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後日譚其の伍 人生いろいろ

数年の月日が、砂時計の砂のように静かに、しかし確実に降り積もっていった。


西安市の中心部から車で三十分ほど。

新興開発エリアに聳え立つ、セキュリティ万全の高級マンション。その最上階に近い一室が、今の林祈と精衛の城だった。

広々としたリビングには、モダンなイタリア製のその家具が置かれ、足元には毛足の長い絨毯が敷かれている。窓の外には、かつて二人で見上げた古都の夜景が、宝石箱をひっくり返したように広がっていた。

かつての中古アパートでのつつましい生活――壁から幽霊が顔を出し、隙間風に悩まされた日々――は、今やセピア色のアルバムの中の物語のようだ。

だが、この豊かな生活は、決して神の奇跡によるものではない。二人が「人間」として地を這い、汗を流し、積み上げてきた努力の結晶だった。


鏡の前で、祈はネクタイを締め直した。

その顔つきは、数年前の少し頼りなげな青年のそれとは違い、精悍さと自信に満ちている。

西安市公安局・刑事偵査支隊、重案大隊(凶悪犯罪捜査班)。

それが、現在の彼の所属だった。

副隊長という重責を担い、日々発生する凶悪事件の指揮を執る。彼の鋭い洞察力と、かつて神々との厄介事に巻き込まれ続けたことで培われた「異常事態への適応力」は、警察組織の中で異彩を放っていた。

「行ってくるよ、精衛」

「ええ。気をつけてね、祈」

キッチンから顔を出した精衛もまた、白衣の下に洗練されたオフィスカジュアルを纏い、かつての少女のような幼さは鳴りを潜め、知的な大人の女性の美しさを湛えていた。

彼女は今、父・姜石年の病院で、難病治療を専門とする内科医としてその名を馳せていた。

神代の記憶と知識は封印したが、数千年の時を生き抜いた精神的なタフさと、決して諦めない不屈の意志は、現代医学の限界に挑む最強の武器となっていた。

「あなたもね。……最近、病院の方が忙しいんでしょう?」

祈が尋ねると、精衛はふと視線を落とし、少し曇った表情を見せた。

「ええ……。妙な『熱』を出す患者が増えているの。ただの風邪ならいいのだけれど」

その時の予感は、不幸にも的中することになる。

彼らが築き上げた平穏な楽園は、音もなく忍び寄る微小な侵略者によって、脆くも崩れ去ろうとしていた。


世界が、止まった。

未知のウイルスによるパンデミック。

西安の街はロックダウンされ、喧騒は消え、サイレンの音だけが亡霊の悲鳴のように木霊するゴーストタウンへと変貌した。


病院は、戦場だった。

「ベッドが足りません! 酸素ボンベの予備は!?」

「姜先生! 302号室の患者さん、SpO2(血中酸素飽和度)が低下しています!」

「挿管急いで! こっちの手が空いたらすぐ行くわ!」

精衛は、何重もの防護服とN95マスク、その上からフェイスシールドを装着し、文字通り不眠不休で走り回っていた。

サウナスーツのような防護服の中は汗でぐっしょりと濡れ、ゴーグルが曇る。呼吸をするたびに、自分の吐いた熱い二酸化炭素を吸い込む感覚。

かつて、海に小石を運び続けた彼女にとって、徒労感とは親しい隣人だった。

だが、今の敵は「海」ではない。目に見えず、触れることもできず、ただひたすらに人の肺を蝕み、命を奪っていく悪意なき殺戮者だ。

(死なせない……一人も、連れて行かせない!)

彼女は点滴を交換し、患者の背中をさすり、家族に会えない孤独な老人の手を握り続けた。

神の力があれば、指パッチン一つでこのウイルスを消滅させられたかもしれない。

だが今の彼女は、無力な人間だ。できることといえば、科学の力と、自身の体力を削って生命維持装置を動かし続けることだけ。

それでも彼女は退かなかった。

「先生、少し休んでください! このままじゃ倒れます!」

看護師の悲痛な叫びにも、精衛は首を横に振った。

「大丈夫。私には待っている家族がいるもの。……それに、こんなところで挫けたら、あの子に顔向けできないわ」

脳裏に浮かぶのは、中川さんが命を賭して守ってくれた娘の笑顔。

その命の重みが、鉛のように重い足を前に動かしていた。


しかし。

肉体の限界は、精神の決意とは無関係に訪れる。

連日の激務から数日後。

当直明けの仮眠室で、精衛は起き上がることができなかった。

鉛のような倦怠感。節々の痛み。そして、喉の奥から這い上がってくるような熱。

(まさか……)

震える手で体温計を脇に挟む。電子音が鳴り、表示された数字を見た瞬間、彼女の視界がぐらりと揺れた。

38.9℃。

検査の結果は、陽性だった。


隔離病棟の一室。

気密性の高い扉が、プシュッという無機質な音と共に閉ざされた。

かつて医師として患者を励ましていた場所は、今や彼女自身を閉じ込める牢獄となった。

「はぁ……っ、はぁ……」

酸素マスクの中で、荒い呼吸が繰り返される。

肺が焼けつくようだ。ウイルスの増殖を、自分の細胞が悲鳴を上げて拒絶しているのがわかる。

これが、病か。これが、死の淵か。

神であった頃には決して味わうことのなかった、生物としての根源的な恐怖。

(怖い……)

独りぼっちの病室。モニターの電子音だけがリズムを刻む。

もし、このまま死んでしまったら?

祈を残して。まだあんなに小さな娘を残して。

中川さんとの約束も果たせないまま、ただの数字の一つとして処理されてしまうのか。

恐怖が、熱と共に全身を駆け巡り、涙となって目尻から溢れ出した。


その夜。

深夜二時を回った頃、窓ガラスをコツ、コツ、と叩く音がした。

精衛は重い瞼をこじ開け、首だけを動かしてそちらを見た。

隔離病棟の廊下側の窓。

そこに、見慣れた制服姿があった。

「……祈?」

彼は防護服ではなく、警察の制服のまま立っていた。

本来なら立ち入り禁止エリアだ。おそらく、職権とコネクションを総動員して、無理やりここまで入ってきたのだろう。

彼の顔はやつれ、目の下には濃い隈があった。無精髭も伸びている。

いつも冷静なエリート捜査官の面影はない。ただの、妻を心配する一人の男の顔がそこにあった。

彼は、精衛が気づいたのを見ると、ガラスにゆっくりと手のひらを押し当てた。

精衛もまた、点滴のチューブが繋がれた腕を震わせながら持ち上げ、ガラスの向こうの彼の手のひらに重ねた。

ひやりとしたガラスの冷たさ。

だが、精衛には不思議と、そこから彼の体温が伝わってくるような気がした。

「……精衛」

分厚いガラス越し、彼の声は微かだった。

だが、読唇術のように、その言葉は心に直接届いた。

『バカだな、お前は。……無理をするなと言っただろう』

彼の瞳が、潤んでいる。

「ごめ、んね……」

酸素マスクの下で、精衛は弱々しく謝った。

「でも、私……約束、守りたかったの。あなたと、あの子と……中川さんと」

それが、彼女の矜持だった。

人間として生きるということは、傷つくことを恐れずに他者と関わり、守ることだと信じていたから。

祈は、ガラスに額を押し付けるようにして、彼女を真っ直ぐに見つめた。

その瞳に宿る光は、強烈で、熱かった。

『俺は、この街を守る』

彼は、自分の胸のエンブレムを拳で叩いた。

『外のことは心配するな。ウイルスだろうが暴動だろうが、俺が全部食い止める。だから』

彼は一度言葉を切り、祈るように、そして命じるように言った。

『お前は、自分の命を守れ。……絶対に、生きて帰って来い。お前がいない世界なんて、俺には何の意味もないんだ』

その言葉は、どんな特効薬よりも強く、精衛の心臓を打ち抜いた。

そうだ。

ここが終わりではない。

神話の終わりを選んだあの日、私たちは誓ったはずだ。

白髪の老婆と老爺になるまで、くだらない喧嘩をして、笑い合って、手をつないで歩いていくと。

(まだ、終われない)

消えかけていた闘志の種火に、ごうっと風が吹き込まれた。

精衛は、霞む視界の中で、ニッと精一杯の強気な笑みを浮かべた。

「……当たり前、でしょ」

彼女の声は熱に浮かされてかすれていたが、目ははっきりと彼を捉えていた。

「神様辞めて、わざわざ人間になったのよ? ……ウイルスごときに負けるほど、安っぽい人生、選んでないわ」

祈は、マスクの下で微かに笑ったようだった。

彼はもう一度、ガラスに強く手のひらを押し当てると、敬礼をして背を向けた。

その背中は、震えてはいなかった。

彼もまた、戦場へ戻るのだ。妻がウイルスと戦うなら、夫はこの混乱した街の治安と戦う。それぞれの場所で、同じ未来を守るために。


それからの闘病は、壮絶だった。

高熱による幻覚。呼吸困難による窒息感。

何度も意識が闇に沈みかけた。

その度に、ガラス越しの祈の温度と、娘の柔らかい肌の感触、そしてかつて自分の中に溶けた中川さんの「生への執着」が、錨となって彼女を現世に繋ぎ止めた。

(生きるのよ! 食べるために! 笑うために! 愛するために!)

中川さんの声が、自分の細胞一つ一つを叱咤しているような気がした。


そして、三週間後。

隔離機関の玄関から、車椅子に乗った一人の女性が出てきた。

頬は少しこけ、肌は白いが、その瞳には澄んだ光が戻っていた。

「精衛!」

待っていた車のドアが開き、祈が飛び出してきた。

彼はなりふり構わず駆け寄り、車椅子の彼女を抱きしめた。

「……おかえり。よく、頑張った」

「ただいま、祈」

精衛は彼のジャケットの匂いを――消毒液と微かなタバコの匂いが混じった、愛しい現実の匂いを――胸いっぱいに吸い込んだ。

空は突き抜けるように青く、街路樹の緑が目に痛いほど鮮やかだった。

ただの空気。ただの光。

それらがこれほどまでに美味しく、美しいものであることを、彼女は改めて知った。

人間であることの弱さと、脆さ。

けれど、それ故に輝く、愛と意志の強さ。

精衛は、祈の腕の中で、生還の喜びを静かに噛み締めていた。



精衛が奇跡の生還を果たしてから、いくつもの季節が巡り、世界はゆっくりと、しかし確実にその呼吸を取り戻していった。

かつて街を覆っていた静寂とバリケードは撤去され、人々の笑顔と共に、林家の人生にも満開の春が訪れていた。


生死の境界線を踏み越えて戻ってきた精衛にとって、医学とはもはや単なる技術ではなく、命への深い祈りそのものとなっていた。

彼女の指先は、病巣だけでなく、患者の不安や家族の悲嘆さえも掬い上げる優しさを宿し、いつしか彼女は「難病治療の最後の砦」として、国内外から厚い信頼を寄せられる存在となっていた。

一方、祈もまた、パンデミック下の治安維持という過酷な任務を完遂した実績を評価され、今や西安市公安局・刑事偵査支隊において重要事件捜査を統括する立場にあった。

二人のキャリアは、誰もが羨むほどの成功を収めていた。

だが、彼らにとっての真のトロフィーは、職務経歴書の華々しさではない。

家に帰れば待っている、愛しい「騒音」だった。


「こら、皓然こうぜん! パパのネクタイを引っ張らないの! よだれがついちゃったじゃない!」

「あーうー! キャッキャッ!」

「もう、私がやるから! パパは星月せいげつの髪を結んであげて!」

リビングには、常に子供たちの声と足音が響いていた。

長女の星月に加え、その成長を追いかけるように誕生した長男・皓然。

四人家族となった林家の朝は、まさに戦場だ。

精衛は皓然の離乳食と格闘し、祈は星月の三つ編みの角度に苦心する。

かつて神話の海で孤独に石を運び続けた少女が、今は髪を振り乱してミルクを冷まし、子供の夜泣きにあやされている。

その慌ただしくも愛おしい「徒労」こそが、精衛が千年の時を超えて渇望し続けた、人間としての証だった。


そして、人生という物語の中でも、ひときわ鮮やかなしおりを挟むべき日が訪れた。

長女・星月の、小学校入学式である。


その日は、過去数年間の暗雲を全て吹き払ったかのような、抜けるような青空だった。

校門へと続く桜並木の下、着飾った親子連れが行き交う中、林家の一行もまた、晴れやかな表情で歩を進めていた。

「……どうかな、祈。少し、派手すぎたかしら」

精衛が、はにかむように問いかけた。

今日の彼女の装いは、特別だった。

自身のルーツである「神代の衣」を現代風にアレンジし、自らデザインして仕立てたオートクチュールのワンピース。

淡い紅緋色べにひいろの生地は、かつての炎帝の娘としての威厳を宿しつつも、柔らかなシルクの光沢が母としての優しさを醸し出している。

首元には、波を模した意匠の刺繍。炎と海、相反する二つの記憶を「美」としてまとったその姿は、周囲の保護者たちが思わず足を止めるほどに神秘的で、圧倒的な気品に満ちていた。

「いや……とても綺麗だ。誰よりも似合っているよ」

祈は、抱っこ紐の中できょろきょろと辺りを見回している皓然の頭を撫でながら、眩しそうに妻を見つめた。

「ママ、お姫様みたい!」

真新しい真紅のランドセルを背負った星月が、嬉しそうに精衛の手を引く。

精衛は目元を細め、愛娘の手を握り返した。

その小さなてのひらの温もりが、精衛の胸にある感慨を呼び起こした。

(この子は……自由だ)

校庭には、色とりどりの風船が揺れ、希望に満ちたざわめきが満ちている。

かつて自分は、「許嫁」という名の鎖に繋がれ、家と家の都合、神としての役割に縛られていた。愛することすら、運命というシナリオの一部でしかなかった時代。

けれど、目の前の星月には、そんな足枷は何一つない。

彼女の背中にあるのは、重い宿命ではなく、教科書と夢を詰め込むための空っぽのランドセルだけ。

中川さんが命を賭して繋いでくれたこの命は、今、完全に真っ白な地図を持って、彼女自身の足で歩み出そうとしているのだ。


「おーい! 星月ちゃーん!」

人混みをの向こうから、元気な声が飛んできた。

「あ! 拓宇たくうくん! それに悠然ゆうぜんお兄ちゃん!」

星月がパッと顔を輝かせて駆け寄った先には、よく知った顔ぶれが集まっていた。

薫とその夫・李(哪吒)、そして彼らの息子である拓宇。

祈の姉・願とその夫、そして彼らの息子である悠然。

親族と親友、林家にとって最も大切な「拡張家族」の集合だ。


子供たちは、大人たちの挨拶もそこそこに、早速子供だけの世界で会議を始めていた。

拓宇は、父親譲りの吊り目と、薫譲りの勝気な笑顔を浮かべた少年だ。彼は星月のランドセルを品定めするように軽く叩くと、真剣な表情で腕組みをした。

「星月、お前もいよいよ『社会』って戦場に出るんだな。いいか、学校ってのは舐められたら終わりだぞ」

彼は小学校の新入生とは思えない、歴戦の戦士のような口調で助言を始めた。

「もしクラスで変な奴に絡まれたら、言葉より先に『圧』で制圧しろ。軽く体術の構えを見せて威嚇するのが一番手っ取り早い。俺が父さんに習った『初撃必殺の構え』を教えてやるから」

拓宇の遺伝子には、間違いなく闘神哪吒の好戦的な血が流れていた。

その隣で、少し呆れたように溜息をついたのは、二つ年上の従兄、悠然だ。消防士の父親とちゃきちゃきの母親(願)を持つ彼は、すでに大人のような分別を身につけていた。

「拓宇、物騒なこと教えるなよ。学校は道場じゃないんだから」

悠然は眼鏡の位置を直しながら、諭すように星月を見た。

「星月ちゃん、大事なのはルールと安全だよ。何か困ったことがあったら、すぐに先生か公的機関……つまりお巡りさんとかに相談するのが一番だ。君のお父さんは警察の偉い人なんだから、そのコネクションを使わない手はないよ」

「コネクションって何~?」

星月はきょとんとしている。

武力による解決を説く拓宇と、公的手続きによる解決を説く悠然。

少年たちは、無意識のうちに親から受け継いだ「力」や「役割」を前提に、星月の未来を守ろうとしていた。


星月は、二人の頼もしい(?)ナイトたちの言葉に、花が咲くような笑顔で「ありがとう!」と頷いた。

そして、小首を傾げ、春風のように軽やかに、自分の心を言葉にした。

「でもね、私は戦わないし、パパにも頼まないよ」

「え?」

「だって私はね、大きくなったら『新しいお菓子』を作る人になるの!」

彼女は小さな胸を張り、ランドセルの肩紐をぎゅっと握った。

「ママが昔教えてくれた、食べた人がみんなとろけちゃうような、誰も見たことのない飴を作りたいの。甘くて、キラキラしてて、一口食べたら喧嘩してる人も仲直りしちゃうような、魔法のお菓子!」

その宣言は、神話的な武力とも、公務員的な秩序とも無縁の、あまりに平和で、個人的で、そして創造的な夢だった。

それは、かつて精衛と中川さんが、狭いアパートのキッチンで夜な夜な語り合った「ささやかな幸せ」の結晶でもあった。


拓宇は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で固まった。

「はあ? お、お菓子ぃ? なんだよそれ、そんなの何の武器にもなんねーじゃん……」

彼は理解不能だとばかりに頭を掻きむしり、顔を赤らめてそっぽを向いた。

だが、その視線は、チラチラと星月の楽しそうな横顔を盗み見ている。

「……けっ」

拓宇は悪態をつきながらも、星月のランドセルについている小さな鈴に、指先でそっと触れた。

「……ま、まあいいけどよ。その……もし、お前が作ったそのスゲーお菓子を、誰かが盗もうとしたり、不味いって文句つける奴がいたら」

彼はボソボソと、しかしはっきりと言った。

「俺がそいつの口に、泥団子でもねじ込んでやるよ。……お前の代わりに」

それは、「威嚇」というよりは、不器用極まりない「守護」の誓いだった。強さを誇る少年が、初めて「守りたい笑顔」を見つけた瞬間の、もどかしい宣言。

悠然がにやりと笑った。

「拓宇、それって『威嚇』じゃなくて、ただの『優しさ』じゃないか?」

「う、うるせー! 悠然、余計な分析すんな!」

真っ赤になって抗議する拓宇に、星月は嬉しそうに笑いかけた。

「ふふっ、じゃあ拓宇くんは私のボディーガードね! 約束!」

「〜〜ッ! ……勝手に決めんな!」


少し離れた場所でそのやり取りを見ていた精衛は、隣に立つ薫と顔を見合わせ、ふふっと吹き出した。

「あらあら。どうやら『最強の血縁』による許嫁計画、あながち無しでもなさそうね?」

薫がにやにやしながら精衛の脇腹を突く。

「もう、薫ちゃんったら。でも……」

精衛は、赤くなりながらも星月の隣を離れようとしない拓宇と、そんな彼を無邪気に頼りにしている娘の愛らしい姿を、目を細めて見守った。

「あの子たちが自分で選んで、自分たちで紡いでいく関係なら……私は何も言わないわ。ただ、応援するだけ」

「だね。……ま、うちの朴念仁ぼくねんじんには、これから長い道のりになりそうだけど!」

薫は快活に笑い、抱っこしていた赤ん坊に「あんたのお兄ちゃん、青春してるわよ」と話しかけた。


精衛は、祈の袖をそっと引いた。

祈もまた、皓然をあやしながら、子供たちの未来図を眩しそうに見つめていた。

「……ねえ、祈」

「ん?」

「私たち、本当に勝ったのね」

精衛の声は、春の陽射しに溶けてしまいそうなほど柔らかく、震えていた。

「神の因果や、運命の強制力なんてものに頼らず……ただ、人間として選択し、愛し合って。その結果が、この景色なのね」

誰かに強いられた結婚でも、役割のための出産でもない。

自分たちの意志で勝ち取った、この平凡で、かけがえのない幸福。

祈は、精衛の肩を抱き寄せ、静かに、しかし万感の思いを込めて頷いた。

「ああ。君が人間になることを選び、あの病室から生きて帰ってきてくれたからだ。……僕たちの人生は、完全勝利だよ」

彼の言葉に、精衛の目から一粒、涙がこぼれ落ちた。それは悲しみの雫ではなく、喜びのあまり溢れた心の宝石だった。


桜の花びらが舞う。

「パパ、ママ! 写真撮ろうよ!」

星月が呼びかける。

「よし、みんな集まれ! 最高の笑顔で頼むぞ!」

願がカメラを構え、大きな声で仕切る。

祈は皓然を抱き直し、精衛は祈の隣に寄り添い、星月は拓宇と悠然の間でピースサインを作った。

その背後には、目には見えないけれど、きっとスーツ姿でドヤ顔をしているかつての同居人の魂も、一緒に写っているに違いない。


シャッターが切られる音。

切り取られた一瞬は、神話の終焉と、人間の愛の永遠を、世界に対して高らかに宣言するものだった。



華やかな宴の余韻が、夜の静寂へと溶けていった頃。

街の灯りが一つ、また一つと消えゆく中で、林家のリビングだけは、ほのかな月明かりとフロアランプの温かい光に包まれていた。


子供部屋のドアは、少しだけ開いている。

そこから規則正しい、穏やかな寝息が聞こえてくる。

真新しい真紅のランドセルを、まるで一番の宝物のように枕元に置き、星月は夢の世界へと旅立っていた。隣のベビーベッドでは、皓然もまた、ミルクの香りを漂わせながら丸くなっている。その無防備な寝顔は、世界中のどんな宝石よりも美しく、そして――はかなかった。


精衛は、音を立てないようにリビングの窓辺に立ち、グラスの中のワインを揺らしていた。

視線の先にあるのは、西安の夜空。

かつて女神であった頃、彼女にとって空は「支配すべき領域」であり、時間は「永遠に続く退屈な流れ」でしかなかった。

だが今は違う。

ガラスに映る自分の顔を、彼女はそっと指先でなぞった。

目尻に刻まれた、ごく僅かな笑いじわ。肌の張り。白髪こそまだないが、鏡を見るたびに感じる「変化」。

それは、彼女が確実に時間を消費し、朽ちていく存在であることの証明だった。

「……ねえ、祈」

背後で片付けを終えた夫の気配を感じ、精衛は振り返らずに呟いた。

その声は、昼間の晴れやかな母の顔とは違い、どこか震えていた。

「あの子、あんなに小さかったのに……もう小学生よ。ランドセルが大きく見えるけれど、きっとすぐに背が伸びて、あれが小さくなってしまうわ」

祈は何も言わず、ゆっくりと彼女の隣に歩み寄った。

精衛はワイングラスをギュッと握りしめる。

「考えてしまうの。私たちは……いつか老いて、皺だらけになって、動けなくなって。そして最後は、あの子たちを残して、暗い土の下へ逝ってしまう」

かつては想像もしなかった「終わり」。

神の絶大な力を捨てて手に入れたのは、愛と自由、そして――不可避の「死」という代償だった。

「愛すれば愛するほど、怖くなるの。この温もりを置いていかなければならない日が来るなんて。……それが、人間として生きるということの、最大の悲劇だわ」

彼女の瞳が、月光を受けて潤んだ。

神話の海を埋めるという無謀な誓いよりも、ただの人間として「さよなら」を言うことの方が、今の彼女には遥かに恐ろしかったのだ。

祈は、グラスを持ったまま硬直している彼女の手を、そっと自分の手で包み込んだ。

そして、もう片方の手で、彼女の夜風に冷えた頬を優しく撫で、髪を耳にかけた。

その指の温度に、精衛の強張った肩がわずかに震える。

「……違うよ、精衛」

祈の言葉は、夜の静けさに溶け込むように優しく、けれど揺るぎない確信に満ちていた。

「それが、僕たちに与えられた、最大の祝福なんだ」

「祝福……? 死ぬことが?」

精衛が濡れた瞳で彼を見上げる。

祈は微笑み、窓の外に広がる無数の星々を見上げた。

「永遠の命には、『今日』という一瞬の輝きはない。明日が無限にあるなら、今のこの瞬間を抱きしめる必要なんてないだろう? 神様だった頃の君にとって、千年と一秒は等価だったかもしれない。でも、僕たちは違う」

彼は視線を戻し、愛おしそうに精衛の瞳を見つめた。

「終わりがあるからこそ、君が笑ったその一瞬が、あの子がランドセルを背負った今日という日が、金剛石よりも価値を持つんだ。限りがあるから、愛おしい。失われるから、美しい。……君と僕と、この子たちと過ごす『今』が、宇宙のどの星の輝きよりもまぶしいのは、それが二度と戻らない火花だからだよ」

精衛の唇が微かに開いた。

恐怖で凍えていた胸の奥に、彼の言葉が残り火のようにじんわりと広がり、温め直していく。

そうだ。

永遠に続く退屈な安寧よりも、泥にまみれ、傷つき、老いながらも、一秒ごとに燃焼するこの命の熱さこそが、私が望んだものだった。

「……祈」

「悲しまないで。僕たちは一緒に老いていく。君の最初の白髪を見つけるのは僕でありたいし、僕の腰が曲がったら、君に杖になってほしい。……そうやって枯れていく過程も全部、二人で楽しもう」


精衛はグラスをサイドテーブルに置き、祈の胸に崩れるように身を預けた。

彼の体温。心臓の鼓動。

その一定のリズムが、彼女の不安を吸い取ってくれる。

二人は言葉なく抱き合い、子供たちの寝息と重なるように、互いの存在を確かめ合った。

「永遠の時」という冷たい宝石よりも、「限りある生」という温かい土塊つちくれの尊さを、深く、深く噛み締めるように。

やがて。

祈の手が、精衛の背中をゆっくりと滑り降り、腰を引き寄せた。

耳元に触れる唇の熱さが、哲学的な慰めから、もっと本能的で、雄弁な愛の囁きへと変わる。

「……それに」

祈の声色が、少しだけ低く、艶を帯びたものに変わる。

彼は精衛の耳元に顔を埋め、甘くそそのかすように囁いた。

「僕たちはまだ、枯れるには早すぎる。……そうだろう?」

精衛の頬が、月明かりの下で紅潮した。

昼間の「母」の顔から、一人の「女」の顔へ。

彼女は上目遣いに夫を見つめ、その首に腕を絡ませると、小さく、けれど熱っぽく頷いた。

「……ええ。証明してちょうだい、祈。私たちが今、誰よりも熱く生きていることを」

「勿論だ。……寝室へ行こう」

祈は彼女をの身体を軽々と抱き上げると、子供たちの眠りを妨げないよう、足音を忍ばせて寝室へと向かった。

ドアが閉ざされる直前、隙間からこぼれた光が二人の影を一つに重ねた。

限りある命の、その一瞬一瞬を燃やし尽くすように。

愛おしき「生」を祝い、確かめ合うための、二人だけの夜が始まろうとしていた。

後日譚其の伍「人生いろいろ」をお読みいただきありがとうございます。

順調なキャリアと家庭を築いた二人を襲う、パンデミックという世界の試練。この物語は、愛と努力で手に入れた日常がいかにもろく、そして尊いものであるかを問いかけます。

死の恐怖に直面する精衛と、彼女を外から守る祈。「終わりがあるからこそ、一瞬の輝きは金剛石よりも価値を持つ」という祈の言葉が、二人の生き方を象徴しています。

後日譚もいよいよ次回が最終話です。

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