10_海と恋と熱病
時刻は火曜日の16時過ぎ。既に冷えてきた海風を頬に感じながら、ジェラールは昨日振りとなるいつもの海岸に足を運んだ。そしてもしかしたら、なんて淡い期待を打ち砕くかのように誰も居ない砂浜と大岩とを目にした後、小さいながらも大きな吐息を漏らした。海風と押し寄せては引いていく波の音にすぐに掻き消されたその音には、寂しさとほんの少しの失望とが滲んでいた。
ジェラールは支援金の書類と、今日1日掛けて読み込んだ人魚についての本とを鞄越しに抱えながら、再度静かにため息をつく。そして考える。先程から溢れては止まないこれは落胆のため息なのか、それとも安堵のため息なのだろうかと、頭の中をぐるぐると巡ってはお得意の答えの出ない問いかけを繰り返し続ける。そうやって暫しの逡巡の後に出した結論は、安堵だった。とはいえ本来穏やかであるはずのその感情とは反対に、ジェラールの頭と胸はやけにザワザワとザワついていた。本当にただの安堵なのか?と問いかけてくる誰かが、頭の片隅に居た。けれどジェラールは、それが発する言葉には気が付かない振りをする。見ない振りをする。代わりにいつもふたり並んで腰掛けては話に花を咲かせる、あの大岩に歩み寄るともう一度ため息をついた。
そもそも幾ら人目につきにくい海岸とはいえ、人魚という希少種のトルテの身を案じて週に1回の逢瀬にしようと提案したのは自分自身なのだ。居なくて当然、寧ろ居る方がおかしいだろうと、ジェラールは頭の片隅にどかりと座り込んでいる誰かに苦笑する。第一、今日はトルテが居ないことを前提に訪れたのだから、それでいいのだともうひとりの自分に噛み付いた。
けれど頭の中にどっかりと座り込んでは胡座をかいているもうひとりの自分は、本当に期待していなかったのかと意地悪く笑う。そしてジェラールの抱えている、何処か物足りない感覚――あの鮮やかなエメラルドグリーンの欠けた海はこんなにも味気ないものだっただろうかと、鋭い声で言い放った。ジェラールはやはり見ない振りをしていた感情とぽっかりと空いた胸の穴とそこに吹き荒ぶ海風とを指摘されると、思わず右手でシャツの胸のあたりをギュッと握り締める。それから幼少期の頃から見慣れた海に対して物足りないと感じるだなんて、そんなことはないと。今日の自分は単にどうにかしているだけなんだと、言い訳をした。昼間のフレオニールとの1件といい、先のオライオンの発言といい、そして頭から離れないトルテのことといい、どうにも今日は何もかもが噛み合わない、やることなすこと全てが駄目な日なだけなのだと、再三口にする。けれどやはり頭の中の彼は、したり顔と共に「どうだかね。」と言っては肩を竦める。ジェラールはどうにも理解出来ないもうひとりの自分――つまりは胸の奥に抱えている未知の感情に、彼にしては珍しく苛つく。
が、フレオニールのようにそれさえも含めて飲み込んで振る舞う技量も、かといってオライオンのようにそれを態度に出す素直さも度胸もないジェラールは、いつものように眉を下げては困ったように曖昧に笑う。それから何度めかも分からないため息を吐いてから、今日はもう帰って大人しく寝ようと踵を返した時だった。まるでいつかの再演のように、背中を向けた海からすっかり聞き慣れるようになってしまった声が飛んできた。
「――――――待って!」
「…………え……?」
ジェラールはその声に足を止める。そして有り得るはずのない声とその主に、今度こそ幻聴かもしれないとおそるおそる振り返る。けれど一度は背にした海に再び向かい合った時、海面から顔を覗かせながら此方を見ているあのエメラルドグリーンは間違いなく彼女で。ジェラールはどうして、と目を見開くとあまりの驚きと僅かに夢見ていた景色が叶った感覚とに、半ば夢心地のまま再び海に向かって歩き出す。一方でトルテもまた、予期せぬ再会をした友人の顔をしっかりとそのふたつの眼で捉えると、嬉しそうに砂浜へ向けて泳ぎ出した。
「――やっぱりジェラールだ!どうしたの?今日は約束の日じゃないわよ?…でも会えて嬉しいわ!」
「どうしたの、って…それは僕の台詞だよ。トルテこそどうしてここに?誰かに見つかったらどうするんだよ。」
夕暮れの浜辺。トルテは少し赤く染まった白い砂の上に上体をさらけ出すと、昨日ぶりの友人の姿に心底嬉しそうに頬を緩めた。そして美しい生成りの色の瞳を細めてジェラールを見上げては、彼には少々難しい素直な感情をなんてことないように吐露する。ジェラールは相変わらず欲しい言葉ばかりを与えてくれるトルテに漸く満たされていくような、胸にぽっかりと空いた穴が埋まっていくような、はたまた頭の片隅で彼是訳の分からない言葉を並べ立てていた自分が急に黙り込んでは大人しくなっていくのを、肌で感じた。それからトルテに会えただけでこんなにも嬉しくなるなんて、本当に今日はおかしな日だと苦笑した。
次いでジェラールは用もなく海を訪れては名残惜しそうに何度も何度もため息を吐いてはウジウジ、モジモジとしながら『何か』を期待していた自分を棚に上げて、どうであれ約束――人目につきにくい月曜の昼間にだけ会う――を破った彼女に、少しだけ厳しい口調と瞳を向ける。それは偶然自分だから良かったものの、もし他の人間――それも密猟者やあまり柄の良くない人間だったらいったいどうするつもりだったんだという、僅かな怒りだった。と同時に、ジェラール自身些か身分不相応だと自覚している怒りだった。それは自分はただの友人で、決して彼女の家族や恋人ではないがためだった。ただの友達故に彼女の行動を縛れないことへの、苛立ちでもあった。加えてどうしてこんなにも口を出してしまうのかと彼自身戸惑ってさえいた
が故の、言葉に出来ないモヤモヤとした霞か蜃気楼かのような感情だった。
――トルテは、ただの友人なのに。自分にとって気持ちの良い言葉をくれるだけの相手なのに。なのに、どうしてもし今日此処を訪れたのが自分じゃなかったらだとか、悪い人間に捕まって永遠の別れにでもなっていたらどうしようだとか、ジェラールはそんなことばかりを考えてしまう。そしてどうにも呑気なトルテが、少しだけ憎らしくさえ思えてしまう。ジェラールはどうにもおかしい今日という日の自分に、はあ…と重いため息をつく。するとそれをジェラールの今までの態度や言葉も相まって、自分への呆れだと受け取ったらしいトルテは頬を膨らませながら反論してきた。
「そんなこと言ったって仕方がないじゃない。このあたりで貝を取ってたら、ジェラールの足音が聞こえてきたんだもの。もしかしたら会えるかも!って期待しちゃうのは、自然なことでしょう?」
「………………期待、してたの?」
「ええ!だってわたし、本当は毎日だってジェラールに会いたいもの!!」
「―――――な、んで――。」
ジェラールはトルテの発した言葉と、そのキラキラとした瞳と笑顔に思わず言葉を失う。それから、まるでこんな自分――面白い話のひとつも出来なければ誰かを楽しませることも出来ない――を、本当に必要としているかのようなその言葉に、目眩がするのを感じた。ぐらりと世界が歪んで、斜めになって、それから生まれ変わるような感覚を知った。けれど俄には信じ難いその言葉と感覚に、ジェラールはついトルテの言葉を疑ってしまうと何とか口を開いてはたどたどしく問い掛ける。その様子と来たら、まるで酸素不足にパクパクと口を開いては喘ぐ魚のようだった。
けれどトルテはそんなジェラールを他の貴族の子女たちのように馬鹿にするわけでも、後ろ指を指すわけでもなく。かと言って変だと笑うわけでも、変な人と眉を顰めるわけでもなく。先程浮かべたキラキラとした、なんの屈託もない笑顔と共にさも当然と言わんばかりに口を開くと少しだけ恥ずかしそうにはにかんだ。
「だってわたし、ジェラールのこと好きだもの。『落とし物』を拾ってくれるところとか、そのお返しにとっても素敵なプレゼントを選んでくれるところとか。それから、ちゃんと約束を守って会いに来てくれるところなんかも、好きよ。すっごく好き。大好き!本当に素敵な人だと思ってるわ。お友達になれて良かったって、毎日思ってるの。本当よ?毎日だって会いたいわ。お喋りしたいわ!
――だからね。さっきあなたの足音が聞こえてきた時に、期待しちゃったの。会えないかなあ、会えたらいいなあ、って、思っちゃったの。すっごく期待しちゃったの!だから急いで上がってきたのよ!
……ジェラールは?もしかして、会いたくなかった?……迷惑、だった…?」
「――――僕、は……。」
ジェラールはトルテの言葉に目を見開く。それはつい卑屈になってしまうジェラールにとっては予想すら出来ないくらいに眩しくて、けれど心地の良い言葉だった。期待以上のものだった。と同時に、トルテが必死に熱弁を振るえば振るうほどに果たして自分にそんな言葉を言って貰える資格なんてものはあるのだろうかと、少しだけ後ろめたい気持ちになる。あたたかくて眩しい言葉を貰うほどに、寧ろ気が引けていく。
するとそれを感じ取ったのだろう。トルテは徐々にその言葉に勢いを無くしていくと、最後にはもにょもにょと口の中で転がすような声でジェラールに問い掛けた。――もしかしたら今日だけじゃなくて、これまでだって自分にとっては嬉しくてもジェラールにとっては嬉しくなかったのかもしれないと、ほんの少しだけ自身と自尊心を失う。ジェラールはそうやって尻窄みしていくトルテの言葉に、普段あんなにも明るい彼女にこんな暗い顔をさせるだなんて自分は本当に駄目な奴だとか、こうやって相手に気を遣わせてしまうから今までも交友関係だってすぐに終わってしまうんだとか、またしても心の中で自分を責め立てる。が、そんな自分を大いに責め立ててはじっとりとした失意と後悔に浸りながらひとりで反省会をしたい気持ちをぐっと堪えると、代わりに自身の態度に眉を下げては切なげに瞳を揺らすトルテと向き合うべく、砂浜に膝をつく。次いで込み上げてくる羞恥を堪えて、そうっとその華奢な肩に手を置く。それから薄らと涙の浮かんだ瞳を真っ直ぐに見つめると、ゆっくりと口を開いた。
「――そんなことない。本当は、僕も会いたかったんだ。……ちょっと、大学で嫌なことがあってさ。その時から、トルテに会いたくて堪らなかったんだ。だから、その……僕の態度で不安にさせてたなら、ごめん。
それから、――僕も会いたい。本当は毎日だって会いたい。だから、……月曜日じゃなくても、会いに来ていいかな…?」
「…………ジェラール……。」
「勿論、人目につかないように努力する。都合の悪い時は海から出てこなくたっていい。無視してくれて構わない。だから、その、ええと……迷惑じゃ、ないかな…?」
ジェラールはおそるおそると言うよりかはおっかなびっくりといった様子で自分の素直な気持ちを口にする。それはジェラールの本音であると共に、物心ついた時から繊細で傷つきやすいが故につい曖昧な笑顔で誤魔化してしまいがちだった他人への期待だった。そして心の奥底でマグマのように煮え滾っているくせして、噴火する様子のひとつもない他者への渇望だった。それでいて神や天使に縋るような、どうしようもない弱気だった。彼という人間が抱える脆弱性にして、人間性の証だった。
まるで縋りつくような言葉に、トルテは目を見開く。けれどそれはいつになく弱々しいジェラールに失望したからでも、提案に見せかけた懇願に痺れを切らしたからでもない。あくまでもトルテの意見を尊重しようとするがあまりについ遠回りしてしまいがちな言葉と、そこから垣間見える彼の善性とに心が震えたからだった。故にトルテは肩に置かれたジェラールの手のひらに自身の手のひらを重ねると、にこりと微笑む。そしてもう片方の手で彼の頬をゆるゆると撫でては、真夏の夕暮れのような笑顔を覗かせた。
「もちろん!迷惑なわけないでしょう?だってわたしたち、友達だもの。友達には、会いたい時に会うものよ!」
「…………友達……。」
「そう!わたしたち、友達でしょう?」
トルテは大きく見開いたレモングラスの色をした瞳を、すうっと細める。それからジェラールが欲しくて堪らなかった言葉を当たり前かのように紡いでは、その眩しいばかりの笑みの中にほんの少しだけ照れくささを滲ませた。次いでいつになく真面目なような、真剣なような、そんな自分を少しだけ恥ずかしく感じると、それを誤魔化すかのようにへにゃへにゃとした締まりのない顔をほんの少しだけ俯かせる。けれどそれもほんの一瞬で、トルテはすぐに顔を上げると今度はジェラールの頬を撫でているその手で彼の頬をむにりと摘んだ。そして「ほら、笑って?」と呼び掛けつつ、その頬を上方へ向けてぐにぐにと引っ張った。
ジェラールは頬に走る微かな痛みに、トルテの思惑通りぎこちなくはあるもののつい笑ってしまう。と同時に、自分の欲しい言葉ばかりを与えてくれるトルテに対してどうにもモヤモヤとした気持ち――欲しかった言葉のはずなのに、どうにも胸がざわついて仕方がない『友達』のひと言に、一体どう反応したらいいのか分からずに眉を下げる。何が正解か分からないどころか、向き合ったことすらない問題――それも正解があるとかどうかすら分からない――に、一瞬だけ眉を顰める。
するとここ最近、トルテのことを考える度に五月蝿く声を上げるものだから堪らない頭の中に住んでいるもうひとりの自分がまたしても騒ぎ立てるものだから、ジェラールはつい眉を顰めた。が、その厳しい表情にトルテの瞳が再び不安に揺れているのに気がつくと力なくへらりと笑った。それからほんの少しだけ痛む頬と、ほんのりと冷たい指先と、それから大丈夫だと笑うだけで表情を緩めては自分を信用した顔で見つめてくるトルテとに、ジェラールはどうしようもなく胸が高鳴るのを感じるととうとう白旗を上げた。そうして今となってはただの憧れだったとはっきりと自覚出来る、一時の気の迷い――約15年ほど前にたった1度だけ、幼馴染の少女に対して錯覚した『恋』というものが、今度は恐らく本物を引っ提げてやってきたことを自覚すると、認めざるを得ないなと鼻からため息混じりの吐息を漏らした。
「――――――うん、そうだね。僕たちは『友達』だ。」
けれど告白なんてものは以ての外。それどころかコミュニケーションに難があるが故に好意の伝え方のひとつすら分からないジェラールは、いつものように曖昧な笑みを浮かべると目を細める。それから精一杯の勇気を振り絞って紡いだ言葉に「……明日も来ていいかな?」とだけ付け加えるのが、今の彼に出来る最大限だった。等身大の、ジェラール・アルスヴィズだった。
そしてその問いに対して無邪気に頷いてくれる彼女は、やっぱりいつだってジェラールの欲しいものをくれる『友達』だった。




