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参 最初の戦闘

第三話です。今回は、精衛が敵に捕らわれ、祈が救出に向かいます。ここで、祈の裏人格である<イノリ>と、李が対峙し、物語の核心に触れることになります。神話時代の存在たちが現代でどう交差するのか、緊張感を持ってお楽しみください。


 深夜の校舎に、人影は一つもない。

 普通なら巡回しているはずの警備員も、何故か今夜に限っては一度も姿を見せなかった。

 静まり返った廊下に、水が垂れるような音だけが響いている。見上げると、天井の方から何本もの鉄のくさりが、闇の底へと伸びていた。鎖の下を探ると、そこには服がボロボロになった少女――精衛が、縛り付けられている。傷口からは血が止まらず、地面へと滴り落ち、血溜まりができ始めていた。

「クハハハハハ! この日がようやく来たな! あの日の恥が、やっと晴らせる!」

 精衛に向かって、笠を深く被った男が、狂喜を隠さずに大笑いしていた。

「卑怯者め! こんな真似をして、勝てると思っているのか!?」

 精衛は不服そうな態度で、男に怒りの言葉をぶつける。

「この小娘が! 負け犬が何を言う口か!」

 男は手に持ったとげ付きのむちで、精衛の体を叩こうと振り上げた。精衛は歯を食いしばり、痛みに耐えようと身構える。

「実に心地よい声だ! もっと苦しめ! もっとその声で、俺を楽しませろ!」

 鞭が振り下ろされ、精衛は声を上げた。

(ごめんね、祈。もう……)

 精衛は心の中でそう思い、一粒の涙が頬を伝って落ちていった。



「……あれ、もう5時半?」

 教室の掛け時計が、重苦しい秒針の音を刻んでいた。

 精衛は、手に持った黒板消しを見つめ、小さく溜息を吐いた。夕陽が差し込む教室は、どこか非現実的なほど橙色に染まっている。

 今日は日直だった。もう一人の男子生徒――名前も憶えていないような凡庸な顔つきの少年――と一緒に掃除をするはずだったのだが、彼はいつまで待っても現れなかった。

 最初は「トイレだろうか」と思い、次は「部活で遅れているのか」と思い、最後には「サボられたのだ」と結論付けた。

「まったく……現代の人間というのは、約束という契約を軽んじすぎね」

 独りごちて、精衛は最後の机を整列させた。

 掃除を終え、鞄を持って廊下に出る。

 そこで、違和感が彼女の足を止めた。

 静かすぎる。

 放課後の校舎といえば、遠くから吹奏楽部の楽器の音や、運動部の掛け声、あるいは残業する教師たちの足音が聞こえてくるのが常だ。

 だが今は、完全なる静寂。

 まるで、世界から音そのものが切り取られたかのような、真空の沈黙が校舎を満たしていた。

 精衛は廊下の窓からグラウンドを見下ろした。

 誰もいない。サッカーゴールも、白線も、ただ夕陽に焼かれているだけ。校門へ続く道にも、人っ子一人歩いていない。

 まるで全校生徒、いや、この世界の人間が神隠しに遭ったかのように、忽然と姿を消していた。

(……これは、ただ事ではないわね)

 精衛の背筋に、ぴりりとした緊張が走る。

 彼女の怪我は、三週間の療養を経て九割方回復していた。だが、霊核の深部にはまだ小さな亀裂が残っている。万全とは言い難い今の状態で、未知の怪異に関わるのは得策ではない。

「一旦、出ましょう」

 彼女は早足で階段へ向かった。

 三階から二階へ。タッサタッサと上履きの音だけが反響する。

 二階から一階へ。踊り場を回り、階段を下りる。

 そして一階のフロアへ――と思いきや、目の前に現れたのは「2-A」という教室のプレートだった。

「……は?」

 二階だ。

 確かに一階分降りたはずなのに、景色が変わっていない。

 精衛は眉を顰め、再び階段を下りた。一段飛ばしで駆け下りる。

 しかし、辿り着いた先にはまたしても「2-A」の文字。

 無限回廊。

 あるいは、メビウスの輪。

 学校の怪談でよく語られる、古典的で悪趣味な結界術だ。

「笑止……こんな子供騙しの術で、五帝の娘である私を閉じ込められるとでも思ったのかしら?」

 精衛は鼻で笑い、廊下の真ん中で立ち止まった。

 彼女の両手から、揺らめく陽炎かげろうのような赤光が噴き出す。

 右手に順手、左手に逆手。

 現れたのは、一対の短剣――『業火鳳凰ごうかほうおう』。

 かつて創造神・女媧ジョカが天を補うために練り上げた五色石。その残滓から鍛えられたという神話級の武装だ。その刃は物理的な切れ味だけでなく、触れる事象そのものを焼き尽くす概念の熱を帯びている。

 同時に、彼女の制服が光に包まれ、天女の羽衣を思わせる古代の霊装へと変じた。

「何者だ! こそこそ隠れていないで、さっさと長っながっちりを出したらどう!?」

 精衛の喝破が、無人の廊下を震わせた。

 すると、その声に応えるように、背後の空間が歪んだ。

「クックック……。さすがは期待の新鋭、精衛様だ。勘が鋭い」

 粘り気のある、不快な笑い声。

 精衛が振り返ると、そこには見覚えのある男が立っていた。

 深く被った編み笠。古びた雨合羽のような装束。そして、その隙間から覗く爬虫類のように冷たい瞳。

「お前……! あの時の神狩り!」

 三週間前、自分を襲い、酷い傷を負わせた男だ。

 怒りの炎が、精衛の脳裏で爆ぜた。

「よくもぬけぬけと! 今度こそ、その薄汚い魂を焼き尽くしてやる!」

 精衛は地面を蹴った。

 爆発的な加速。廊下の床板が衝撃でひび割れる。

 赤い軌跡を引きながら、『業火鳳凰』が男の首と心臓を同時に狙う十字斬りへと変化した。

「ほほう、やる気満々じゃないか」

 男は口元を歪め、まるで散歩でもするかのように半歩右へずれた。

 神速の斬撃が、男の残像だけを切り裂く。

「逃がすか!」

 精衛は空中で身を翻し、遠心力を乗せた回し蹴りと斬撃の連撃を叩き込む。

 だが、男は懐から無骨なソードオフ・ショットガン――魔弾を放つための改造猟銃を取り出し、その銃身と台尻で、精衛の連撃をカンッ、カンッ、と軽くあしらった。

「ハハハ! いいねえ、いい勢いだ! 小鳥が必死に羽ばたいているようだ!」

 男の態度は、戦いというより遊戯だった。

 全力を受け止められた精衛の顔が、屈辱で紅潮する。

「貴様……ッ!」

「そうそう、その顔だ。もっと怒れ、もっと熱くなれ。冷静さを欠いた攻撃ほど、捌きやすいものはない」

「黙れ! 問答無用!」

 精衛は男の挑発に乗り、さらに攻撃の速度を上げた。

 思考を捨て、本能のままに刃を振るう。炎の斬撃が嵐のように男を包囲するが、男はその中心で柳のように揺れ、紙一重で全てを回避し続ける。

「この猪突猛進の素直さ、何とも愛しいねぇ。益々お前を可愛がってやりたくなるぞ」

「死ね! 死ね! 死ねぇッ!」

 精衛の双剣が空を切るたび、焦げた臭いが充満する。

 だが、当たらない。一撃も。

 男は嘲笑を浮かべたまま、精衛の攻撃リズムに合わせてステップを踏んでいるだけだ。

「……もういい。飽きたな」

 男がふいに足を止めた。

 精衛がその隙を見逃さず、男の喉元へ突きを放つ。

 しかし、その刃が届く寸前、見えない壁に阻まれたように『業火鳳凰』が硬直した。

「なっ!?」

「いいことを教えてやろう」

 男は動けない精衛の鼻先で、冷酷に語り始めた。

「実は俺は三日前から、お前をここで始末する計画を練っていたんだ。あの小僧がベッタリくっついているから手が出せなかったが、ここなら邪魔が入らない。どうすればお前に、最高の絶望と悔しさを味わわせてやれるか……それを考えると夜も眠れなかったよ」

「何をした……! 私の剣が、動かない!?」

「この結界空間は、ただの迷路じゃない。侵入者の思考、筋力、霊力の流れを全て解析し、先読みして『抵抗』を生むフィールドだ。お前が動けば動くほど、空間そのものがお前の動きを阻害し、弱体化させる」

 男が右手を挙げ、人差し指を横に薙いだ。

 すると、空間に紫色の魔法陣がいくつも展開される。

「それに、外部からの侵入は不可能。ここはお前と俺だけの処刑場だ。出る方法はただ一つ、俺を殺すことだが……」

 ヒュンッ!

 魔法陣から、紫色の怪光線が精衛へ向けて発射された。

「くっ!」

 精衛は数センチしか動かない剣を無理やり盾にし、その光を防いだ。強烈な衝撃が腕を痺れさせる。

「弱くなっても、貴様のような雑魚を退治するには十分よ!」

 精衛は男を睨みつけるが、その瞳には焦燥に色が混じり始めていた。

「強がりはいい。なら見せてもらおうか! いつまでその生意気が続けられるかをな!」

 男の姿が霧のように消えた。

 次の瞬間、廊下の上下左右、全方位から数十もの魔法陣が出現弾けた。

「待て!」

 ドドドドドッ!

 紫色の光弾が、豪雨のように精衛へ降り注いだ。

 一分、十分、三十分――。

 終わりのない弾幕。

 廊下は既にボロボロに破壊され、粉塵が舞っていた。

 窓の外では、赤かった夕陽が沈み、夜の闇が校舎を侵食し始めている。だが、紫色の光だけが止む気配を見せない。

「ハァ……ハァ……クソォ! これじゃキリがない!」

 精衛の体力は限界に達していた。

 空間による阻害で、剣を振るたびに鉛の中で動いているような疲労が蓄積する。

 ついに、一束の極太の光線が精衛のガードを突き破った。

 ガキンッ!

 衝撃で『業火鳳凰』の一振りが弾き飛ばされ、床に突き刺さる。

「あっ――」

 バランスを崩した精衛の腹部に、次弾が直撃した。

 彼女の体は木の葉のように吹き飛び、教室のドアを突き破って、黒板の下へ叩きつけられた。

「見事だな!」

 男が黒板の脇から、拍手をしながら現れた。

「三時間も耐え抜くとは、実にいい。期待以上だ。だからこそ――ご褒美を与えてやらねばな」

 男が指をパチンと鳴らす。

 天井の闇から、黒い蛇のようなくさりがシュルシュルと伸びてきた。

 動けない精衛の手首、足首、そして首を絡め取り、空中に吊り上げる。

 さらに鎖はきつく締まり、彼女を『大』の字にはりつけにした。

「な、何をする気だ……?」

 霊装はボロボロに破け、白い肌のあちこちから血が滲んでいる。

 精衛は震える声で問うた。いくら神の一族とはいえ、彼女はまだ少女の姿をしている。絶対的な暴力の前で、恐怖を隠すことはできなかった。

「もちろん、こんなに頑張った良い子へのご褒美だよ」

 男の手には、いつの間にか棘のついた革の鞭が握られていた。

 蛇革に鉄片を編み込んだ、拷問専用の凶器だ。

「泣き叫べ。その声が、俺の糧になる」

 ヒュンッ――バチンッ!!

 空気を切り裂く音と共に、鞭が精衛の柔らかな腹部を打った。

「ガッッ!」

 一瞬の空白の後、焼けるような激痛が脳髄へ走った。

 精衛は喉の奥から悲鳴を漏らすまいと歯を食いしばったが、苦悶の声が漏れる。

 打たれた場所の皮膚が裂け、鮮血が花のように飛び散った。

「なんだ? まだ我慢するのか? その可愛らしい鳴き声をもっと聞かせろ!」

 バチンッ! バチンッ! ドスッ!

 二打、三打。

 鞭は無慈悲に、正確に、精衛の身体を切り刻んでいく。太腿に、二の腕に、そして胸に。赤い蚯蚓腫れが裂傷へと変わり、血が滴り落ちて床に赤い水溜まりを作っていく。

「あぐっ、ううぅ……ッ!」

「ガキのくせにいい意地だ。……そうだ、もう一ついいことを教えてやろう」

 男は嗜虐的な笑みを浮かべ、精衛の耳元で囁いた。

「お前を救ったあの小僧……林祈だったか? あいつは今頃、俺の手下たちに始末されているはずだ」

 精衛の瞳孔が開いた。

 痛みに耐えていた緊張の糸が、その言葉でプツリと切れた。

「嬉しいだろう? 仲良く二人で地獄に落ちるんだ。実にロマンチックな話じゃないか? 否、お前たちは魂ごと消滅するから、地獄ですら会えないか! ハハハハハ!」

「嘘……だ……」

「嘘じゃない。あいつはお前の弱点だ。徹底的に潰すのが定石だろう?」

 ーー祈が、死んだ?

 私のせいで?

 その瞬間、精衛の心は折れた。

 肉体の痛みなど比較にならないほどの絶望が、魂を粉々に砕いた。

「いやああああああああああっ!!」

 鞭の痛みと心への一撃が重なり、精衛はついに絶叫した。

 それは戦士の声ではなく、ただの無力な子供の泣き声だった。

「何と美しい声だ! 絶望と恐怖が混ざり合った小娘の悲鳴! これだ、これが聞きたかったんだ!」

 男は狂喜乱舞し、さらに鞭を振るう速度を上げた。

 バシッ! バシッ! グチャッ!

 精衛は何度も意識を飛ばしかけるが、そのたびに痛みで引き戻される。

 もはや抵抗する気力もない。ただ、涙と血に濡れた視界の中で、祈への謝罪だけが繰り返される。

(祈……ごめんね。私のせいで巻き込まれて……ごめんなさい……どうか、お願いだから無事でいて……)

 自分が助かることなどどうでもよかった。せめて祈だけは生きていてほしい。それだけが、壊れかけた彼女の最後の願いだった。

「……チッ、もう反応さえできないのか。せっかくの良い玩具だと思ったのに、脆いもんだ」

 男は舌打ちをすると、虚ろな目をしてぐったりと垂れ下がった精衛の顎を掴み、汚れた指で頬の涙を拭った。

「じゃあ、優しい俺が君にトドメを刺してあげよう」

 男はソードオフ・ショットガンを構え、精衛の心臓、その左胸の膨らみに冷たい銃口をねじ込んだ。

「さらばだ、堕ちた神の娘よ!」

 男の指が引き金にかかり、力を込めた――その刹那。


 ーーズドンッ!!

 乾いた銃声が響いた。

 だが、弾丸が精衛を貫くことはなかった。

 男の手から、猟銃そのものが弾き飛ばされていたのだ。

「なっ!」

 男が驚愕に振り返るよりも速く、影が走った。

 黒い旋風のような蹴りが、男の側頭部を捉えた。

 ドガァッ!!

 男はゴム鞠のように吹き飛び、教室の机をなぎ倒しながら壁に激突した。

「よぉ。……間に合ったようだな。ここを探すのに少し苦労したぜ」

 静まり返った教室に、氷点下の声が響いた。

 入り口に立っていたのは、制服姿の林祈。

 だが、その雰囲気は普段の彼とは似ても似つかない。

 瞳は血のように赤く輝き、指にはめた銀の指輪からは殺意の波動が漏れ出している。

 ()()(イノリ)は無言で右手を挙げ、パチンと指を鳴らした。

 カァンッ!

 精衛を縛り上げていた鎖が、見えない刃に切断されたかのように砕け散る。

 重力に従って落ちてくる精衛の身体を、イノリは滑り込むようにしてお姫様抱っこで受け止めた。

 血の臭い。

 そして、あまりにも軽い身体。

 イノリは自分のブレザーを脱ぐと、剥き出しになった精衛の痛々しい肌にそっと被せた。

 彼女は意識を失っている。だが、その瞼はまだ恐怖に強張っていた。

「よく頑張ったな……。君をここまで追い詰めた自分が、情けなくて反吐が出る」

 イノリは精衛の顔にかかった乱れた髪を、優しく指で梳いた。

 その手つきは慈愛に満ちていたが、次いで男に向けた視線は、地獄の底よりも冷たかった。

「この仇は、俺が必ず執る」

「……ッ! この青二才が!」

 男はよろよろと立ち上がり、鼻から流れる血を袖で拭った。

「よくも俺の顔に泥を! 死ねぇ!」

 男は隠し持っていた予備の拳銃を抜き、イノリへ向けて乱射した。

 だが、イノリは精衛を抱いたまま、一歩も動かなかった。

「ーー『草木皆兵そうもくかいへい』」

 呟きと共に、教室の床板が爆ぜた。

 そこから生えてきたのは、鋼鉄の硬度を持つ無数の「草」だった。

 草の葉は一斉に針のような切っ先を男に向け、弾丸のように射出された。

 ザザザザザッ!!

「グアアアアッ!」

 男の全身に無数の草の針が突き刺さる。拳銃を握る手も貫かれ、武器が床に落ちた。

「この前、お前の命を見逃したのは俺の甘さだった。だがな……精衛をこんな目に遭わせた以上、慈悲なんて言葉は俺の辞書から消えた」

 イノリの赤い瞳は瞬きすらせず、ただ標的を見据えていた。

 そこには怒りすらなく、あるのは「処理」を遂行する機械のような冷徹さだけだ。

「くっ、お前! 調子に乗るなよ!ここは普通の教室に見えるが、俺が張った絶対の結界空間なんだぞ!お前ごときが――」

「結界? 笑わせるな」

 イノリは冷笑した。

「そんな雑な結界、俺には薄紙一枚と変わらない。精衛が俺と契約したおかげで、彼女とのパスが繋がっている。そこを通れば容易く入り込めた」

 イノリが指輪を掲げると、銀色の光がさらに強く輝いた。

「侵入不可能? 脱出不可能?……俺がルールだ」

「この小僧、ナメるなぁっ!」

 男は絶叫し、懐から別の鞭を取り出してイノリへ跳躍した。

 空中からの渾身の一撃。

 だが、イノリは精衛を抱いたまま、わずかに身を沈めただけだった。

「『翦草除根せんそうじょこん』」

 ヒュッ。

 微かな風切り音。

「あ……?」

 男が鞭を振るおうとした右腕が、ポロリと肩から離れ落ちた。

「ぎゃあああああっ!?」

 絶叫する間もなく、次は両足が太股から音もなく切断された。

 慣性の法則に従い、男の胴体だけが祈の足元へゴロリと転がる。

 切断面はあまりに鋭利で、血が出るまでに数秒のタイムラグがあった。

 イノリの周囲には、ただ一枚、血の付いた笹の葉がふわりと舞っていた。

 葉を刀とする、不可視の斬撃。

「おのれぇぇ! なんだこれは、何をしたぁっ!」

 達磨だるまのようになった男は、残った左手で這いずろうとしたが、イノリの視線一つでその左手も弾け飛んだ。

 四肢欠損。完全なる無力化。

「精衛に与えた苦痛を、百倍にして返さないとな」

 イノリは男を見下ろし、淡々と宣告した。

「『煎草煮葉せんそうしゃよう』」

 シュウウウゥゥ……!

 男の周囲の空気が急速に加熱され、湿気を帯びた高温の蒸気が発生した。

 それはまるで、生きたまま蒸し焼きにする釜茹での地獄。

 だが、その熱は精衛には及ばない。

 むしろ、イノリから放たれる金色の温かな光が精衛を包み込み、鞭で裂かれた傷口をみるみる塞いでいく。

「ぎゃああああ!熱い!熱い!殺すなら殺せぇっ!」

 男の皮膚が焼けただれ、喉が潰れるほどの絶叫が響く。

 イノリは無表情で、眠る精衛の頬に残る涙の跡を親指で拭った。

 傷は完全に癒えた。だが、心の傷は残るだろう。それを思うと、イノリの胸にどす黒い殺意が再点火した。

「小僧……悪魔め……!」

 息も絶え絶えに呪詛を吐く男。

「そろそろだ」

 イノリは精衛をそっと清潔な机の上に寝かせると、男の元へ歩み寄った。

 その手には、一本の奇妙な武器が握られていた。

森斬剣しんざんけん』。

 投げれば必中、持てば剛刀。この世に数本しか存在しない、始原の金属で作られた神具投矢だ。

「貴様、何をする気だ……?」

 これまで他者をなぶり殺してきた男が、初めて「死」という恐怖に顔を歪めた。

「何をする? それは……」

 イノリは『森斬剣』を逆手に持ち、無造作に振り上げた。

 赤い瞳が、男の恐怖を映して輝く。

「もちろん、トドメを刺すんだよ」

 ザンッ――!!

 躊躇いなき一閃。

 男の首が、ボールのように地面を転がった。

 噴水のようにとびちった返り血が、祈の顔と白いワイシャツを真っ赤に染め上げる。

 だが、イノリは瞬き一つせず、転がる首を見下ろしていた。

 静寂が戻った教室で、少年は血塗れのまま、ただ深く息を吐いた。

「こいつも死んだから、この結界もいずれ崩れるだろう」

 イノリは独り言ちると、精衛を抱き上げて結界から抜け出した。返り血は消え、精衛も学生服姿に戻っている。

「一緒に帰ろうか……」

 そう呟き、祈はいつもの意識に戻った。

「あれ? どうしてこんな時間に学校に?」

 祈は顔を上げ、時計塔を見た。深夜11時頃を示している。そして両腕に重みを感じ、俯いて覗き込んだ。

「ええ!? 何で精衛さんを抱えてるんだ? 何があったんだ!?」

 祈は混乱した。


 時計塔の天辺に、李が立っていた。

「面白いもの見せてもらったな」

 不敵な笑みを浮かべていた。

 ……



「いや、祈、助けて!」

 夢の中で笠を被った男に鞭打たれていた精衛は、苦しみに耐えかねて目を覚ました。

 温かい布団の中にいる。目を開くと、そこは見慣れた祈の部屋だった。

「これが夢? それともさっきのが夢?」

 精衛は混乱していた。あの男に深く傷つけられた恐怖が残っており、この安堵できる場所に戻れたことが信じられなかったのだ。

「どうしたの? 悪夢でも見たか?」

 祈が精衛の声で目を覚まし、優しく頭を撫でる。

「ここは夢じゃないの?」

 精衛はまだ現実を感じられないでいる。

「バーカ、僕が君の頭を撫でたりするか?」

「いいえ。恥ずかしいから、もうやめて」

 精衛は子供扱いされるのは嫌いではないが、さすがに照れてしまった。

「あっ、ごめん」

 祈もそれに気づき、照れて手を引っ込める。

「でも良かった。祈も無事で、私も助けられて」

「一体何があったんだ? 昨日、精衛が夜になっても帰ってこなくて心配して学校へ行ったんだが、その後の記憶がなくて、気づいたら精衛が僕の腕の中にいた」

 祈はやはり、肝心な戦闘についての記憶が全くないのだ。

「実は私はあの男に捕まって、殺されそうだったの。意識がぼやけてたけど、祈が助けてくれたことは少し覚えてる」

「えっ、僕が?」

 祈はやはり信じられない。

「でも、どうして僕は何も覚えてないんだ?」

「それはまだ調べてる最中よ。でも、祈の中に眠っている力の持ち主は、たぶん敵じゃないと思う」

 精衛は、もう一人のイノリに、理由もなく信頼を寄せていた。

 ……



「他愛ない雑魚ざこだったな」

 イノリは一瞬で斬殺した三匹の雑兵を見下しながら無愛想に呟いた。そして、振り返り、時計塔の上に立っていた人物に向けて威圧的に告げる。

「そっちにいるのは誰だ? 出てこないと、容赦はしない」

「いや、怖い怖い。僕はらないよ、敵じゃないから」

 その声は、昼間の同級生、李宅りたくのものだった。彼は大人しく地面に降り立ち、祈の目の前に立った。

「お前は昼間の……」

 イノリの人格は普段隠れているが、外の様子は逐一ちくいちはっきりと見えている。

「君こそ、昼間と全然違う雰囲気してるね」

 李はそう言う。

「ちょうどいい。前から聞きたかったんだ。お前は何者だ? 人間の魂を持っているにも関わらず、肉体は人間のものではない。再生されたものか」

 イノリは、李の本質を見透かしていた。

「さすが大先輩。でも今は、僕のことを内密にしてほしいな」

 李はあっさりと祈の言うことを認めた。

「今は、身分を隠す必要があるから」

「だが、俺だけじゃなくて、あいつもお前の変装を一目で見破っていたぞ」

 イノリは精衛のことを言った。

「それは、僕より修行が高いからだ。一応、自分より修行が高い者を騙す能力もあるが、戦っても勝ち目はないから、体力を温存して逃げるのが上策なんだ」

「そうか。だから、契約者パートナーを見つけたのか?」

「さすがというか、案の定だね。そうだよ、僕は約一年前、人間界ここに来たんだ。秘密の任務のために、潜伏させられた。そこで、契約者を見つけたんだ」

 李はイノリに白状する。

「この話は秘密にしてほしい。安心して、俺たちも敵じゃない」

 李はイノリに弁明する。

「敵じゃないなら、それでいい」

 イノリはそれ以上、李の契約者である「薫」について詮索することはなかった。

 裏人格は表人格と全く違う、冷徹な雰囲気を纏っていた。

「いやいや、さすがにもう一人の林くんは可哀想だから、手は出さないよ」

 李は、あくまでも自分が任務中であり、不用意な戦闘は避ける姿勢を示した。

「その話はどうでもいい。ここに張られている結界は感じたのか?」

 イノリが一番心配なのは、結界の中にいる精衛のことだった。

「もう放課後からずっと張られていたが、なかなか入れなかった。この結界は外から侵入できないタイプだな」

 李は、結界が外部からの侵入を阻害していることをイノリに伝えた。

「外から入れないタイプか……」

 イノリは、李からの情報をもとに分析した。

「林……くん、でいいんだよね?」

 李は、イノリへの呼び方に少し戸惑った。

「うむ。いつも通り呼んでいい。同時に出ているわけでもないからな」

 イノリは、二つの人格が同時に表出することはないと示した。

「林くんは何か考えがあるの? この結界を破る方法」

「この結界自体は強くないが、複雑な組み方でややこしいものだ。例えて言うなら、蜘蛛の糸のように弾力があって、粘性もある。それが侵入を阻止している」

「さすが大先輩。すぐに分かったね。僕も薄くは感じたが、構造まではさっぱりだった」

 李は、イノリの凄さに感心した。

「安いものだ。知っていても破れないなら意味がない」

「そうだね。糸口が知れれば良かったのにね」

 李はニヤニヤしながら、イノリに言う。

「俺を試しているのか?」

 イノリは、李に冷たく問いかけた。

「あれ? バレちゃった?」

 李は表情を変えず、悪びれる様子もない。

「お前は何故、こんなバレやすい場所にいたと思う?」

 イノリは最初から、李がそこにいた理由に気づいていた。

「やっぱり大先輩の前では隠しきれないね」

 李はイノリに白状する。

「そう。この結界はとても弱いのよ。そこから何とかできるかと思ったんだけど……」

「無理だったか?」

「少なくとも、僕には無理だった。大先輩なら、できるかもよ?」

「善は急げだ」

 イノリはそう言うと、すぐさま時計塔の天辺へと飛び上がった。

「なるほど」

 イノリはすぐに解く方法を知り、それを試み始めた。


 一方、精衛は笠を被った男に蹂躙じゅうりんされていた。精衛はもう何度目か分からないほど、意識を失っては戻りを繰り返していた。

「ん? 何者だ、俺の結界に侵入しようとしているのは? 馬鹿め、この結界はあの大方が作った術式でできたものだぞ。そう簡単に入れると思うな!」

 男は自慢げに言い放ち、意識のない精衛の顔を撫でる。

「こんなに必死にお前を助けようとする者がいるとはな。感動的だが、無駄だぞ。ここは俺たち二人だけの世界なんだ。お前は死ぬまで俺にもてあそばれ続ける。本当は一生俺の奴隷にしたいんだが、大人しくないお前が悪い。だから死ぬまでお仕置きをしてやる!」

 男は言いながら、再び鞭を振り上げた。

 結界の外で、イノリは両手の手首を合わせ、右手は人差し指と中指を上へ向け、左手は親指で中指を押さえ、残りの指を下へ向けた形で、結界を破るための術式を展開する。

草木花葉そうもくかよう、我が伝承でんしょう世間万物せけんばんぶつれ生かせ!」

 イノリの足元に、術陣が呪文と共に展開された。

「すごい……」

 李は、イノリの力の片鱗へんりんに感服した。

 イノリは左手の指輪に意識を集中させる。

契約けいやくもとより、向こうに召喚しょうかんせよ!」

 指輪が光り、目を閉じた瞬間、イノリの姿が李の前から消えた。

「入った!?」

 李は、イノリの成功に驚きを感じた。

「僕はまだまだ頑張る必要があるね」

 李は、手首の腕時計を撫でながら呟いた。

 ……


「でも、もう大丈夫なんだよな?」

 祈は男を倒した記憶がないため、まだ心配している。

「大丈夫だよ。あの男の気配は完全に感じられないもの」

 精衛は、祈に余計な心配をさせまいと話した。

「本当なのかな……」

「私の話、信じてくれないの?」

「そうじゃなくて、死んでいなければ、また精衛に害を及ぼすんじゃないかって」

「ありがとう。でも本当に、もういないから」

 精衛の言葉に、祈はようやく安堵する。

「じゃあ、精衛はこれからどうするの? 天界に帰るつもりか?」

 祈は、少し寂しげに精衛に尋ねる。

「いいえ。私の任務はここからだから。よろしくね、祈」

 精衛は笑顔で祈へ手を差し伸べた。

「うん!」

 これから精衛といられると思い、祈の気持ちも晴れて、その手を握った。

 遠くない電柱の影に、李宅もその場面を目撃していた。

「これからは楽しそうだ、大先輩」

 李は、不敵な笑みを浮かべた。

第三話をお読みいただきありがとうございました。いかがでしたでしょうか? 李の正体が哪吒なたくであることが判明し、物語のスケールが広がりましたね。精衛も無事救出され、二人の絆も少し深まったようです。第四話では、神狩り側の動きや、精衛の過去のトラウマに焦点を当てます。応援よろしくお願いいたします。

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