11_汝、恋を自覚せよ(1)
「どうしたの、トルテ。何があったの?またパパとママと喧嘩でもした?」
「…………違う……。」
「なら、何があったの?ちゃんと話してくれないと伝わらないわ。――私は宝石職人ではあるけど、魔法使いではないもの。何を考えているのか、どうして泣いているのか、教えてくれなくちゃ分からないわ。」
トルテが叔母・シャルロットがひとりで暮らす、やや広めの岩場にやって来て30分。漸く姪が少し落ち着いたタイミングを見計らって、シャルロットはトルテに優しく問い掛けた。けれどどうにも感情が喉に詰まって、上手く言葉に出来ないトルテはたったひとこと「違う」と返すのが精一杯で。加えて、その問いにまたしても感情が昂ってしまうとついつい瞳からは涙が、唇からは嗚咽が漏れ出してしまったものだから、シャルロットはやれやれと肩を竦めると彼女を抱き締めながらその小さな背中をゆったりと撫でてやった。続けて泣きすぎるがあまりにどうにも力んで仕方がないその背中をとん、とん、と一定のリズムで叩いてやる。それは小さな頃からザッハと喧嘩をしたり、はたまた両親に叱られたりした時に泣きながら此方に両手を伸ばしてきたあの時のままの対応だった。子供をあやす、大人の手だった。
けれどザッハと違って、その手は決して『お前はまだ子供だから』と馬鹿にしたり呆れたりしてはいない。寧ろ思わず感情が溢れてしまうくらいに怒ったり喜んだり、嘆いたり悔やんだり――そうやって思うがままに自己を表現することは素敵なことだと、いつも伝えてくれる。特に人魚のような亜人の種族は、どうしても寿命が長いが故に日々の暮らしの中に感情を見い出せなくなったり、不意に何もかもがどうでも良くなったりしてしまう。現にマレノスタリア周辺に住まう人魚たちもシャルロットやザッハ、トルテといった比較的新しい世代を除いて、その多くが無気力だったり無感動だったりしているのだ。
――無論、人間への恐怖心はある。けれどそれ以上に、代わり映えのない毎日と『自分だけは大丈夫』というなんの根拠もない自信に、何かリアクションを起こす気にもならないのだ。そしてそれは、人に比べて些か長すぎる命を与えた存在――海神リヴァイアサンさえも予測出来なかった、全くの予想外の結末でもあった。
「………………お兄ちゃん、が……。」
「――ということは、また人間がどうこうって話で揉めたのね?」
「そうだけどそうじゃない……。」
「おっと、これは予想してなかった展開ね。……ってこては、『あっち』かしら?」
旧い人魚たちの予想を裏切る代わりに、海神リヴァイアサンの想像通りに今を謳歌する若者のどうにも鈍い反応に、シャルロットはまたしてもやれやれと肩を竦める。そして兄・ザッハと揉めたけど揉めていないという何とも曖昧な返事と、そう口にするなりまたしてもグズグズ、きゅうきゅうと泣き出してしまった姪に女の勘が働くと、シャルロットはトルテが何週間か前に自身の家に置いていった品物――無論、プラシバシーを考慮して箱の中身を聞いてはいないしこっそり開けてもいないが、要するに兄の目がある自宅には置けない物――理解ある他人に預かっていて貰わないといけないような、ある意味では地雷か爆弾のような品物に違いないそれが関係しているのだろうと踏むと、そう問い掛けた。
トルテは相変わらず勘が良いというか、目敏いというか、どうにも兄とは別の意味で鈍い人魚らしくない叔母に彼女の胸から顔を上げる。そして咄嗟に、というよりかは反射的にその荷物の中身――大切な『友達』に貰ったブランケットとお菓子の空き箱、それとそれを贈ってくれた『友達』の顔――ジェラールの優しい笑顔と若草色の瞳を思い出すと、思わず頬を赤らめた。そして剰えシャルロットから目を背けては「えっと」だの「あの、」だの。煮え切らない返事以下の音節をその唇から漏らすものだから、シャルロットはつい腹を抱えて笑ってしまった。
それから、まさか笑われると思っていなかったが故に、ぽかんとした間の抜けた表情を浮かべた後に「ひどい!ひどいわ、叔母さん!叔母さんまでわたしを馬鹿にするのね?!」と瞳を潤ませてはわなわなと唇を震わせるトルテに、シャルロットは相変わらず大笑いしながら違うと首を振る。けれど尚も肩を震わせながら笑ってしまうものだから、トルテはすっかり裏切られたと絶望した表情でシャルロットを見つめてはグズグズと鼻を鳴らしていた。そんななんとも分かりやすいというか、可愛らしいというか、はたまた単純というか――とにかく若いな、という感想と、その若さがやけに眩しく見える姪に、シャルロットはその頭を優しく撫でながら微笑んだ。
「ごめん。ごめんってば、トルテ。あなたを馬鹿にして笑ったわけじゃないのよ?ただ、どうしようもないくらいに可愛くって、つい。――お詫びに叔母さんがちゃんと話、聞いてあげるから。だからまずはお茶にしましょう?このままじゃあ、喉が枯れちゃうわよ?」
「………………本当……?」
「本当よ。あなたがまだこんなに小さい頃、人間と友達になるって言い出して、ママがカンカンに怒った時だって私だけは味方でいてあげたでしょう?……それとも、もう忘れちゃった?この単細胞娘。」
「――――――忘れてない、けど……。」
「なら決まりね。ほら、ここ座りなさい?」
トルテはどうにも不審がるというか、兄であるザッハとの間に軋轢が直後だからというべきか、彼女にしては珍しくどうにも疑わしくて堪らないと言いたげな視線を向ける。が、トルテは勿論ザッハよりもずっと歳上なシャルロットは、そんな物言いたげな視線などなんのその。寧ろ過去の事例まで持ち出しては自身の身の潔白と、その胸の内を明かすに相応しいもっとも近い他人であることを鮮やかに証明、もといトルテを言葉で言いくるめてしまうと、作業所兼自宅の奥のソファの上に、彼女を誘導した。
トルテは慣れ親しんだそのソファに大人しく腰掛けると、いつもの通り彼女が海藻から抽出したお茶を淹れてくれるのを静かに待つ。シャルロットはそんなトルテに「よし、いい子ね。」と告げると、同じく海藻から作ったほんのり甘い飴玉を口に放り込んでくれた。トルテは子供の頃から変わらない、ほんのりと甘い磯の香りがするそのキャンディを口の中で転がしながらいつも通りの味に安心する。けれどその一方で、ジェラールとふたりで食べた彼の贈り物の焼き菓子の味を知ってしまった今となっては、なんだか少し物足りないなとも感じた。それは脳を揺さぶるようなあの甘みなのか、それとも食欲を擽る匂いなのか、あるいはそれ以外の何かなのかはトルテにも分からなかった。ただ、それでも漠然と何かが足りないと感じてしまった。
「――――で、あの荷物。勿論中身を見てはいないけど、あなたがあんなに顔を真っ赤にするってことは、相当いいものなのね?例えば〜…、そう。『人魚に好意的』な『人間』から貰った……とか?」
「……………叔母さん、もしかして魔法使い……?――すご〜い!!」
「…………私が凄いんじゃなくて、そっちが分かりやすいの……。」
シャルロットは硬い岩を削ったグラスに乾燥させた海藻と、海水から海を抜いた液体とを混ぜながらトルテへと差し出した。トルテはこれまたいつも通りの液体で満たされたいつも通りの食器を両手で受け取ると「ありがとう。」と言ってから口にする。トルテはほんのり甘いような、甘くないような、今までは何とも思わなかったこの液体の味さえも、ジェラールと出会った今となってはなんだか不思議な、未知の物のような気がした。そんなはずはないのに変なの、とトルテは小さく呟いてから、口の中に残っているキャンディごと纏めて飲み込んだ。なんだか甘いような、塩辛いような、そんな味のような気がした。
シャルロットは心ここに在らず、といった姪の様子を横目で見つつ、自分の分のグラスを用意するとトルテのすぐ隣に腰掛ける。そして下手な前置きなど必要ないと言わんばかりに、早速女の勘が指し示すがままに言葉を紡いだ。するとトルテはあまりにも歯に衣着せぬ物言いと、まるで占い師か魔法使いのようにずばりと言い当ててしまう叔母とに、思わず無邪気に喜んでしまうと小さな両手でぱちぱちと拍手をしたものだから、シャルロットはどうにも天然というか、ついさっきまで自身の胸で声が枯れるまで泣いていたのと同一人物とは思えない切り替えの速さというか、とにかく生き物としての格が違うトルテに半ば苦笑しつつも呆れてしまう。それからついついため息を吐きながら軽く突っ込んでしまった。
が、凄いとキャッキャと無邪気に喜ぶだけで否定しないトルテに少しばかり真剣な色を黄色の瞳に乗せると、真っ直ぐに姪の顔を見つめた。するとトルテは流石に叔母らしくない堅苦しい雰囲気の顔と瞳に拍手を止めると、ほんの少しだけ気まずそうに――けれど同時に何もいけないことや疚しいことなどしていないと胸を張ると、真正面からその顔と瞳を見つめ返しながら口を開いた。
「――――――大切な、友達から貰ったの。」
「そう。……聞かせてくれる?」
「……っ、うん…!!」
即座に否定をするわけでもなければ、すぐさま肯定をするわけでもない。けれどその中立さが昔からやけに心地よかったことをトルテは改めて思い出すと、グラスを両手で優しく包み込みながら思いきりの良い返事をする。それから心の底から微笑んだ。シャルロットは漸く自然体で笑ってくれたトルテにほっと安堵すると共に、まだくっきりと赤の残る彼女の目尻を人差し指の先でそうっと撫でてやる。それから、トルテから求められる前にその人差し指を自身の唇にそうっと押し当てると「大丈夫よ。誰にも話さない。叔母さんと、トルテだけの秘密。――約束よ。」と、優しい声で囁いた。トルテはその声に、優しい言葉に、嬉しそうに目を細めると何度も何度も頷く。
トルテは知っていた。両親に叱られたり、はたまた今日のように人間についての議論でザッハと揉めたりした時は、いつもこうやって静かに話を聞いた上で最後に自分の意見をあくまでも参考程度に。なのに決して押し付けずに、求められた分だけ語ってくれるシャルロットのことを、知っていた。とてもよく知っていた。そして信頼していた。心の底から、信頼していた。だから今日も久しぶりに、シャルロットという最も近い他人に口を開く。きっと彼女が今日も、到底人魚とは思えないほどの視野を以て鋭い意見をくれると信じて。
「――――――あのね。わたし、人間のお友達が出来たのよ。わたしと同じくらいの歳の男の子でね、ジェラールっていうの。ダイガク?ってところに通っている、お医者さんの卵なんだって!ほら、前に1週間家事を代行するって約束でルビーを加工して貰ったでしょう?あの時は適当に誤魔化したけどね、実はあれ、ジェラールへのプレゼントだったのよ――!!」
――――――――
「――――恋じゃん。」
夜も深まり、セイレーンの歌声が波の子守唄に混じって聞こえてくる頃。トルテから一頻り話を聞き終わるや否や、悩むまでもなくそれが恋であることに気が付くとシャルロットは思わずそう呟いてしまった。
「鯉?」
「それは淡水魚。」
「……故意?」
「それはわざとって意味の単語ね。」
「…………じゃあ、古井?」
「それは古い井戸。……って、もしかしてわざとやってるんじゃないでしょうね?――いい?恋は恋。それ以外でもそれ以下でもないわよ。」
トルテは単語としては知っている『恋』というものが、自分にも当てはまっていることがどうにも解せなくて。きっと何かの聞き間違いか同音異義語だろうと自分の知っている単語に加えて、ここ最近ジェラールと会う度に少しだけ見せて貰っていた大学なる場所の教科書に載っていた言葉を口にする。が、渾身の自己防衛とギャグを兼ねた言葉たちはシャルロットの鋭い言葉に次々と切り伏せられては倒れて行ってしまった上に、これでトドメだと言わんばかりにただ事実としてある感情を突きつけられてしまったものだから、トルテは咄嗟に口を噤んでは首を傾げてしまった。
――恋という感情があることは知っている。無論、意味も知っている。両親がまだ小さい時、自分たちは偶然出会って恋をして、そして共に群れを作りたいと思ったから結婚したのだと教えてくれたのを、トルテはハッキリと覚えている。つまりは恋というのは群れを大きくしたいという本能的な感情だとトルテは解釈していた。しかしながら自分にはジェラールと家庭を築きたいという思いは勿論、人魚と人間という異種族故に群れを作ることは不可能だと分かっている。それ以前にもし彼と同じ種族だったとしても、群れを作りたいと思うかどうかは分からなかった。故にトルテはシャルロットから恋は恋でしかない、それ以上でもそれ以下でもないと告げられると大いに困惑した。自分の信じている世界と、叔母の見ている世界の齟齬に混乱した。
「でもわたし、ジェラールと群れを作りたいとか、そういう気持ちはないよ?」
トルテは困惑と混乱のままにそう口にすると、シャルロットに縋るような、助けを求めるような目を向ける。シャルロットはその迷子のような、群れからはぐれた子羊のような、どうしようもなく保護欲と愛玩欲を擽られる姪の表情に心が和むのを感じると共に、下手に長寿且つ周囲の大人が長すぎる寿命から来る無気力だからこそ、こんな簡単な感情さえも分からないのだという問題――人魚という種族の抱える欠点に、いっそう頭を悩ませた。
と同時に、どうであれ自分は若い頃に不本意とはいえ陸に揚がり、そこで本当に善い人々に出会えたからこそ今の人魚族が抱える問題点が嫌という程分かるのだと改めて突き付けられると、ちくちく。或いはじくじくと痛む前頭葉に、どうして私がこんなことをと言いたくなるのをぐっと堪えた。それから、これもまたきっと海神リヴァイアサンの導き――否、そうでなくとも目の中に入れても痛くないほどに可愛がっている姪を導くために、天から与えられた自分の役割なのだろうと気を強く持つとトルテの肩を勢いよく掴んだ。そして、善い人間たちが教えてくれたこと――恋とは、愛とは、何も番になることだけが全てでは無いこと。友情や、ただ傍に居たいと願うその気持ちだって立派な恋であり愛であることを、もうずうっと会っていない友人の顔――傷付き、人間不信に陥った自分を昼夜構わず看病してくれた、姪が自分に『誰か』のためにと加工を頼んできた、あの美しい宝石と同じ名前の明るい誰かの顔を思い浮かべながら、ゆっくりと噛み締めるように口にした。
「いい?トルテ。何も番になりたいだとか、群れを作りたいだとか、そういう本能的な感情だけが恋や愛ではないわ。ただ静かに寄り添って、隣の誰かの息遣いや鼓動を感じていたいと思うのもまた、立派な恋で愛なのよ。ただ、多くの生き物にとってはその先にキスしたいだとか結婚したいだとか、子供が欲しいだとか、そういう感情や考えが待っているだけなの。
――群れを作る気がなくたって。そのジェラールくんのことを考えているだけで春の海のような穏やかな気持ちになれるなら、それは、――きっと恋なのよ。どうか大切にしてあげて。」
シャルロットは自身の恩人の顔を思い浮かべながらまるで自分にも言い聞かせているように、何度も何度も似たような言葉を口にする。トルテはシャルロットが丁寧に紡いでくれる言葉を真正面から、恐れることなく受け取るとそうっと目を伏せては考える。
――ジェラールのことを考えると、少しだけ苦しくなることもある。自分も人間だったら良かったのにな、なんて叶わない願いが頭を過ぎっては馬鹿だなあ、なんて苦笑することもある。けれどそれ以上にジェラールの優しい声だとか、繊細な手つきだとか、自分との約束を律儀に守ってくれる誠実なところだとか、そういう小さくて些細なことひとつひとつを思い出す度に踊り出したくなってしまうくらいに嬉しくて。そして実際に会える日になったら、嬉しさが突き抜けすぎてついつい口が止まらなくなってしまって。
そしてそんな自分を若干呆れながらも綺麗な春の色で見つめてくれるその瞳と、ゆったりとした呼吸音に合わせて揺れる胸とが、少しだけ気恥ずかしくて。なのに、どうしようもないくらいにずうっと見ていたくて。感じていたくて。
――もしも。もしもそんな綺麗な感情が恋だというのなら。愛だというのなら。海神リヴァイアサンに許されなくても、彼に分かって貰えなくても、此処にたったひとりでも理解してくれる人がいるならば。不意に思い出すその優しい手つきや微笑みに、心を乱すことを良しとしてくれる人が居てくれるなら。誰にも言わないと約束して、大切にして欲しいと、願ってくれるのならば。変に取り繕わずに、それこそ海に落ちた落し物でも拾いに行くかのような気軽さで認めてあげてもいいのかもしれない。――トルテはそんなことを考えると、ゆっくりとシャルロットに向けて頷いた。
「…………うん。わたし、大切にするわ。ジェラールへのこの気持ち、大切にする。素敵な恋にするわ!」
「よし、いい子。――また悩んだら叔母さんを頼りなさい?人間と恋と宝石には詳しいんだから!」
「うん。ありがとう、シャルロット叔母さん!わたし、海神リヴァイアサンに誓っていい恋にするから。見ててね!?」
トルテはまだ擽ったい、自覚したばかりの恋心にふわふわと夢心地のような表情を浮かべながらシャルロットへと礼の言葉を口にする。シャルロットはその甘ったるい乙女らしい表情に頬を緩めては目を細める。が、彼女が恋したたったひとりの誰かもよくそんな顔をしていたことを不意に思い出してしまうと、姪の恋とは反対にもう叶う見込みのない自身の恋に対してほんの少しだけ苦笑と自嘲の籠った笑みを一瞬浮かべた。
とはいえシャルロットはまだまだ不安の中にいる姪の前で大人の自分がそんな顔をしてはいけないだろうと自重すると、すぐさま笑顔を浮かべる。そして勢いよく意気込むトルテの一生懸命さというか、天然っぷりというか、とにかく少しズレている思考に「その意気込みはちょっと違うかな〜…?」と苦笑した。それから何を以ていい恋とするかはさておき、異なる種族の愛を応援するにあたってはこればかりは幾らシャルロットといえども無視出来ない掟――恐らく若い世代にはあまり浸透していないであろう、海神リヴァイアサンとの間に遠い昔の人魚が取り決めたらしい――を、口にした。
「でも、それを口にするのは駄目よ?特に、愛の言葉とキスだけは絶対に駄目。真っ直ぐすぎる愛は、ふたつの種族を引き裂くと言われているの。これはどうしてとか、なんでとか、そういう理屈じゃないの。大昔に海神リヴァイアサンと人魚の間で交わされた、決して破ってはいけない約束。悲劇を生まないための、大切な大切な約束。……だから、それだけはきちんと守るのよ?」
「うん、大丈夫。わたし、ジェラールとキスしたいとかそういう気持ちはないもの。ただ、これからもジェラールのそばにいられれば、それでいいの。」
「――――ならいいわ。頑張りなさい、トルテ。」
「はーい!!」
シャルロットはかつての自分が破ろうとして破れなかった掟を呑気な声で受け取る姪が、ほんの少しだけ羨ましくなる。それから「ねえ、暫くは家に帰りたくないの。……叔母さんの家に泊まってもいい……?」とこれまた可愛らしく上目遣いで尋ねてくるトルテに、それを拒絶する方法を知らない叔母は「好きになさい。」とだけ口にすると、再度作業所の前に腰掛ける。もう夜分遅いというのに、飽きもせずに宝石の加工に精を出す。
トルテは表面上はザッハに対してもトルテに対しても中立という立場を取りながらも、実際はいつも自分の味方をしてくれるシャルロットに、ジェラールにいつもそうしているようにありがとうと大好きを口にしながら抱き着く。シャルロットはそんな天真爛漫なトルテに苦笑すると、軽く頭をポンポンと撫でた後に「もう寝なさい?」と言いつけた。
――朝は、まだ遠かった。




