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後日譚其の肆 愛で繋ぐ命の輪

 結婚式から、一年という月日が流れた。


 西安市の中心部から少し離れた、古い街路樹が並ぶ静かな住宅街。

 その一角に建つ、築三十年ほどのマンションの一室で、祈と精衛は穏やかな朝を迎えていた。

 リビングのカーテン越しに、柔らかい陽光が差し込んでいる。

 キッチンからは、祈が豆から挽いたコーヒーの芳醇な香りが漂い、ソファでは精衛が分厚い医学専門書を膝に広げ、熱心にページを繰っていた。

 平穏そのものの、休日の光景。

 だが、この部屋には一つだけ、不動産屋の説明事項には決して記載されない「瑕疵かし」が存在した。

「……あー、もう。眩しいわね、朝から」

 不意に、キッチンカウンターの向こう側から、気怠げな少し訛りのある声が聞こえた。

 壁をすり抜けるようにして現れたのは、半透明の女性の姿だった。


 彼女の名前は、中川。

 かつて西安に進出した日系企業の駐在員として、この部屋に住んでいた日本人女性だ。

 死因は、過労死。

 異国の地で孤独に働き続け、誰にも看取られることなくカップ麺にお湯を入れたまま力尽きた彼女は、「普通のささやかな幸せも味わえなかった」という強烈な未練により、地縛霊となってこの部屋に居座り続けていた。

 二人がこの部屋に引っ越してきたのは、結婚する二年前――つまり今から三年前のことだ。

 姉の願の家に子供が生まれ、手狭になったことと、二人の職場へのアクセスを考慮しての自立だった。

 普通なら、ポルターガイスト現象に怯えて退去するところだろう。

 だが、この夫婦は「普通」ではなかった。



 三年前、引越し初日。

 ダンボールの山に囲まれたリビングで、中川は新入りの住人を威嚇しようと、もっとも恐ろしい形相でテレビの裏から這い出してきた。

『……呪ってやる……私は、休みたい……』

「あ、すみません。そこ、コンセント差したいので少し退いてもらえますか?」

 祈は、這い出てきた霊の頭上を跨ぎ、淡々とテレビの電源プラグを差し込んだ。

『え?』

「あ、幽霊の方ですね。初めまして、林です。これからお世話になります」

 振り返った精衛もまた、まるで「先住のシェアメイト」に挨拶するかのようにペコリと頭を下げた。彼女の背後には、かつての神代のオーラが微かに漏れていたのかもしれない。

 中川は、口をあんぐりと開けて固まった。

『ちょ、ちょっと待って! 私、幽霊! 地縛霊よ!? 普通、悲鳴上げて腰抜かすでしょ!? なんでそんなに事務的なのよ!』

「いや、僕たち色々と修羅場をくぐってきたもので……。あ、ちなみに僕、警察官なので、もし何か事件性のある悩みなら相談に乗りますけど」

『警察官!? いや、過労死だから事件性はないけど……なにそのメンタル! 強すぎない!?』

 あまりの二人の無反応ぶりに、逆に中川の方が堪えられなくなり、そのままズルズルと悩み相談に突入してしまったのだ。

 以来、彼女はこの特異な夫婦の「同居人」として、奇妙な共生関係を続けていた。


「……それで? 今日は一体どうしたんですか、中川さん」

 祈は、淹れたてのコーヒーを二つのマグカップに注ぎながら、苦笑い気味に尋ねた。

 中川はキッチンカウンターに肘をつき(実際には腕がカウンターにめり込んでいるが)、不機嫌そうに頬を膨らませている。

「どうしたもこうしたもないわよ! 祈くん、精衛ちゃん!」

 彼女の声は、生前のストレス社会で鍛え上げられたヒステリックな響きを帯びていた。

「私、一応この家で過労死したのよ? 『普通の幸せ』への未練だけでここにいるの。わかる? 他人の慎ましい生活をこっそり覗いて、『ああ、生きてるっていいなぁ』ってセンチメンタルに浸るのが、唯一の楽しみなのよ! それが私のゴーストライフなの!」

「は、はあ……それは存じていますが」

「なのに……なのに、あなたたち!」

 中川は顔を真っ赤にして、バン!とカウンターを叩くフリをした。

「毎晩毎晩、うるさいのよ!!」

 その一言で、リビングの空気が凍りついた。

 祈が持っていたコーヒーポットが、カタッと微かに震える。

「け、結婚する前のあの二年間は良かったわよ!? 『おやすみ』って言って、それぞれの部屋で静かに寝てたじゃない! あの頃の初々しいプラトニックな空気はどこへ行ったの!? 清らかな風だけが吹くあの部屋が好きだったのに!」

 中川の抗議は止まらない。

「それが結婚してからどうしたこと!? 特にここ最近! 壁から聞こえてくるのよ、ダイレクトに! 『愛してる、精衛』だの、『祈……』だの! 甘ったるい声が! 毎晩! 毎晩!!」

「ぶふっ!!」

 ソファで医学書を読んでいた精衛が、盛大にせた。

 彼女は慌てて分厚い本を盾にするように顔を覆ったが、その隙間から見える耳は、熟したトマトのように真っ赤に染まっている。

「な、ななな、中川さん!? そ、それは……プライバシーの侵害です……っ!」

 本の裏から、消え入りそうな抗議の声が聞こえる。

 普段は冷静沈着な医師である彼女が、ここまで取り乱すのは稀だった。

「プライバシーも何もないわよ! 私、壁の中に住んでるんだから! 逃げ場がないのよ!」

 祈も、こめかみを押さえて呻いた。

「……す、すみません、中川さん。次は……祈に頼んで、結界術で、防音の魔法陣でも張りますから……」

「魔法陣!? あんたたちのスペックはおかしいと思ってたけど、そういうオカルト対策は外でやってちょうだい! 私、いっそ隣の若いカップルの痴話喧嘩を聞いてる方がまだマシだわ! あっちは『ふざけんなテメェ!』とか言ってて情緒があるもの!」

「じょ、情緒……」

 精衛は本の影から恐る恐る顔を覗かせ、涙目で祈を見つめた。

(ど、どうしよう祈……私たち、そんなに……?)

 祈もまた、気まずさに視線を泳がせながら、小さく咳払いをした。

「と、兎にも角にも、以後気をつけます……」

「まったくもう……」

 中川は深いため息をつき、腕組みをして宙に浮いたまま、ジロジロと二人を観察した。

 そして不意に、その視線を精衛の方へ固定し、スッと目を細めた。

「……それより、精衛ちゃん」

 声のトーンが変わり、真剣な響きを帯びた。

「へ……? な、なんですか? まだ何か……?」

 精衛が身構えると、中川はふわりと彼女の目の前まで移動し、その腹部あたりをじっと見つめた。

 彼女はただの地縛霊だが、「生」への執着が強い分、生命エネルギーには敏感だった。

「最近、体の調子はどう? 悪いってわけじゃないけど……変化はない?」

「体調……?」

 精衛はきょとんとして、自分の身体を見下ろした。

 医師として自己管理は徹底しているつもりだ。過労気味ではあるが、病気の兆候はないはず……。

「少し前から気になってたのよ。あなたから……いつもと違う、『命の波長』みたいなのを感じるの」

「命の……波長?」

「そう。あなた自身のエネルギーとは別の、もっと小さくて、でも力強い……新しい灯火ともしびのような何かを」

 その言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。

 精衛の手が、無意識に自分の下腹部へと伸びる。

 白衣の下、まだ平らなその場所に、そっと掌を当てた。

「まさか……」

 その瞬間、頭の中にあった医学的なカレンダーの計算と、最近感じていた些細な体調の変化――朝起きた時の軽い眩暈めまいや、匂いへの敏感さ――が、パズルのピースのように組み合わさった。

 祈もまた、マグカップを置く音を忘れ、息を呑んで精衛を見つめた。

「ま、待ってくれ中川さん。それって……つまり……」

 霊である中川の指摘は、最新の医療機器よりも早く、そして確信を持って、この家に訪れようとしている「新しい奇跡」を予言していた。



 車が病院の地下駐車場に滑り込むまで、精衛はずっと自分の下腹部に手を当てたまま、一言も発さなかった。ただ、その表情は硬い岩のように強張っている。

「精衛、大丈夫か?」

 ハンドルを握りながら祈が声をかけると、彼女はハッとしたように顔を上げ、ぶんぶんと首を横に振った。

「だ、大丈夫よ。ただ……もし、中川さんの勘違いだったらどうしようかと思って」

「勘違いなら勘違いで、健康診断だと思えばいいさ」

 祈は努めて明るく振る舞ったが、彼自身、ハンドブレーキを引く手が微かに汗ばんでいた。


 エレベーターで上階へ向かう。

 本来なら院長室へ直行すべきところだが、姜石年院長は緊急の手術に入っているとのことだった。

 その代わりに二人を迎えたのは、祈たちにとって馴染み深い、孫慈恩先生だった。

「あら、祈くんに衛佳くん。二人揃って顔色が悪いわよ? ……お父さんを待っている間に、私が話を聞こうか?」

 廊下のベンチで、祈がおずおずと来院の理由を告げると、孫先生は目を丸くし、次にみるみるうちにその表情を花が咲くような笑顔に変えた。

「まあっ……! それは……!」

 彼は感極まったように笑みを押さえ、すぐに立ち上がった。

「よし、すぐに産婦人科へ行こう。あそこの主任は私の同期なんだ。口は堅いし、腕も確かだよ」

 彼はテキパキと内線電話をかけ、「院長先生の娘さんだから、VIP待遇で頼む!ええ、最優先で!」と頼もしく手配してくれた。


 産婦人科の診察室は、淡いピンク色を基調とした落ち着いた空間だった。

 担当の女性医師は、以前、院内の食堂で精衛が実習生たちと同じテーブルで食事をしているのを見かけ、その傲らない人柄に好感を持っていた人物だった。

「姜先生のお嬢さんですね。孫先生から聞いていますよ。さあ、リラックスして」

 冷たいジェルが下腹部に塗られると、精衛は「ひゃうっ」と可愛らしい悲鳴を上げて身を縮こまらせた。祈が横からそっとその手を握ると、ようやく彼女の肩から力が抜ける。

 部屋の照明が落とされ、モニターの光だけが二人を照らす。

「――さあ、見てください」

 医師がプローブを動かすと、砂嵐のような画面の中に、黒い空洞が現れた。

 そしてその中心に、白く、小さく明滅する光があった。

「間違いありません、姜さん。……ここを見て。トクトクと動いているでしょう?」

 医師の声が、厳かな宣告のように響く。

「妊娠8週目です。とても力強い心音ですよ」

 ドクン、ドクン、ドクン……。

 スピーカーから流れる身体の奥の音。それは、太古の海のリズムにも似ていた。

 精衛は、モニターに顔を近づけすぎて鼻先が画面につきそうになっていた。

「こ、これが……?」

 彼女の目は瞬くことすら忘れている。

 かつて神の力で大海原を埋めようとした少女。石を運び、波と戦い、自然のことわりさえ捻じ曲げようとした存在。

 けれど今、彼女の体の中で起きているのは、そんな破壊的な奇跡ではない。

 ゼロから命を紡ぎ出す、静かで、しかし圧倒的な創造の神秘。

(これが……私たちの、「生」の答え……。私の体の中に、もう一つ、心臓があるの……?)

 あまりの衝撃に、精衛はポカンと口を開けたまま、祈の手を、骨が軋むほどの力で握りしめていた。

「……すごい。祈、見て。豆粒みたい……でも、生きてる」

 その感想があまりに素朴で、そして愛おしくて、祈は涙が溢れるのをこらえながら、何度も頷くことしかできなかった。


 診察を終え、待合室に戻ると、白衣を翻して廊下を闊歩してくる一人の男性の姿があった。

 手術着の上に急いで白衣を羽織ったのだろう、少し袖が乱れている。姜石年だ。

 孫先生から連絡を受けた彼は、彼らしくもない早足で二人の元へ駆け寄った。

「精衛! 祈くん!」

「お父さん……」

 精衛が椅子から立ち上がろうとすると、姜石年は手で制し、そのまま娘の前の床に膝をつくようにして視線を合わせた。

「……本当か?」

 短い問いかけ。

 精衛は頬を染め、小さく、けれどしっかりと頷いた。そして、エコー写真を手渡す。

 姜石年の手が、震えるようにその写真を受け取った。

 その瞬間、廊下の空気がビリリと震えた。

 彼の背後に、五千年の歴史を背負う「炎帝神農」としての威厳あるオーラ、万物を慈しむ神の輝きが一瞬だけ迸りそうになり――

 しかし、それは瞬時に消え去り、ただの「おじいちゃんになりかけの父」の、崩れるような笑顔だけが残った。

「そうか。……そうか……!」

 彼は写真を胸に抱きしめ、くしゃくしゃの笑顔で天を仰いだ。

「おめでとう、精衛、祈。……私が娘から、神話の終わりではなく、人間としての命の連鎖という、これ以上ない贈り物を受け取るとはな」

 姜石年は立ち上がり、二人をまとめて太い腕の中に抱き込んだ。消毒液と薬品の匂いに混じって、陽だまりのような父の匂いがする。

「安心なさい。医療チームは私が選抜する。栄養管理も、産後のケアも、すべてこの父に任せておけ。……ああ、そうだ。女媧様にもすぐに報告しなければ。あの方はきっと、嬉しさのあまり土人形を踊らせるかもしれん」

 彼がおどけて言うと、精衛は「もう、お父さんったら」と涙声で笑った。


 病院の玄関を出ると、外は突き抜けるような青空だった。

 祈は深呼吸をして肺いっぱいにその青を取り込むと、震える指でスマートフォンを取り出した。

「……姉さんに、かけないと」

 コール音は二回も鳴らなかった。

『はいはーい! どうしたの祈? 珍しいじゃない、勤務中に』

「姉さん! ……落ち着いて聞いてくれ。大事な話があるんだ」

『ん? お金? 事故? それともまさか……離婚!?』

「違う! ……精衛が、妊娠した!」

 一瞬の静寂。

 電話の向こうの時が止まったような数秒間。

 直後、スマートフォンのスピーカーが割れんばかりの絶叫が響き渡った。

『マジでぇぇぇ!? ウソでしょ、祈! 精衛ちゃん、本当に!?!?』

 あまりの声量に、通りすがりの患者が驚いて振り返る。祈は慌てて音量を下げたが、姉の興奮は収まらない。

『おめでとう! やったあぁぁ! やったわね! 私、今、涙出てきた! ガチ泣きしてる! これで、うちのチビに遊び相手ができるじゃない! ああ、よかった、本当に良かったわ……あんたたち、いろいろ大変だったもんね……』

 後半は鼻をすする音と混じっていた。

『何か必要なものあったらすぐ言いなさいよ!? 私、全部お下がり取ってあるから! あとベビーベッド! あれ買うと高いからウチのを使いなさい! 今すぐ車出させるから!』

 その暑苦しくも温かい声は、神の威光も因果も関係ない、ただ血の繋がった家族だけが共有できる、混じりっ気なしの祝福だった。

 祈は「ありがとう、姉さん」と呟き、電話を切った後も、耳に残る姉の歓声に目頭を熱くしていた。


 夜。

 二人は静かに自宅のアパートメントへ戻った。

 リビングの照明をつけ、祈はカフェインレスのハーブティーを、自分にはコーヒーを淹れた。

 湯気が立ち上る静かな部屋に向かって、祈が声をかける。

「中川さん、いるんだろう? ……大切な報告があるんだ」

 数秒の間の後、テレビ裏の壁から、ニュッと半透明の頭が出てきた。

『何よ。またうるさくするって報告? ……まさか、もう産まれたとかじゃないでしょうね』

 中川はいつものリクルートスーツ姿だが、その顔には隠しきれないソワソワした色が浮かんでいた。きっと、昼間の会話を聞いていたに違いない。

 精衛は、マグカップを両手で包み込んだまま、ソファから中川を見つめた。その瞳は、昼間の検査を経て、以前よりずっと深みを増している。

「中川さん。あなたの言う通りだったわ。……私、お腹に赤ちゃんがいたの。心音も、ちゃんと聞こえた」

 中川の動作がピタリと止まった。

 壁から抜け出し、ふわりと空中に浮かぶその顔に、驚愕と、そして深い深い感動の波紋が広がっていく。

『……マジで。本当に……』

 彼女はゆっくりと精衛の元へ降りてくると、遠慮がちにそのお腹のあたりを覗き込んだ。まるで、壊れ物を扱うかのように。

『あんなに小さな光だったのに……ちゃんと、根付いたのね』

 中川は天井を見上げ、深く息を吐くような仕草をした。霊体に呼吸の必要はないはずなのに。

『私は、自分が生を全うできず、過労死で終わったことが、人生最大の不幸だと思っていた。愛も希望もない、ただの消耗品としての孤独な死だと』

 彼女の瞳が、月光のように潤んだ。

『……でも、今は違う。ラッキーだと、初めて思ったわ』

「中川さん……」

『神様だったあなたが、一人の人間として、愛の結晶を宿すという、この生命の連鎖の奇跡。それをこんな特等席で目撃できているなんて、なんと幸運なことだろう』

 中川は、優しく目を細め、二人に微笑みかけた。それは初めて見せる、憑き物が落ちたような穏やかな表情だった。

『おめでとう、精衛さん。そして、祈さん。……大切にしなさい、この奇跡を。私の分まで、生きて、育ててあげて』

 そう告げると、彼女は照れくさそうに背を向け、スゥッと壁の中へ溶けるように消えていった。

 祈は精衛の肩を抱き寄せた。

 神々の世界、地上の家族、そして死者の領域。

 すべての場所からの祝福が、今、この小さな部屋に満ちていた。


 翌朝。

 祈がキッチンで精衛のために白湯さゆを用意していると、背後から気配がした。

 振り返れば、いつもの定位置である壁の隙間から、中川が顔だけ半分出してこちらを見ていた。

 洗面所では、精衛がつわりの不快感と戦いながら顔を洗っている音がする。

『おやおや。未来のパパ、おはよう』

「中川さん、おはよう。……昨夜は色々と、温かい言葉をありがとう」

 祈が素直に礼を言うと、中川は「フン」と鼻を鳴らした。

『いいってことよ。ただの暇つぶしの独り言だわ。……まあ、お礼代わりに言っておくけど』

 中川はニヤリと口角を吊り上げた。

『久々に、静か~な夜が過ごせたな』

「ッ……!?」

 祈の手が滑りかけ、やかんに熱湯がこぼれそうになった。瞬時に顔が沸騰する。

『やっぱりそうなるわよねぇ。新しい命の重みってやつ? 精衛ちゃんの体を気遣って、強制的な禁欲生活スタートってわけだ』

「な、中川さんっ……!」

『当分は、壁ドンならぬ「愛の騒音」に悩まされずに済みそうで、本当に助かるわ。私の安眠のためにも、禁欲、頑張んなさいよ?』

 中川はケラケラと笑うと、

『さて、私も妊婦さんの食生活を監視するという新しい仕事に精を出すとするか。カップ麺食べようとしたら祟るわよ!』

 と言い残し、今度こそ完全に気配を消した。

 祈は真っ赤な顔で額を押さえ、呆れたように、しかしどこか嬉しそうにため息をついた。

「……かなわないな」

 白湯の入ったカップを手に、祈はリビングへ向かう。

 そこには、洗顔を終えて少しスッキリした顔の精衛が、不思議そうにこちらを見ていた。

「祈? 顔が赤いわよ? どうしたの?」

 小首を傾げる仕草は、母親になっても変わらず少女のように愛らしい。

「いや……なんでもないよ。ただ、平和だなと思って」

 神の因果も、古のアパートの地縛霊も、すべてがこの温かい湯気の中に溶け込んでいる。

 これが、自分たちの手に入れた「日常」なのだ。

 祈は微笑み、愛する妻と、まだ見ぬ小さな命へ、温かいカップを手渡した。



 十ヶ月という時間は、永遠のようでありながら、瞬きするほどの刹那でもあった。


 街路樹の緑が濃くなり、やがて枯葉が舞い、再び新芽が息吹く頃。

 精衛の腹部は、かつて海を埋めようとした小石一つ分から、確かな重みを持つ生命の揺りかごへと変わっていた。

 妊娠期間そのものは、驚くほど順調だった。

 中川さんの「遠隔監視」のおかげか、あるいは姜石年院長による過剰なほどの栄養管理のおかげか、大きなトラブルもなく予定日を迎えることができた。

 だが――「出口」への道は、過酷を極めた。


 病院の分娩室。

 消毒液の匂いと、張り詰めた緊張感に満ちた密室で、精衛は脂汗に塗れてシーツを握りしめていた。

「う、あああぁっ……!」

 喉の奥から絞り出される悲鳴は、もはや声というより、魂の軋みだった。

 精衛の身体は、神としての強靭さを失い、あまりに華奢な人間の女性のそれだ。骨盤は狭く、体力も限界に近い。

「頑張れ、精衛! 呼吸だ、呼吸を止めないで!」

 祈はマスク越しに叫び続け、精衛の手を両手で包み込んでいた。その指は白く鬱血し、感覚がないほどだが、彼は決して力を緩めない。

 彼女の痛みを肩代わりできない無力さに、祈自身の歯茎から血が滲むほど歯を食いしばっていた。

「――心拍低下! 吸引準備!」

 姜石年の怒号が飛ぶ。

 彼は今、神農としての慈愛を封印し、冷徹な医師としてメスと鉗子を握っていた。だがその額には、脂汗と共に焦燥の色が濃く浮かんでいる。

 娘の命と、孫の命。

 二つの灯火が、嵐の中で今にも消えそうに揺らめいている。

(出さないと……この子を、私が……!)

 精衛は薄れゆく意識の中で、己の身体を呪い、そして叱咤した。

 神話の海より深く、重い闇の中を、手探りで光を探す。


 そして、十数時間に及ぶ死闘の末。

 最後の力を振り絞った波が押し寄せ、世界が反転するような感覚と共に、温かい塊が体外へと滑り出した。

「出ました!」

 看護師の声が弾ける。

 本来なら、ここで産声という名の勝利のファンファーレが鳴り響くはずだった。

 だが――世界は、静寂に包まれたままだった。

「……おい」

「呼吸がない!」

 祈の全身から血の気が引いた。

 取り上げられた赤子は、泥人形のようにぐったりとしていた。肌は青白く、手足は力なく垂れ下がっている。

「蘇生開始! アンビューバッグ、急げ!」

「気道確保!」

 姜石年が赤子を奪い取るように抱え、処置台へ走る。酸素マスクが小さな顔を覆い、心臓マッサージが施される。

 その小さな胸郭は、あまりに脆く、押せば折れてしまいそうだった。

「……嘘だろ」

 祈は呆然と呟いた。

 神の因果を断ち切り、多くの人の祝福を受け、七年越しの愛を結実させた。

 それなのに。

 ただ「人間として生きる」という当たり前の権利を得るための最初の試練が、これほどまでに残酷なのか。

 精衛は虚ろな目で天井を見つめていた。

 涙すら出ない。ただ、自分の中から大切な何かが抜け落ち、永遠の闇へ消えていく喪失感だけがあった。


 ――その時だった。

 分娩室の隅。誰の視界にも入らないモニターの影から、音もなく半透明の姿が現れた。

 中川だった。

 彼女は眉根を寄せ、悲痛な面持ちで、動かない赤子を見つめていた。

 過労死した地縛霊。本来なら病院のような「生と死の境界が曖昧な場所」には近づけないはずの彼女が、どうやって此処へ来たのか。

 それは、彼女の執念以外の何物でもなかった。

 ふと、精衛の脳裏に、以前リビングで交わした会話が蘇る。


『ねえ中川さん、どうして成仏しないんですか?』

 ある夜、祈が素朴な疑問を投げかけた時、中川はコーヒーの湯気を吸い込みながら(吸うフリをしながら)寂しそうに笑った。

『エネルギーが足りないのよ。「満足した!」っていう魂の飽和状態にならないと、あっち側の引力に引っ張られないの』

『じゃあ、どうすれば……』

『方法は二つ。未練を晴らして自力で昇華するか……あるいは、他の強い命の器と融合して、魂の形を変えるか、ね』

『融合?』

『そう。例えば……生まれ来る新しい命のエネルギーの一部になるとか。でもそれって、私の「中川」としての個我、つまりエゴを完全に捨てるってことだから。……ま、私には無理ね。私は私が一番可愛いし!』


 あの時、彼女は笑い飛ばしていた。自分のエゴを捨てるなんて真っ平だと。

 だが今。

 中川は、唇を噛み締め、震える手で自分の胸元を掴んでいた。

(……違う。私は、私が可愛いんじゃない)

 彼女は見てきたのだ。

 この不器用で、優しすぎる夫婦の愛を。

 壁一枚隔てた場所から、彼らがどれほどこの子を待ちわび、どれほど未来を夢見ていたかを。

 そして何より、自分が「死にたくなかった」あの日、孤独な部屋で望んだ温かい家庭の風景を、彼らは見せてくれた。

(私には……私には叶わなかった、生の輝き。……あんたたちの絶望なんて、見たくないのよ!)

 中川の瞳に決意の炎が宿った。

(この命を、終わらせてたまるか……!)

「……行きなさいよッ!!」

 魂の叫びと共に、中川の輪郭が激しく揺らいだ。

 彼女を現世に縛り付けていた「未練」――生への渇望、やり残した仕事、食べたかったラーメン、欲しかった休日――その全てのエネルギーが、純粋な光の粒子へと変換される。

 シャラララ……という、幻聴のような鈴の音が室内に響いた。

 光の奔流は、蘇生台の上で小さくなっている赤子の胸へと、一直線に吸い込まれていった。

 それは輸血よりも濃く、電気ショックよりも優しい、魂の譲渡。

 中川の姿が、朝霧が腫れるように薄れていく。

 最後に彼女は、泣きそうな、でも最高に誇らしげな笑顔で、精衛と祈の方を見て――口パクで何かを告げた。


 直後、モニターの電子音が変わった。

『オギャアアアアアアアアア!!』

 世界の色が変わった。

 力強い、あまりに力強い産声が、分娩室の壁を震わせた。

 一度咳き込み、肺いっぱいに空気を吸い込むと、赤子はさらに大きな声で、自分の存在を高らかに宣言した。

「心拍再開! 安定しています!」

「呼吸確認! 肌の色、戻りました!」

 医師たちの歓喜の声。

 姜石年はへなへなと処置台に手をつき、肩を震わせた。

「よかった……っ、よかった……!」

 祈は崩れ落ちるように精衛の元へ戻り、彼女を抱きしめて号泣した。

 精衛もまた、戻ってきた光の熱量を腕の中に幻視しながら、溢れる涙を止められなかった。

「……聞こえるわ、祈。あの子の声……」

 看護師に抱かれ、きれいに拭われた赤子が連れてこられる。

 精衛の胸に抱かれた小さな命。

 その子は、泣き止んでそっと目を開け、不思議そうに二人を見つめた。

 その瞳の奥に、かつての隣人のような、悪戯っぽくも温かい光が一瞬だけ過ぎ去った気がした。

 彼女の孤独な魂は消滅したのではない。

「救いの光」となり、この子の血肉となり、鼓動のリズムとなったのだ。

 華奢な元・女神が、人間の魂の献身によって繋ぎ止められた赤子を抱くその姿は、まさに神が人を愛し、人が人を救うという、最も美しい円環の縮図だった。



 数日後。

 穏やかな春の午後、精衛は退院の日を迎えた。

 祈が運転する車は、かつて中川が同乗(憑依?)して騒いでいた後部座席におくるみに包まれた赤子を乗せ、ゆっくりと街を走る。

「着いたぞ」

 懐かしいアパートメント。

 階段を上り、鍵を開ける。

「ただいま」

 精衛は、腕の中の赤子に負担をかけないよう、そっとリビングへ足を踏み入れた。

 いつもの匂い。いつもの家具。

 けれど、決定的な「何か」が欠けていた。


 普段なら、鍵が開く音と共に「おかえり! やっと帰ってきたの!?」と壁から顔を出し、赤ちゃんの顔見たさに突進してくるはずの気配が、どこにもない。

 テレビの裏も、エアコンの隙間も、キッチンカウンターの上も。

 そこにあるのは、ただの無機質な空間だけだった。

「……中川さん?」

 祈が虚空に呼びかける。

 返事はない。

 もはや、彼女を感じるための霊的なアンテナにすら、何も引っかからない。

「いないわ。……どこにも」

 精衛の声が震えた。

 昨夜の分娩室での奇跡のような光。あれは夢ではなかった。

 二人はその時、痛いほどに理解した。

 あの中川が――自分大好きで、未練たらたらだった彼女が。

 自己の魂を新しい命に譲り渡すという、究極の献身を選び、そして、完全に消滅したのだと。

 精衛はその場に立ちすくみ、赤子を抱きしめたまま、ポロポロと涙をこぼした。

「どうして……。神だった私が、人間に戻って、最後は地縛霊だった彼女の魂に救ってもらうなんて……」

 彼女は、私たちの「家族」だった。

 煩わしくて、騒がしくて、でも誰よりも私たちの幸せを願ってくれていた家族。

「……僕たちの勝手な生活に文句を言いながら、最高の瞬間を共有してくれた、最高の隣人だった」

 祈もまた、キッチンカウンターの、いつも彼女が肘をついていた(フリをしていた)場所を見つめ、声を詰まらせた。

「ありがとう」も、「さよなら」も、言えなかった。


 その重苦しい静寂を破るように、玄関のドアが静かに開いた。

「――嘆くのはやめろ、祈。そして、精衛」

 現れたのは、李だった。

 彼は退院のサポートに駆けつけたわけではないようだ。手にはお祝いの品もなく、ただ静謐せいひつな空気を纏ってそこに立っていた。

 彼は出産の一部始終を見届け、その後、この空っぽになった部屋の気配を確認しに来ていたのだ。

 精衛と祈は、泪目のまま顔を上げた。

 李はリビングの中央まで歩み寄ると、二人を一瞥し、いつもの皮肉めいた冷笑ではなく、揺るぎない「ことわり」を説く者の顔で語りかけた。

「そんな感情を、抱き続けるな。……それは中川に対して、無礼というものだ」

「李……」

「よく聞け。彼女は、消滅したくて消滅したわけではない。かといって、犠牲になったわけでもない」

 李は、眠っている赤子に視線を落とした。

「彼女は、お前たち夫婦の愛と、その幸福な日常を特等席で目撃し続けた。それによって、彼女自身が『孤独な死』という呪縛から解放されたのだ。彼女は救われたのだよ、お前たちによって」

 李の言葉は、静かな水面に広がる波紋のように、二人の心に染み渡っていく。

「そしてその恩返しとして、彼女は自らの意志で、お前たちの子供を救うことを選んだ。それは取引でも犠牲でもなく、彼女が最後に勝ち取った『誇りある生』の証だ」

 李は、赤子の頬を少しだけ指先で突き、ふっと表情を緩めた。

「彼女は今、魂の輪廻へと還り、初めて安らかな死を迎えた。……お前たちが彼女の献身を『悲劇』として嘆き続けたら、彼女が最後に命を燃やして果たした願いが、色あせてしまうだろう。彼女の魂の輝きを、涙で曇らせるな」

 李の言葉は、悲しみを断ち切る鋭い刃でありながら、同時に中川の最期を「救済」として定義し直す、あたたかい光でもあった。

 そうだ。彼女は不幸ではなかった。

 最後に「ざまあみろ」と運命に笑って、勝って逝ったのだ。

 精衛はハッとして涙を拭い、大きく息を吸い込んだ。

 胸のつかえが取れ、代わりに温かい感謝の念が満ちてくる。

「……ええ。そうね。ありがとう、李」

 精衛は愛おしそうに腕の中の我が子を見つめた。

「私たちは、この子の命と共に、中川さんの『生きたかった願い』も、大切に繋いでいくわ。……この子が笑うたびに、彼女も一緒に笑っていると信じて」

「ああ。……きっと、彼女なら『教育ママ』になって、夢の中で宿題を監視しに来るかもしれないな」

 祈もまた、少しだけ笑みを浮かべ、赤子の頭を撫でた。


 その時、赤子がふにゃりと身体を動かし、小さく鼻を鳴らした。

 その寝顔は安らかで、どこか満足げで。

 そして不思議なことに、祈が淹れたてのコーヒーの香りが漂い始めた途端、さらに深くリラックスしたようにスヤスヤと寝息を立て始めた。

 まるで、オフィスの静寂とコーヒーと休息をこよなく愛する、誰かの面影を宿しているかのように。

 二人は顔を見合わせ、窓の外の澄み渡る空に向かって、心の中でそっと呟いた。

(おやすみなさい、中川さん。……そして、ありがとう)



 季節は巡り、鮮やかな紅葉が石畳の歩道を埋め尽くす晩秋。

 世界は、かつての激動が嘘のように、穏やかな日常の呼吸を取り戻していた。

 昼下がりの公園。

 木枯らしがブランコの鎖を微かに揺らす音と、遠くで遊ぶ子供たちの歓声だけが響く静寂の中で、精衛はベンチに腰を下ろしていた。

 膝の上には、厚手のカシミヤのブランケットにすっぽりと包まれた、小さな命の重みがある。

 ふわりと鼻をくすぐるのは、哺乳瓶から立つ甘いミルクの湯気と、乾いた土や枯れ葉が混じり合った、秋特有の少し寂しくて懐かしい匂い。

 精衛は、眠っている我が子の頬を指先でそっと撫でた。その肌はマシュマロのように柔らかく、触れるだけで指先から心が溶け出しそうになる。

「……よく寝てるね、二人とも」

 隣から聞こえた声に、精衛は顔を上げた。

 そこに座っているのは、マフラーに顔をうずめた薫だ。彼女の腕の中にもまた、もこもことした防寒着に包まれた男の子が、すやすやと寝息を立てている。

 夫である李――哪吒との間に生まれた、元気な男の子だ。

 二人の母親の間に流れる空気は、極めて穏やかで、そしてどこか満たされていた。

 かつては世界の存亡をかけた戦いで絡まった二人が、今はこうして「ママ友」として公園でおしゃべりをしている。その事実が、精衛には何よりも尊い奇跡に思えた。

「ねー、衛佳ちゃん」

 薫は、自分の子のフードを直しながら、少し呆れたように、けれど楽しげに声を潜めて言った。

「聞いてよ。うちのたっくんったらさ、最近ホント笑えるの」

「李くんが? どうしたの?」

「この子が夜泣きするじゃない? そうするとね、寝ぼけてるのか何なのか、必ず『静かにしろ!』って神様モードになるのよ! 怒ってるんじゃなくて、条件反射で『魔を払う』みたいな声出すの! 覇気で赤ちゃん泣き止ませようとするって、どう思う!?」

 薫が身振りを交えて訴える姿に、精衛は思わず吹き出した。

 三面六臂の闘神が、オムツ一丁の赤子の夜泣きに対して「喝!」を入れる光景が容易に想像できたからだ。

「ふふっ……あはは! 李くんらしいわね。悪気がないのが一番タチが悪いわ」

「でしょー? もう、教育に悪いったらありゃしない。……で、衛佳ちゃんとこの祈くんはどうなの? あの子、真面目だし育面イクメンなんでしょ?」

 話を振られ、精衛は苦笑しながら視線を遠くにやった。

「うーん……それがね。祈も祈で、困ったものなのよ」

 精衛は、昨夜の出来事を思い出して肩をすくめた。

「この子が夜中に火がついたように泣き出すとね、祈ってば、狸寝入りを決め込むの」

「えっ、祈くんが? 意外!」

「しかもね、揺り起こすと薄目を開けて、こう言うのよ。『……通報か? しかし本官は非番だ。管轄外の事件には介入できない……』って」

「あはははは! 何それ、警察官ジョーク!? 言い訳が公務員すぎる!」

 薫が手を叩いて爆笑する。その声に驚いたのか、精衛の腕の中の赤子が「ふぇっ」と声を上げかけたため、二人は慌てて「シーッ」と口元に指を当て、再びクスクスと笑い合った。

 冷たい秋風さえも温めるような、平和な時間。

 しばらくして笑い声が収まると、薫は少し身を乗り出し、二人の赤子を交互に見比べた。

「それにしてもさあ……」

 彼女の声から、ふと茶目っ気が増した。

「うちの子、男の子じゃん? で、衛佳ちゃんとこの子は女の子。……ねえ、『許嫁いいなずけ』にしちゃわない?」

「え?」

 精衛は目を丸くした。

 薫は、素晴らしいアイデアを思いついたと言わんばかりに目を輝かせている。

「だってさ! 片や人類の守護者たる警察官と炎帝の娘の子供、片や最強の闘神・哪吒の息子だよ!? 神様の血を引く子供同士、これぞ『最強の血縁』って感じじゃない? 私たち親同士も仲良しだし、もうこれ運命ってことで良くない!?」

 薫にとっては、それは軽口だった。

 友人同士の子供が結婚したら楽しいね、という、ありふれた夢想話。


 だが。

 その「許嫁」という二文字が鼓膜を叩いた瞬間、精衛の心臓がドクリと重く跳ねた。

 笑顔が、無意識に引きつった。

 脳裏の奥底にある、決して開けてはいけない扉が、その言葉を鍵としてギギギと開いてしまったからだ。

(……許嫁。定められた、運命の相手)

 視界が揺らぎ、秋の公園の風景が一瞬、荒れ狂う太古の海と、炎の赤に染まった。

 そこには、苦渋に満ちた顔でこちらを見つめる一人の青年の姿があった。

『陽』。

 かつての祈の前世であり、精衛の「許嫁」と定められていた炎帝の臣下。

 神代の時代、「家と家」「血と血」「役割と役割」によって縛り付けられた関係。そこには個人の意志など介在する余地はなかった。

 あの日、自分たちは「許嫁」という鎖に繋がれ、その結果、愛し合うことも憎み合うことも許されず、ただ悲劇的な死と別離を迎えた。

 運命とは、なんと残酷で、冷たく、血の味がするものだったか。

(運命の鎖。……いいえ)

 精衛の手が、無意識に強くなる。

 厚手のブランケット越しに伝わる、我が子の小さな心臓の鼓動。

 ドクン、ドクン。

 その音は、かつての悲劇の鼓動ではない。祈と精衛が、神話を敵に回してでも選び取り、勝ち取った「自由意志」の結晶だ。

(絶対に、この子を『運命』なんていう見えない鎖で縛らせはしない)

(誰かの因果や、親の都合や、ましてや『神様の子供』なんていうレッテルで、この子の人生のシナリオを勝手に書き決めたりさせない)

 私の娘は、誰のものでもない。彼女自身のものだ。

 彼女が誰を愛し、誰と生き、あるいは誰とも生きないことを選ぶのか。

 それは全て、彼女自身がその足で歩き、その目で見つけ、その心で決めるべき聖域なのだ。

 かつて自分が渇望し、数千年の時を経てようやく手に入れた「選択の自由」。

 それを、この子には最初から持たせてあげたい。

 胸の内で渦巻いていた暗い記憶は、やがて熱い母性の誓いへと変わり、精衛の表情を凛としたものへと変えた。

 彼女は深く息を吸い込み、強張っていた指の力を緩めると、ゆっくりと薫の方へ向き直った。

「……ふふ。ごめんね、薫ちゃん」

 精衛の声は、秋の日差しのように優しく、けれど岩のように揺るぎなかった。

「その話、とっても光栄だけど……なしにしましょ」

「えっ? や、やっぱり急すぎた?」

「ううん、そうじゃなくて」

 精衛は愛おしそうに娘の寝顔を見つめ、言葉を紡いだ。

「この子にはね……自分の意志で、自由に、自分の幸せな未来を選ばせてあげたいの」

 過去の痛みを、希望への教訓に変えて。

「私たちが味わったような、最初から決められたレールや、理不尽な運命からは……母親として、命を懸けてでも守ってあげたいから」

 その言葉の端々には、薫の想像も及ばない数千年の重みと、血を吐くような祈りが込められていた。

 薫はハッとして、精衛の目を見た。

 そこにあるのは、ただの優しいママ友の顔ではない。かつて波を埋めようとした不屈の魂を持つ、一人の強い女性の瞳だった。

「あ……」

 薫は、自分の軽口が踏み込んでしまった領域の深さに気づき、気まずそうに、そして感心したように頭をかいた。

「……そっか。そうだよね。ごめんごめん! 私、単純に『漫画みたいで素敵!』とか思っちゃって」

 彼女は苦笑し、ベンチの背もたれに体を預けて空を仰いだ。

「衛佳ちゃんらしいわ。……うん、確かにそうだ。運命なんて、親が決めるもんじゃないし、自分で作んなきゃ意味ないもんね! よーし、私もそうする! たっくんにも『覇気で進路指導すんな』って言っとく!」

「ふふ、ええ。ぜひそうしてあげて」

 空気が緩み、再び穏やかな時間が戻ってくる。

 精衛は、腕の中の娘を抱きしめ直した。

 いつかこの子が大きくなって、誰かを愛する日が来るかもしれない。それが薫ちゃんの息子かもしれないし、全く知らない誰かかもしれない。

 あるいは、誰も選ばずに空を飛ぶことを選ぶかもしれない。

 どんな未来であれ、それが「彼女自身が選んだもの」である限り、私は全力で祝福しよう。

 ――それが、私が母として最初に贈る、最高のギフトだ。


 その時。

 木漏れ日が二つの小さな顔を照らした。

 精衛の娘と、薫の息子。二人の赤子が、まぶしさに反応したのか、あるいは母たちの誓いを聞き届けたのか、同時にふにゃりと口元を緩め、天使のような微笑みを浮かべた。

 その笑顔は、因果も運命も関係ない、ただ純粋な「生」の輝きそのものだった。

 精衛もまた、つられるように微笑み、晩秋の澄んだ空を見上げた。

 風が吹き抜け、鮮やかな落ち葉が舞い上がる。

 冬はもうすぐ其処まで来ているけれど、この腕の中にある温もりがあれば、どんな寒さも怖くないと、そう思えた。

後日譚其の肆「愛で繋ぐ命の輪」をお読みいただきありがとうございます。

新たな命の誕生は、喜びと同時に試練ももたらします。この回では、悲しみや犠牲と思える出来事が、実は「救済」であり、次の命へと繋がる希望であったことを描きました。

そして、精衛が母親として誓う「自由な未来」への強い決意。かつての自分とは違う、母親としての彼女の選択に注目していただければと思います。

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