブランケット片手に大岩に登ってきては隣に腰掛け、彼是と他愛のない話を始めるトルテに、ジェラールは女の子が話好きなのは海も陸も変わらないんだなと感じるとほんの少しだけくすりと笑う。次いでつい先程まで居た大学構内では有難いを通り越して迷惑ですらあった行為――此方のペースなど無視して構わず話しかけられたり、はたまた見上げられたり、といった独りよがりにすら思えるそれらが、トルテ相手だとどうにも不快ではないというか、寧ろ心地が良いというか。明らかに仕事だから面倒を見てくれている教師の誰よりも、あるいは既に途絶えた交友関係の元友達の誰よりも、ずっとずっと居心地が良いことに気がつくとこの違いは一体何なのだろう、と隣の彼女を見遣った。そしてすぐに気がついた。一見ジェラールのことを心配しているように見せかけてその実好奇心やお節介に満ち溢れている彼らの言葉とは違い、トルテの言葉は何処までも真っ直ぐだったのだ。
「……それでね。その大きな貝を開けてみたら、こーんなに大きな真珠が入ってたのよ!それもふたつも!だからね、わたし、叔母さんに教わってピアスに加工してみたの。どうかしら?」
「…………本当だ、凄く大きいね。加工も、僕は詳しくないけど…うん、そんなに変なところはないと思うよ。上手だと思う。……凄いね?」
「ふふっ、本当?ジェラールに褒めて貰えるのなら、わたしって本物ね?」
昼の挨拶に始まり、昨日ジェラールと別れた後は叔母の家にお邪魔したこと。叔母と一緒に、一昨日見つけた群生地で見つけた貝を開けてみたら、大きな真珠が入っていたこと。それを不器用ながらもピアスに加工してみたこと。他の誰でもない、いちばんの友達のジェラールに真っ先に見せたかったこと――。
トルテの語る話は、どれもがどうでもいいと言えばどうでも良いものだった。それでいて取り留めのない話だった。さして重要な話など少しもなかった。けれど大学の教師や同期とは違い、つい言葉を選んでしまうが為に口を開くのが遅くなるジェラールを、決して無視しないで待っていた。彼がきちんと思考を終え、言葉を選び、昨日の自分に恥じない返答が出来るのを急かさずに、それでいてどうで良いという態度を見せずに。それこそ飼い主の帰りを待つ忠犬か、あるいは仲睦まじい友人か恋人かのように、ニコニコと笑いながら待っていてくれた。ジェラールは、だからトルテと話すのは居心地が悪くないんだと観察に基づく結論を導き出すと共に、今まで両親と使用人以外には居なかった奇特な存在に『もしかしたら』を期待してしまう。期待したところで人間が人魚になれるわけもなければその逆もまた然りだと知っているにも関わらず、淡い期待と好意を抱いてしまう。トルテという、海からやってきた純粋無垢な存在を好いてしまっていると、何度も何度も反復してしまう。そして彼女が暮らしている海――きっと皆が人間と違って純粋で、無垢で、貴族社会のように互いの腹の中を探りあったり言葉の裏を読んだりといった醜い蹴落とし合いがないであろうその世界に、無性に惹かれていることを自覚すると、相変わらず困ったように眉を下げた。
「ねえねえ、ジェラール。もっと褒めて?叔母さんったらね、『こんな簡単な加工も出来なかったらいよいよお終いね?』なんて言って、わたしを虐めてくるのよ。ちっとも褒めてくれないのよ!…わたしは褒められて伸びる子なのに……!、」
「あはは。じゃあ、僭越ながら褒めさせていただこうかな。」
ジェラールは彼女の叔母のモノマネをするトルテに、顔も名前も知らないその人ながらもなんとなく自身の母であるルビーのスパルタ教育、もとい天才であるが故に生まれる一般人との齟齬をそれとなく感じると、一見真反対に見える自分たちが本当はとても良く似ていることを嬉しく思いながら頬を緩める。そして相当手酷く酷評されたであろうトルテに、自分のように卑屈になって欲しくない一心で思考を巡らせる。――別にルビーの褒め方が足りなかっただとか、アステルのフォローが足りなかっただとかではなく、恐らくは単に生まれ持っての気質の問題で。つまりは決して両親は悪くはないものの、どうにもことあるごとに罪悪感を抱かせてしまう自身の不甲斐なさを横目でチラチラと見遣りながら、ジェラールはいつだって欲していた言葉――今だって自分自身が欲している言葉に幾ばくかの彼女への好意を乗せると、彼にしては珍しく目を逸らすことなく口を開いた。
「――そのままでも大丈夫。上手いとか下手とかじゃなくて、僕はそうやって何にでも必死になって頑張れるトルテのことが、好きだよ。……それと、慰めとかじゃなくて、本当に上手いと思ってる。だから、そのままの君で大丈夫だよ。」
「……ジェラール…………。」
「……………………なんて、我ながら歯が浮きそうな台詞だね。似合わないなあ……。」
ジェラールは二束三文の慰めでもなければお世辞でもない、心からの言葉を少々ぎこちなく口にする。そしてどうにも格好がつかないというか、つくはずがないというか、それこそ自身よりも勇敢かつ漢気に溢れた幼馴染たちの方がずうっと似合うであろう、マカロンかファッジのように甘ったるくて歯が浮きそうになる台詞に今更恥ずかしくなるとほんのりと頬を染める。視線を逸らす。
けれどいちばんの友達、もとい淡い恋の対象であるジェラールに飾らない、真心の籠った言葉で褒めて貰えたトルテは、まるで誕生日でもないのにご馳走が並ぶ食卓を目にした子供のように感激した様子で目を輝かせると、彼の手を取った。そして平熱のまま沸騰したようなぬるい体温のジェラールの手をしっかりと握ってから、「ううん、そんなことないわ。ありがとう、ジェラール!」と弾む心に任せて言葉を紡ぐ。それからどうにかして似合わないなんてことない、彼らしい本当に本当に素敵な言葉だったと伝えたい一心で、どうにかいい手段はないものかと普段あまり使っていない頭を捻る。そうして暫し考え込んだ後に、そうだと声を上げると決まって大喧嘩をした後に、ひとりで泣いていると仲直りの印にと兄がバツが悪そうにしてくれる行為――ジェラールの手を自分の顔へと寄せると、その手のひらの真ん中に唇を落とす。それから自身の頬に当てると、この広い海のことならなんでも知っている物知りな鯨の背中を撫でるように、すりすりと優しく頬擦りをした。本来ならばこれでおしまいのはずの行為だがトルテはたったひとりの人間の友達、それも尚且つ恋をしているらしい相手に、昨晩叔母にそれを指摘されたその時から、どうか兄とは違うベクトルで特別だということを伝えたくて堪らなかったトルテは驚きのあまり吃音すら出てこないジェラールを上目で見つめるとこてんと首を傾げる。それから、ジェラールにとっては全くもって迷惑ですらある言葉をなんの躊躇いもなく口にした。
「わたしもジェラールのことが好きよ。大好き!どんなあなただってわたし、いつだって恋してるわ!!」
「―――――――。」
「ふふ。わたしたち、両想いね?」
「――――――――――――。」
ジェラールは本当に自分と同じ感情がどうかはともかく、同じ結論に辿り着いたトルテを瞬きすらせずに呆然と見つめる。もしかしなくてもこれは夢なのでは、と思い込もうとしてみる。けれど手のひらの中心に触れた柔らかな感触と、今も尚触れ合った箇所から伝わっているほんのりと冷たくも生ぬるい温度は、どれだけ疑ってみても確かに現実のもので。寧ろこれが夢ならばどうか醒めないでくれと願ってしまうほどに解像度が高い現実に、ジェラールは相も変わらず言葉は無論意味を成さない音節のひとつも発せられなかった。
ただ、無邪気さ故の刃が許されるのならば、少しばかり邪な思考の混じった自身の願望――朴念仁にはあるまじき、他者への心身を用いた接触――要するにトルテが自分にそうしたように、自分も彼女にキスをして抱き締めることくらい許されるのではないか、なんてことを考えてしまう。耳元で悪魔が囁く。そしてまたなんとも皮肉なことに、純粋無垢なトルテの笑顔がそれを後押ししてくれているような気持ちになると、ジェラールは自分でもどうしようもない情動に任せることにした。
ジェラールは無言のままグッと身体を乗り出すと、至近で生成りの色をしたトルテの綺麗な瞳を見つめる。自身の鼻息に揺れる彼女の後れ毛を横目で観察しながら、内心(ああ、これが本能ってことなんだな。)と感じると、その頬に宛てがわれている手のひらにぐっと力を込めつつ顔を寄せる。そうして誰に教わったわけでもないのに、ごくごく自然に唇と唇を触れ合わせようとした。
「……っ、ダメ…!!」
――が、同じく何をするのか誰に教わったわけでもないにも関わらず、ジェラールが自分にキスしようとしていることを悟ったトルテは一瞬このまま彼に身を任せてもいいかもしれない、なんて考えた。しかしそれも束の間、脳裏に叔母の忠告――愛の言葉とキスだけはしてはいけないこと。それが遠い昔に自分の祖先がリヴァイアサンと交わした、悲劇を生まないための約束――が過ぎると、咄嗟にジェラールの肩を押して拒んだ。悲劇が何なのか、かつて人魚に何があったのか、トルテは知らない。知ろうとも思わなかった。けれどただダメなものはダメなのだからと、トルテはジェラールを拒む。ごめんなさい、と口にする。そらから、きっと自分も彼も酷い顔をしているのをなんとなく理解すると、トルテは黙って顔を伏せた。否、ジェラールの顔が見れなかった。
「――――いいんだ。僕こそごめん。どうかしてた。」
「………………そうよ。どうかしてるわ…。」
トルテは俯いたまま、ぽつりと呟く。ジェラールはその言葉にひとりで勝手に勘違いして、舞い上がって、剰え彼女と彼女が住まう海に恋をして、憧れて。結果身分不相応な振る舞いをしてしまったことを心底悔いると、謝罪の言葉を口にした。本当に自分はどうしようもない奴だ、と自己嫌悪のままに項垂れた。それから、今この時ばかりは慈悲なんて少しも見せずにどうか自分という愚かな男を弾劾してくれと願った。そしてその願いの通り、トルテは吐き捨てるように言葉を紡いだ。
そのぬくもりすらない温度に、ジェラールは傷付くどころか良かったとさえ感じると安堵する。それはあまりにも低すぎるが故の肯定感が齎す、傷の見えない自傷行為だった。彼女のような天真爛漫、純粋無垢という言葉が似合う素晴らしい女性に、自分なんかが好意を持たれるはずがない。そんな事実があっていいはずがない。自分は誰にとっても居ても居なくても変わりない空気のような存在なのだと、貶めることでどうにか自己を保つしか知らない不器用な男の、悲しい抵抗でもあった。
けれど予想通りに裏切られて良かったと安堵さえするジェラールとは反対に、トルテは彼ではなく自分に向けて吐き捨てた言葉に強くショックを受けると瞳から一粒、二粒、涙を零した。それは叔母にジェラールはあくまでもただの友達、キスがしたいなんて思ったことすらないと告げていたにも関わらず、いざそういった雰囲気になると誰よりも自分がそれを望んでいることに対する嫌悪感であった。それから、今までは肉親や海神リヴァイアサンからの言いつけは須らく『そういうもの』だと思い込んでは、なんの疑いもせずに受け入れていた自分の愚かさに対する失望であった。と同時に溢れ出してくる『どうして』に戸惑う、初めての感覚であった。
「――どうかしてる。どうかしてるわ、わたし。ジェラールはただのお友達で、キスしたいなんて思わなかったはずなのに。それでいいって、叔母さんにも認めて貰えたはずなのに。……なのにわたし、あなたとキスがしたいと思ってしまったの。愛の言葉とキスは、悲劇を生まないための大切な大切な約束だって頭では分かってる。破ったらダメだって、分かってる。
――なのにわたし、どんな悲劇が起こるかさえも知らないのに、想像出来ないのに。あなたがわたしをそういう風に想っているのかもしれないって思った瞬間に、どうしてかそれでもいいからあなたとキスしたいって思ったの。もしかしたらリヴァイアサンが怒り狂って海を追われてしまうのかもしれないだとか、あなたが死んでしまうかもしれないだとか。いくらそういう最悪の想像をしてみても、でも、それでも、どうしようもないくらいにあなたとキスがしてみたいって思ってるの。どうしてキスをしたらダメなのって、そればっかり考えてしまうの。――――どうかしているわ、本当に……。」
「……………………トルテ……。」
「ごめんなさい。わたし、きっととんでもない思い違いをしていたわ。知らず知らずのうちに、あなたに抱いてはいけない想いを抱いていたのよ。ごめんなさい。本当にごめんなさい。――いちばんの友達なんて言って、騙してごめんなさい……!!」
トルテはひとつ、ふたつ、零れ落ちてしまったが最後、とめどなく溢れてくる涙を両手で受け止めながら何度も何度もジェラールに謝罪する。ジェラールはその謝罪を受けいれながら、先にそういうことをしようとしたのは自分なのだからそんなに気を病まないでと励まそうとする。が、普段は良い方向に働いていた口下手が、今日ばかりは沈黙として悪い方に悪い方にと働くと、トルテはジェラールが何も言わないのは意図せずとも騙してしまった自分に心底呆れて軽蔑しているからなのだと捉えると、徐に彼に背を向けた。それからたったひとこと「……さようなら。」とだけ告げると、海の奥底へと潜って行ってしまった。
ジェラールは弁解の余地すら与えてくれずに背を向けたトルテに向けて、咄嗟に手を伸ばす。けれどその手は何も掴むことなく、ただ虚しく空を切っただけだった。後に残されたのは口の回らない自分への情けなさと、彼女が口にしていた言葉に芽生えた疑問だけだった。
「…………騙されたなんて思ってない。だって僕も、君のことが……。」
ジェラールは空を掴んだだけの手のひらに確かに残る、彼女の無邪気な口付けの感触を逃さないようにしかと握り締めると、ぽつりと呟く。それから彼女が逃げるように消えてしまった海へと、どうかこれが永遠の別れにならないようにと願いというよりかは、精一杯の悪足掻きを込めて冷たい色をしている海へと声を張り上げた。
「――――――――明日も、待ってるから。」
届いているのかどうかなんて、分からない。それでもジェラールはトルテが何処かで聞いてくれていることを願って、泡立つ白波に負けないように何度も何度も声を張り上げた。『らしくない』ことを知りながらも、恥ずかしげもなく口にし続けた。
「明日も、明後日も待ってる。その先も、君が来てくれなくても、僕は毎日ここで待っているから。――だから、もう一度話をしよう。友達としてじゃなくて、ただの僕と君として。」
ジェラールは返事のない海を見つめる。エメラルドグリーンの欠けた、どうにも映えない景色をじいっと見つめる。そこにあるのは確かに彼女を知る前の海だった。何かが物足りない、海だった。ジェラールは渡し損ねたお土産――トルテが喜んでくれた焼き菓子屋のマカロンと、甘い香りのするクロワッサンとをわざと海に放り投げる。どうかそうやって自分の手を離れた『落し物』があの白波に揉まれて、涙ながらに此方に背を向けてしまった人魚姫へ届きますようにと、ジェラールは初夏を思わせる風に吹かれながらいつまでもいつまでも願った。




