漆 覚醒と再誕
どうも、作者です。第七話の始まりです。第六話の続き、精衛が攫われたところから物語は急展開します。今回は、祈と精衛、二人の神話時代の過去が完全に明らかになります。彼らが「覚醒」し、「再誕」する姿、そして感動の救出劇にご注目ください。
朝日がカーテンの隙間から差し込み、リビングに舞う埃を白く照らし出していた。
いつもなら、朝の支度で慌ただしい生活音が響くはずの時間。だが今朝の林家は、墓場のように静まり返っていた。
時計が、時を刻む音だけが大きく聞こえる。カチ、コチ、カチ、コチ。
祈はリビングのソファに深く沈み込んでいた。
両膝を抱え、その上に額を押し当てるような姿勢。微動だにしないその背中は、昨夜の出来事に押し潰されたかのように小さく見えた。
目の前のセンターテーブルには、冷めきったコーヒーが二つ置かれている。一つは手付かずのまま、黒い液面に自分の歪んだ顔を映していた。
視線の先、リビングの隅に置かれた簡易ベッドでは、姉の願が規則正しい寝息を立てていた。
彼女にかかった「眠り」の術式は、つい先ほど解けたばかりだ。医術の心得がある李が応急処置を施し、今は単なる深い睡眠状態にある。命に別状はない。外傷もない。
だが、その無防備な寝顔を見るたびに、祈の胸は鋭利な刃物でえぐられるような痛みに襲われる。
(まただ……)
祈は震える両手を握りしめ、爪を掌に食い込ませた。
(僕が関わると、周りの人が傷つく。姉さんも、精衛も……)
瞼を閉じれば、嫌でも再生されるあの悪夢。
機械室の冷たい床。宙を舞う願の体。そして、自分を庇うようにして自ら囚われの身となった精衛。
鈍い打撃音。彼女の苦痛の声。ゴミのように担がれていく屈辱的な姿。
『祈、お願い!』
最後の叫びが、鼓膜にこびりついて離れない。彼女が自分に託したのは、姉の命だった。そして、姉を守るために、彼女は犠牲になった。
「……くそっ……」
祈は髪を掻きむしった。
無力だ。自分は何も変わっていない。結局、大切なものを天秤にかけられ、選ばされ、奪われる。
「大先輩」
重苦しい沈黙を破ったのは、キッチンカウンターに背を預けていた李宅だった。
彼もまた、一睡もしていないのだろう。目の下には隈があり、いつもの飄々とした態度は鳴りを潜めている。手にした缶コーヒーは空になり、アルミ缶が彼の握力でひしゃげていた。
「……少しは、休んでください。願さんの容体は安定しています。今すぐにどうこうなるわけじゃ――」
「休めるわけないだろ……!」
祈は顔を上げ、掠れた声で遮った。充血した瞳が、李を射抜く。
「精衛は……あいつらに連れ去られたんだぞ。今頃、どんな酷い目に遭ってるか……考えただけで、気が狂いそうだ」
その言葉とともに、祈の脳裏には昨夜の時計塔での出来事が、鮮烈なフラッシュバックとなって蘇った。
――時間を、昨夜に戻す。
『……まただ』
時計塔の機械室。硝煙と血の匂いが充満する空間で、イノリは血塗れの拳を床に叩きつけていた。
「うああああああああああっ!!」
絶叫。それは言葉にならない慟哭だった。自分の無力さへの呪詛であり、理不尽な運命への宣戦布告だった。
ガタガタと震える体。だが、数秒後、その震えはピタリと止まった。
祈の中で、感情のスイッチが切り替わったのだ。
悲しみや後悔といった人間らしい感情が、急速に冷却され、絶対零度の氷塊へと変質していく。代わりに浮かび上がってきたのは、目的のためなら手段を選ばない、冷徹な捕食者の論理だった。
バンッ!!
唐突に、機械室の鉄扉が外側から蹴り飛ばされた。
「――大先輩!」
肩で息をしながら駆け込んできたのは、李だった。
その表情には、普段の冷静さは微塵もない。額から汗を流し、必死の形相で室内を見回す。
「……李」
祈は、姉の体を抱き起こしながら、感情のない声で名を呼んだ。
「精衛は!?……間に合わなかったか……クソッ!」
李は惨状を見てすべてを悟った。
倒れ伏す神狩りの手下たち。壁に空いた穴。そして、そこに精衛の姿だけがないこと。
李は悔しそうに顔を歪め、錆びた鉄骨を拳で殴りつけた。ガンッ、と鈍い音が響き、錆がパラパラと舞い落ちる。
「……連れて行かれた」
祈は幽鬼のように立ち上がった。
その背中から放たれる気配に、李は思わず後退りそうになった。
今目の前にいるのは、いつもの気弱な友人じゃなかった。
涙は枯れていた。その瞳の奥底に宿っているのは、生物としての生存本能を超えた、ドス黒い執念の炎。
「……あいつら、精衛を蹴った」
祈は独り言のように呟いた。
「手錠をかけて、髪を掴んで……荷物みたいに担いで、笑ってた」
その声は低く、地を這うような周波数帯で響いた。
「許さない。絶対に、許さない」
祈は願を横抱きにし、天井の大穴から見える夜空を見上げた。
ヘリコプターの音はもう聞こえない。敵は闇に溶け、痕跡すら残していない。
だが、祈の中の羅針盤は正確に北を指していた。そこには敵の喉元がある。
「李。……手伝ってくれ」
祈は振り返り、親友を見据えた。
そこに「頼み込む」ような弱さはなかった。あるのは、戦場へ赴く王が、同胞に共闘を求める力強い意志のみ。
「俺は必ず精衛を取り戻す。地獄の底まで追いかけてでも、あいつらを皆殺しにして、連れ戻す」
殺す。
その言葉には、一切の比喩も躊躇いもなかった。
それを聞いた李は、一瞬の驚きの後、口元をニヤリと吊り上げた。
「……ハッ。当たり前でしょう」
李はポケットからスマホを取り出し、慣れた手付きでどこかへ回線を繋ぎ始めた。
「俺のクラスメイトを誘拐されて、黙っていられるかよ。それに……俺たち『四凶』の面子にも関わる」
李の瞳にも、危険な光が宿る。
「相手は『神狩り』の中枢……おそらく、表社会すら動かす巨大な組織です。これからは喧嘩じゃない、戦争だぞ、大先輩」
「望むところだ」
祈は夜風を全身に浴びながら、血の滲む拳を握りしめた。
骨が軋む音が、静寂に響く。
(待ってろ、精衛。今度こそ、絶対に……!)
現在――。
リビングの空気は重苦しいままだった。
李は空になった缶コーヒーをゴミ箱に放り投げ、祈の隣に座り込んだ。
「心配するな、大先輩。精衛さんはそんなに容易くやられるわけがない」
李は努めて明るい声を出そうとした。
「彼女は腐っても神様だ。魔力を封じられたとはいえ、精神力は俺たちとは桁が違う。それに、あいつらの狙いは『器』としての彼女だ。傷物にするような真似は、そうそうできないはずだ」
それは慰めだった。論理的な推論ではあるが、多分に祈を安心させるための希望的観測が含まれていた。
「……本当か?」
祈が顔を上げた。
その瞬間、李の背筋に冷たいものが走った。
祈の表情から、先ほどまでの憔悴しきった少年の弱さが消えていた。
瞳孔が開き気味の、虚無的で冷徹な眼差し。それは昨夜、時計塔で見せた「裏人格」――イノリのものだった。
「前の事件でも、彼女は敵に反撃できないままだったよ」
イノリの言葉は、事実だけを淡々と並べ立てる刃のようだった。
「あの時だって、結局俺がいなきゃ殺されてた。彼女は強いかもしれないが、それは『力』の話だ。あいつらのような卑劣な罠や、人質を使った盤外戦術の前では、脆い」
「それは……」
李は言葉に詰まった。
反論できなかった。イノリの言う通りだ。精衛は高潔すぎる。正面からの戦闘なら無敵に近いかもしれないが、搦手を使われ、善意や愛情を利用されると、途端に弱くなる。
昨夜もそうだ。彼女は自らの力を誇示することなく、祈と願を守るために無力な少女を演じ、自ら檻に入った。
「……あいつらは、それを知っている」
イノリは氷のような声で続けた。
「精衛の優しさを、弱点としてしゃぶり尽くすつもりだ。……俺が、もっと早く決断していれば」
イノリは自分の掌を見つめた。昨夜の戦いの感触、殴った相手の骨が砕ける感覚がまだ残っている。
「俺が最初から全員殺すつもりで突っ込んでいれば、こんなことにはならなかった」
その言葉には、自分自身への激しい怒りと、人としての平穏を捨て去ろうとする危うい覚悟が滲んでいた。
李は静かに息を吐き、祈の肩を強く掴んだ。
「……自分を責めるな、なんて言っても無駄なのはわかってる。だが、早まるなよ」
李の声は真剣だった。
「今、大先輩が冷静さを欠いて自爆特攻なんかしたら、それこそ精衛さんの覚悟が無駄になる。……俺たちはチームだ。まずは、相手の喉元に食らいつくための牙を研ごう」
イノリは数秒間、李の手を見つめ、やがてゆっくりと頷いた。
「……ああ。わかってる」
リビングの時計がボーン、ボーンと八時の鐘を鳴らす。
日常を告げるはずのその音は、彼らにとって開戦のゴングに他ならなかった。
一方――。
湿った冷気が漂う、陰鬱な空間。
どこかの地下施設だろうか。コンクリート剥き出しの壁は薄汚れ、天井から垂れ下がった裸電球が、頼りない光を投げかけている。
その中央、禍々しい朱色の呪符が何枚も貼られた鉄格子の牢の中に、精衛は繋がれていた。
両手両足には、魔力を吸収する特殊合金の枷が嵌められている。白い手首は赤く腫れ上がり、痛々しい痕を残していた。
だが、彼女は床に崩れ落ちてはいなかった。
背筋を伸ばし、冷たいコンクリートの上に正座している。乱れた黒髪の隙間から覗く瞳は、決して屈服の色を見せていない。
ガチャリ、と重い金属音がして、鉄格子が開けられた。
入ってきたのは、昨夜のリーダー格の男――ではなく、黒いスーツに身を包んだ下級の構成員だった。手には水の入った粗末なプラスチックのコップを持っている。
彼は精衛の美しさに目を奪われ、下卑た笑みを浮かべた。
「へへっ……近くで見ると、すげえ美人だな」
男は水を床に置くと、その手で精衛の頬に触れようとした。
「ククク、女媧様の使者も、地に落ちればただの女だな。今のうちにちょっとくらい味見しても……」
精衛は、ピクリとも動かなかった。
ただ、その瞳だけをゆっくりと男に向けた。
「……!」
男の動きが止まる。
その視線には、明確な「拒絶」と、虫けらを見るような冷然たる「侮蔑」が含まれていた。
「何だその目は……!俺たちは勝者だぞ! 捕虜の分際で……」
男が逆上し、精衛の髪を掴もうと手を振り上げた、その時だった。
「――汚い手で触るな」
暗闇の奥底から、絶対零度の冷気が吹き荒れるような声が響いた。
「ヒッ……!?」
男は感電したかのように飛び上がり、その手が空中で凍りついたように硬直した。
声の主は、闇の中にいた。
姿は見えない。だが、その声が発せられた瞬間、空間の圧力が変わった。空気が鉛のように重くなり、呼吸するだけで肺が軋むような、圧倒的な威圧感。
それは単なる恐怖ではない。生物としての格が違う存在に対する、本能的な畏怖。
男は顔面蒼白になり、震える膝を抑えきれずにその場に土下座した。
「……きょ、恐縮いたしました、大方様!!」
額をコンクリートに擦り付ける男を、精衛は無言で見つめていた。
彼女にも、その人物の姿は見えない。
だが、その声色は――。
低く、厳かで、それでいてどこか艶を含んだ、底知れぬ響き。
(……まさか)
精衛の背筋に、悪寒に似た感覚が走った。
この声を、知っている気がする。遠い記憶の底、数千年の時を超えて、魂に刻み込まれているような不吉な既視感。
それは、遥か彼方の時代――。
世界がまだ混沌と秩序の狭間にあり、人と神の境界が曖昧だった頃の話だ。
当時、精衛はまだ「精衛」という名の鳥ではなく、「女娃」と呼ばれる一人の人間の娘だった。
父は炎帝。大地を統べる偉大な王の末娘として愛されていた彼女だが、その本質は、花を愛し、風と戯れる無垢な少女に過ぎなかった。
そして、彼女には一人の少年の許嫁がいた。
名を「陽」。
村を治める小首領の息子であり、炎帝もその幼いながらに宿る正義感と勇気を認め、愛娘の伴侶として彼を選んでいた。陽もまた、女娃と同じ十歳ほどの子供だったが、その双眸には海のような深みと、太陽のような屈託のない明るさを宿していた。
二人は、大人たちが決めた「許嫁」という運命を、窮屈な鎖ではなく、互いを結びつける温かな絆として無邪気に受け入れていた。
白い砂浜。寄せては返す波の音。
そこは、二人にとって世界で一番輝かしい遊び場だった。
「ははっ、冷たい!」
「ふふ、お返しです!」
何も隔てるもののない二人の体は、太陽の下で黄金色に輝いていた。互いに水を掛け合い、全身ずぶ濡れになって笑い合う。
陽の肌は健康的な小麦色で、女娃の肌は真珠のように白く濡れそぼっている。
「女娃、捕まえてごらんなさい!」
陽が白い歯を見せて笑い、波打ち際を駆ける。
女娃は濡れた髪をかき上げ、負けじと彼を追いかけた。足元の砂がくすぐったく、飛び散るしぶきが宝石のようにキラキラと視界を彩る。
「待って、陽! 速いわ!」
「へへん、僕に追いつくには百年早いよ!」
息を切らして砂浜に倒れ込むと、陽は小さな手を開いてみせた。そこには、桜色をした美しい貝殻が乗っていた。
「これ、あげる。女娃に似合いそうだったから」
「わあ……綺麗……」
女娃は目を輝かせ、その貝殻を宝物のように両手で包み込んだ。父である炎帝から贈られるどんな高価な装飾品よりも、陽が拾ってくれたこの小さな貝殻の方が、彼女にとっては価値があった。
二人は肩を並べて水平線を見つめた。陽の温もりが隣にあることが、世界の理であるかのように自然だった。
陽はよく、水平線の向こうを睨みつけて言ったものだ。
「僕は強くなるよ。父上みたいに、みんなを守れる立派な首領になるんだ」
「陽ならなれるわ。だって、誰よりも優しいもの」
「優しさだけじゃダメなんだ。仲間がピンチの時に『見捨てるわけにはいかない!』って、体を張れる強さがなきゃ」
それが彼の口癖だった。幼いながらも、彼の背中には確固たる信念の萌芽があった。
しかし、至福の時間は長くは続かない。残酷な運命の歯車は、すでに音もなく回り始めていた。
ある日、海を支配する龍宮からの使者が村に来訪した。
彼らが要求したのは、理不尽極まりない「生贄」だった。海の荒ぶりを鎮める対価として、罪もない村の娘を一人、海の神に捧げよというのだ。
選ばれたのは、女娃とも親しくしていた心優しい村娘だった。
村は悲嘆に暮れたが、強大な神の力を持つ龍族に逆らえる者はいなかった。大人たちは顔を伏せ、無力に涙を流すしかなかった。
だが、陽は違った。
「ふざけるな! どうして罪のない子が死ななきゃいけないんだ!」
小さな拳を握りしめ、陽は叫んだ。大人たちが止めるのも聞かず、彼は女娃の手を引いて浜辺へと走った。
そこには、生贄を受け取りに来た龍宮の息子――「龍太子」の姿があった。彼もまた子供の姿をしていたが、その全身からは人間を見下す傲慢な覇気が立ち昇っていた。
「やめろ! その子を返せ!」
陽は龍太子の前に立ちはだかった。
龍太子は、足元の蟻を見るような冷徹な目で陽を見下ろした。
「矮小な人間風情が、神の行いに口を挟むか。人間など、我ら龍族にとっては家畜も同然。支配され、搾取されるのが貴様らの運命だ」
「人間は家畜じゃない!仲間だ!」
「陽、いけません!」
女娃も声を上げたが、激高した陽は龍太子に石を投げつけた。
それが、決定的な引き金となった。
「……不敬な」
龍太子が指先を振るうと、海面が爆発した。
巨大な水の塊が鞭のようにしなり、陽と女娃を襲った。
「きゃああっ!?」
「女娃ッ!!」
女娃の体が宙を舞う。彼女は龍太子の不意打ちによって、荒れ狂う冷たい海へと突き落とされた。
視界が青に染まる。息ができない。塩辛い水が気管に入り込む。
薄れゆく意識の中で、浜辺で叫ぶ陽の姿が見えた。
そして、連れて行かれる村娘の、絶望に満ちた泣き顔も。
(嫌……。こんなの、嫌……!)
死への恐怖よりも、理不尽への憤怒が女娃の魂を焼き尽くした。
愛する人を、友を、ただの気まぐれで奪う海なんて、なくなってしまえばいい。
その激しい情念が、彼女の肉体を変質させた。
人の形が崩れ、極彩色の羽根が生え、鋭い嘴と爪を持つ鳥へと――「精衛」へと、彼女は生まれ変わったのだ。
『精衛! 精衛!』
鳥となった彼女は、小石や枝を咥えては海へと落とし始めた。この憎き海を、一粒残らず埋め立ててやるという呪いのような執念で。
一方、浜辺に残された陽は、最愛の許嫁が異形の鳥へと変わり果て、海に呑まれていく光景を見て、魂が引き裂かれるほどの絶叫を上げた。
「うあぁぁぁぁぁッ!!」
理性が消し飛ぶ。恐怖も消え失せる。
残ったのは、純粋な殺意と、愛する者を守れなかった己への慟哭。
「許さない……お前だけは、絶対に許さないッ!!」
陽は腰に差していた粗末な短剣を抜き、海神の息子へ突進した。
勝ち目などあるはずがない。神と人、天地ほどの力の差があった。
それでも彼は、引かなかった。
「仲間を見捨てるわけにはいかないんだよォォッ!!」
バシュッ。
龍太子の振るった水の刃が、陽の体を深々と切り裂く。鮮血が砂浜を赤く染めた。
それでも陽は倒れず、血反吐を吐きながら龍太子の足に噛み付いた。
「しつこい虫だ」
龍太子は顔をしかめ、瀕死の陽を蹴り飛ばした。
陽は砂の上に転がり、動かなくなった。視界が霞む。命の灯火が、嵐の中の蝋燭のように消えようとしている。
(女娃……ごめん……守れ、なかっ、た……)
薄れゆく意識の縁で、陽は虚空に手を伸ばした。
そこには創造の女神――女媧への祈りがあった。
「女媧様……どうか、見ていてください……理不尽な裁きを……許さないでください……」
その、魂を削り出した最期の祈りは、天界に届いた。
カッ――!!
天空が割れ、五色の光が降り注いだ。
万物の母、女媧神の顕現である。
「……哀れな子らよ」
女媧の威光の前に、傲慢だった龍太子ですら震え上がり、平伏した。
女神は、鳥となって海を埋めようとする精衛の妄執と、命を賭して理不尽に抗った陽の勇気をご覧になり、深く心を痛められた。
「龍太子よ。お前の傲慢さが招いた悲劇、もはや見過ごせぬ」
女神の断罪が下った。
龍太子はその神通力を封じられ、彼が支配していた広大な領地――後の華北平野一帯を没収されるという厳罰に処された。
そして、女神は瀕死の陽と、鳥となった精衛の方を向いた。
愛を司る女神として、あまりに過酷な二人の運命を不憫に思われたのだ。
「定めにより、一度失われた人の命を蘇生させることは我ら神々にも許されぬ。だが……」
女媧は、鳥となった精衛をその掌で優しく包み込んだ。
「そなたを我が使者として迎えよう。永遠の時を生き、理不尽を正す『精衛』として」
精衛は不老不死の神鳥となり、人の姿と鳥の姿を行き来する力を得た。
そして、息絶えようとしている陽の額に、女神は口づけをした。
「勇敢なる人の子よ。そなたには、転生の輪を与えよう。記憶を失い、姿を変え、幾度生まれ変わろうとも……そなたの魂の高潔さは決して消えぬ」
「……いつか、運命の輪が再び巡り会うその時まで」
精衛は、光の粒子となって消えていく陽の魂を見送った。
涙は出なかった。ただ、胸の奥に、永遠に消えない熾火が灯った。
『待ってる……陽。何千年かかっても、必ずあなたを見つけ出す』
『もう二度と、理不尽な力であなたを失ったりはしない』
その誓いこそが、彼女を数千年の孤独な旅へと駆り立てる原動力となったのだ。
「――もう、二度と繰り返さない」
地下牢の冷たい空気の中で、精衛の心は数千年の時を遡っていた。
かつての「女娃」の死。そして、不条理な暴力に対する激しい憤怒。眼の前に立ちはだかる今の敵――声だけの存在である「大方様」が放つ気配は、あの時、私と陽を海に沈めた高慢な龍族のそれと酷似している。
(やっぱり、あなたたちなのね……)
精衛は闇を睨みつけた。だが、その瞳に絶望の色はない。
記憶の底から、温かな光景が蘇る。
それは、すべてを失い、鳥の姿となって彷徨っていた私を救ってくれた、女媧様の神殿での日々だ。
天空の彼方にある神殿は、いつも静謐な光に満ちていた。俗世の穢れなど存在しない、美しく無垢な世界。
「精衛や、これで良いのだよ」
女媧様は、まだ人間の言葉を話せず、ただピィピィと鳴くことしかできなかった私の頭を、慈愛に満ちた御手で撫でてくださった。その温もりは、遠い日に失った母のそれに似ていた。
「そなたの怒りも、悲しみも、すべて私が預かろう。その代わり……そなたはこの空から、人の世を見守りなさい。理不尽な力に涙する者がいたら、その翼で風を起こし、助けてあげるのです」
「……はい、女媧様」
私は心の中で深く頭を垂れた。
それからの数千年は、果てしない旅だった。神殿で修行を積み、風を操る術を学び、時折下界を見下ろしては、何度も生まれ変わり、記憶を失ったまま懸命に生きる「陽」の姿を探した。
彼はある時は農夫として、ある時は兵士として、またある時は名もなき詩人として生きていた。
私は決して干渉することは許されなかった。ただ、彼が理不尽な運命に押しつぶされそうになった時、そっと追い風を吹かせて背中を押すことしかできなかった。
(ずっと……待っていたの)
精衛は瞼の裏で、あの日の誓いを反芻する。
『もう誰も、理不尽な力で失いたくない』
その想いは、長い年月を経て風化するどころか、ダイヤモンドのように硬く結晶化していた。
そして今、私の目の前には、再び高慢な悪意が立ちはだかっている。
(でも……今回は違う)
精衛は拘束された両手にぐっと力を込めた。金属の枷がガチャンと音を立てる。
かつてのように、私は一人ではない。無力な少女でもない。
(私には、祈がいる)
今の祈は、ただの守られるだけの存在ではない。共に戦い、背中を預けられる、魂の片割れだ。彼となら、過去のどんな苦難も、運命さえも超えていける。
「祈……聞こえる?」
精衛は声に出さず、心の中で呼びかけた。
彼女を縛り付けている呪符は、外部への魔力発信を遮断する強力なものだ。だが、完璧な壁など存在しない。敵の監視が緩んだ一瞬の隙を突き、彼女は指先だけで複雑な印を結ぶ。
術式の改竄。
拘束のための魔力回路を僅かにショートさせ、そのノイズに自分の波長を乗せる。蜘蛛の糸よりも細く、脆い通信線だが、魂で繋がった彼になら届くはずだ。
(お願い……届いて!)
精衛の祈りは、暗い地下牢を抜け、遥か彼方の光へと飛んでいった。
一方、林家のリビング。
カチ、コチ、カチ、コチ。
時計の針の音だけが響く静寂を破るように、祈の喉から鋭い呼吸音が漏れた。
「――っ!」
祈はバッと顔を上げ、ソファから身を乗り出した。
心臓が、早鐘を打っている。全身が燃えるように熱い。だが、それは風邪の熱ではない。魂の奥底から湧き上がる、膨大なマグマのような感情の奔流だ。
リビングの景色は変わっていない。朝日は変わらず埃を照らし、姉の寝息も聞こえる。
だが、祈の頬を伝う熱い雫だけが、今見たものが単なる夢想ではないと告げていた。
「僕は……精衛の許嫁だったんだ……」
祈は震える右手で、自分の胸を強く押さえた。
そこにある鼓動は、数千年前、浜辺で龍太子に切り裂かれた時と同じリズムを刻んでいる。
海に沈んでいく幼馴染への絶叫。自分の非力さへの絶望。そして、薄れゆく意識の中で立てた、血の誓い。
『仲間を見捨てるわけにはいかない』
『次は、絶対に守る』
その想いが、林祈という人格と完全に融合し、欠けていたパズルの最後のピースが埋まったような感覚が全身を貫いた。
恐怖は消えた。迷いも消えた。
祈は涙を乱暴に拭い、立ち上がった。まだ充血の残るその瞳には、かつての少年「陽」が持っていた、海よりも深く、太陽よりも熱い決意の光が宿っていた。
「待っててくれ、精衛」
祈は拳を握りしめる。
「もう迷わない。……運命なんて、僕が書き換えてやる」
その時だった。
チリリ、と脳内の神経が粟立つような感覚があった。
微かだが、確かに感じる。自分を呼ぶ声。助けを求める波動。
『祈……』
誰のものかなど、考えるまでもない。
「……大先輩?」
隣にいた李が、祈の異変に気づいて眉をひそめた。「おい、まさか……」
「そこか!」
祈は李の制止を聞き入れなかった。
彼は虚空を睨みつけ、右手を突き出した。座標は特定した。距離など関係ない。
空間を捻じ曲げるほどの魔力を一気に解放し、祈の身体が光の粒子となってその場から消失する。
「ちょっ、おい待て!!」
李の叫び声だけが、空っぽになったリビングに残された。
地下倉庫の淀んだ空気が、一瞬にして爆発した。
ドォォォォンッ!!
「なっ!?」
「ぐわぁッ!!」
精衛を囲んでいた見張りの男たちが、突如発生した衝撃波で吹き飛ばされ、壁に叩きつけられた。
もうもうと舞い上がる土煙。その中心に、一人の少年が着地していた。
「き、祈……!」
精衛が目を見開く。
煙の中から現れた祈は、鬼神のような形相をしていた。だが、その視線が精衛を捉えた瞬間、僅かに安堵の色が混じる。
「遅くなった」
祈が短く告げるのと同時に、精衛は反射的に身を翻し、祈の背後へと滑り込んだ。言葉はいらない。この配置こそが、二人の最強の陣形だ。
「な、何だ貴様は……どこから入ってきやがった!」
生き残った見張りたちが、慌てて武器を構える。
だが、彼らは気づいていない。自分たちがもはや、捕食者ではなく獲物になっていることに。
「盾は、消えた」
祈が静かに呟いた。
人質の姉はいない。精衛は自分の背後にいる。守るべきものが確保された今、彼を縛るものは何もない。
「消えろ」
祈の姿がブレた。
ドスッ、ガッ、バキッ。
音が、動作に遅れて聞こえてくる。
それは戦闘ですらなかった。一方的な掃除だ。祈の拳が、蹴りが、正確無比に急所を捉え、男たちの意識を刈り取っていく。
「用済みだ」
最後の男が崩れ落ちるまで、十秒とかからなかった。
静寂が戻った倉庫。
祈は荒い息を吐きながら、周囲を警戒した。
「……いない」
あの気配。精衛を玩具のように扱おうとしていた、暗闇の声の主。
「大方様」と呼ばれていた存在の気配は、イノリが現れた瞬間、霧のように消滅していた。
「逃げたか……」
舌打ちをする祈。だが、深追いは危険だ。今は精衛の安全確保が最優先だ。
祈は背後の精衛に向き直った。
彼女はまだ枷を嵌められたまま、小さく震えていた。服は薄汚れ、頬には擦り傷がある。だが、その瞳は真っ直ぐに祈を見つめていた。
「祈……来てくれたのね」
精衛が微笑もうとした、その時。
「馬鹿野郎!!」
祈の怒声が、倉庫中に響き渡った。
「ひゃっ!?」
精衛が肩をびくりと震わせる。
「無茶なことするなよ!自分の身を囮にして、相手の懐に飛び込むなんて……!もし失敗したらどうするつもりだったんだ!死にたかったのか!?」
祈は精衛の肩を掴み、激しく揺さぶった。
その目には、怒りよりも深い、恐怖の色が滲んでいた。もう二度と失いたくないという、魂の叫び。
精衛は目を丸くし、次第にシュンと小さくなった。神獣としての威厳など欠片もなく、まるで悪いことをして親に叱られた子供のようだ。
「ご、ごめんなさい……。でも、そうしないと願さんが……」
「それでもだ! お前がいなくなったら、俺は……!」
祈は言葉を詰まらせた。
目の前で、精衛が今にも泣き出しそうな顔で俯いている。その頼りなげな姿を見て、祈の頭に上った血が急速に引いていく。
彼女も必死だったのだ。かつての悲劇を繰り返さないために、彼女なりに考え、勇気を振り絞った結果なのだ。
(……俺は、何を怒ってるんだ)
祈は大きなため息をついた。
「……すまん。今の無し。言いすぎた」
「え……」
「血が頭に行き過ぎてた。……無事で、よかった」
祈は掴んでいた肩から手を離すと、そのままそっと、精衛の小さな体を抱きしめた。
「あ……」
「怖かっただろ。ごめんな、遅れて」
祈の腕に力がこもる。温かい。そして、力強い心音が伝わってくる。
精衛の瞳から、堪えていた涙が溢れ出した。
「ううん……怖くなかったよ。祈が来てくれるって、信じてたから……」
精衛は祈の背中に腕を回し、顔を彼の胸に埋めた。
「バカだなぁ、お前は……」
祈は苦笑しながら、彼女の絡まった髪を優しく撫でた。
倉庫の薄暗い照明の下、二人の影が一つに重なる。
「帰ろう、精衛。みんなが待ってる」
「うん……。帰ろう、私たちの家に」
祈は精衛の手枷を引きちぎると、彼女の手をしっかりと握りしめた。もう二度と離さないと誓うように。
願の誘拐事件は、ひとまずの収束を迎えた。
だが、逃げ去った「大方様」の正体、そして「神狩り」との本当の戦いは、まだ始まったばかりであることを、二人は予感していた。
それでも、繋いだ手の温もりがある限り、恐れるものは何もないと、かつての少年と少女は確信していた。
第七話までお読みいただきありがとうございます! いかがでしたでしょうか?
今回は、女娃と陽の悲劇的な過去から、現代での再会、そして完全覚醒までを描きました。記憶を取り戻した二人が、繋いだ手の温もりを確かめ合うシーンは、物語の大きな節目となります。
願の誘拐事件はひとまず解決しましたが、「大方様」は逃亡しました。第八話は、戦いの合間の日常と、今後の戦いの資金問題、そして新たな協力者の登場です。引き続き、応援よろしくお願いいたします!




