後日譚其の陸 道の果てには
精衛が小学校の入学式で「完全勝利」を宣言したあの春の日から、さらに幾度もの季節が、二人の人生というキャンバスに鮮やかな色を重ねていった。
時は、緩やかに、しかし確実に流れた。
入学式の翌年。かねてよりの約束通り、林家には第三子となる次女が誕生した。
小さな命が産声を上げるたび、かつてのアパートメントでの静寂は、もはや想像もできないほどの愛おしい喧騒へと変わっていく。
星月、皓然、そして末の娘。
三人の子供たちは、太陽に向かって伸びる若木のように健やかに成長し、やがてその枝葉を広げ、それぞれの空へと羽ばたいていった。
彼らが巣立った遠い未来には、かつて神話の海を見つめていた二人の膝の上に、孫たちの屈託のない笑い声という、世界で最も美しい音楽が響くことになるのだが――それはまだ、もう少し先の物語だ。
そして、一つの時代が静かに、満ち足りた吐息と共に幕を下ろそうとしていた。
祈と精衛が、三十五歳という人生の円熟期を迎えた頃のことだ。
晩秋の午後。病院長室の窓からは、西安の街を染め上げる美しい夕陽が見えた。
その光の中で、姜石年――炎帝神農は、長年愛用してきた白衣をゆっくりと脱ぎ、ハンガーに掛けた。その動作一つ一つに、人間としての職務を全うした者だけが持つ、深い満足感が滲んでいた。
「……精衛よ」
彼は、デスクの前に立つ愛娘を振り返った。
かつて海に溺れ、鳥となり、因果に縛られていた少女は今、一人の人間として、そして何より一人の医師として、堂々とそこに立っていた。
白衣を着たその佇まいは、父である彼が見ても頼もしく、凜としていた。
「お前の医師としての人生は、もはや私の庇護も、神の知識の助けも必要としない。今の西安の医療界で、『姜衛佳』の名を知らぬ者はいないだろう」
姜石年は目を細め、精衛の頭にそっと大きく温かい手を置いた。
そこにはもう、神としての威光はない。ただの「父」としての、限りない慈愛だけがあった。
「私には、お前が人間として苦悩し、学び、そして私という師を越えてくれたことが……何よりの喜びだ。娘よ、よくぞここまで育ってくれた」
「お父さん……」
精衛は父の手の温もりを感じながら、溢れそうになる涙をこらえて微笑んだ。
「さあ、私の役目は終わった。これからは、あの厄介な老人会の連中(神々)に、孫自慢でもしに帰るとしよう」
彼は悪戯っぽくウインクをすると、人間社会における「病院長」という重い衣と共に、この世界での役割を脱ぎ捨てた。
彼の引退と共に、精衛の人生における「神代の血縁」という最後のセーフティーネットは取り払われたことになる。
だが、精衛の胸に去来したのは、心細さや寂寥感ではなかった。
それは、嵐が過ぎ去った後の海のような、深く、澄み渡る解放感だった。
(これで、私は本当に……ただの『姜衛佳』になれたんだ)
誰かの娘でも、神の使いでもない。
林祈の妻として、三人の子供たちの母として、そして多くの命を預かる一人の医師として。
自分の足で大地を踏みしめ、自分の名で生きる。その覚悟が、三十五歳となった彼女の背筋を美しく伸ばしていた。
週末の公園。
柔らかな午後の陽だまりが、ベンチに腰掛ける二人を優しく包み込んでいる。
祈は、隣で目を閉じて風を感じている妻の横顔を、眩しそうに見つめた。
三十五歳となった精衛の美しさは、かつて彼が知っていた少女のそれとは、質が異なっていた。
若さゆえの危うさや、張り詰めたような透明感はなりを潜め、代わりに今の彼女には、大地の豊穣を思わせるような、芳醇で落ち着いた大人の色香が宿っていた。目尻に刻まれたわずかな笑い皺さえも、彼女が重ねてきた幸福な時間の証として、愛おしく輝いている。
不意に、精衛が目を開け、祈と視線を合わせた。
「……祈。私ね、今、本当に幸せだと思う」
その言葉は、風に乗って自然にこぼれ落ちた独り言のようだった。
「ここまで来て、ようやく本当の意味で……自分の人生を生きているって、そう感じるの」
祈は微笑み、彼女の肩を抱き寄せた。
「当たり前だろう? あの時、お義父さんに託されて、僕も約束したんだから」
彼はかつての誓いを噛み締めるように言った。
「精衛を不幸にしたら、天罰を受けても文句は言えないってね。……まあ、相手が炎帝様じゃ、天罰どころか灰にされそうだけど」
精衛はふふっと笑い、祈の胸に頭を預けた。
「大丈夫。もしそんなことになっても、私が天罰なんて与えさせないわ」
彼女は祈の手をぎゅっと握り返す。
「祈は、十分すぎるくらい頑張ってくれたもの。これ以上の幸せは……もう、今の私という『器』では受け止めきれないくらいよ。私、満足しているの。本当に」
その言葉に嘘偽りはなかった。
父・姜石年は天界へと帰還した。もう、何かあった時に神の力が助けてくれることはない。
けれど、今の自分たちには、自分たちで積み上げた信頼と、守るべき家族という最強の盾がある。父が遺してくれた「人間としての道」を、これからも二人で歩んでいくだけだ。
「……ところで」
祈はふと思い出したように尋ねた。
「お義父さんが去った後の、次期院長の話だけど。精衛が推薦されたって聞いたよ? 受けるのかい?」
精衛は首を横に振った。
「ううん。お断りしたわ」
「えっ、断ったのか? 精衛なら十分務まると思うけど」
「今の私はまだ、医者としても人間としても研鑽の途中よ。院長なんて重責、まだ早すぎるわ」
精衛は少し悪戯っぽく笑って続けた。
「だから、私よりずっと相応しい方を強く推薦させてもらったの。とりあえず数年はその方が引き受けてくださって、私がもっと成長したら、改めて推薦するって言ってくださったわ」
「へえ……お義父さんの後を継ぐなんて、相当なプレッシャーだと思うけど。一体誰だい?」
「孫先生よ」
「ああ、あの孫先生か! 確かにベテランだし、人望もあるけど……」
祈が納得しかけた時、精衛は何でもないことのように爆弾を投下した。
「だってあの人、『薬王』孫思邈だもの。知識も経験も、私なんかじゃ足元にも及ばないわ」
「……は?」
祈の思考が一瞬停止した。
鳩が豆鉄砲を食らったような顔で妻を見る。
「そ……孫思邈って、あの? 中国医学の歴史の教科書に出てくる、伝説の……?」
「そうよ」
「……待ってくれ。僕、知らなかったんだけど。精衛を助けてくれた時も、その後も普通に飲みに行ったりしてたけど……え、彼、仙人なの!?」
「あら、言ってなかったかしら?」
精衛は苦笑した。
「私も当時はそれどころじゃなかったし、わざわざ言うことでもないと思って。……でも、驚きは一瞬だったでしょ? だって、私の父が炎帝なんだもの。それ以上の衝撃なんてないわよ」
「……まあ、確かにそうだけどさ」
祈は額を押さえ、深いため息をついた後、諦めたように笑った。
感覚が麻痺してきている自分がおかしい。
精衛はさらに楽しそうに続けた。
「それにね、最近知ったんだけど、よくうちの病院に商材を卸しに来る『公日月』さんっているじゃない? すごく腰の低い、人の良さそうな営業マンの」
「ああ、知ってるよ。何度か挨拶したことある」
「彼、実は『趙公明』だったの」
「ぶふっ!!」
祈は思わず噴き出した。
「趙公明って……財神!? お金の神様が、なんでまた営業マンなんてやってるんだ!?」
「なんでも、女媧様と敵対した時期もあったらしいんだけど、今はただ『人間界で平和に商売を楽しみたいだけ』なんですって。ノルマ達成のために必死に頭を下げてる姿が、なんとも人間臭くて可愛らしかったわ」
精衛はくすくすと笑い声をあげた。
祈は天を仰いだ。
この街の「日常」は、どこまで行っても奥が深い。
「……まったく」
祈は苦笑いしながら、皮肉と幸福が混ざり合った感想を口にした。
「僕たちは『普通の人生』を必死に求めてきたつもりだったけど……蓋を開けてみれば、周りの住人が誰一人として『普通』じゃなかったな」
「ふふ、そうね。でも、それが私たちの『普通』なんじゃない?」
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく笑い合った。
神々が隣人で、仙人が上司で、伝説が日常に溶け込んでいる。
そんな奇妙で愛おしい世界こそが、彼らが勝ち取った居場所なのだ。
「さて、そろそろ行こうか」
祈が立ち上がり、手を差し伸べた。
「星月が、音楽教室が終わる時間だ。今日は新しい曲を練習するって張り切ってたから、遅れると拗ねるぞ」
「ええ、行きましょう」
精衛はその手を取り、軽やかに立ち上がった。
繋いだ手の温もりは、三十五歳になった今も、あの頃と変わらず熱いままだ。
二人は秋の夕暮れの中、娘の待つ場所へと歩き出した。その背中には、神話よりも眩しい「人間としての幸福」が、柔らかく降り注いでいた。
長い、長い歳月が、大河のごとく流れた。
季節は晩秋。
山々の木々が燃えるような紅と、落ち着いた黄金色に染まる頃、ある歴史深い山間の温泉旅館に、かつてない規模の団体客が訪れていた。
それは、林祈と精衛が築き上げた「林家」の一族であった。
長女の星月、長男の皓然、そして次女。その配偶者たち。
彼らが育んだ七人の孫たち。さらには、そこから生まれた十二人の曾孫たち。
加えて、親族同然の付き合いを続けてきた李と薫の一門を含めれば、総勢五十名近い人間が、この地に集結していた。
大型バスを二台チャーターしての旅路は、まさに民族大移動の様相を呈している。
「ねえ、薫ちゃん。最後に、みんなで旅行に行かない?」
数ヶ月前、精衛がそう提案したのだ。
自宅の広々としたマンションでさえ、もはや全員が集まれば酸欠になりそうなほどの賑わいだ。
彼女は、自身の身体の奥底にある「蝋燭」の芯が、ゆっくりと、だが確実に燃え尽きようとしているのを感じ取っていた。
医者としての勘ではない。かつて神であった者の直感として、彼女は「幕引き」の予感を受け入れたのだ。
だからこそ、この愛おしい喧騒のすべてを、一つの場所に集めたかった。
旅館の大広間で行われた夕食会は、静粛な宴席とは程遠い、まさに「生命の嵐」だった。
「こらっ! 曾お爺ちゃんの座椅子でジャンプしないの!」
「ビール追加! こっちにはジュース!」
「あーん、お肉とられたぁー!」
畳の上を走り回る曾孫たち。それを追いかける孫たち。酒を酌み交わし、仕事や子育ての愚痴を笑い飛ばす子供たち。
湯気と共に立ち昇る、すき焼きの甘辛い匂いと、人々の熱気。
上座に座る祈と精衛は、その光景を眩しそうに見つめていた。
祈の髪はすでに真っ白な雪のように変わり、その顔には年輪のような深い皺が刻まれている。かつて精悍だった刑事の目つきは、今は仏のように穏やかな好々爺のものとなっていた。
精衛もまた、老いた。
艶やかだった黒髪には銀の糸が混じり、肌には歳月という名の美しい刺繍が施されている。だが、その背筋はかつての名医らしく凛と伸び、瞳の輝きだけは少女の頃と変わらず、深い知性と愛情を湛えていた。
「……すごい光景だね」
祈が、震える手で湯呑みを持ちながら呟いた。
「ああ、みんな生きている。笑って、食べて、喧嘩して……」
「ええ、祈。これが、私たちが手に入れた『永遠』よ」
精衛は、夫の耳元に唇を寄せ、秘密を打ち明けるように囁いた。
「神代の記憶も、不老不死の身体も、この温かいスープ一杯の価値には敵わないわ」
二人は、目の前で繰り広げられる人間の営みを、人生で最も贅沢なフルコースとして味わっていた及ばない。
夜が更け、嵐のような喧騒が静まり返った頃。
子供たちがそれぞれの部屋で夢の世界へと旅立ったあと、静寂に包まれた日本庭園を臨む縁側には、四つの影だけが残されていた。
月明かりが、枯山水の庭を青白く照らしている。
座布団に座る祈と精衛の向かいには、長い付き合いの盟友たちがいた。
「……お前たち、本当に老けたな」
苦笑交じりにそう言ったのは、李――闘神、哪吒だ。
彼だけは、時間が止まったかのように変わっていなかった。
少年のような瑞々しい端正な顔立ち。しなやかな四肢。その瞳には、人間には宿り得ない鋭利な光が揺らめいている。彼にとっての数十年など、瞬き一回にも満たない時間なのだろう。
だが、その隣に座る薫は違っていた。
「ちょっと、失礼ねえ。これでもあちこちメンテしてるんだから」
薫の顔にも、祈や精衛と同じように、美しい皺が刻まれていた。
活発だった彼女も今は杖をつき、背中は少し丸くなっている。だが、その笑顔の豪快さと温かさは、何一つ変わっていない。
人間として生き、人間として老いることを選んだ彼女もまた、彼らと共に時間を積み重ねてきたのだ。
「何も言わなくても、わかるのね。……私の時間が、もうすぐ尽きるって」
精衛が穏やかに微笑むと、薫はおどけることもなく、静かに頷いた。
彼女の目尻の皺が、悲しげに、けれど愛おしげに深くなる。
「ええ。だって、私の時間も進んでいるもの。……そろそろ、お別れを言いに来ないとって思ったのよ。私たち親友でしょ?」
薫は、節くれだった精衛の手を、自身の老いた手で包み込んだ。
「精衛、あんたの選んだ人生、最高だったわよ。私の自慢だわ」
「ふふ、ありがとう薫ちゃん。……この友情は、永遠よ」
それを見届けると、不変の姿を持つ少年神、李は、居住まいを正した。
彼はもはや友としてではなく、かつての神話の住人として、目の前の二人の老人に最大限の敬意を表した。
「林祈」
その声には、雷鳴のような威厳と、春の風のような優しさが同居していた。
「かつて私は、人間など脆く、儚いだけの存在だと思っていた。だが……君は証明してみせたな」
李は真っ直ぐに祈を見つめた。
「君は、彼女が選んだ『人間としての生』を、その命が尽きるまで守り通した。そして、我々神々が持つ無機質な永遠よりも深く、重く、尊い……『血と愛による永遠』を、この限られた時間の中で成就させた」
李は、深く頭を下げた。
神が、人間に頭を垂れたのだ。
「君たちに、心からの敬意を表する。精衛よ、我々は君のその選択を……『人間になる』という誇り高き決断を、未来永劫、語り継ぐだろう」
その時、障子が静かに開き、盆を持った男が現れた。
拓宇だ。
星月の夫であり、李と薫の息子。彼もまた、立派な初老の紳士となっていた。父の神性と母の人間性を受け継いだ彼は、二つの世界の架け橋として、静かに酒と湯呑みを差し出した。
「精衛おばさん、祈おじさん」
彼は、二人の前に酒を注ぐと、力強い眼差しで言った。
「俺は、星月との人生に、何一つ悔いはありません。……あなた方が命を削って守り抜いたこの家族は、俺が、そして俺たちの子供たちが、必ず守り抜きます。だから」
彼は言葉を詰まらせ、涙をこらえながら笑った。
「安心してください。ここはもう、神様の力なんてなくても……愛だけで回る世界ですから」
それは、神話からの完全なる自立宣言だった。
祈と精衛は、満足げに頷き、差し出された酒を飲み干した。
別れの時が来た。
李と薫は立ち上がり、庭先の闇へと向かう。
「じゃあな、二人とも。……また、どこかで」
薫が手を振り、李が一度だけ振り返ってにやりと笑う。
二人の姿は、月明かりに溶けるようにして、夜の帳の向こう側へと消えていった。
まるで、最初から夢であったかのように。だが、飲み干した盃に残る酒の香りだけが、確かな現実としてそこに在った。
翌日。
午後の日差しは、晩秋とは思えないほど柔らかく、黄金色に輝いていた。
旅館のチェックアウトを済ませた一族は、広大な庭園で記念撮影をしたり、最後の散歩を楽しんだりしている。
「おーい、バスが出るぞー! 手荷物忘れるなよー!」
誰かの叫ぶ声が、遠くのBGMのように聞こえる。
その喧騒から少し離れた、庭の片隅。
陽だまりの中で、二つのリクライニングチェアが並んでいた。
祈と精衛は、肩を寄せ合うようにして深く座り、目を閉じていた。
膝には、薄手のブランケットが掛けられている。
降り注ぐ陽光が、老いた二人の身体を芯まで温めてくれる。
瞼の裏に感じる明るさ。遠くで笑う曾孫たちの高い声。風が運んでくる枯れ葉の乾いた匂い。
それら全てが、愛おしい。
精衛は、祈の手を探した。
骨と皮ばかりになってしまった、けれど誰よりも頼もしい夫の手。
祈もまた、微かな力でその手を握り返した。
二人の掌が重なる。
そこにあるのは、数十年分の体温と、数十年分の記憶だ。
その熱が、閉じた瞼の裏側で、古びた映写機のように音を立てて回り始めた。
最初に浮かんだのは、まだ彼らが若く、そして世界が今よりも少しだけ狭く感じられた頃の光景だった。
「いてっ」
記憶の中の祈が、台所で小さく悲鳴を上げた。
新婚当時の、狭く薄暗いアパート。壁紙は湿気で少し剥がれ、隣からはテレビの音が漏れてくるような場所。
包丁で指先を切ってしまった若い日の夫の手を、まだ少女のような面影を残す精衛が慌てて掴んでいる。
「もう、危なっかしいわね! 貸して、私がやるから」
「いや、大丈夫だよ。これくらい……」
「ダメよ! あなたの手は拳銃を握る大事な手なんでしょ? 玉ねぎごときに負けてどうするの」
彼女は無骨な絆創膏を丁寧に巻きつけながら、膨れっ面で文句を言う。その不器用な懸命さが、とてつもなく愛おしかった。
神話の海で石を運び続けてきた女神の手が、今は百円ショップで買った絆創膏の箱を握りしめている。
その落差。その滑稽さ。そして何より、そこに宿る「生活」という名の確かな温度。
夕飯のメニューは、少し焦げた野菜炒めだった。
「……焦げちゃった」
「焦げてるくらいが香ばしくて美味いよ」
「噓つき。……でも、ありがとう」
狭いちゃぶ台を挟んで向かい合い、安物の皿をつつき合う音。窓の外から聞こえる雨音。それが二人の世界のすべてだった。
神々の壮大な因果も、世界の危機も、この六畳一間の安らぎの前では、遠い国の寓話のように思えた日々。
記憶のフィルムが、早回しのように流れていく。
「おぎゃあ! おぎゃあ!」
深夜のリビングに響き渡る、産まれたばかりの星月の泣き声。
初めての育児は、どんな凶悪事件の捜査よりも過酷で、どんな難病治療よりも予測不能だった。
「どうして泣き止まないのかしら……おむつも替えたし、ミルクもあげたのに」
クマを作った精衛が、途方に暮れた顔で赤ん坊を揺らしている。
「代わるよ。精衛は少し仮眠をとりな」
まだ若かった祈が、慣れない手つきで小さな命を受け取る。
腕の中の重み。柔らかく、温かく、そして壊れそうなほど儚い命の塊。
窓の外を見ると、東の空が白み始めていた。
徹夜明けの気だるい朝焼けの中で、二人はボサボサの髪のまま顔を見合わせ、疲れ切った笑顔を交わした。
「私たち、親になったのね」
「ああ。……世界で一番難しい任務だよ、これは」
神話の時代、子供は「一族の繁栄のための道具」だったかもしれない。
けれど、この腕の中にいるのは道具ではない。自分たちの愛が形になった、かけがえのない「未来」そのものだった。
初めて寝返りを打った日。初めて「ママ」「パパ」と呼んだ日。
そして、初めて高熱を出して、二人で真っ青になって救急病院へ走った夜。
「神様! お願いします、助けてください!」
かつて神であった精衛が、人間となって初めて、自分以外の何かに必死に祈った夜。
その矛盾が、どれほど彼女を人間らしくしたことだろう。
熱が下がり、寝息を立て始めた娘の頬に触れた時の安堵感。手を握り合い、廊下のベンチで崩れ落ちるようにして眠った時の、互いの体温。
場面が変わる。
今度は、少し年を重ねた二人だ。
鏡の前には、真新しい三級警監の制服を着た祈と、学会での講演を控えて緊張している精衛。
「ネクタイ、曲がってるわよ」
「そっちこそ、スピーチの原稿忘れてないかい?」
「もう、子供扱いしないで」
仕事への誇りと、責任の重圧。
深夜の呼び出し。解決しない事件への焦燥。救えなかった命への悔恨。
互いに背負うものが大きくなるにつれて、すれ違う日もあった。
リビングで背中合わせに座り、無言でコーヒーを飲んだ夜もある。
「……辞めたいか?」
ポツリと祈が聞いたことがあった。あまりに理不尽な事件が続き、心が摩耗していた夜だ。
精衛は黙って首を振り、静かに彼の手を握った。
「いいえ。……逃げないわ。だって、この苦しみもまた、人間である証拠なんでしょ?」
「……そうだな」
言葉は多くいらなかった。
ただ、同じ戦場で戦う戦友のように、互いの傷ついた魂を、触れ合う肩の温度だけで癒やしていた。
喧嘩もたくさんした。
子供の進路のこと、家事の分担のこと、些細な言葉の綾。
「あなたはいつもそうやって、一人で抱え込もうとする!」
「君だって、僕に相談もなしに!」
怒鳴り合い、背を向け、別々の部屋で寝た夜。
でも翌朝には、必ずどちらかが不器用な詫びのコーヒーを淹れ、仲直りのハグをした。
完璧な夫婦ではなかった。
傷つけ合い、許し合い、継ぎ接ぎだらけの愛情を、時間をかけて「信頼」という名の強靭な布へと織り上げてきたのだ。
季節は巡る。
子供たちが巣立った後の、少し広くなりすぎたリビング。
「あら、白髪が増えたんじゃない?」
「君こそ、老眼鏡がないと新聞が読めなくなってるぞ」
「失礼ねえ」
歳を取ることは、喪失ではなかった。それは、思い出という名の戦利品が増えていくことだった。
休日の朝、二人で並んで庭の手入れをする時間。
近所のスーパーまで、手を繋いでゆっくりと歩く散歩道。
「今日の特売は卵だって」
「じゃあ、今夜は卵焼きだな」
そんな何でもない会話が、宝石よりも貴重な輝きを放つようになった。
病気もした。
祈が心臓の手術をした時、精衛はずっとベッドの脇に座り、彼の古い手を握り続けていた。
「行かないで」とは言わなかった。
ただ、「まだ話したいことがたくさんあるの」と、昔話を聞かせ続けた。
麻酔から覚めた祈が、最初に見たのは彼女の涙ぐんだ笑顔だった。
「……待たせたね」
「ええ、随分と長い昼寝だったわよ」
そして、今。
瞼の裏に映る走馬灯の最後に、もう一度、最初に出会った頃の情景が戻ってきた。
あの、神話の海辺。
海の波と遊び続ける、孤独な少女。そして、それをただ見つめるしかなかった少年。
気が遠くなるような永遠の孤独。色のない世界。
そこから、二人は本当によく歩いてきた。
泥にまみれ、汗をかき、涙を流し、笑い皺を刻み込んで。
積み上げたのは石ではなく、温かな朝食の湯気であり、畳んだ洗濯物の匂いであり、祝日の乾杯の音であり、家族の寝息だった。
空っぽだった永遠の時間は、今や、溢れんばかりの極彩色の瞬間で満たされている。
(ああ、楽しかった)
心の中で、二人の声が重なった気がした。
苦しかったことも、辛かったことも、今となっては愛おしいスパイスだ。
この温もり。この重み。
これが「生きる」ということの正体だったのだ。
握った手から伝わる鼓動が、最後のメロディを奏でている。
トクン、トクン、と。
それは徐々に間隔を空け、静寂へと向かっていく。
だが、それは終わりを告げるカウントダウンではない。
素晴らしい交響曲が、万雷の拍手の中でフィナーレを迎える前の、あの美しい余韻だ。
「……祈」
「なんだい、精衛」
声は、落ち葉が触れ合うような、乾いた掠》いたら」
精衛は、夢を見るように呟いた。
「この心地よい日差しの暖かさも、あなたの手の皺の感触も……こうして二人で『終わっていく』幸せも、決して知ることはなかったわ」
視界が、ゆっくりと白く、淡い光に溶けていく。
恐怖はなかった。
ただ、長い長い旅を終えて、ようやく家に帰り着いたような安堵だけがあった。
「私……間違って、いなかったわ」
祈は、閉じかけた瞳の隙間から、隣の妻を見た。
白髪になっても、皺だらけになっても、彼女は世界で一番美しい、彼の女神だった。
彼は最後の力を振り絞り、指を絡めた。
「ああ……もちろんさ」
祈の口元に、少年のような無邪気な笑みが浮かんだ。
「永遠なんて、君が隣にいなければ……ただの罰ゲームだ」
肺の中の空気が、ゆっくりと抜けていく。
「僕のすべての選択は、君に会うため。……君と、こうして老いるためだったんだ」
祈の言葉が途切れた。
握り返す力が、ふっと緩む。
規則正しかった胸の上下動が止まり、彼の時間は、この陽だまりの中で永遠に停止した。
精衛は、夫の鼓動が止まったのを、繋いだ手から感じ取った。
悲しみはなかった。
(待ってて、祈。……すぐに行くから)
彼女は深く、満足げな息を吸い込んだ。
肺いっぱいに、この世界のアカシアの香りと、愛する家族の気配を満たして。
彼女の胸に数千年間燃え続けてきた強靭な意志の炎は、その瞬間、役目を終えた蝋燭のように、静かに、優しく吹き消された。
彼らは、太陽の光の中で、一つの愛の物語を完成させたのだ。
静寂が、二人を包み込む。
そこには死の冷徹さはなく、ただ、完成された絵画のような美しさだけがあった。
「ママ、ママ!」
庭を走り回っていた、まだ三歳になったばかりの曾孫が、ふと足を止めた。
彼は不思議そうに首を傾げ、母親のスカートの裾を引っ張った。
「どうしたの?」
母親――星月の娘が、優しく尋ねる。
曾孫は、陽だまりの中で仲良く並んでいる二人の老人を、小さな指で指差した。
「曾祖父ちゃんと曾祖母ちゃんが、寝ちゃった」
母親は微笑んで、そちらを見た。
そして、その笑顔がゆっくりと、静かな涙へと変わっていく。
「……そうね。たくさん遊んで、疲れちゃったのね」
風が吹き抜け、庭の木々から無数の枯れ葉が舞い上がった。
金色の葉が、光の粒のように空へと昇っていく。
その瞬間。
誰の目にも見えない高みで、二羽の鳥が寄り添いながら飛び立ったような気がした。
一羽は、海のような深い青色を。もう一羽は、燃えるような紅緋色を纏っていた。
二つの魂は、重力という名の肉体の鎖から解き放たれ、遥か天空の彼方――かつて彼らが降り立ち、そして今、帰還すべき懐かしい故郷へと、軽やかに羽ばたいていったのかもしれない。
地上には、ただ温かい陽だまりと、愛しき家族たちの未来だけが残されていた。
後日譚其の陸「道の果てには」まで、本編から長きにわたりお読みいただき、誠にありがとうございます。
ここに、精衛と祈の物語は、完全なる終焉を迎えました。
父・炎帝の帰還により、最後のセーフティーネットが外れた精衛は、真の「人間」として自立します。そして、彼らが最期に迎える穏やかな瞬間まで、「愛と自由」を勝ち取った二人の人生を描き切ることができました。
神の永遠よりも、人間として得た日差しの温かさ、夫婦で老いる幸せの方が勝っていた。彼らの選択が正しかったことを、孫たちの笑い声という永遠の喧騒の中で証明できたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。
改めまして、長期間のご愛読、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました!次の作品でまたお会いましょう!
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