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捌 束の間の休息と癒し

どうも、作者です。第八話の始まりです。第七話の激しい戦いの後、今回は少し息抜きとなるエピソードです。しかし、そこには新たな出会いと、今後の戦いのための重要な布石が隠されています。特に、主人公たちとは別の場所で紡がれる、もう一つの人間模様にご注目ください。

「もしもし、李か?」

 祈は、携帯を耳に当てながら深くソファに沈み込んだ。昨夜の戦いと、その後の精衛の救出劇、そして姉の保護。怒涛のような時間が過ぎ去り、ようやく訪れた静寂の中で、疲労だけが泥のように体に纏わりついていた。

『よぉ、大先輩。おはよう。精衛ちゃんと願お姉さんは無事かい?』

 電話の向こうから、李の気の抜けた声が聞こえてくる。その軽薄さが、今は少しだけ救いだった。

「ああ、二人とも大丈夫だ。昨日は本当に……ありがとう」

 祈はリビングの奥に目をやった。

 キッチンでは、エプロン姿の願と、ぎこちない手付きで野菜を洗う精衛が並んで立っている。

「精衛ちゃん、トマトはもっと優しくね。そうそう、上手よ」

「はい、願さん。……こう?」

「ふふっ、そうよ。呑み込みが早いのね」

 姉妹のような温かい笑い声。朝日が二人の背中を柔らかく照らしている。昨夜の地獄が嘘のような平和な光景に、祈の胸が締め付けられるような愛おしさを感じた。

(守れたんだ……)

 だが、安堵に浸る時間は長くはなかった。祈は視線を落とし、重い口を開いた。

「……それで、李。治療費の件なんだが」

 現実的な問題が、冷や水のように頭を覚醒させる。孫先生は言った。『人間界の通貨では支払えない』と。それはつまり、通常の金銭や保険では賄えない、霊的な対価や特殊な資源が必要だという意味だろう。

「僕が何とかしなきゃいけない。でも、正直……心当たりがないんだ」

 自分の無力さを認めるのは辛い。だが、強がっている場合ではなかった。

『ハハッ、やっぱりそっちから来たか』

 李は予想通りといった様子で含み笑いを漏らした。

『大丈夫だ、大先輩。俺の方で、ちょっとしたコネを使って「心当たり」に話を通しておいた。……上海に、面白い治験の案件がある』

「治験?」

『ああ。詳細は現地で説明するよ。とにかく、身分証と着替えを持って駅に向かってくれ。チケットは手配済みだ』

 一方的な通達と共に、電話が切れる。

 祈はスマホを握りしめたまま、大きく溜息をついた。

(上海、か……)

 不安がないわけではない。だが、他に道はない。

「祈?」

 ふと、精衛が心配そうに顔を覗き込んできた。水仕事で濡れた手を拭きながら、小首をかしげている。

「難しい顔をしてるわ。また、どこか痛むの?」

「いや、違うんだ」

 祈は努めて明るい声を作り、立ち上がった。

「少し遠出をすることになった。……精衛、一緒に来てくれるか?」



 風を切るような高速の振動が、窓ガラスを微かに揺らしている。

 車窓の外を、田園風景と高層ビル群が目まぐるしく入れ替わりながら後方へと飛び去っていく。中国が誇る高速鉄道は、時速三百キロという猛スピードで東へと疾走していた。

 ふと隣を見ると、精衛が不安げな瞳でこちらを見上げていた。

 祈は流れる景色をぼんやりと眺めながら、出発前に交わした李との会話を反芻していた。

(……あれは、ちょうど駅に向かうタクシーの中だったな)

 記憶の中で、李の軽薄だが芯のある声が蘇る。

『今回は本当にラッキーだったよ。その治験プロジェクト、スポンサーが超太っ腹でね。参加が決まれば、孫先生への支払いは全額肩代わりしてくれるそうだ』

 電話越しの李は、まるで宝くじでも当たったかのような口調だった。だが、祈にはその明るさが逆に不気味に感じられた。

「そんなうまい話があるのか? 裏がありそうで怖いんだが」

『裏? まあ、あるとすれば「リスク」だろうな。新薬の人体実験だ。副作用がないとは言いきれない。……でも、大先輩なら大丈夫だろ? お前、普通の人間より頑丈だし』

「……他人事だと思って」

 祈は苦笑せざるを得なかった。だが、李の次の言葉で、空気は一変した。

『あぁそれと、面会する相手に失礼のないようにな。「公日月こう にちげつ」っていう商人と、そのスポンサーである大学病院の総院長だ。特に院長の方は、少々気難しい御仁らしいから気をつけろよ』

「わかった。肝に銘じておく」

(公日月、と……院長か)

 祈は座席に深く体を預け、小さく息を吐いた。

 ふと隣を見ると、精衛が不安げな瞳でこちらを見上げていた。彼女は初めて乗る高速鉄道のスピードに少し怯えたように、祈のジャケットの袖を摘んでいる。

「祈……大丈夫なの? その、治験って……危険なことなんでしょう?」

 彼女は勘が鋭い。それに、先ほどの会話から不穏な気配を感じ取ったのだろう。

 祈は彼女の手をそっと握りしめた。細くて、白い指先。昨夜の枷の痕が、まだ痛々しく残っている。

「大丈夫だよ。僕が隣にいる」

 祈は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ、努めて優しい声を出した。

「君と姉さんを守るためなら、どんなことだってへっちゃらさ。それに、ただ薬を飲むだけだしね」

「……嘘つき」

 精衛は小さく呟いたが、その表情は少しだけ和らいだ。彼女は握られた手に力を込め返し、祈の肩に頭を預けた。

「無理だけはしないでね。……これ以上、あなたが傷つくのは見たくないの」

「ああ、約束する」

 ぬくもりが、袖越しに伝わってくる。

 列車はレールを滑るように走り続け、二人を未知の都市――運命の交差点となる魔都・上海へと疾走していた。


 上海、陸家嘴ルージャーズイ

 天を突くような摩天楼が林立する金融街の一角。その最上階にあるオフィスは、下界の喧騒とは隔絶された静寂に包まれていた。

 床には最高級のペルシャ絨毯。壁には明代の水墨画。飾られた壺一つとっても博物館級の価値があるだろう。東洋の美と現代の富が融合した、絢爛豪華な空間。

 その中央にある執務デスクの前に、祈と精衛は立たされていた。

「ようこそ。遠路はるばるご苦労だった」

 革張りの回転椅子がゆっくりと回り、一人の男が姿を現した。

 仕立ての良いダークスーツに身を包み、銀縁の眼鏡を掛けた知的な男。その目はカミソリのように鋭く、計算高さを隠そうともしない。

「私が公日月だ。李君から話は聞いているよ」

 公日月は事務的にそう告げると、書類の束をテーブルに放り出した。

「早速だが、本題に入ろう。これが契約書だ」

 祈がその名前の響きに、微かな違和感を覚える。

(公日月……? 「公」はともかく、名前が「日月(明)」とは……妙に古風というか、大層な名前だな)

 だが、そんな思考を遮るように、もう一人の男が奥の扉から姿を現した。

 その瞬間、室内の空気が変わった。

「――待たせたな」

 重厚なバリトンボイス。年齢は五十代半ばだろうか。白衣を羽織っているが、その体躯は岩山のように逞しく、ただならぬ威圧感を放っている。

「こ、こちらが……」

「紹介しよう。今回の治験プロジェクトの最高責任者であり、当大学病院の総院長、姜石年きょう せきねん先生だ」

 公日月の紹介に、祈は思わず背筋を正した。

 姜石年。

 その男は、ただ立っているだけで周囲を圧倒する「格」を持っていた。鋭い眼光は、祈の心の奥底まで見透かすかのように冷徹だが、その奥には燃え盛る太陽のような熱量が秘められているようにも見えた。

 彼は無言で精衛の方を一瞥した。

 ほんの一瞬。瞬きするほどの僅かな時間。

 その厳格な瞳が、驚きに見開かれ、次いで深い慈愛の色に染まったことに、祈は気づかなかった。

(……あの子は。まさか、生きていたのか)

「……祈殿、と言ったな」

 姜石年は、娘の隣に立つ少年に視線を移した。

 値踏みするような目。

「はい。林祈です」

「治験の内容は聞いているか? 我々が開発中の新薬だ。理論上は安全だが、人体への、特に魂の領域への副作用は未知数だ」

 姜石年は一歩前に踏み出し、祈に迫った。

「最悪の場合、廃人になる可能性もある。それでも、やるか?」

 それは単なる脅しではなかった。覚悟を問う試練だった。

 隣で話を聞いていた精衛が、顔を青ざめて祈の袖を引く。

「祈、やめて……! そんな危険なこと……!」

 だが、祈は動じなかった。

 彼は精衛の手をそっと外し、一歩前に出ると、姜石年の目を真っ直ぐに見返した。

「覚悟は、あります」

 声に迷いはなかった。

「僕には、命を懸けてでも守りたい人たちがいます。そのための代償が僕の体一つで済むなら、安いものです」

 静寂が落ちた。

 数秒の沈黙の後、姜石年の厳めしい口元が、微かに、本当に微かに緩んだ。

(……ほう。良い目をしている)

「……よかろう。でも安心ください。リスクとは言え、もちろんモルモットなどで検証済みだ。健康を損なうような深刻なものではない。」

 姜石年は踵を返し、窓の外の風景に目をやった。

「公、契約を進めろ。……ただし、彼の身体チェックは私が直々に行う。手落ちは許さん」

「了解しました」

 背中越しに投げかけられた言葉に、祈は深く頭を下げた。

「ありがとうございます!」

 姜石年は窓に映る二人の姿を見つめた。


 煩雑な手続きと、最初の投薬、そして様々な検査が終わる頃には、すっかり日が暮れていた。

 公日月が手配してくれた市内の高級マンションに戻った祈と精衛は、泥のように眠った。

 そして、上海での生活が始まって数日が経った。

 治験の初期検査と投薬スケジュールの合間を縫って、最初の日曜日が訪れた。

「今日は検査も投薬もない、完全なオフだ。……やっと一息つけるな」

 高級マンションの一室。祈が伸びをしながらカレンダーを見ていると、精衛がもじもじと近づいてきた。何か言いたげに、スマホの画面を胸元で握りしめている。

「あのね、祈……」

「ん? どうした、精衛」

「明日……ううん、今日。……あそこ、行ってみたいの」

 彼女がおずおずと差し出したスマホの画面には、極彩色の夢のような光景が映し出されていた。

 巨大なピンク色の城。空飛ぶ海賊船。そして楽しげな音楽が聞こえてきそうなパレードの画像。

 上海郊外にオープンしたばかりの世界的なテーマパーク――『ワンダー・ランド』だった。

「えっ……遊園地?」

 意外な提案に、祈は目を丸くした。

 数千年の時を生きる伝説の神鳥が、まさかテーマパークに興味を持つとは思わなかったのだ。

「ダメ……かな? 私、テレビで見てから、ずっと気になってて……。その、こういう『平和な場所』って、あまり見たことがないから」

 精衛は上目遣いで祈を見つめる。その瞳は、伝説の神獣のものではなく、好奇心に満ちた年相応の少女のものだった。

 祈の胸が、ドキリと跳ねた。

 これまでの過酷な運命や、連日の検査の疲れが、彼女のその純粋な願いの前では霧散していくようだった。

「……わかった。行こう、精衛」

 祈は微笑んで頷いた。

「たまには息抜きも必要だ。……最高の休日にしよう」

「本当!? やったぁ!」

 精衛はパッと顔を輝かせ、思わず祈の手を取ってぴょんぴょんと跳ねた。その無邪気な姿に、祈はすでに「来てよかった」と思い始めていた。


 ゲートを潜り抜けた瞬間、そこは別世界だった。

 日常の喧騒も、血なまぐさい神々の争いも、得体の知れない治験への不安も、すべて遮断された魔法の国。

 レンガ造りの街並みには陽気なラグタイム・ピアノが響き、色とりどりの風船を持ったスタッフが笑顔で手を振っている。甘いキャラメルポップコーンの香りが風に乗って漂い、訪れる人々の心を童心へと誘う。

「わぁ……すごい! 見て、祈! 建物が全部、お菓子みたい!」

 精衛は目をキラキラさせて周囲を見回していた。

 普段の古風な言葉遣いも忘れ、完全に興奮状態だ。彼女が着ているのは、昨日あわててデパートで買った淡いブルーのワンピース。それがこの魔法の国の風景に驚くほど馴染んでいる。

「ようこそ、ワンダー・ランドへ!」

 不意に、目の前に影が落ちた。

 現れたのは、このパークの象徴である人気キャラクター「ティミー」だ。丸い耳に赤いズボン、黄色い蝶ネクタイをした愛らしいネズミのキャラクターが、大仰なジェスチャーで二人を出迎えた。

「きゃっ!?」

 精衛は驚いて祈の背中に隠れたが、ティミーが優しく手を差し出すと、恐る恐るその大きな手袋に触れた。

「……温かい。これ、生き物なの?」

「あー……うん、まあ、この国に住む住人だよ」

 祈は苦しい説明をしながら、精衛がティミーと握手する様子をスマホのカメラに収めた。

 数千歳の神様が、着ぐるみに感動して目を潤ませている。そのギャップがたまらなく愛おしい。

 二人はガイドマップを片手に、パーク内を歩き回った。

 最初に選んだのは、鉱山を駆け抜けるジェットコースターだった。

「高いところは慣れてるの。空を飛ぶのと変わらないでしょ?」

 精衛は余裕の表情で乗り込んだが、いざコースターが急降下を始めると――

「きゃあああああああああああっ!!?」

 悲鳴。

 重力に逆らって振り回され、暗闇の中を疾走するスリルは、自分の翼で飛ぶ優雅さとは全く別物だったらしい。

 降りた後の精衛は、足元をふらつかせながら祈にしがみついた。

「し、心臓が……口から出るかと思った……。人間って、なんて恐ろしい乗り物を作るの……」

「ははっ、でも楽しかっただろ?」

「……うん。怖かったけど、祈と一緒なら、悪くないかも」

 頬を紅潮させ、少し乱れた髪を直しながらはにかむ彼女に、祈は思わず見惚れた。


 その後も、二人は時間を忘れて遊び回った。

 回転するティーカップでは、精衛が「回しすぎよ!」と笑いながら祈をポカポカ叩き、お化け屋敷では、作り物の幽霊に驚いた祈の方が精衛に抱きついてしまい、逆に慰められる一幕もあった。

 そして、夕暮れ時。

 空が茜色から群青色へとグラデーションを描き始める頃、二人はパークの中央にある湖畔のベンチに腰を下ろした。

 足の疲れよりも、胸いっぱいの充実感が勝っていた。

「……綺麗」

 精衛が呟く。

 湖の対岸にはライトアップされた巨大な城が輝き、水面に揺らめく光の帯を作っていた。

「楽しかったな」

 祈はカフェで買ったチュロスをかじりながら言った。

「うん。……私、こんなに笑ったの、生まれて初めてかもしれない」

 精衛は膝の上で手を組み合わせ、遠くの光を見つめた。

「昔……女娃じょがだった頃も、海辺で笑い合ってた記憶はあるの。でも、それはいつも『別れ』の予感と隣り合わせだった。……でも、今日は違う。ただ楽しくて、幸せで……」

 彼女は言葉を切り、ゆっくりと祈の方を向いた。

 パークのイルミネーションが、彼女の瞳の中に小さな星空を作っている。

「ありがとう、祈。私を、この場所に連れてきてくれて」

「……礼を言うのは僕の方だよ」

 祈はチュロスを置き、真面目な顔で彼女に向き直った。

「僕も、君がこんなに笑う顔を見られて、本当に救われたんだ。……君が笑ってくれるなら、どんな辛いことだって耐えられる気がする」

 ふと、二人の間に沈黙が落ちた。

 周囲の喧騒が遠のき、心臓の音だけが大きく聞こえるような、甘く、くすぐったい静寂。

「……祈」

 精衛が、そっと体を寄せてきた。

 肩と肩が触れ合う距離。彼女のシャンプーの香りと、ポップコーンの甘い匂いが混じり合う。

「もし、また辛い運命が私たちを襲っても……今日のことは忘れない。この光も、音も、あなたの笑顔も、全部」

「ああ。僕もだ」

 祈は衝動に駆られるまま、彼女の手を握った。

 今度は、守るための力強い握り方ではなく、恋人同士が指を絡ませるような、繊細な繋ぎ方で。

 精衛は拒まなかった。

 むしろ、その白い指を祈の指に絡ませ、ギュッと握り返してきた。

「……好きよ、祈」

 蚊の鳴くような、けれど確かな声。

「えっ……」

 祈が驚いて顔を見ると、精衛は耳まで真っ赤にして、慌てて顔を背けた。

「あ、あのっ! 今のは、その……『相棒として』とか、そういう意味で……! うぅ、変なこと言っちゃった……!」

「ふっ……はははっ!」

「む……! 笑わないでよぉ!」

「ごめんごめん。……嬉しいよ、精衛。僕もだ」

 祈は彼女の肩を抱き寄せた。

 精衛は一瞬ビクリと体を硬くしたが、すぐに力を抜いて、祈の胸に頭を預けた。

 ドォォォォンッ……!!

 その時、夜空に大輪の花火が打ち上がった。

 黄金、真紅、翠玉。色とりどりの光の粒が降り注ぎ、二人のシルエットを鮮やかに照らし出す。

「わぁ……!」

 精衛が空を見上げる。その横顔は、数千年の時を超えて愛する人と巡り会えた奇跡を噛み締めているようで、どんな夜景よりも美しかった。

(この時間を、守りたい)

 祈は強く思った。

 たとえこの先、どんな理不尽な神や、過酷な治験が待っていようとも。この温もりだけは、決して手放さない。

 この夜の記憶は、後に彼らが直面する過酷な運命の中で、凍えそうな心を温める唯一無二の灯火となるのだが――今の二人はまだ、それを知らない。

 ただ、降り注ぐ光の中で、互いの鼓動を感じ合っていた。


『ワンダー・ランド』での休息は、嵐の中に訪れた奇跡のような一日だった。

 だが、現実の時計は止まってはくれない。


 あれからさらに一週間。

 上海での濃密な日々――毎日の投薬、霊的波長のモニタリング、そして終わりの見えない検査の連続――が、ようやく幕を下ろした。

 上海、陸家嘴。

 眼下に黄浦江こうほこうの濁流と煌めく街並みを見下ろす、公日月のオフィス。

「全スケジュール終了だ。検査結果も良好。……合格だよ、林祈君」

 公日月はデスクのタブレットをタップしながら、ビジネスライクな笑みを浮かべた。

 その言葉を聞いた瞬間、祈の肩から千鈞せんきんの重荷が下ろされた。

「……ありがとうございます」

 祈が深く頭を下げると、隣に座っていた精衛も安堵の息を漏らし、ぺこりと辞儀をした。

「待ちなさい」

 重厚な声が響く。

 窓際に立って外を眺めていた総院長――姜石年がゆっくりと振り返った。

 逆光の中、その巨躯が威圧感を放ちながら近づいてくる。

 彼は祈の目の前で立ち止まると、白衣のポケットから何かを取り出し、無造作に差し出した。

「持って行け」

 それは、深いみどり色をした玉石ぎょくせきのペンダントだった。

 古風な組紐に通されたその石は、オフィス冷房の冷気の中でも、内側からじんわりとした温もりを発しているように感じられた。

「これは……?」

「ただの気まぐれだ。今回の治験、被験者第一号としての記念品とでも思えばいい」

 姜石年はぶっきらぼうに言ったが、その眼光は穏やかだった。

 彼は視線を、祈の隣にいる精衛へと一瞬だけ移した。

 そこには、言葉には決して出せない、万感の思いがあった。

「……お嬢さん。その少年を、頼んだぞ」

「え……あ、はい!」

 精衛は突然話しかけられて驚いたが、その石から発せられる懐かしい波動に魂が共鳴したのか、自然と居住まいを正して頷いた。

「礼には及ばん。さっさと行け」

 姜石年は素っ気なく手を振って背を向けた。

 公日月が肩をすくめ、苦笑しながら二人をエレベーターホールへと案内する。

「やれやれ、あの堅物の先生が贈り物とはね。君たち、よほど気に入ったらしい。……あ、そうそう」

 エレベーターの扉が閉まる直前、公日月は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、ニヤリと笑った。

「もし将来、どうにもならないトラブルに巻き込まれたら連絡したまえ。我々の『取引』はこれで終了だが、パイプは繋がっている。……お得意様は大事にする主義でね」

 銀色の扉が閉まり、二人は日常へと帰還する箱の中に閉じ込められた。

 祈は掌の中のペンダントを握りしめた。

 温かい。

 それは、ただの石ではない。強力な加護の魔力が込められた、神級の「御守り」だと直感した。


 上海駅、高速鉄道のプラットホーム。

 発車ベルが鳴り響き、周囲は帰路を急ぐ人々で溢れかえっていた。

「もしもし、李か?」

 祈は雑踏を避け、柱の陰でスマホを耳に当てた。

 上海をつ前の、最後の報告だ。

『……ああ、大先輩か。終わったのか?』

 電話の向こうの李の声は、いつもの軽薄さが少し鳴りを潜め、どこか鼻声のように聞こえた。

「ああ、今から列車に乗る。公さんたちにも挨拶は済ませた。……本当に助かったよ、李。お前のおかげで、姉さんの身体も、精衛も守ることができた」

『よせよ、水臭い。俺はただ、コネを使っただけだ。……体を張ったのは大先輩だろ』

「帰ったら、また話すよ。それじゃあ」

 通話を終え、祈がスマホをポケットにしまうと、袖をクイクイと引かれた。

 精衛が、心配そうな、それでいて嬉しそうな瞳で見上げている。

「終わった……のよね?」

「ああ。全部終わったよ」

 祈は彼女の頭をポンポンと撫でた。

「家に帰ろう、祈」

「うん。……帰ろう」

 二人はしっかりと手を繋ぎ、滑り込んできた白い列車へと乗り込んだ。

 動き出した車窓の向こう、魔都・上海の景色がまたたく間に後ろへと飛び去っていく。

 そのスピードは、彼らを優しい日常へと連れ戻すための加速だった。



 ……


 李が住んでいるマンションの一室には、重苦しい沈黙がよどんでいた。

 カーテンが締め切られた薄暗い部屋。

 空気清浄機の低い駆動音だけが、気まずい静寂を埋めている。

 李はベッドのふちに腰掛け、両手で顔を覆っていた。

 その背中は、普段の「頼れる策士」としての彼からは想像もつかないほど小さく、もろく見えた。

「……たっくん」

 その沈黙を破ったのは、薫の震える声だった。

 彼女はドアの前に立ち尽くしていた。

 手には、李のために淹れたハーブティーのカップが握られているが、その手はカタカタと小刻みに震え、ソーサーとぶつかって硬質な音を立てていた。

「その言葉は……本当なの?」

 薫の問いかけに、李の肩がビクリと跳ねた。

「……なんのことだ?」

 李は顔を覆った指の隙間から、かすれた声を絞り出した。誤魔化そうとする意志とは裏腹に、その声には隠しきれない動揺が走っている。

「誤魔化さないで!」

 薫が叫んだ。

「さっき、ベッドでうなされてた時……はっきり言ったじゃない。『敖丙ごうへい』、『薫を死なせたことを、絶対に許せない』って……!」

 李は息を呑み、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳は焦点が定まらず、現在と過去の境界を彷徨さまよっているようだった。

 敖丙。

 東海龍王の三男。かつて「哪吒」と争い、自分を死に追い込んだ龍太子。

 そして――それが、李の前世の姿だった。

「……ああ。聞かれた、か」

 李は力なく笑った。それは、観念した囚人のような、乾いた笑いだった。

「どれだけの時間が経っても、魂に焼き付いたトラウマってのは、消えてくれないらしいね」

 李の脳裏に、数千年前の光景がフラッシュバックする。

 荒れ狂う海。

 村を救うために龍族への「生贄」として差し出された少女――前世の薫。

 彼女を救えなかった無力感。

 そして、自らの不甲斐なさと運命を呪い、その身を刃で貫いて自害した自分。

 さらに最悪だったのは、愛する人の死を知った少女が、その後を追って岸壁から身を投げたことだった。

 二つの魂は、すれ違い、互いを想いながらも、絶望の中で命を絶った。

「どうして……」

 薫がカップをサイドテーブルに置き、涙を流しながら歩み寄ってきた。

「どうして、そんな辛いことを……たっくん一人で抱え込んでたのよ!」

「……重いだろう? こんな、カビの生えた神話みたいな昔話」

 李は視線を床に落とした。

「今の薫は、ただの薫だ。あの時の絶望も、痛みも知らない、無邪気な幼馴染のままでいてほしかった。……俺のくだらない過去のせいで、お前の笑顔を曇らせたくなかったんだ」

 それが、彼なりの贖罪であり、愛だった。

 現世で再会した彼女が幸せに笑っているなら、過去の悲劇の記憶など、自分という墓場に埋葬しておけばいい。そう思っていた。

 だが、次の瞬間。

 柔らかな温もりが、李を包み込んだ。

「バカ……!」

 薫が、李の首に腕を回し、その胸に飛び込んできたのだ。

「私を子供扱いしないでよ! たっくんが苦しんでるのに、私だけ笑ってて……それで幸せになんかなれるわけないじゃない!」

「薫……」

「分け合いたいの。たっくんの痛みも、後悔も、全部……。だから、隠さないで。一人で泣かないで」

 彼女は李の胸に顔を埋め、子供のようにしゃくり上げた。

 涙がシャツに染み込み、熱となって肌に伝わる。

 李の手が、迷うように空を彷徨い――やがて、諦めたように彼女の背中に回された。

 強く、抱きしめる。

 そこには、性愛の色も、計算もなかった。

 ただ、互いの鼓動を確かめ合い、数千年の孤独を埋め合わせるような、純粋無垢な魂の抱擁。

 薫の髪から漂うシャンプーの香りは、かつての生贄の少女のような潮の匂いではなく、平和な日常の匂いがした。

 その匂いが、李の中にある「哪吒」の凍りついた心を、ゆっくりと溶かしていく。

「……安心する」

 李は薫の肩に顎を乗せ、深く息を吸い込んだ。

「薫の匂いを嗅ぐと……俺はまだ、生きていてもいいんだって思えるよ」

「当たり前でしょ。……ずっと、そばにいるから」

 二人はそのまま、薄暗い部屋の中で抱き合い続けた。時が止まったかのような静寂。

 やがて、李はポツリ、ポツリと語り始めた。

 今まで誰にも言えなかった、はるか昔の、悲しくて愚かな少年と少女の物語を。

 薫はそれを、背中を優しく撫でながら聞いていた。相槌は打たず、ただ自分の心音を彼に聞かせるように、強く抱きしめながら。

 窓の外では、街の灯りが一つ、また一つとともり始めていた。

 どこか遠くで、汽笛のような音が聞こえた気がした。

第八話までお読みいただきありがとうございます! いかがでしたでしょうか?

今回は、公日月や姜石年といった新たな人物が登場し、物語の世界観が広がりました。彼らの正体も気になるかな。祈と精衛の上海でのつかの間の休息、そして最後に描かれた、李と薫の過去からの深い絆と癒しのシーンは、次の激動の展開への序章となります。

平穏な日常は長くは続かないでしょう。次回、事態は再び動き始めます。引き続き、応援よろしくお願いいたします!

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