玖 薫る花は、愛と咲く
どうも、作者です。第九話の始まりです。第八話の穏やかな空気から一転、今回は李と薫の過去からの深い因縁、そして現代での二人の覚悟に焦点を当てたエピソードです。人気キャラクターである楊戩や孫悟空も登場し、物語はクライマックスへ向けて大きく動き出します。彼らが下す決断にご注目ください。
十二月に入り、空気は一変した。
窓ガラスに貼りつく冷気は刃物のように鋭く、街路樹のプラタナスはすっかり葉を落として、寒々しい冬の空へ枝を伸ばしている。
精衛がここに来てから、まだ二ヶ月しか経っていないことが信じられなかった。
神々の戦争、命のやり取り、そして仲間たちの覚醒。あまりにも多くの出来事が凝縮された時間は、李の感覚を狂わせていた。まるで数年分の歳月を一気に駆け抜けたような、重厚な疲労感と、奇妙な充実感。
李は重い瞼を持ち上げ、覚醒の浅瀬からゆっくりと意識を浮上させた。
冷え切った寝室の中で、布団の中だけが別世界のような温もりに満ちている。
隣には、薫がいた。
彼女は深い安らぎの中にいた。白磁のように滑らかな肌が、朝の微かな光を吸い込んで真珠のような光沢を放っている。普段は凛とした意志の強さを宿す瞳は閉じられ、長い睫毛が頬に淡い影を落としていた。
李の視線は、無防備にさらされた彼女の鎖骨から、布団の緩やかな起伏へと滑り落ちる。
その白く華奢な首筋や、露になった肩に散らばるいくつもの紅い痕跡――昨夜、李自身が刻みつけた愛の証が、鮮烈に目に飛び込んできた。
(……夢じゃ、なかったんだな)
ふと、昨夜の熱気がフラッシュバックする。
互いの境界線が溶け合うような、焦がれるほどの口づけ。数千年の時を超え、輪廻の業すらもねじ伏せて求め合った瞬間。
『……もっと、深く』
あの時の薫は、驚くほど大胆だった。
初めての行為に対する躊躇いなど微塵もなく、むしろ飢えた獣のように李を求めてきた。彼女の爪が李の背中に食い込み、苦しげで、それでいて甘美な吐息が耳元を焦がす。
『ねぇ、たっくん……もう離さないで。二度と、私を独りにしないで』
涙に濡れた瞳で見つめられ、李の理性が弾け飛んだ瞬間を鮮明に思い出す。中性的な美貌の裏に隠していた「男」としての本能が暴れ出し、彼女の全てを貪り尽くした。
手のひらに残る、彼女の柔らかな肌の感触。
李は掛け布団の上からそっと手を伸ばし、薫の乱れた髪を撫でた。
指先に触れる髪は絹糸のように滑らかだ。
以前なら、触れることすら躊躇っていただろう。前世の因縁、彼女を巻き込むことへの罪悪感、そして何より「自分は彼女に相応しくない」という冷めた諦観が、李の心に壁を作っていた。
だが、今の彼女の寝顔を見ればわかる。
少しだけ開いた唇、上気した頬、そして何より、すべてを委ねきった無防備さ。それは、深い充足と幸福に満ちた「女」の顔だった。
(……もう、迷う必要なんてない)
残された時間がどれだけあるかは分からない。神代の力を使えば使うほど、代償は確実に体を蝕むだろう。だとしても、この温もりを守るためなら、俺は修羅にでもなれる。
共に戦い、共に生きる。昨夜、互いの体を楔として契った覚悟は、もはや揺らぐことはない。
「ん……」
不意に、薫の喉から小さな寝息が漏れた。
長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開かれる。まだ陶然とした気配を残した黒曜石の瞳が、ぼんやりと李を映し、やがて焦点が結ばれると、花が綻ぶようにふわりと緩んだ。
「……おはよう、たっくん」
甘えたような、鼻にかかった声。
彼女は布団の中から滑り出るようにして李の胸に顔を埋め、猫のように頬を擦り寄せた。
その仕草のあまりの愛らしさに、李は息を呑む。
薫はそのまま上目遣いで李を見つめ、くすりと悪戯っぽく笑った。
「ふふっ……たっくんってば、見た目に寄らず、昨日は凄かったね」
「ッ!?」
「あんなに可愛い顔して、意外と男らしいんだもん。……私、壊されちゃうかと思った」
彼女の指先が、李の胸板をツツーとなぞる。からかうような言葉とは裏腹に、その瞳には蕩けるような情愛が浮かんでいた。
李はカッと顔が熱くなるのを感じ、慌てて視線を逸らした。普段の飄々とした仮面は、この距離では何の役にも立たない。
「な、なんだよ……失礼なやつだな」
照れ隠しに鼻を鳴らすと、薫は「あ、照れてる」と楽しげに笑い声をあげ、さらに強く李の腰に腕を回してきた。
「好きよ、たっくん。……愛してる」
真っ直ぐな言葉が、冷え切った朝の空気を溶かしていく。
李は観念したように溜息をつき、愛おしさを込めて彼女を抱き寄せた。
窓の外の冬空は暗く重いが、二人の間に流れる空気は、どこまでも穏やかで、陽だまりのような希望に満ちていた。
それは、二人が長い迷走の果てにようやく辿り着いた、過去との完全なる決別であり、新たな日々の始まりだった。
窓の外では、冬の鉛色の空が重く垂れ込めている。だが、この部屋の中だけは、まるで春の陽だまりのように穏やかだった。
李の腕の中で寄り添う薫の寝顔を見つめながら、李の意識は、遥か遠い記憶の層へと沈んでいった。
それは、まだ世界がこんなにも鮮烈な色を帯びる前の、淡く、少し寂しい日々の記憶だった。
薫の記憶にある「家」は、いつも静寂に満ちていた。
両親は共に多忙な研究者で、世界中を飛び回っている。冷蔵庫には常に作り置きのタッパーが並び、ダイニングテーブルには業務連絡のようなメモが貼られていた。
『今夜も遅くなる。食事は温めて食べて』
幼い頃は泣いたこともあった。けれど、いつしか薫は「良き娘」を演じる術を身につけた。洗濯機を回す音だけが響くリビングで、一人で教科書を開き、一人でレンジの温め完了の音を聞く。完璧に家事をこなし、成績優秀で、誰の手も煩わせない優等生。
それが、趙子薫という少女の鎧だった。
そんなモノクロームの日々に、唐突に色彩が飛び込んできたのは、高校の入学式の日だった。
校門の前。クラス分けの掲示板を見上げていたとき、隣に立っていた少年が、独り言のように呟いたのだ。
「……へぇ。意外と人、多いんだな」
透き通るような中性的な美貌。けれど、その瞳にはどこか老成した、あるいは全てを諦めたような冷ややかな光が宿っていた。目が合うと、彼はほんの少し驚いたように瞬きをし、不器用そうに頭を下げた。
「あ……どうも。君、同じクラスだろ?私は……『ナッ』……じゃなくて」
彼は一瞬、何かを言い淀み、慌てて訂正した。
「李、だ。李宅」
「は、い……どうも……。私は、趙子薫です」
戸惑いながら返した挨拶が、すべての始まりだった。
「ナッ」と言いかけた彼が、本当は何を名乗ろうとしていたのか。
それが古代の神の名であると知るのは、もう少し先の話だ。
それからの日々は、奇妙な距離感と共に過ぎていった。
帰り道、二人の間には常に人一人分の隙間があった。
「……趙さんは、部活とかやらないの?」
「うん。家のことがあるから。……李くんは?」
「私?私は……まあ、帰宅部エースってとこかな」
たわいない会話。沈黙が落ちると、互いの足音だけが響く。けれど、その沈黙は不思議と不快ではなかった。
一人で歩くことに慣れすぎていた薫にとって、隣に誰かの体温を感じる時間は、くすぐったく、同時に得難い安らぎでもあった。
季節が巡るたび、その距離は少しずつ縮まっていった。
五月の風が吹く頃には、二人の肩は時折触れ合うほどになり、梅雨の雨宿りでは一つの傘の下で笑い合った。
いつしか薫は、放課後のチャイムが鳴るのを心待ちにするようになっていた。
「今日はスーパーに寄ってもいい? 特売日なの」
「ご主人様のご命令とあらば」
「もう、その呼び方やめてよ」
そんな冗談を交わしながら帰る日常が、ずっと続くと信じていた。
あの日までは。
夕暮れの茜色が、不吉な紫へと変わり始めた路地裏。
突然、空気の密度が変わった。
「……下がってろ、趙さん」
いつもはおちゃらけている李の声が、氷のように低く響いた。
気づけば、周囲には黒いスーツに身を包んだ男たちが立っていた。彼らが放つ殺気は、平和な学生生活とはあまりに不釣り合いな、どす黒い悪意の塊だった。
「小僧。……組織からの命令だ。同行願おう」
「断ると言ったら?」
「死体袋に入ってもらうことになる」
理不尽な暴力の気配に、薫は足がすくんだ。だが、李は薫を背に庇うように一歩前に出ると、深く溜息をついた。
「……やれやれ。やっと見つけた『居場所』だったのにな」
次の瞬間、世界が反転した。
李の体が霞むほどの速度で疾走したかと思うと、紅い閃光が迸った。
肉が裂ける音。骨が砕ける鈍い響き。
黒服の男たちが、まるで糸の切れた人形のように次々と崩れ落ちていく。それはあまりに鮮やかで、そしてあまりに残酷な「舞踏」だった。
血の海の中に立つ李は、返り血を頬に受けたまま、ゆっくりと振り返った。その瞳は、先ほどまで談笑していた少年のものではなく、修羅のそれだった。
「……怖がらせてごめん。これが、俺の正体だ」
彼は自らを「神の使者」だと名乗った。人ならざる力を持つ、異端の存在だと。
「……行こう。ここにはもういられない」
殺された男たちが塵に変わり、風に吹き散らされた。
血塗られた手を差し伸べることを躊躇う彼の手を、薫は強く握りしめた。迷いはなかった。彼が何者であれ、彼が自分を守ってくれた事実に変わりはなかったからだ。
逃げ込んだ先は、薫の自宅だった。
両親の不在を告げる冷ややかなリビングに、二人は転がり込んだ。
そこで行われたのは、血の契約。
古の儀式を経て、薫は李の「楔」となり、運命を共にする共犯者となった。
張り詰めた空気がようやく緩んだのは、月明かりが差し込む深夜のことだった。
「……さてと。契約も済んだし、俺は行くよ」
傷の手当てを終えた李が、窓枠に足をかけようとした。
「行くって……どこへ?」
「どこへでも。まあ、適当な公園のベンチか、ネットカフェでも探すさ」
彼が笑って誤魔化そうとしたその時、薫は気づいてしまった。彼には、帰るべき「家」がないのだと。圧倒的な力を持ちながら、この世界で彼はあまりに孤独な迷子なのだと。
自分と同じだ、と薫は思った。
「……待って」
薫の声が震えた。
「うちに、いて」
「え? いや、でもご両親とか……」
「両親は帰ってこない。ずっと、私一人なの。だから……お願い。行かないで」
それは、今まで誰にも言えなかった寂しさの吐露だった。完璧な優等生の仮面が剥がれ落ち、ただの心細い少女がそこにいた。
李は驚いたように目を見張り、やがて困ったように、けれど優しく微笑んだ。
「……わかった。お邪魔するよ、薫」
問題は、寝床だった。
客間はあるが、いつ両親が帰ってくるか分からない以上、使用した痕跡を残すわけにはいかない。
「……私の部屋を使って」
「いやいや、さすがにそれは! 年頃の男女が同じ部屋ってのは教育上よろしくないというか、俺の理性が……」
「じゃあ、李くんは床で寝て」
「扱いが雑!」
結局、李は床に布団を敷こうとしたが、それを止めたのは薫だった。命の恩人を、しかも傷を負った彼を冷たい床に寝かせるわけにはいかない。
「……ベッド、広いから。端っこなら、いいよ」
「はい?」
「祈くんと精衛ちゃんも、そうしてるって聞いたし……。私たちも、その……契約者同士、だし」
顔を真っ赤にして言い募る薫に、李は深い溜息をつき、降参したように両手を上げた。
「……何もしないからな。本当に、寝るだけだぞ」
「う、うん……」
それからの夜は、奇妙で、甘美なものだった。
同じベッドの上、背中合わせの距離。
聞こえてくる寝息。体温の伝播。
暗闇の中で、二人は多くのことを語り合った。
李がかつて「哪吒」という名の神であったこと。数千年の時を超えて転生を繰り返してきたこと。その果てしない孤独と、戦いへの倦怠。
薫もまた、自身の孤独を語った。誰からも期待されるプレッシャー。誰もいない家に帰る虚しさ。
「……俺たちは、似た者同士かもな」
ある夜、李がぽつりと呟いた。
「世界からはみ出した迷子と、世界に置いてけぼりにされた優等生。……案外、お似合いのコンビだ」
背中越しに伝わる彼の声の振動が、薫の心の空洞を埋めていく。
心の距離が近づくにつれ、ベッドの上の物理的な距離も、意識しないうちに縮まっていった。
指先が触れる。足が絡まる。
寒さを理由に身を寄せ合い、やがてそれは必然のように抱擁へと変わっていった。
そして昨夜――。
積み重ねた想いと、戦いを生き抜いた高揚感が、最後の境界線を溶かしたのだ。
回想から引き戻された李の視界で、薫が見ていた。
まだ眠気の残る瞳が、李を捉えて柔らかく細められる。
李は自然な動作で彼女の額に口づけた。
「朝ごはん、どうする? 今日は俺が作ろうか。タッパーの料理じゃなくて、温かいやつを」
薫は嬉しそうに微笑み、李の胸に顔を埋めた。
「うん……。じゃあ、卵焼きは甘めでお願い」
「了解。……ずっと、一緒に食べような」
「……うん。ずっと、一緒に」
窓の外の冬空は寒々しいが、この部屋には確かな「帰る場所」があった。
血と硝煙の匂いが染みついた神の使者と、孤独な少女。
二人が紡ぐ新たな日常が、穏やかな朝の光と共に始まろうとしていた。
冬の陽光が、高い窓から差し込んでいる。図書館特有の古紙とインクの乾いた匂いに包まれ、空気は静謐そのものだ。
市立図書館の窓際にある閲覧席。そこは今、世界で一番甘やかな空間に変貌していた。
「ねぇ、たっくん。これ見て」
薫が小声で囁きながら、開いた歴史書のページを指差す。
彼女の肩が、隣に座る李の腕にぴたりと触れている。冬用の厚手のニット越しでも、その体温と柔らかさが伝わってくる距離だ。
「ん? ……うわ、また懐かしい絵だな」
李は読んでいた『サーバーサイドアーキテクチャ大全』から視線を外し、薫の手元を覗き込んだ。
其処に描かれていたのは、極彩色の挿絵――三つの頭と六本の腕を持ち、火を噴く槍を構えた鬼神の姿だった。
「『哪吒太子、三頭六臂の術を以て悪竜を討つ』……だって」
薫はキラキラした瞳で李を見上げ、まるで自分事のように誇らしげな笑みを浮かべた。
「たっくんって、昔はこんな怪獣みたいな姿になれたの?」
「怪獣って……失礼だな」
李は苦笑しながら、頬杖をついた。
「それは後世の人間が盛った創作だよ。実際にあんな風に腕が生えたり頭が増えたりしたら、日常生活に支障が出るだろ? 肩こりも三倍だ」
「ふふっ、確かに」
薫がくすくすと笑い声を立てる。静かな館内に響かないよう、口元を手で押さえる仕草が愛らしい。
「実際はね、認識能力と並列処理の問題なんだ」
李は自分のこめかみをトン、と指先で突いた。
「通常の神仙や妖怪は、視界の前方にしか意識を向けられない。でも俺は、全方位三百六十度、同時に複数の敵の殺気や動きを『視る』ことができた。六つの武器を同時に操り、死角なしで迎撃するその速度があまりに神速で、常人には腕が六本あるように見えた……ってのが真相かな」
淡々とした説明だったが、その瞳の奥には、かつて戦場を疾走した“武神”としての冷徹な輝きが一瞬だけ宿った。
「……すごい」
薫は溜息交じりに呟いた。
「やっぱり、たっくんは私のヒーローね」
彼女はテーブルの下で、そっと李の手を握りしめ、指を絡めてきた。
すっかり恋する乙女の顔だ。今の彼女にとって、李がかつてどれほど凄惨な殺戮を繰り広げた破壊神であろうと関係ない。ただ、目の前の「たっくん」が愛おしくて仕方がないのだ。
李もまた、彼女の手を優しく握り返した。
IT技術書の難解なコードよりも、彼女の温もりの方が遥かに興味深い情報だった。
二人の間に、言葉はいらなかった。ただ互いの存在を感じ合い、視線を絡ませるだけで、甘い電流が背筋を駆け抜けていく――。
「――コホン」
不意に、わざとらしい咳払いが頭上から降ってきた。
甘い空気が一瞬で凍りつく。
二人がビクリとして顔を上げると、そこには一人の図書館スタッフが立っていた。
深緑のエプロンを身につけ、書架の整理用カートを押している。
一見すると真面目そうな青年だが、そのニット帽を目深に被りすぎているせいで、表情の半分が影に隠れていた。特に、額の部分を隠すように不自然に深く被っているのが目につく。
「お客様。ここは公共の場です。閲覧席での過度な接触、およびイチャつき行為はご遠慮願えますか?」
事務的な口調だが、その声には隠しきれない棘があった。
「……げっ」
李が露骨に嫌そうな顔をした。
「なんだ、楊戩かよ。そんな格好して、何のバイトだ?」
「バイトではない! ……潜伏調査における一時的な偽装だ」
楊戩――天界きっての司法神であり、李の“同僚”にして宿敵とも言える男は、エプロンのポケットから貸出カードを取り出しながら、忌々しげに鼻を鳴らした。
「まったく……貴様という奴は。少し目を離せばこれだ。人間の娘を誑かし、あまつさえ白昼堂々と逢瀬とは。天界の規律を何だと思っている」
ニット帽の下から覗く鋭い眼光が、李と薫を交互に睨みつける。
「別にいいだろ。俺はもう天界の犬じゃないし、薫は俺の『アンカー』だ。契約者と密接な関係を築くのは、霊力供給の効率化において合理的かつ必要な措置だ」
李は悪びれる様子もなく、繋いだままの手をわざとらしく掲げてみせた。
「なっ……! 貴様、恥を知れ恥を!」
楊戩は顔を赤くして狼狽えた。堅物で知られる彼にとって、李の奔放さは永遠の頭痛の種らしい。
薫は二人のやり取りにポカンとしていたが、やがてクスクスと笑い出した。
「あはは……仲良しなんですね、お二人」
「どこがだ!」「ああ、腐れ縁ってやつさ」
二人の声が同時に重なる。
楊戩は「フン」と顔を背けると、周囲を警戒するように声を潜めた。
「……茶番は終わりだ。哪吒、貴様に伝えに来た」
空気が変わった。
図書館の穏やかな静寂が、ピリリと張り詰める。
楊戩はカートに積まれた本を並び替えるふりをしながら、低い声で告げた。
「『奴』が動いた」
李の表情から、ふざけた色が消え失せた。
「……龍太子か?」
「ああ。東海方面で、妙な霊的振動が観測された。奴の眷属たちが、何かを探して蠢いている動きがある」
「ハッ、やっとお出ましか」
李の唇が、獰猛な孤を描いて歪んだ。
「待ちくたびれたぜ。あいつが動いたってことは、俺の『骨』の場所も近いってことか……」
戦意が、体から立ち昇る陽炎のように李を包む。その瞳は完全に“神”のそれに戻っていた。
だが、その横で、薫が小さく身を震わせた。
繋がれていた手が、冷たくなるのを感じて、李はハッとして彼女を見た。
薫は俯き、寂しげな瞳で李を見ていた。
「……たっくん」
「薫?」
「その……任務が終わったら、龍との戦いが終わったら……」
彼女の声が震える。
「帰っちゃうの……? 天庭へ」
それは、彼女が心の奥底に抱えていた最大の恐怖だった。
戦いが終われば、彼は用済みとなったこの世界を去り、また手の届かない高みへと還ってしまうのではないか。自分だけが、この灰色の日常に取り残されるのではないか。
楊戩もまた、黙って李の答えを待っていた。天界の法に照らせば、役目を終えた神は速やかに帰還するのが筋だ。
だが、李は迷わなかった。
彼は繋いだ手を強く引き寄せ、薫の目を見つめた。
「帰らないよ」
きっぱりと、断言した。
「俺はもう、哪吒じゃない。ただの李宅だ。……俺の居場所は、天界なんかじゃない。ここにある」
李は薫の手を、自身の胸――心臓の鼓動が伝わる場所に押し当てた。
「薫。俺は、お前と一緒にいる。お前がお婆ちゃんになって、しわくちゃになるまで、ずっと傍にいてやるよ」
「たっくん……」
薫の瞳に涙が滲む。彼女は感極まったように、図書館だということも忘れて李の胸に飛び込んだ。
「……うん、うん! 離さないからね、絶対!」
「ああ、覚悟しとけよ」
二人の世界が再び展開される。
その様子を見ていた楊戩は、呆れたように天井を仰いだ。
「……やれやれ。堕ちるところまで堕ちたな、蓮根野郎が」
彼は深く帽子を目深に被り直し、額に隠された第三の目――『天眼』が完全に隠れていることを確認すると、再び真面目な顔に戻った。
「だが、油断するな。事態は我々の想定より深刻かもしれない」
楊戩は、手元のタブレット端末をテーブルに滑らせた。
画面には、中国全土の地図が表示され、いくつかの地点に赤い警告マークが灯っている。
「龍が動いたことによる余波だけではない。中国各地の主要な『龍脈』が一斉に悲鳴を上げている。……奴ら、ただ復讐に来ただけではないぞ。何か、もっと底知れぬ『儀式』を企んでいる可能性がある」
李は薫の背中を撫でながら、鋭い視線を地図に落とした。
「龍脈の異変、か……。面白くなってきやがったな」
安らかな休日は終わりを告げようとしていた。
李は薫の温もりを肌で感じながら、近づきつつある嵐の気配に、静かに闘志を燃やし始めていた。
木枯らしが吹く街並みは、すでに黄昏の気配を帯びていた。
コートのポケットに互いの手を突っ込み、身を寄せ合って歩く李と薫の姿は、どこからどう見ても仲睦まじい恋人同士だ。
「ねぇ、たっくん。今日の夕飯、何にしよっか? 寒いからお鍋とかどう?」
「お、いいな。薫の作る鍋なら何でも歓迎だ」
「ふふっ、調子いいんだから。じゃあ、奮発してカニすきにしちゃおっかなー」
薫は李の腕にギュッと抱きつき、頬を擦り寄せる。その甘えるような仕草に、李はこそばゆさを感じつつも、口元が緩むのを止められない。
こんな穏やかな日常が、かつての修羅としての自分に訪れるとは。彼女の体温を感じながら、李は平和を噛み締めていた。
だが――その安息は、唐突な「ノイズ」によって破られた。
「へいへい、そこの色男! ちょいと寄ってかないかい?」
通りの向こう、ガードレールの杭の上に器用にしゃがみ込んだ男が、ニヤニヤとこちらを手招きしている。
季節外れの薄っぺらいジャンパーに、ボサボサの金髪。痩せぎすで猫背なその男は、どこか人間離れした身軽さでヒョイと地面に飛び降りた。
「路上ライブの準備中なんだけどよぉ、リハの観客になってくれねぇかな?」
男は猿のように落ち着きなく体を揺らし、値踏みするような視線を李に投げかける。その瞳の奥で、金色の光が一瞬だけチロリと燃えた。
李は足を止め、深々とため息をついた。
「……はぁ。今日は厄日か? 楊戩のお堅い説教の次は、あの騒々しい孫猴子かよ」
その呟きは小さかったが、隣にいた薫の耳には届いたらしい。彼女はパチクリと目を瞬かせ、素っ頓狂な声を上げた。
「えっ……孫猴子って、まさか……!」
彼女は恐る恐る、目の前の小汚い男を見つめた。
「あの天界を大暴れしてひっくり返した、あの斉天大聖・孫悟空……!?」
その言葉に、男の表情がパッと輝いた。
「おぉっ! 何や姉ちゃん、話がわかるやないか! 最近の若いモンは俺様の武勇伝を知らん奴が多くて困ってたんや!」
男――孫悟空は、嬉しさのあまり空中で一回転し、スタッと薫の目の前に着地した。
「そうや、俺様こそが花果山水簾洞の美猴王、斉天大聖孫悟空様や! いやー、姉ちゃんみたいな別嬪さんに知られてるとは、俺様も鼻が高いわ!」
キャッキャと騒ぎながら、孫悟空は馴れ馴れしく薫の肩に手を伸ばそうとする。
バシッ。
その手は、空中で李によって叩き落とされた。
「……おい。俺の彼女に気安く触るな」
李の声は、先ほどまでの薫への甘い声色とは打って変わり、氷点下の冷たさを帯びていた。彼は薫を背中に庇い、鋭い眼光で孫悟空を睨みつける。
「へいへい、怖わぁ……。相変わらず短気やなぁ、哪吒の坊ちゃんは」
「黙れ。……何の用だ? まさか、本当に路上ライブの客引きじゃないだろうな」
李は冷ややかに言葉を継ぐ。
「東海龍王の三太子……あの件で来たのか?」
その問いに、孫悟空はおどけた態度を一変させた。
ニヤけていた口元が引き締まり、全身から放たれる気配が鋭利な切っ先のように研ぎ澄まされる。
「御名答。……さっすが李家の三太子さんは察しがいいねぇ」
孫悟空は懐からタバコを取り出し、指先から出した火花で火をつけた。紫煙を吐き出しながら、ニヤリと笑う。
「ま、さっき楊戩《三つ目》の野郎とも会ったんやろ? あいつ、相変わらずすました顔で『余計なこと』ぬかしてたんちゃうか?」
「……否定はしない」
「ケッ、あいつはいつも詰めが甘いんや。エリート風吹かしてる割に、肝心なとこが見えてへん」
孫悟空はタバコを携帯灰皿に押し込み、声を潜めた。
「教えてやるよ、坊ちゃん。楊戩《三つ目》が掴んでないネタや」
彼は周囲を警戒するように目を細め、李だけに聞こえる声量で告げた。
「奴らの人間界でのドンパチは、ただの『目くらまし(陽動)』や」
「なに……?」
「本命はこっちやない。……『天柱』の方や」
その言葉に、李の顔色が変わった。
「天柱……!? まさか、天地の境界を支えるあの柱を狙っているのか?」
「せや。あそこが折れれば、人間界と神界の均衡は崩壊する。……あいつら、本気で世界をリセットするつもりやで」
孫悟空は真剣な眼差しで告げると、再びおどけた調子に戻って肩をすくめた。
「ま、俺様からのサービス情報はこれくらいや。せいぜい気張れよ、坊ちゃん。……あと姉ちゃん、カニすきはシメの雑炊が一番美味いからな! 覚えとき!」
言い捨てると、孫悟空は身軽な跳躍でビルの屋上へと姿を消した。
風のように現れ、嵐のような情報を残して去っていった背中を、二人は呆然と見送った。
帰り道、重苦しい沈黙が落ちていた。
街灯がぽつりぽつりと灯り始め、夜の冷気が二人の頬を撫でる。
薫はずっと俯いたまま、何かを考え込んでいるようだった。繋いだ手から伝わる彼女の微かな震えに、李は胸が締め付けられる思いだった。
「……たっくん」
不意に、薫が足を止めた。
彼女は不安げに揺れる瞳で、李を見上げた。
「大丈夫じゃ……ないよね? 天柱が狙われてるなんて……そんな大事……」
神話級の厄災が、自分たちの日常を侵食しようとしている。その恐怖は、普通の少女である薫にとって計り知れないものだろう。
「……ああ。正直、楽観はできない」
李は嘘をつけなかった。だが、ここで不安を煽るわけにはいかない。
彼は薫の手を、痛くならない程度に強く握り返した。
「でも、約束する」
李は真っ直ぐに薫の瞳を見つめ、一言一言を噛み締めるように言った。
「何があっても、薫だけは俺が守る。……最悪の事態なんて、俺が叩き潰してやる」
(……たとえ、俺の火尖槍が折れようとも)
心の中で湧き上がる弱音を、李は必死に押し殺した。
天柱の防衛となれば、相手にするのは神の軍勢そのものかもしれない。今の消耗した体でどこまで戦えるか、勝算など皆無に等しい。
けれど――。
「……うん。信じてる」
薫が泣きそうな顔で微笑み、李の胸に飛び込んできた。
「たっくんがいるなら、私は平気。……だから、お願い。絶対、無茶しないでね」
彼女の体温が、コート越しに伝わってくる。
その温もりは、李にとって何よりの守るべき理由であり、同時に最強の武器だった。
「ああ、わかってる」
李は彼女の頭を優しく撫でながら、暗い夜空を見上げた。
(やってやるさ。……この温もりを守れるなら、俺は何度でも修羅に戻ってやる)
冬の冷たい風の中で、李は静かに、しかし激しく、戦う覚悟の炎を燃え上がらせていた。
第九話までお読みいただきありがとうございます! いかがでしたでしょうか?
今回は、李と薫の過去から現代に繋がる愛と、彼らが下した大きな決断を描きました。そして、楊戩と孫悟空という強力な神々も登場し、しかし、そんな日常は長くは続かない。楊戩や孫悟空からの情報で、敵の目的が「天柱」にあると推測され、李は焦燥な鬼特訓を決意します。
束の間の休息は終わり、いよいよ戦いの火蓋が切られようとしています。次回、事態は急展開し、第十話の最後にはクライマックスが待ち受けています。引き続き、応援よろしくお願いいたします!




