伍 守るべき魂
どうも、作者です。第五話の始まりです。今回は、第四話で少し触れた過去の因縁に深く切り込んでいきます。精衛の病、そして「薬王」孫慈恩の登場が、物語を大きく動かします。タイトル通り、祈が「守るべき魂」とは何なのか、彼の決意と共にご覧いただければ幸いです。
窓の外はまだ薄暗く、静寂が支配していた。
街灯の光さえ届かない刻限。世界は青灰色のベールに包まれ、鳥の声もまだ聞こえない。
祈は、ふと首筋にへばりつくような、尋常ではない熱さを感じて目を覚ました。
暖房の熱ではない。もっと生々しく、湿り気を帯びた熱源が、すぐ隣にある。
(精衛……?)
祈は重いまぶたを擦り、寝返りを打って隣を見た。
そこにあった光景に、寝惚け眼が一瞬で覚醒する。
「ん……うぅ……」
苦悶の声を漏らしている精衛が、祈の腕の中に――あろうことか、自ら潜り込むようにして丸まっていた。
狩人事件以来、身寄りのない彼女は林家で同居している。これは「神狩り」から身を守るための安全措置であり、有事の際に祈が魔力を供給できるよう、物理的な距離を置かないという「契約」上の条件でもあった。
普段はベッドの両端に別れ、背中合わせで眠っているはずだ。だが今、彼女の柔らかな肢体は祈の胸板に押し付けられ、乱れた呼吸のたびに上下する感触がダイレクトに伝わってくる。
(な、なんで……どうして俺はこれほど理性を保っていられるんだ……?)
祈は自問し、喉を鳴らした。
健康な男子高校生だ。朝方の生理現象も相まって、美少女が腕の中にいるという状況に反応しないわけがない。全身の血流が早まり、心臓がドクドクと嫌な音を立てているのが自分でもわかる。
だが、それ以上に――祈の心を占めていたのは、奇妙なほどの使命感だった。
彼女は今、明らかに弱っている。
普段は勝ち気で、数千年の時を生きた誇り高い「仙女」として振る舞う彼女が、今はただの風邪を引いた幼子のように身を寄せている。
彼女は異世界の住人だ。その神秘性、あるいは彼女が背負う悠久の孤独のようなものが、祈の中にある「男性としての劣情」の首根っこを掴み、強引に抑え込ませていた。
この無防備さは、彼女が無意識下で祈を信頼しきっている証拠だ。その信頼を裏切るような真似は、祈の朴訥な、ある種不器用な誠実さが許さない。
「精衛!」
祈は邪念を振り払うように頭を振り、精衛の肩を揺すった。肩越しに触れた肌は、火傷しそうなほど熱い。
「……よう……陽、いかないで……」
精衛はうわ言のように、記憶にある名を呟き、さらに強く祈のTシャツを掴んだ。その指先は白く変色するほど力が篭もっている。
祈は意を決して、精衛の前髪をかき上げ、自分自身の額を彼女の額に押し当てた。
ジッ、と音がしそうなほどの高熱が伝導する。
精衛は神体となった存在だが、その霊基の格はまだ人間に近い。人間と同じように発熱し、苦痛を感じる生理機能が色濃く残っているのだ。
「精衛、聞こえるか? ……っ、ひどい汗だ」
祈は身を起こし、サイドテーブルのランプをつけた。
薄暗がりがオレンジ色に照らされ、精衛の姿が鮮明に浮かび上がる。
その姿に、祈は再び息を呑んだ。
苦しさでのたうち回ったせいだろう。大きめのパジャマの襟元が大きくはだけ、鎖骨からその下のなだらかな膨らみにかけて、玉のような汗がびっしりと浮いている。
白い肌は熱で上気し、熟れた桃のように桜色に染まっていた。
パジャマの裾もめくれ上がり、引き締まった腰のラインと、太腿の内側の白い肉感があらわになっている。そこにも、じっとりと汗が光っていた。
「はぁ、はぁ……あつい……」
精衛が苦しげに身体をよじると、汗で濡れた布地が肌に張り付き、身体の曲線をいやらしいほど鮮明に浮かび上がらせた。
甘く、どこか花の蜜のような匂いが立ち上る。それはシャンプーの香りではない。彼女自身の体臭が、熱気によって濃厚に蒸散しているのだ。
祈の鼻腔を、その匂いがくすぐる。
視覚、嗅覚、そしてさっきまで触れていた柔らかな触覚。全てが祈の脳髄を直接刺激してくる。
(落ち着け……落ち着け、俺……! 今は看病だ、看病しなきゃいけないんだ!)
祈は必死で奥歯を噛み締め、下半身に集まりそうになる熱を、理性という名の壁で堰き止める。
放置すれば汗が冷えて余計に体力を奪う。拭かなければならない。
祈は震える手で、枕元にあったタオルを手に取った。
「失礼……するよ」
誰に言うでもなく呟き、祈は布団を少しめくった。
精衛のパジャマの裾を、恐る恐る持ち上げる。
露わになるへそ、そして柔らかな腹部。左脇腹には、まだ微かに赤い傷跡が残っている。
祈は固く絞ったタオルを、その熱い肌へと滑らせた。
「んっ……」
冷たいタオルが触れた瞬間、精衛がビクリと身を震わせ、艶めかしい声を漏らした。
祈の指先を通して、彼女の肌の弾力が伝わってくる。吸い付くようなきめ細かい肌。拭うたびに、指がわずかに肉に沈み込む感触。
汗を拭き取る摩擦音さえ、静寂の中ではひどく官能的に響いた。
(柔らかい……それに、やっぱり熱い……)
脇の下から胸の膨らみの下へタオルを通す時、祈の指が偶発的に豊かなふくらみの下部に触れた。
ドクンッ。
祈の心臓が早鐘を打つ。
柔らかさと重み。それは想像を絶する感触だった。
祈の喉が渇き、唾を飲み込む音が部屋に響きそうになる。
視線が、どうしても見てはいけない場所へと吸い寄せられそうになる。そのたびに、祈は頭の中で冷水を浴びる自分を想像し、必死に視線を傷跡のほうへと戻した。
これは治療だ。医療行為のようなものだ。そう自分に言い聞かせながら、祈は機械的な動作を心がけ、首筋、背中、そして汗で張り付いた太腿の内側を拭いていく。
匂いが強くなる。少女特有の甘い香りと、汗の酸味、そして熱の匂い。それが混然となって、祈の理性をガリガリと削っていく。
「……ふぅ……」
一通りの処置を終え、着替えさせるところまで何とかやり遂げた祈は、どっと疲れが出たようにベッドの脇へ座り込んだ。
額には、精衛に負けないくらいの脂汗が浮いている。
だが、安堵するのは早かった。
祈は救急箱から解熱剤を取り出し、水と一緒に精衛の口に含ませたが――状況は好転しなかった。
数十分経っても、熱は一向に下がる気配がない。
むしろ、精衛の呼吸はより浅く、速くなっている。肌の赤みも増し、まるで内側から何かに焼かれているようだった。
(ダメだ……人間界の薬は効かない!)
祈は戦慄した。
これはただの風邪じゃない。霊的な異常だ。
もしや、昨日の戦闘で受けた傷が、何らかの呪いの類だったのか? 祈の治癒能力では、表面上の傷しか塞げなかったというのか?
窓の外が白み始めた。
祈は決断する。このままでは精衛が危ない。
スマホを手に取り、まずは学校へ連絡を入れた。
「すいません、林です。……はい、急な体調不良で。僕と、同居人の精衛も……はい、二日間休ませてください」
通話を切り、すぐに連絡先リストをスクロールする。
指が止まったのは、昨日「連絡先交換だよ」と軽いノリでIDを教えてきた、あの男の名前だった。
『李宅』。
この異常事態に対処できるのは、人間界の理を知り尽くし、かつこちらの事情にも通じている彼しかいない。
祈は迷わず発信ボタンを押した。
コール音は、三回鳴って途切れた。
『やあ、おはよう林くん。早いね』
寝起きを微塵も感じさせない、食えない声が聞こえた。
祈はすがるような思いで、スマホを握りしめた。震える指でスマホの画面をタップし、スピーカーモードに切り替えた。両手は熱病に侵された精衛の体を支えるのに精一杯だったからだ。
「……李、助けてくれ。精衛の様子がおかしいんだ……!」
喉から絞り出した声は、自分でも情けないほど掠れていた。
精衛のパジャマ越しの体温は、もはや人体が発していい熱量を超えていた。抱きしめている祈の胸板までが火傷しそうなほど熱い。
『落ち着け、祈』
スピーカーから流れる李のアカペラのような声は、あまりにも冷静で、今のパニック状態の祈には逆に残酷に響いた。
『症状を詳しく話せ。熱は何度だ? 意識レベルは?』
「熱は……人間用の体温計じゃエラーが出るんだ、おそらく42度を超えてる。解熱剤も飲ませたし氷枕も使ったけど、まるで氷を溶鉱炉に放り込んだみたいに一瞬で溶けちまって……!」
祈は早口でまくし立てながら、ふと腕の中の精衛を見下ろした。
彼女は苦しげに眉を寄せ、浅く速い呼吸を繰り返している。その唇は乾燥してひび割れ、薄紅色の舌先が時折、水を求めるように覗く。
「うぅ……あつぅ……」
「精衛!?」
「陽……陽、どこ……いかないで……」
彼女の口から漏れたその名は、祈にとっては未知のものだった。だが、その響きには、魂の底から絞り出すような濃密な執着と哀惜が籠もっていた。
『「陽」……か』
李の声色が、ふっと変わった。
『恐らく、彼女の前世の許嫁だろう』
「いいなずけ……?」
『分かった。状況は把握した。やはりただの風邪じゃない。その症状は、俺たちの世界で言う『魂の疲弊』だ。霊基が不安定になり、過去の因果が肉体を蝕み始めている』
李は淡々と、しかし決定的な宣告を下した。
『人間界の医者や薬では治せない。病院に行っても、点滴を打たれて終わりだ。根本的な解決にはならない』
祈の目の前が真っ暗になった。腕の中の温もりが、急速に冷たい死体へと変わっていくような幻覚に襲われる。
「じゃあ、どうすれば……! このまま見殺しにしろって言うのか!?」
『怒鳴るな。手はある』
李が遮った。
『俺の知人に、人間界で天才医師として活動している者がいる。名は孫慈恩。表向きは大学病院の外科医だが、裏では仙道の医術にも通じている』
「孫……慈恩……」
『彼なら治せるかもしれない。ただし、彼は少々変わり者だ。それに、大学病院だからな。予約なしで行けば待たされるのは確実だ。覚悟しておけ』
「……! 行くよ。何時間待ったって構わない!」
祈は、藁にもすがる思いで叫んだ。
選択肢などない。この小さな命を繋ぎ止める糸があるなら、たとえ蜘蛛の糸だろうと掴むしかない。
『住所は送った。……急げよ』
「ありがとう、李。借りは後で返す!」
『フン、高くつくぞ』
通話が切れると同時に、祈はスマホを放り投げ、精衛を抱き上げた。
「精衛、頑張れ……! 今、助けてやるからな!」
意識が混濁している精衛は、祈の首に弱々しく腕を回し、小動物のように震えている。その白磁のような肌は、熱で内側から発光しているかのように艶めき、汗で濡れた前髪が額に張り付いていた。
祈はクローゼットから自分の厚手のコートを引っ張り出し、乱暴に精衛に被せた。彼女の小さな体が、男物のコートの中にすっぽりと埋もれる。
「行くぞ!」
祈は彼女を横抱きにしたまま、リビングへと飛び出した。
「祈、どこ行くの?」
キッチンから、エプロン姿の願が顔を出した。フライパンからベーコンの焼ける香ばしい匂いが漂っていたが、今の祈にはその日常的な匂いがひどく場違いに感じられた。
「姉さん! 精衛の様子がおかしくて、どうしても病院に連れて行かなきゃいけないんだ……!」
「えっ?」
願の目が、祈の腕の中でぐったりとしている精衛に釘付けになった。
コートの隙間から覗く精衛の顔は、熟れすぎた果実のような危険な赤みを帯びている。荒い息遣いが、リビングの静寂を切り裂いていた。
「……っ!」
願の表情が一変した。彼女は瞬時にエプロンの紐を解き、コンロの火を消した。
「タクシー探してる暇なんてないわね。私の車出すから、すぐ乗って!」
「え、でも……」
「早く! キー取ってくる!」
願の判断は早かった。彼女は廊下のキーボックスから車の鍵をひったくり、サンダル履きのまま玄関へと走った。
その背中を見て、祈は涙が出そうになるのを堪えた。
「あ、ありがとう、姉さん……!」
早朝の冷たく澄んだ空気の中、願の愛車であるSUVがエンジン音を響かせて走り出した。
後部座席。祈は膝の上に精衛の上半身を乗せ、その体を抱きかかえるようにして座っていた。
「んっ……はぁ、はぁ……」
車の振動が伝わるたびに、精衛が苦しげに眉を寄せる。
コートの中で、彼女の手が祈のシャツをギュッと掴んでいた。その力はあまりにも弱々しく、しかし縋る意志だけは痛いほど伝わってくる。
祈は精衛の前髪をそっと払い、その高熱を発する頬を掌で包み込んだ。
熱い。あまりにも熱い。まるで彼女の生命力が、制御できない炎となって燃え尽きようとしているかのようだ。
「……精衛」
普段の彼女を思い出す。
誇り高く、誰に指図されるのも嫌いな、神話の少女。
食堂でメニューに文句をつけていた時の不満げな顔や、風呂上がりに牛乳を一気に飲み干して「ふぅ」と息をつく満足げな顔。
そんな生き生きとした表情が、今は苦痛に歪められている。
無防備で、儚い。
今の彼女は、ガラス細工よりも脆く見えた。ちょっと強く抱きしめれば壊れてしまいそうで、けれど離せば消えてしまいそうで。
「寒い……よう……寒いよぉ……」
高熱のあまり、悪寒を感じているのだろう。精衛がガタガタと震え、さらに小さく丸まろうとする。
祈は自分の体温を分け与えるように、彼女をきつく抱きしめ直した。
「大丈夫だ、俺がいる。ここにいる」
「……きゅ……」
祈の体温に反応したのか、精衛が子猫に似た声を漏らし、祈の腹に顔を埋めた。
熱い吐息が、薄いシャツ越しに祈の皮膚を灼く。汗ばんだ彼女の匂いが、狭い車内に充満していた。それは病的なのに、酷く甘美で、祈の胸を掻きむしるような匂いだった。
(僕が……もっと強ければ)
悔しさが、奥歯の隙間から滲み出る。
記憶にはないが、あの廃校舎で、自分は確かに強大な力を使ったはずだ。敵を圧倒するほどの力を。
けれど、その力は今、何の役にも立たない。目の前の少女の熱一つ下げられない。
無力だ。
ただ彼女の苦しみを特等席で見せつけられているだけの、無力な傍観者。
「大丈夫よ、祈」
バックミラー越しに、願の声がした。運転に集中しながらも、その視線は心配そうに弟たちを見ている。
「あと十分くらいで着くから。精衛ちゃんの手、握っててあげて」
「うん……」
祈は精衛の冷たく湿った手を、両手で包み込んだ。
その小さな掌にある生命線が、途切れずに続いてくれることを、ただ神に――いや、神が敵ならば、もっと別の何かに祈るしかなかった。
(絶対に守る……。たとえ世界を敵に回しても、お前だけは、僕が守るからな)
その決意は、祈の中で一つの強固な核となって固まった。
病院の自動ドアが開いた瞬間、祈はなりふり構わず受付へと突進した。
「すみませんっ! 救急です! 孫慈恩先生をお願いします!」
早朝の待合室には、まだまばらな人影しかなかった。暖房の効いた空気の中に、消毒液と古い雑誌の匂いが漂っている。
受付の女性事務員が、祈の剣幕に驚いて顔を上げた。
「お、落ち着いてください。今日はどうされましたか?」
「熱があるんです!40度以上あって、意識も混濁してて……!李宅っていう人から、孫先生なら診てくれるって聞いて来ました!」
祈は精衛を椅子に座らせることもできず、抱きかかえたまま受付カウンターに身を乗り出した。彼の腕の中で、精衛が「うぅ……」と弱々しい呻き声を上げる。
事務員は精衛の顔色を見て表情を曇らせたが、すぐに「規則ですから」と言わんばかりの事務的な顔に戻った。
「孫先生は、現在回診中です。それに、当院は完全予約制の専門外来も多く……紹介状はお持ちですか?」
「紹介状なんてない! 今すぐ診てもらわないと、死んじゃうかもしれないんだぞ!」
「ですから、救急外来での受付順になります。まずは問診票にご記入を……」
「そんなの書いてる暇ないだろ!!」
祈の怒鳴り声が、高い天井のロビーに響き渡った。
周囲にいた数人の患者や見舞客が、ビクリとしてこちらを見る。好奇の目、あるいは迷惑そうな視線。
「祈、落ち着いて!」
駐車場から走ってきた願が、祈の肩を掴んで引き戻した。
「ここで暴れても精衛ちゃんは治らないわ。……すみません、弟が取り乱してしまって。問診票、私が書きますから」
願は手早く用紙を受け取り、ペンを走らせ始めた。
祈は唇を噛み締め、精衛を抱き直して、一番近くのベンチに腰を下ろした。
カチ、コチ、カチ、コチ。
壁掛け時計の秒針が、心臓を突くようなリズムで時を刻む。
一分が、一時間にも感じられた。
「はぁ……はぁ……」
精衛の呼吸音だけが、祈の世界の全てだった。
彼女の体温はさらに上がっている気がする。コートの下で、彼女の体は時折痙攣のように跳ねる。そのたびに、祈の心臓も跳ねた。
「……精衛、しっかりしろ……」
ベンチで縮こまる彼女は、あまりにも弱々しかった。
長い睫毛が濡れて束になり、涙の跡が頬に残っている。苦しいのだろう、無意識に祈の腕を掴む指が、爪を立ててシャツに食い込んでいた。
その痛みさえ、今の祈には救いだった。彼女がまだ生きている、まだ何かを掴もうとしている証だからだ。
(李のやつ……天才医師だか何だか知らないけど、患者をこんなに待たせるなんて……!)
焦燥感が、ドス黒い怒りとなって腹の底に溜まっていく。
もしこのまま精衛が死んだら。もし手遅れになったら。
この病院を壊してやる。そんな物騒で危険な思考が、一瞬頭をよぎるほど、祈は追い詰められていた。
「……あ……つぃ……みず……」
「精衛!? 水か? 待ってろ、今……」
祈が慌てて自販機の方を見ようとした、その時だった。
「……騒がしいですね」
凛とした、しかしどこか温かみのあるバリトンボイスが、頭上から降ってきた。
祈が顔を上げると、そこに一人の男が立っていた。
清潔な白衣を纏った、三十代半ばほどに見える男性。
白髪交じりの髪をオールバックにし、銀縁の眼鏡をかけている。その佇まいは、多忙な病院の中にいながら、そこだけ時間の流れが違うかのような静謐さを湛えていた。
「あなたが、李くんの言っていた祈くんですね」
男は穏やかな笑みを浮かべていたが、眼鏡の奥の瞳は、レントゲン写真のように鋭く祈――そして腕の中の精衛をスキャンしていた。
「……はい!」
祈は弾かれたように立ち上がった。
「彼女のことは、李くんから連絡を受けています。『魂の熱』……厄介なものを拾いましたね」
男――孫慈恩は、精衛の額に大きな手をかざし、ほんの数秒触れただけで、すべてを理解したように頷いた。
「ついてきなさい。ここでは処置できません」
孫は受付の方を一瞥もせず、職員専用の扉を開けた。
「え、でも、受付が……」
「私の患者だと言えば通ります。急ぎましょう。彼女の中の『過去』が、今にも『現在』を焼き尽くそうとしている」
その言葉の重みに、祈は背筋が凍った。
彼は精衛を抱き直し、迷うことなく孫の背中を追いかけた。
扉の奥、長く白い廊下が続いていた。
その先にあるのが希望なのか、それともさらなる絶望なのか。
祈の腕の中で、精衛が小さく、けれど確かに「……こわい」と呟いたのが聞こえた。
「大丈夫だ、精衛。僕がついてる」
祈は、処置室への長い廊下を歩きながら、震える精衛の体を更に強く抱きしめ直した。コート越しに伝わる彼女の体温は、もはや焼きごてのようだ。彼女の苦悶の息遣いが、祈の鼓膜を直接震わせる。
「うぅ……」
「もうすぐだ。もうすぐ楽になるから」
祈の声に応える余力すらないのか、精衛はただ、熱に浮かされた目で虚空を彷徨わせていた。
通された部屋は、無機質な冷たさに満ちていた。壁は白一色で統一され、中央には手術用ライトが目を刺すような輝きを放っている。周囲には心電図モニターや人工呼吸器と思しき最新鋭の医療機器が並び、規則的な電子音だけが静寂を刻んでいた。
「そこに寝かせて」
孫慈恩は白衣の裾を翻し、中央の処置台を指し示した。
祈は慎重な手つきで、壊れ物を扱うように精衛を台の上に横たえる。硬い台の冷たさに触れた瞬間、精衛が不快げに身をよじった。
孫は表情一つ変えず、手際よく精衛の首元に聴診器を当てた。
「失礼」
短い言葉と共に、彼は精衛の身に纏わせていた祈のコートを取り払い、汗で濡れたパジャマの前ボタンを迷いなく外していく。
祈は一瞬、息を呑んで目を逸らそうとした。だが、孫の手つきには、いかなる邪念も介在していなかった。それは熟練の時計職人が壊れた精密機械を分解するかのように、正確で、無駄がなく、徹底して無機質だった。
露わになった精衛の胸部は、激しい呼吸に合わせて波打っている。孫はその白い肌に直接指を這わせ、鎖骨の下、肋骨の隙間、そして腹部へと触診を進めていく。
「皮膚温異常上昇。脈拍、毎分140。瞳孔散大、対光反射遅延……」
彼は淡々と数値を読み上げながら、精衛の瞼を指で押し上げ、眼底ライトで瞳の奥を覗き込んだ。その銀縁眼鏡の奥にある瞳は、肉体という物質を通して、もっと奥にある「何か」を見透かしているようだった。
「……やはり、『魂の疲弊』か」
孫はライトを消し、ポケットにしまった。そして初めて、祈の方を向いた。
「彼女は人間ではありませんね」
それは質問ではなく、確認だった。
「そして、あなたのことも李くんから聞いています。あなたは彼女の『契約者』であり、神力の供給源であると」
祈は、李がどこまで話したのかを察し、黙って頷いた。今更隠し立てすることに意味はない。
「この症状は、ウイルスや細菌によるものではない。人間界の医学の投薬治療では、一時的に数値を下げることはできても、根本的な解決にはなりません」
孫は精衛の額に置いた手を離さずに言った。
「彼女の魂の中核……霊的な心臓部と言い換えてもいいでしょう。そこが、過去のトラウマによって傷つき、自己防衛本能が暴走して魔力を制御できなくなっている。肉体がその熱量に耐え切れず、悲鳴を上げている状態です」
「トラウマ……?」
「ええ。おそらく、何らかのきっかけで古い記憶の封印が緩んだのでしょう」
「じゃあ、どうすれば……」
祈の膝から力が抜けそうになる。医学が通用しないなら、素人の自分に何ができるというのか。
「私に任せなさい」
孫の口元に、初めて微かな笑みが浮かんだ。それは医師としての自信と、仙道の術者としての余裕が混ざり合ったものだった。
「私はこれでも、魂の縫合を得意としていましてね。少し、特殊な術式を用いることになります」
彼は処置台の脇にある無影灯のスイッチに手をかけた。
「君は、外で待っていてくれるかな? ……術式には集中力が必要なのです。それに、他者の気配があると、彼女の魂が拒絶反応を示すかもしれない」
「……わかりました」
祈は数秒だけ躊躇したが、孫の静かな瞳を見て、彼に全てを委ねるしかないと悟った。
祈は精衛の枕元に寄り、汗ばんだ彼女の髪をそっと撫でた。
「すぐ戻るからな。頑張れよ、精衛」
祈が部屋を出ていく背中を見送り、扉が閉まる重い音が響くと、孫慈恩の表情から一切の感情が消え失せた。
彼は懐から数枚の呪符を取り出し、精衛の四肢の周囲に配置した。
「さあ、始めましょうか。数千年の迷子を、連れ戻す作業を」
祈は、処置室の外にある硬いプラスチックのベンチに腰を下ろした。
廊下は静まり返っている。遠くでナースコールが鳴る電子音が聞こえるが、この一角だけは世界から切り離されたように静かだった。
祈は両手を組み、祈るように額を押し付けた。
(何もできない……また、何もできないのか……!)
自分の無力さが、泥のように胸の底に沈殿していく。彼女が苦しんでいる時に、手を握ることさえ許されない。ただ待つことしかできない時間は、拷問のように長く感じられた。
十分が過ぎたか、一時間が過ぎたか。時間感覚が麻痺し始めた、その時だった。
ドクン。
祈の心臓が、不自然に強く脈打った。
(……え?)
自分の鼓動ではない。もっと深く、魂の根幹が震えるような感覚。
扉一枚隔てた向こう側から、波紋のように広がってくる「想い」の波動。契約者としての経路を通じて、精衛の魂の叫びが奔流となって流れ込んでくる。
視界が歪む。病院の白い廊下が、墨汁を垂らしたように黒く滲み、そして鮮やかな色彩へと塗り替えられていく。
祈の意識は、肉体を離れ、数千年の時を超えた記憶の海へと引きずり込まれていった。
そこは、華やかな喧騒と頽廃が同居する都、長安。
極彩色の提灯が夜空を埋め尽くし、酒と香の匂いが風に乗って漂っている。
盛唐――否、今は周と呼ばれる時代。
女帝・武則天が絶対権力者として君臨し、その甥である武三思が権勢を振るう、光と闇の時代。
その都の片隅にある酒楼の二階で、一人の少女が琵琶を奏でていた。
「――♪ 雲想衣裳花想容(雲には衣裳を想い 花には容を想う)……」
少女の名は彩華。
年の頃は十四、五ほどか。未だあどけなさを残す容貌だが、その瞳には年齢不相応な理知と憂いを湛えていた。
彼女は人間ではない。女媧の命を受け、この都に巣食う「神狩り」の動向を探るために遣わされた監視者――精衛の仮の姿だ。
歌い終えた彼女が顔を上げると、客席の隅で一人の青年が、うっとりと聞き惚れていた。粗末な文人服を着ているが、その顔立ちは涼やかで、瞳は澄んだ湖のように穏やかだった。
「素晴らしい……。君の歌声には、春風のような温かさと、秋風のような寂寥がある」
青年は、名を李遠といった。
政治的な野心を持たず、ただ市井の人々の暮らしを詩に詠むことを好む、貧しい詩人だった。
「大袈裟なお方ですこと」
彩華はふふっと笑い、彼の卓に相席した。
「ただの流行り歌ですよ」
「いいや、君の声には魂がある。……今のこの都には欠けている、真実の響きだ」
李遠は卓上の杯を傾け、窓の外に広がる長安の夜景を苦々しげに見つめた。
「華やかに見えるが、この都の土台は腐敗している。武三思一派の専横、無実の者が次々と投獄される恐怖政治……。人々は口を噤み、権力者の顔色ばかりを窺っている」
彼の言葉は危険だった。壁に耳あり障子に目ありのこの時代、下手をすれば反逆罪に問われかねない。だが、彼の声には恐れよりも、純粋な義憤と悲しみが勝っていた。
「世の理不尽を、歌で少しでも正したいと思ったからです。言葉には、剣よりも鋭く人の心を動かす力があると、僕は信じている」
彩華は息を呑んだ。
彼女はこの都で、数多の人間を見てきた。欲に塗れた商人、保身に走る役人、快楽に溺れる貴族。
だが、この青年は違う。泥の中に咲く蓮のように、汚れることを知らない。
(……なんて無謀で、なんて綺麗な人)
神として人間の営みを俯瞰し続けてきた彩華の心に、初めてさざ波が立った。
「でしたら、李遠様。今度は貴方が詩を聞かせてくださいな。……私の歌などより、ずっと素敵な言葉を」
彩華は彼のために酒を注いだ。
それは、監視者と対象者という関係を超え、二つの魂が惹かれ合う始まりの夜だった。
それからというもの、二人は夜毎に酒楼で言葉を交わした。
政治の話、季節の移ろい、星の輝き。李遠の語る言葉は、彩華にとって人間界で最も美しい音楽だった。
決して肌を重ねることはなかった。指先が触れ合うだけで頬を染め、視線が絡むだけで心が満たされる。そんな淡雪のように儚く、清らかな日々。
だが、幸福な時間は長くは続かなかった。
武三思の背後で暗躍する黒い影――現代で言う「神狩り」を操る黒幕が、李遠の存在に気づいたのだ。
彼の詠む詩は、ただの嘆きではなかった。鋭い観察眼によって権力の矛盾を突き、民衆の間に静かな波紋を広げつつあった。そして、その詩の中に隠された暗喩が、無意識のうちに黒幕の陰謀の核心――神々の力を利用しようとする計画――に触れていたのだ。
「小癪な人間め……」
闇の中で、何者かが嘲笑った。
武三思への「圧力」はすぐさま実行に移された。
ある冷たい雨の降る夜、酒楼に甲冑を着た兵士たちが雪崩れ込んできた。
「反逆者、李遠! 並びに歌女、彩華! 貴様らに武三思様への不敬、および国家転覆の疑いがかかっている!」
怒号と共に、卓が蹴り倒される。
「逃げてください、彩華!」
李遠は咄嗟に彩華を庇おうとしたが、暴力的な数の前には無力だった。二人は荒縄で縛られ、泥濘の中を引きずられていった。
連行された先は、光の差さない地下牢だった。
処刑の日が決まるまで、そう時間はかからなかった。名宰相・狄仁傑や、詩人の駱賓王らが裏で助命嘆願に動いたが、武則天の恐怖心と、それを煽る黒幕の意思は固かった。
「賜死を命ず」
届けられたのは、勅命と、二つの毒酒だった。
牢の冷たい石床の上で、二人は向かい合った。
李遠の顔はやつれていたが、その瞳の輝きだけは失われていなかった。彼は縛められた手で、彩華の手を震えながら包み込んだ。
「すまない……彩華。私のせいで、君まで巻き込んでしまった」
「いいえ」
彩華は首を振った。涙が頬を伝い、汚れた衣服に落ちる。
「謝らないでください。あなたと出会えて……あなたの詩に出会えて、私は幸せでした。たとえ千年生きるとしても、あなたと過ごしたこの数ヶ月には代えられません」
李遠は泣き笑いのような表情を浮かべ、懐から毒の入った小瓶を取り出した。
「もし、来世があるのなら……」
「ええ、きっと」
「その時は、平和な世で、また君の歌を聞きたい」
二人は杯を交わすように、毒を仰いだ。
喉を焼くような激痛。内臓が溶けるような感覚。
「ぐっ……うぅ……!」
李遠が喉を掻きむしり、床に倒れ込む。口から黒い血が溢れ、痙攣し始める。
「李遠様!」
彩華は彼を抱き起こそうとした。自分もすぐに後を追うはずだ。そう思っていた。
だが――痛みはすぐに引いてしまった。
彼女の体内で、神の血が毒を無効化してしまったのだ。
「な、んで……?」
彩華は呆然と自分の手を見た。死ねない。人間ではないから。
「あ、が……」
李遠の瞳から光が消えていく。彼は最期の力を振り絞り、彩華の頬に触れようと手を伸ばした。その顔には、自分だけが彼女を残して逝くことへの絶望と、理不尽な世界への静かな怒りが焼き付いていた。
「――!」
指先が触れる直前、彼の手が重く落下した。
「李遠様? ……李遠様!!」
彩華はその亡骸に縋り付き、獣のような慟哭を上げた。
ガシャン、と牢の扉が開く。武三思の配下たちが、死体を確認するために無遠慮に入ってくる。
愛する人は死んだ。私だけが生き残ってしまった。
「いやぁぁぁぁぁっ!!」
彩華の心が砕け散った。その絶叫と共に、彼女の霊核が暴走を始め、長安の地下そのものを揺るがすほどのエネルギーが渦巻いた。
その刹那。
まばゆい光と共に、慈愛に満ちた温かな波動が降り注いだ。
女媧だった。
彼女は崩壊しかけた彩華の精神を、優しい光の繭で包み込み、その深すぎる傷と記憶を――李遠への愛と喪失の全てを、封印した。
『眠りなさい、愛しき子よ。いつか、この悲しみを癒やす者と出会うまで』
(……もし、もう一度力を持つことができるなら)
記憶の最奥、光に包まれる直前の彩華の想いが、現代の祈の胸に直接木霊する。
(今度こそ、大切な人を、理不尽から守り抜く。今度こそ、運命に抗って、生き抜いてみせる――!)
それは呪いにも似た、強烈な執着。
「――はっ!」
祈はベンチの上で弾かれたように顔を上げた。
びっしょりと冷や汗をかいていた。今の映像は……夢じゃない。精衛の記憶だ。
その時、処置室の中から、微かだが、はっきりとした声が聞こえた。
「……あ……」
あの牢獄での慟哭とは違う。もっと静かで、けれど何かに手を伸ばすような声。
「精衛!?」
祈は立ち上がると、処置室の扉に駆け寄り、その冷たいガラス越しに中を覗き込もうとした。
だが、扉は固く閉ざされ、中の様子は窺い知れなかった。
扉は物理的に閉ざされているだけではない。まるで異界への入り口のように、圧倒的な静圧を放っていた。
(入れない……)
祈は唇を噛み、じりじりと後ずさった。
扉の向こうで何が行われているのか、今の彼には知る由もない。だが、先ほど脳内に雪崩れ込んできた映像の余韻が、未だに全身を蝕んでいる。
毒を飲んだ喉の焼け付くような幻痛。
床の冷たさと、愛する者を残して逝く無念。
そして何より、あの少女――彩華の、魂を引き裂くような慟哭。
(あれが……精衛の過去の傷……)
ガラス越しに見えるのは、ぼんやりとした白い光の明滅だけ。
祈は扉に背を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。
冷たいリノリウムの床が、熱を持った額には心地よかったが、胸の奥の焦燥感は冷やしてくれない。
自分の無力さが、呪いのように祈を責め立てる。
数千年前の「彼」も、今の自分も、結局は同じだ。大切な人が理不尽に砕かれていくのを、ただ見ていることしかできない。
権力、暴力、運命――そういった巨大な流れの前で、個人の想いなど枯れ葉のように脆い。
(もし、精衛がこのまま戻ってこなかったら?)
その想像が脳裏をよぎるたび、呼吸が浅くなる。
病院特有の消毒液の匂いが、あの地下牢の黴臭い匂いと混ざり合うような錯覚を覚える。
祈は膝を抱え、強く目を閉じた。暗闇の中に浮かぶのは、苦しげに喘ぐ精衛の顔と、絶望に染まった彩華の顔。二つの顔が重なり、祈の心臓をギリギリと絞り上げる。
頼む。
誰に祈ればいいのかも分からないまま、祈はただ念じた。神など信じていないが、もし運命を司るものがいるなら、代償は僕が払うから、彼女だけは返してくれと。
やがて、永遠にも感じられた時間が過ぎ――
カチリ。
無機質な解錠音が、死刑執行の合図のように廊下に響いた。
祈は弾かれたように顔を上げた。
シューッという気密音が漏れ、重厚な扉がゆっくりと開く。
逆光の中に現れたのは、白衣の裾を翻した孫慈恩だった。
彼は額に滲んだ汗をハンカチで拭いながら、祈を見下ろした。その表情には疲労の色が見え隠れしていたが、瞳の奥にある光は穏やかだった。
「……孫、先生」
祈の声は震えていた。最悪の宣告を聞く覚悟で、拳を握りしめる。
だが、孫はふっと小さく微笑んだ。
「治療は成功したよ。彼女の魂の傷は、一旦塞いだ」
その言葉が脳に浸透するのに、数秒かかった。
緊張の糸がプツリと切れ、祈の膝から力が抜けた。
「もう大丈夫だ。熱も下がり始めている」
「……っ!」
祈は礼を言うのも忘れ、孫の横をすり抜けるようにして処置室へ飛び込んだ。
部屋の空気は一変していた。
先ほどまでの張り詰めた魔力的な気配は消え、清潔で静かな空気が満ちている。
その中央、処置台の上。
「……すぅ……すぅ……」
そこには、安らかな寝息を立てる精衛の姿があった。
苦痛に歪んでいた眉間の皺は消え、火傷のようだった肌の赤みも引いている。まるで悪夢から解放された姫君のように、ただ静かに、深く眠っていた。
濡れた前髪が額に張り付いているのが、激闘の証だった。
「よかった……本当に、よかった……」
祈は処置台に駆け寄り、その縁に手をついて崩れ落ちた。
安堵のため息が、嗚咽混じりに漏れる。
生きている。そこに温かい命がある。それだけのことが、今の祈には奇跡のように思えた。
コツ、コツ。
背後からゆっくりとした足音が近づいてくる。
「君も、見たようだね」
孫の声は静かだったが、確信に満ちていた。
彼は祈の隣に立ち、眠る精衛を見つめながら言った。
「彼女の記憶の奔流。……千年の時を超えた、悲恋の物語を」
祈は顔を上げられなかった。
処置台の冷たい感触を握りしめる指が白くなる。
「……見ました。彼女が、どれだけ傷ついてきたか。どれだけ……深い絶望の中にいたか」
祈の頬を、一筋の熱い雫が伝った。
それは単なる同情の涙ではない。
あの記憶の中で李遠が感じた無念――愛する者を守れなかった己への激しい怒りと悔恨が、今の祈自身の無力感と共鳴し、魂を揺さぶっていたのだ。
祈は知っている。この痛みを。
何もできずに手を伸ばし、その指先が空を切る瞬間の絶望を。
記憶喪失の祈の中に、なぜかずっと沈殿していた空洞。その正体が、今ようやく輪郭を持った気がした。
祈は、繰り返そうとしていたのかもしれない。
ただ流されるまま、無力な善人のままでは、結局また同じ結末を迎えるのだと。
「……先生」
祈は涙を拭おうともせず、精衛の小さな手を、そっと、しかし力強く握りしめた。
温かい。
この温もりを守るためには、ただ祈っているだけでは駄目なのだ。
「僕が……守ります」
掠れた声は、次第に確固たる熱を帯びていった。
「もう二度と、こんな思いはさせない。神様だろうが運命だろうが、彼女を傷つけるものは全部……僕が叩き潰してでも、守り抜く」
その言葉は、今の今まで平凡な高校生だった林祈が決別し、真に「契約者」として覚醒するための宣誓だった。
孫慈恩は、そんな少年の横顔を眩しそうに見つめ、満足げに頷いた。
「それが、君の『薬』になるでしょう。……彼女にとっても、君にとっても」
第五話までお読みいただきありがとうございます! いかがでしたでしょうか?
今回は、李の知人である孫慈恩という新たな協力者が登場し、精衛の魂の疲弊という事件を通じて、祈と精衛、それぞれの記憶が繋がる重要な回となりました。
特に、李遠と彩華(精衛)の唐時代の回想シーンは、二人の運命の過酷さと、現代での再会が持つ意味を強調できたかと思います。祈が最後に「守る」と決意するシーンは、物語の大きな転換点です。
そして、次回は日常描写を挟みつつ、第六話のメインストーリーへと進んでいきます。引き続き、応援よろしくお願いいたします!




