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01_潮騒とエメラルドグリーン



 ――別に、特別何かに落ち込んでいたわけじゃない。

 良くも悪くも世界は、日常は、昨日までの延長線上にあったし、その昨日までの生活というのも決して悪いものではなかった。元文官で美人で気立ての良い母親と、王城への自由な出入りが許される程に優秀な医者である父親。そしてそんなふたりと、ふたりを知る人々からの期待を集めている一人息子の自分。見る人が見ればとんでもなく恵まれている環境だという自覚と自負が、ジェラールにはあった。

 そしてその両親から恵まれた環境に言い訳せずに、自身の中に芽生えた自覚と自負とを育て続けることが『持つ者』としての責任にして定めだと幼少の頃より厳しく言い含められていたジェラールは、その言いつけ通り恵まれた環境に甘えず弛まず努力を重ねた。勉学やスポーツのみならず政治、国際情勢、あらゆるものに興味を持った。そして触れて、考えた。その結果、彼は嘘ひとつつかない誠実な好青年へと成長した。

 

 ――別に、特別何かに落ち込んでいたわけじゃない。

 ――けれど、特別何かに期待しているわけでもなかった。

 それはテストの点は良いけれど、政治の矛盾を見抜く目は持っていたけれど、どうにも上手く他人とコミュニケーションが取れない自分という存在を知覚した途端に、急にぐわんと目前に迫ってきた。努力ではどうしようもないことがあることを、ジェラールは生まれて初めて知った。けれど自分なりに、めげずにどうにかこんな自分を変えたいと願って行動に移してみたところで、ちっとも結果はついてこなかった。教師は勿論、両親さえも頭を抱えた。そんな近しい人の姿を見て、ジェラールもまた頭を抱えた。大いに悩んだ。そしてどうしてこんなにも自分というやつは駄目な人間なんだろうと失望した。

 次いで意識すれば意識するほどに上手く取れなくなっていく他者とのコミュニケーションに、心底飽き飽きした。言い換えれば、自分という存在に酷く目眩がすると共に失望していた。だからジェラールは自分を慰めようと、それから少し人間社会の喧騒から離れようと、自宅からいつも望んでいる海を訪れた。そして海岸線をぶらり、宛もなく散歩しながら暫くは頭を空にして楽になろうと思いながらも、グルグルと回っては止むことのない思考に囚われていた。そんな折だった。


「…………?」


 ジェラールは足元ばかり見ていた視界の端で、何かがふわりと靡く様を捉えた。それは見間違いでなければ、南国の海のような綺麗なエメラルドグリーンだった。ジェラールはいつか海岸線の清掃のボランティアに参加した時のことを咄嗟に思い出すと、またあの時のように色素の薄い海藻の類でも打ち上げられては岩に引っかかって乾燥して、風に揺れているのかと苦笑した。それから、今日は清掃のボランティアに参加しに来たわけじゃないけれど、せっかくならばとそれが視界に映った方角――海と陸との狭間で波を受け止めている大岩の方へと、ゆっくりと歩を進めた。どうかあわよくば、この善意のゴミ拾いで幾らか思考が紛れますようにと願いながら、岩陰を覗き込んだ。

 ――けれど。そこには海藻の類はなかった。かといって人間が海に流したゴミもなった。代わりに岩陰に必死に身を隠しながら、どうか見つかりませんようにと細かく震えながら両手を合わせて祈りつつ身を縮こまらせる、エメラルドグリーンの色をした長い髪の女性が居ただけだった。そしてその女性(ひと)の上半身はともかく、下半身は何度目を擦っては光の屈折だろうか、それともいよいよ幻覚を見始めるくらいに追い込まれているのだろうかと自分を騙してみても、やはりジェラールの目にはどう見ても尾びれにしか見えなかった。


「……………………。」

「―――――――。」


 海面越しにゆらゆらと揺れるその尾びれに、ジェラールは何も言えない。その女性(ひと)もまた、何も言わない。否、言えない。そして正しくは言葉を発せないのではなく、指1本動かせなかったのだった。というのも徐々に近づいてきた足音におそるおそる固く結ばれていた瞳を開けた途端に、自身を見下ろすジェラールと目が合ってしまったのだから、さっさと海の下に潜って隠れなかった後悔と人間に見つかってしまった恐怖とで、身体という身体が岩のように固くなってしまった。その柔らかそうな身体に反して、柔軟性というものを失ってしまっていた。故にジェラールとその女性とは暫くお互いに無言で見つめ合った。

 そうやってどれくらいの時間が経っただろうか。5分程度かもしれないし、もしくは15分程度かもしれない。はたまた1時間にも、もう世界中の時間という時間が止まったんじゃないかと錯覚する時間の中、先に言葉を発したのはジェラールだった。


「え、ええと、ごめん…!その、怯えさせるつもりはなくって…。いや、かといって追いかけたとかそういうわけでもなくって、もしかしてゴミでも岩に引っかかってるのかなって!なら取らなきゃなって思って!…というか、まだ寒いから海水浴には早いよ?!風邪引いたら大変だ。ああいや、でもその、人魚?なら平気なのかな?うん。あれ?君、人魚だよね?いや、それとも人魚になりたいただの人間かな。何でも女の子は1度は人魚に憧れるらしいし、決めつけは良くない。良くないよね、うん。」

「――――――――。」


 ジェラールは明らかに挙動不審としか言いようのない態度と言葉とで必死に弁明する。それを女性は相変わらず身体は硬いままだったが、明らかに悪人ではないその態度に少しだけ表情を緩める。それから支離滅裂な言葉を並べ立てるジェラールに目を丸くした後に、思わずぷっと吹き出すと腹を抱えて笑った。それはジェラールの子供以下としか言いようのない下手くそなコミュニケーションになんだが怯えるのも警戒するのも馬鹿馬鹿しいと思ったのと、まるで先程の沈黙を取り返すかの如く早口で捲し立てるその様子が本当におかしくて、おかしくって――つい笑いが込み上げて来てしまったからだった。

 反対にジェラールはどうして不意に目の前の女性が笑ったのか、わけも分からずに目を見開く。それから満月のように丸くするも、何はともあれ目の前の怯えていた女性(ひと)が笑顔になってくれたなら、まあいいかと思い直すと改めて謝罪の言葉を口にした。それから軽く頭を下げると、彼女の正体がなんであれ自分がそれに干渉する権利などないのだと踵を返す。背後から聞こえたような気がした「あ、待って!」という言葉を、少し――否、大いに臆病なジェラールは、潮騒由来空耳だと決めつけると足早にその場を後にした。


 ――けれど。どんなに臆病でも、好奇心というものは隠せないもので。加えてそれが未知への好奇心だったが故に、その日以降ジェラールの頭の中は自身のコミュニケーション能力を嘆く自責思考から、あの海岸線の大岩の陰で出会った青みがかった緑色に塗り潰された。ある意味では頭を空っぽ、もとい別の出来事で埋めることに成功したものの、ジェラールはどうしてもあの女性のことが気になってしまうと、数日の後再びあの海辺を訪れた。

 本当に人魚だったのかもう一度会って確かめるだけだと言い訳する心は、ジェラールが生まれて初めてついた嘘だった。

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