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1話 記憶喪失の男

「……ここは?」


 骨の髄まで染み込む寒さに一人の少年が目を覚ました。

 視界に映るのは、辺りを囲む木々の数々と花びらのように舞い落ちる雪。ふと、自らの手に何かを握っていることに気付き、そちらに視線を動かす。右手に握られているのは長剣……ではなく、半分に折れていて使い物になりそうにない折れた剣。


「……剣? なんでこんなもの。……うぐ」


  折れた剣に不思議そうに首を傾げて、横になっているとこから立ち上がろうとした瞬間、急激な痛みが全身を襲う。痛い、痛い、痛い。寒い、寒い、寒い。熱い、熱い、熱い。


 身体に視線を向けると、火傷と何かに斬られたような傷が所々にあり、身体はボロボロだった。


「……なんだよ、これ」


 頬を伝い、白い雪の上に、ぽつりぽつりと雫が堕ちていく。それはすぐに形を失い、冷たい白い世界へと溶け込んでいく。


 まるで、最初から存在しなかったかのように。


 その光景が感情を支配し、痛みが身体を束縛する。

 何も覚えていなかった。何もかも忘れている。


 もう、少年にとっては寒さによる痛みなのか、傷による痛みなのかも分からなくなっていた。


「はは、はは……あははははは!!」


  渇いた笑いから始まり、何か危険なスイッチを押されたように、笑い声は大きくなっていく。


 涙、寒さ、痛み、熱さ、笑い、あまりにも滑稽。

 あまりにも絶望的な状況に笑うしかなかった。 笑うことによって、更に痛みが襲いかかってくる。

 それを誤魔化すように、白い雪の世界で転がり回り笑いの声は音を上げていく。


 雪舞う森の真ん中で、笑い声を上げて転がり回る少年の姿がそこにはあった。


 どれくらい笑っただろうか。ひとしきり笑って今度は疲れがどっと押し寄せてきて少年は我に返る。


「寒空の下、どこかも分からない森で一人。記憶はない。痛みで身体はうまく動かせない。時間が経てば、凍え死ぬ。……なるほど」


  指折り数えながら、今の状況を冷静に整理していく。指を折る数が増えていくごとに少年の顔が青ざめていく。


「もしかしなくても……これって詰んでるんじゃ?」


  冷静に考えた結果。少年が辿り着いたのは冷酷で残酷な答えだった。


「……やばいやばいやばい、どうにか……しないと……」


  痛みに耐えながら、立ち上がることは難しくとも、地面を這って、前へ前へと進む。使い物にならない。今となっては荷物でしかない折れた剣を捨てて、必死に力を込めて森の脱出だけを考える。


 きょろきょろと視線を彷徨わせるが、町や村の影は見えない。どこに進むのが正解か。少年の選択によって、今後の運命が左右される状況。しかし、迷っている時間はなかった。思考の時間が長引く程、寒さでの死亡率が高まる。とにかくまっすぐ。


 前へ、前へ、まっすぐ、まっすぐ。


 「はあ、はあ、そろそろ限界……」


  いったいどれほどの時間が経っただろうか。いったいどれほど進んだだろうか。単純に歩くよりも、痛みと寒さに耐えながら地面を這うというのは想像以上に体力と精神を持っていかれた。もう、手の感覚も脚の感覚も奪われていた。


 「……ぐぅ〜」


 お腹の音によって現実に引き戻される。手の感覚も脚の感覚も奪われて、それでも尚、少年の身体は生きることを諦めていなかった。しかし、それが今となっては少年を絶望の渦に叩き込む。とことん少年は、この世界に嫌われているらしい。


 「は、はは。課題が一つ追加。ぼくが何したって言うんだよ……くそ」


 笑うことしかできない。追い詰められた人間の最後の逃げ道。その逃げ道にしてみても、今となっては代償を伴っていた。かすかに笑うだけでも、そのエネルギーが身体を刺激し、痛みが襲う。もしかすると、神は最初から逃げ道なんて……現実を逃避する先なんて用意していなかったのかもしれない。


  森の奥で、何かが枝を踏み折る音がした。ぞわっと身体の神経が危険信号を訴える。


 そして、更なる絶望が目の前に現れた。


 狼、の群れ。絶望を物語るかのような漆黒の毛。噛まれれば人間の手足なんて簡単に引きちぎられてしまうだろうと思わせるような鋭利な牙。獲物を狙うかの如く、歯茎から牙の先端へとよだれを滴らせながら、じりじりと近付いてくる。迫りくる恐怖に怯えながらも少年の身体はその場を動けないでいた。まさに狩られるだけの羊に等しかった。


「……ここで、終わるのか」


  唾液たっぷりの狼とは違って、渇いた喉からなんとか音を絞り出す。これがゲームだったなら、死んでもまた最初からやり直せる可能性もあっただろう。

 

 否、これは現実である。やり直しも、救済も、繰り返す機会も与えられない。あるのは終わり、少年の人生も少年にとっての世界もここで終わりを告げる。暗い世界に沈んでいく、溺れていく。だんだん呼吸が浅くなっていく。

 ただ、それだけだった。


 「……ふざけるなよ。ねぇ、神様、本当に神が存在するなら僕を助けてくれよ!何も分からないまま終わっていくなんてそんなの嫌だ!頼むよ……お願いだから、誰か……誰でもいいから……」


 少年の祈りと叫びに対して、沈黙という答えが残った。狼が急に喋りだして、実は良い狼でした、なんて都合の良い展開もなかった。


 しかし、沈黙と共に疑問が残る。どうして狼は、いまだに少年を襲わないのだろう。


 狼達は何かに怯えるように、少年を見ていた。動揺する狼達の姿が少年の視界に広がっていた。


 そして、とても静かで、心地の良い足音が少年の耳に届く。音の行方は後ろ。背後から忍びよる足音が好奇心を目覚めさせ、痛みを上回る。制御不能の好奇心が後ろを振り向かせようとする。しかし、後ろを振り向くよりも先に更なる音が聞こえる。


「……誰でもいいの?」


  鈴の音のようだった。瞬間。


「ぐぎゃ……」


 聞こえた狼の短い悲鳴。断末魔。振り返りかけた視線を悲鳴の方に映すと少年の眼前に広がるのは長剣を手に携えた美しい少女の立ち姿と真っ赤な炎。狼達を跡形もなく焼き尽くす炎の渦。狼は灰になった。炎が消えた後、少女は小さく息を整える。そして振り返りゆっくりと少年の元に歩いてくる。


「大丈夫?」


 不安げな表情で首を傾げ、手を差し伸べてくる黒髪ミディアムの少女。サラサラとした触れれば儚く散ってしまいそうな髪。それでいて吸い込まれそうになるほどの宇宙から借りてきたような赤い瞳がしっかりと少年を捉えていた。


「……すごい傷。ちょっと待ってね」


 自身の腰に掛けたポーチに手を伸ばしてゴソゴソと中を探る少女。ポーチから出てきたのは緑色の液体が入ったビンだった。


「飲んで」


  躊躇なく、その得体の知れないビンを差し出してくる少女。お世辞にもとても美味しそうには見えない。


「毒?」


 未知なものに対する恐怖が少年にその言葉を放たせていた。


「失礼ね、ポーションよ……」


 冷たい目付きで少年を睨む黒髪の少女。


 しかし、その瞳が徐々に柔らかいものへと変わっていく。そして、首を傾げる。


「……もしかして知らないの?」


「すみません。僕記憶がなくて……」


  もし、記憶があったとして、少年がポーションという液体の存在を知っていたのかは謎だが、とりあえずはっきりとしている事実だけを少年は突きつけた。


「……訳ありってわけか。話なら後で聞いてあげる。そんなことより、あなた、このままだと凍え死ぬか血が足りなくて死ぬわよ?」


  結局、少年には時間と選択肢があまりに少なすぎた。

 毒かどうか検証する時間も方法も今の少年には存在しないし、拒否すれば先程、狼を焼いた炎が次は自分に向かってくるという可能性すら有り得た。


「うーん……それは傷を癒してくれる魔法の液体ってとこかな」


  傷だらけで体を震わせる少年を前にして、黒髪の少女にも余裕がなかった。今にも死んでもおかしくない状況を見せつけられて、瞳の奥には僅かな焦りが見えた。だから、液体の説明が曖昧になってしまったのも仕方のないことなのかもしれない。


「とにかく!飲んだら着いてきて。近くに馬車を待たせてあるの」


 どうせ、終わるはずの命だったのだ。今更、未知に怯えて拾ってもらった命を無駄にするなんてことは許されなかった。更に言えば、一度助けておいて、毒を飲ませる意味なんてそもそもないはずだ。冷静さを取り戻して少年は覚悟を決める。


 ごくりと勇気を振り絞って緑色の液体を口にする。

 瞬間、傷だらけだった身体の傷がみるみるうちに塞がっていく。痛みもどんどん和らいでいく。まさに魔法の所業。少女の言ったように傷を癒す魔法の液体という表現はあながち間違いでもなかったのかもしれない。


「よし、これでひとまずは安心ね。もう立てるでしょ?」


  黒髪の少女はほっと、安堵の息をついて、その息が白く空気を舞う。そして空気の仲間となって消失していく。その光景に見蕩れながら、ゆっくりと少年は立ち上がることに成功する。


「あの……ありがとうございます」


「気にしなくていいわよ。後は……えっと、あなた、名前は?」


「……えっと、僕は誰なんでしょう?」


  質問を質問で返すことしか出来ない状況に少年は苦笑いを浮かべる。少年の中で名前という記憶もすっぽり無くなっていた。


「……私が聞いてるんだけど。名前も覚えてないか……」


  少女は呆れたような表情を浮かべながらも、微かに口角が上がっていた。傷付けないための優しさか、安心を彩る為の建前か、詳しいことは不明だ。しかし、その表情に少年は温もりを覚えていたのは確かだ。


「でも困ったな。名前もないんじゃ呼ぶ時不便よね。そうだ!私が付けてあげる!」


 顎に手を置いてしばらく考えた後、悪戯を思いついたような不敵な笑みを浮かべる。


「……はあ。ありがとうございます」


「なによ、あんまり嬉しくなさそうね。いい?可愛い女の子に名前を付けてもらえる機会なんて滅多にないんだからね?」


 自らを可愛いと評する自信家による貴重な体験をこれから少年は味わうことになるらしい。


「……そういうのって自分で言うもんなんですか?」


「うーん、そうだなー。名前、名前か。そうだ!」


  少年の質問は華麗にスルーされて、黒髪の少女は名前を考えるのに夢中になっていた。そして、閃いた!と言わんばかりに目を輝かせて。


「……ラスト」


  微笑んで、少女は呟いていた。赤い瞳が少年を見据える。


「ラスト?」


「ええ、私が一番好きな英雄の名前よ」


  悪戯っぽい笑みを浮かべて、少女はそう告げるのだった。


 


 

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