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後日譚其の参 幸せへ踏み出した歩幅

 これは、今から三年前――二人がまだ高校に入学して間もない、肌寒い春の日の記憶だ。


 夕食を終え、食器を洗う水の音が止んだ頃、精衛は洗面所の白いタイルの上で凍りついていた。

 下腹部に走る鈍い痛み。そして、下着に付着した鮮やかな赤。

 血だ。

(……血? どこかで怪我をしたの?)

 精衛は震える手でスカートの裾を握りしめた。

 記憶を巡らせる。敵襲はない。転んだ覚えもない。鋭利な刃物に触れた記憶もない。

 それなのに、自分の体から、生命の源である血が流れ出している。

(神の肉体には、こんな不完全で不規則な現象があるはずがない……)

 洗面所の鏡に映る自分の顔はろうのように青ざめ、呼吸は浅く、速くなっていた。

 恐怖が、冷たい蛇のように背骨を這い上がってくる。

 神力を失い、人間という脆弱な器に押し込められて以来、精衛は自身の体の変化に対して過剰なほど神経質になっていた。ほんの少しの痛み、少しの不調が、「神性の完全なる喪失」や「死」への前兆に思えてならないのだ。

(まさか、私の命が……もう終わりを告げようとしているの? この器は、神の魂を支えきれずに崩壊しているの……?)

「う、ぅぅ……」

 パニックで視界が明滅する。思考回路がショートし、ただ「死」という一文字が脳内を埋め尽くす。


 その時、リビングから誰かが近づいてくる足音がした。

「精衛? なかなか戻らないけど、大丈夫か? お茶淹れたけど……」

 無防備にドアが開かれた。

 そこに立っていたのは、マグカップを片手に持った祈だった。

「い、祈……!」

 精衛は弾かれたように振り返った。

 その顔は涙で濡れ、絶望に歪んでいる。そして、彼女の足元には、処理しきれていない赤い痕跡。

 祈は一瞬で状況を理解し――いや、正確には、事態の深刻さではなく「種類」を察知し、瞬時にして耳の先まで真っ赤になった。

「あ……!」

 彼は視線を泳がせ、慌てて背中を向けそうになり、けれど精衛のあまりの動揺ぶりに足を止めた。

「ど、どうしよう、私、おかしいの! 体から血が……止まらないの! 私、壊れちゃったのかもしれない……!」

 精衛は祈の服の裾を掴み、すがるように叫んだ。

「わ、精衛、ちょっ、声が大きい……! 落ち着けって!」

 祈は動転しながらも、廊下に響く声を止めようとドアを閉めた。

 彼にとって、これはあまりに未知で、そして不可侵の領域だった。保健体育の授業で知識としては知っている。だが、目の前で泣きじゃくる少女――それも自分が好意を寄せている相手――の「それ」に、男としてどう対処するのが正解なのか、経験則が皆無だったのだ。

 祈の狼狽えぶりを見て、精衛の絶望はさらに深まった。

(祈まで動揺している……やっぱり、これは異常事態なんだわ。私はやはり、人間として不完全な欠陥品になってしまったの……?)


「なに、二人して洗面所にこもってんのよ」

 膠着した空気を破ったのは、呆れたような声だった。

 ドアが静かに開き、願が顔を覗かせた。彼女は状況を一瞥いちべつすると、ふっと肩の力を抜き、この場で唯一の冷静な大人として振る舞った。

「姉さん……!」

 祈が救世主を見るような目で姉を見る。

 願は弟の背中をポンと叩き、顎で廊下を指した。

「あんたはあっち行ってなさい。女の子同士の話だから」

「あ、ああ……頼む」

 祈は逃げるように――けれど心配そうに何度も振り返りながら――リビングへと退散していった。


 二人きりになった洗面所で、願は優しく精衛の手を取った。

「さて、精衛ちゃん。……初めてなのね?」

「願お姉さん……私、死ぬんですか? 神の力が消えたせいで、肉体が維持できなくなって……」

 涙目で訴える精衛を見て、願は小さく吹き出しそうになるのを堪えた。

(また始まったわね、この子の不思議ちゃん設定……)

 願は、精衛が本当に神話の鳥だとは微塵も思っていない。彼女の中での精衛は、「辛い過去のショックで、自分を神様だと思い込むことで心を守っている、ちょっと痛々しくて可愛い中二病の女の子」という認識だった。

 だから彼女は、その設定を否定せず、あえてその文脈に乗ってあげることにした。

「大丈夫よ、精衛ちゃん。これは『神性の崩壊』なんて恐ろしいものじゃないわ」

 願は精衛を洗面所から連れ出し、リビングのふかふかのソファに座らせた。そして棚から生理用品のポーチを持ってくると、まるで魔法の道具でも見せるように、実物を取り出して見せた。

「使い方はね、こうやって……」

 手際よく説明し、温かいブランケットを精衛の膝にかけてやる。下腹部の痛みを和らげるためのホットミルクも用意された。

 その手つきは魔法のように鮮やかで、精衛の強張っていた心を少しずつ解きほぐしていく。


 一通りの処置を終え、温かいミルクを一口飲んだ精衛は、ようやく人心地ついた。

 けれど、不安は消えない。

(私は、神だったのに。こんな不完全で、面倒で、痛みを伴う現象が毎月訪れるなんて……。これは、神性喪失の代償なのだろうか。神の因果が私を蝕んでいるのか――)

 マグカップの水面を見つめ、ブツブツと重い言葉を呟き始めた精衛の頭に、ふわっとした感触が乗った。

 顔を上げると、願が慈愛に満ちた目で彼女の頭を撫でていた。

「もう、精衛ちゃん。そんなに怯えなくていいの。神様の因果とか呪いとか、そういう大げさなことは一旦忘れて」

 願は屈み込み、精衛と視線の高さを合わせた。

「これはね、あなたが女性として成長した、ただの温かい証拠よ。あなたが人間としてちゃんと生きている、という生命のしるしなの」

「生命の……徴……?」

「そう。痛みがあるのは辛いけど、それはあなたの体が将来、新しい命を育む準備を始めたってこと。素晴らしい機能なのよ」

 願は悪戯っぽく片目を閉じた。

「これであなたは、紛れもなく『私たちと同じ女性』になった。もう『神様』じゃなくて、ただの女の子の仲間入りね」

 そして、最高に優しい笑顔で告げた。

「ようこそ、こっちの世界へ」


 その言葉は、温かいミルクのように精衛の胸に染み渡った。

 不完全さへの恐怖が、「人間としての証」という肯定に変わっていく。

 神でなくなったことは喪失ではない。新しい「生」への変化なのだと。

 精衛は、膝上のブランケットをぎゅっと握りしめ、照れくさそうに、けれど安堵したように小さく笑った。

「……ありがとうございます、願お姉さん。人間の体って、不思議ですね」

「ふふ、でしょ? 結構面倒くさいけど、悪くないわよ」

 キッチンの方から、気まずそうに様子を伺っていた祈が、二人の笑い声を聞いてようやくホッとした表情を見せた。

 まだ少しだけ冷たい春の夜。

 その記憶は、精衛にとって「自分が人間として生きている」ことを実感させる、何よりも鮮烈で、そして愛おしい痛みとして心に刻まれていた。



 ――精衛が、その温かい記憶をふと呼び覚ましたのは、今、目の前で祈が差し出した、一つの小さな箱を見たからだった。


 窓の外では、雪がしんしんと降り積もり、世界を白く染め上げている。

 街はクリスマスのイルミネーションに彩られ、どこか浮き足立った幸福な空気が流れていた。

 今日は、彼らが恋人として結ばれてからちょうど三年目の、クリスマス・イブ。

 二人はそれぞれ、目標としていた大学へと進学していた。精衛は医学部、祈は法学部へ。

 あの日、不器用に誓い合った「異なる道」は、今や確かな「軌道」となって二人の足元に伸びている。


 大学近くのカフェの奥まった席。

 テーブルの上には、二人の大学の図書館で借りた、分厚く無骨な専門書が乱雑に積まれていた。

 解剖学の図鑑と、刑法の六法全書。

 色気も何もないその光景こそが、夢に向かって必死に走り続けている二人の「今」を象徴していた。

 そんな本の山の横に、祈が、そっとベルベットの小さな箱を置いた。

 深紅の布張り。その小さな四角形が、世界中のどんな宝石よりも重厚な存在感を放っている。

「衛佳。……メリークリスマス」

 祈の横顔は、緊張で強張っていた。

 彼がこれほど固い表情を見せるのは、高校時代、精衛に初めて想いを告げた時以来かもしれない。

 喉仏が上下に動くのが見えた。

「僕たちは、高校時代に進路を決めた時、『異なる道を選び、一つの未来を目指す』と誓った。……あれから三年。僕は、確信したんだ」


 箱の蓋が、ゆっくりと開けられた。

 中には、決して派手ではないけれど、洗練されたデザインの銀色のリングが収まっていた。

 小さなダイヤモンドが、カフェの暖色系の照明を浴びて、七色の光を放っている。


 祈は深く息を吸い込み、公の場では滅多に呼ばない、彼女の「本当の名前」を、万感の愛を込めて呼んだ。

「精衛。……僕と、結婚してください」

 時が止まったような気がした。

 周囲の客の話し声も、店内に流れるジャズのBGMも、すべてが遠い彼方へ消え去った。

 精衛の脳裏に、ふと、三年前のクリスマスの記憶が蘇る。


 あの時はまだ、二人とも制服を着ていた。

 神話の騒動に巻き込まれ、傷つきながらも互いを守り抜いた冬。

 初めて恋人になった夜、大きなクリスマスツリーの下で、凍えるような寒さの中で交わした初めての口づけ。

 彼の唇の、驚くほどの熱さと柔らかさ。

『ずっと、一緒にいよう』

 震える声でそう言った少年の面影は、今、目の前にいる青年の確固たる決意の表情と重なった。

(ああ……夢じゃないんだ)

 精衛は、震える手でそのリングを受け取った。

 視界が滲む。涙が一粒、リングの上に落ちて弾けた。

 かつて海を憎んでいた少女は、今、愛の海に溺れるほどの幸福を感じている。

 精衛は椅子から立ち上がり、祈の胸に飛び込んだ。

 彼の匂い、彼の体温。すべてが私の帰る場所だ。

「……はい。はいっ……!」

 言葉にならない嗚咽と共に、精衛は何度も頷いた。

 祈の腕が、精衛の背中を強く抱きしめ返す。

 だが、その抱擁には、どこか禁欲的な節度があった。

 二人は、互いの体温を感じながら、ある一つの「誓い」を、改めて心に刻んでいた。

 それは、一線は決して越えないという、純粋で神聖な愛の誓い。

 快楽のためではなく、魂の結合としての結婚を迎えるその日まで、互いの身体と心を清らかに保ち、ただひたすらに夢を追うという、二人だけの約束。

 精衛は、涙に濡れた顔を上げ、祈を見つめた。

「私も、愛しています、祈。……私たちは、正式に夫婦になるその日まで、この神聖なる関係を守り、お互いの未来を懸命に築き上げる。そう、誓いましょう」

 今の私たちに必要なのは、愛の証明としての行為ではない。

 お互いが、お互いの誇りになれるような「自分」を完成させることだ。

 祈は、愛おしそうに精衛の涙を指で拭い、深く頷いた。

「ああ、誓うよ。……それが、永遠を超えた愛の、最も美しい形だと信じているから」

 窓の外の雪は、まるで二人の潔白な誓いを祝福するように、その白さを増して降り積もっていった。



 その誓いから、さらに約三年の月日が流れた。

 時間は、ある時は残酷に、ある時は慈悲深く過ぎ去っていく。

 二人の学生生活は、甘いデートの時間よりも、図書館での自習や実習室での訓練に費やされた時間の方が遥かに長かった。

 眠れない夜もあった。逃げ出したくなるようなプレッシャーに押しつぶされそうになった日もあった。

 だが、その度に互いの存在が支えとなった。

 医学書の山に埋もれながら、ふとスマートフォンの画面を見れば、そこには交番勤務の実習で泥だらけになっている彼の写真がある。

『お互い、頑張ろうな』

 その短いメッセージだけで、精衛はまたペンを握り直すことができた。

 そして、二人は猛勉強の末にそれぞれの目標を達成し、大学を卒業。

 祈は晴れて警察官の制服に袖を通し、精衛は医師としての白衣を身に纏い、それぞれの道を歩み始めていた。


 ――そして、二人が出会い、愛を育んで七年目の春。ついにその日が訪れた。

 結婚式、当日。

 式場は、天井が高く、ステンドグラスから極彩色の光が降り注ぐ、厳かで温かいチャペル。

 パイプオルガンの調べが、石造りの壁に反響し、天上の音楽のように降り注いでいた。

 控室で、精衛は鏡の中の自分を見つめていた。

 純白のウェディングドレス。繊細なレースがあしらわれたヴェール。

 かつて「神の娘」だった頃の装束よりも、遥かに美しく思えるのはなぜだろう。

 それはきっと、このドレスが「人間・姜衛佳」として、自らの意志で選び、自らの足で歩んできた人生の集大成だからだ。

(私……本当に、お嫁さんになるのね)

 普通の女の子として生まれ、普通の女の子として恋をし、そして今日、最愛の人と結ばれる。

 神話の奇跡なんかよりもずっと奇跡的な「普通」の幸せが、今、ここにある。

 胸が高鳴る。

 かつてないほどの幸福と、ほんの少しの緊張。

 それは、これから始まる新しい人生への、武者震いに似た高揚感だった。

「……時間だね」

 ドアが開く音と共に、父の声がした。

 精衛は、大きく深呼吸をして、鏡の中の自分に極上の笑みを向けた。

 さあ、行こう。

 私の、ヒーローが待つ場所へ。


 控室のドアがノックされ、父――姜石年が入ってきた。

「お父さん」

「綺麗だよ、衛佳」

 父は眩しそうに目を細め、慣れないタキシードの袖を少し気にしながら近づいてきた。

「……あいつの待つ場所まで、エスコートさせてもらえるかい?」

「はい、喜んで」

 精衛は父の腕に手を回した。その腕は大きく、温かく、そして人類の歴史を背負ってきた偉大な逞しさに満ちていた。

 チャペルの扉が開く。

 その瞬間、ステンドグラスを透過した極彩色の光が、バージンロードを祝福のカーペットのように染め上げていた。

 パイプオルガンの音が響き渡る中、精衛は父と共に一歩ずつ歩みを進める。

 祭壇の前で待つ新郎――林祈。

 タキシードに身を包んだ彼は、もう少年の顔をしていない。精衛を、そして市民を守るという覚悟に満ちた、一人の男の顔をしていた。

 彼と目が合う。それだけで、心臓が甘く痺れる。

 だが、精衛の視界の端に映る光景は、とても「普通の結婚式」とは呼べないものだった。

 祭壇の中央に立ち、司会として進行を待つのは、李――いや、哪吒だ。

 タキシードを完璧に着こなしているが、彼が纏っているのは常人のそれではない。三面六臂の闘神としての威圧感、冷徹で神々しい「三太子」としての覇気が、あえて極限まで抑制されながらも、空間の密度を変えてしまっている。

 彼が一瞥するだけで、ざわついていた空気は氷結したように静まり返る。


 そして、参列席。

 最前列に座る「花嫁の母代わり」の女性――女媧様。

 現代的なフォーマルドレスを身に纏っているが、その肢体から溢れ出るオーラは隠しようがない。人類を作った母としての無限の慈愛と、土塊から人を造り出した創造主としての絶対的な美。彼女が微笑むたびに、チャペル内の花々が一斉に色めき立つような錯覚さえ覚える。

 さらにその後ろ。

 普段は街で見かけるような人々、あるいは遠い親戚だと言って集まった人々。

 しかし精衛には分かる。彼らの多くが、かつて神話の時代に名を馳せた仙人や神々が、数千年ぶりに人間の姿を借りて降り立った姿であることを。

 彼らは懐かしげに、あるいは興味深げに、かつての「炎帝の娘」の晴れ姿を見守っている。

(すごい……神代の同窓会みたい)

 精衛が苦笑しそうになった時、ふと、新郎側の最前列に座る人物が目に入った。

 義理の姉となる、願だ。

 彼女は、李の隣に座る薫の腕を掴んだまま、口を半開きにして固まっていた。

 願の視点では、この光景は「理解不能な特撮映画」だった。

 さっき、控室で挨拶をした時のことだ。

『初めまして、新婦の母代わりの女媧と申します』

 そう言って微笑んだ美女の後ろに、後光が見えた気がした――いや、物理的に光っていた。

 さらに、普段はただのイケメンだと思っていた李が、祭壇に立った瞬間、背後に蓮の花の幻影と炎の車輪が見えた気がした。

 そして何より、弟の結婚相手の父親である姜院長。彼が先ほど、参列に集まった不思議な老人たちと交わしていた会話が耳に入ってしまった。

『いやあ、数千年ぶりですな、炎帝陛下』

『陛下はやめてくれ、今はただの医者だよ』


 願の思考回路は、音を立てて崩壊した。

(え……? リ、李くん……? さ、さっき、『人類の創造主』って紹介された人、本当にあの神話の『女媧』なの……? 炎帝って……あの炎帝神農!?)

 顔面蒼白で、隣の薫を見る。

「ね、ねえ薫ちゃん……これ、何かのドッキリ?」

 しかし薫は、満面の笑みで拍手をしている。

「ううん、本番だよ祈のお姉さん! たっくん、司会似合ってるよねー! 神様オーラ全開でカッコいい!」

「神様オーラって……あんた、知ってたの!?」

「うん! もうずっと前から!」

(え、じゃあ……精衛ちゃんの中二病設定って、全部……)

 願の脳裏に、過去七年間の記憶が走馬灯のように駆け巡る。

『私、昔は鳥だったんです』

『海を埋めるために石を運んでいたんです』

『お父さんは薬草の神様なんです』

 それら全ての言葉に対し、自分は「うんうん、そうなんだー(可愛い設定だなぁ)」と生温かい目で頷いていた。

(全部、ガチだったのオオオオオオオ!?!?)

 願はあまりの衝撃に、白目を剥きかけて石像のように固まった。


 そんな願の前の席。

 花嫁を送り届けた姜石年――炎帝が、席に戻ろうとして、硬直している願に気付いた。

 彼は困ったように眉を下げ、そっと願の肩に手を置いた。

「……驚かせてすまないね、お姉さん。これが我々の、本当の姿なんだ」

 その手から伝わるのは、圧倒的な「叡智」の温もりだった。もはや疑いようがない。この人は、人類を導いてきた始祖の一人だ。

「えっ? ……ウソ!? マジ……ウチの弟が炎帝の婿になるなんて、マジかよ……」

 願は蚊の鳴くような声で呟き、再びフリーズした。キャパシティオーバーだった。


 祭壇の前。

 精衛は祈の隣に立ち、互いに見つめ合った。

 周囲の神々の威圧感も、姉の混乱も、この瞬間だけは遠くへ消え去った。

 目の前にはただ、最愛の人だけがいる。

 司会の李が、厳かに口を開いた。

「――この二人は、神話の連環を断ち切り、限りある人間としての生を選びました」

 その声は、チャペルの隅々まで、いや、天界まで届くかのように朗々と響いた。

「今、その誓いを、天界のあらゆる存在が証人として見届けています」

 祈が、精衛の手を取る。

 その手は微かに震えていたが、力強かった。

「僕は誓います」

 祈の声が、静寂に染み渡る。

「いかなる理不尽からも、この命を懸けて……姜衛佳、君のすべてを守ると」

 精衛は潤んだ瞳で頷き返した。

「私も誓います。……私の持つ全ての愛と技術で、林祈、あなたの心と体を一生、癒やし支え続けると」

 参列席。

 炎帝は、二人の誓いを聞きながら、ふと天井の遥か上、虚空を見上げた。

 そこには、誰もいないはずだ。

 だが、彼の目には見えていた。かつての盟友――陽の父親の、揺らぐ魂の残像が。

(よかったな……)

 炎帝は、心の中で盟友に語りかけた。

(お前の息子は苦難を乗り越えて、幸せを手に入れたぞ)

 魂とは通常、死とともに四散し、天地の大循環へと還るものだ。だが、彼は違った。残した子供たちへの強烈な愛と信頼、そして「頼んだぞ」と炎帝に託した約束が、彼の存在を微かな思念として留めていたのだ。

 炎帝は陽と女娃の時のように、彼を無理やり生き返らせたり、魂を保存しようとはしなかった。

 それは、彼が子供たちの自立と未来を信じていたからだ。

 そして今、その信頼は結実した。

(約束は果たしたぞ。……安心していけ、友よ)

 炎帝が静かに微笑むと、虚空の気配は満足げに揺らぎ、光の粒子となってチャペルの光に溶けていった。


「――それでは、誓いのキスを」

 李の声が、儀式のクライマックスを告げる。

 祈が、震える指先で精衛のヴェールをそっと上げた。

 露わになる精衛の顔。頬は紅潮し、瞳は宝石のように輝いている。

「……愛してる、精衛」

「私も……愛してる、祈」

 二人の顔が近づき、唇が触れ合った。

 それは映画のような激しい情熱のキスではない。

 荒れ狂う神話の海を超え、人としての葛藤を超え、七年という歳月をかけて温め続けた愛を、家族と神々の前で完成させるための、この上なく清らかで、優しい口づけだった。


 ワァァァァァ……!!

 割れんばかりの拍手が巻き起こった。

 女媧がハンカチで目元を拭い、李が淡く微笑み、仙人たちが立ち上がって喝采を送る。

 その拍手は、ただの音ではない。神話の時代から現代に至る、脈々と受け継がれてきた「愛」と「命」の連鎖そのものだった。

 ステンドグラスからの光が、二人を祝福するように強くなる。

 幸せの絶頂の中で、精衛は見た。

 拍手の渦の端っこで、ようやく再起動した願が、ガクガクと震える手で薫の腕を掴み、引きつった笑顔で叫んでいるのを。

「ね、ねえ、薫ちゃん……これ、カメラに映ってる? ちゃんと録画できてる!? アタシ、幻覚見てないよね!?」

「映ってるよー! お義姉さん、面白い!」

 そのあまりに人間臭い光景に、精衛は吹き出し、そして祈と顔を見合わせて笑い合った。

 神様も、人間も、みんなここにいる。

 これが、私たちが選んだ「世界」だ。

 精衛は祈の腕をぎゅっと抱きしめた。もう二度と離さないと誓うように。

「行こう、祈」

「ああ、行こう」

 二人は、光溢れる未来へと続くバージンロードを、力強く歩き出した。



 結婚式の喧騒は、遠い夢の彼方へと消え去っていた。

 街の明かりを見下ろすホテルの最上階。重厚なドアが閉ざされた瞬間、世界は二人だけの密室へと変わった。

 間接照明の柔らかなオレンジ色が、シルクのように滑らかなシーツの上に陰影を落としている。

 空気には、先ほどまで浴びていた祝福のシャンパンの香りと、少しの汗、そして彼の肌から立ち上る石鹸の清潔な匂いが混じり合っていた。

 精衛は、自分がまだ夢の中にいるような浮遊感を覚えていた。

 けれど、背中を包み込むベッドのスプリングの感触と、目の前にいる愛おしい人の熱気が、これが紛れもなく「現実」であることを教えてくれる。

「……精衛」

 祈の声が、少し掠れていた。

 彼はまだ、白いタキシードのシャツを身に着けたままだ。だが、ボタンは既にいくつか外され、露わになった鎖骨が荒い呼吸に合わせて上下している。

 いつもは冷静で、頼もしい彼。

 けれど今夜の彼は、どこか余裕がない。

 精衛の頬を撫でるその指先が、微かに、けれど確かに震えているのが分かった。

「祈……」

 精衛は、彼の熱い掌に自分の頬を擦り寄せた。

 その動きが合図になったかのように、彼が覆いかぶさってくる。

 口づけは、あのチャペルでの誓いのキスとはまるで違っていた。

 もどかしく、貪るようで、そして火傷しそうなほどの熱を帯びている。七年という歳月の間、「誓い」という鎖で封じ込めてきた感情の奔流が、一気に決壊しようとしていた。

 彼の指が、不器用に、けれど焦燥感を隠しきれずに、精衛のドレスの背中のファスナーを探っている。

 カチャリ、と小さな音がして、冷たい空気が素肌に触れたかと思うと、すぐに彼の手のひらの熱さがその場所を埋めた。

「っ……」

 その手つきがあまりに急で、布を巻き込むような強引さがあったから、精衛は思わず小さく声を漏らした。

「あ、ごめん。……痛かったか?」

 祈がハッとして動きを止め、申し訳無さそうに眉を寄せる。その表情は、まるで悪戯が見つかって叱られた子供のように無防備で。

 さっきまでの「市民を守る警察官」の顔とも、「神話の怪物に立ち向かった英雄」の顔とも違う。ただの、恋に焦がれる一人の男の子の顔。

 それがたまらなく愛おしくて、精衛の喉の奥から、銀鈴を転がすような笑い声がこぼれた。

「ふふっ……ううん、全然」

 精衛は腕を伸ばし、彼の首に絡めると、そのまま彼を引き寄せた。

「祈、焦りすぎよ。……逃げたりしないわ」

 耳元で囁くと、彼が耳まで赤く染めるのが分かった。

「……だって、仕方ないだろ」

 彼は精衛の首筋に顔を埋め、拗ねたように、けれど熱っぽい吐息と共に呟いた。

「七年だぞ……。ずっと、触れたかった。君のすべてを、僕のものにしたかったんだ」

 その言葉の響きが、精衛の体の奥底を甘く痺れさせた。

「私もよ……。ずっと、待ってた」

 精衛は彼のシャツのボタンに指を這わせ、ゆっくりと、一つずつ外していった。

「ねえ、祈。……私の全部、あなたにあげる」

「……ああ、貰うよ。細胞の一つまで」

 服が床に滑り落ちる衣擦れの音だけが、部屋に残された最後の理性だった。

 肌と肌が直接触れ合う感触。

 それは神話の雷よりも強烈で、どんな魔法よりも深く魂を揺さぶった。

 神だった頃の、霊的な繋がりではない。

 汗ばんだ皮膚の粘度、筋肉の硬さ、脈打つ血管の振動。人間としての、生々しくも圧倒的な「存在」の証明。

 痛みと快楽が混ざり合う波の中で、精衛は彼にしがみつき、何度も彼の名前を呼んだ。

「祈、祈っ……愛してる……」

「精衛……僕の、精衛……」

 世界が白く弾ける瞬間、二人は五千年の因果を超え、ただの「男と女」として溶け合ったのだった。


 翌朝。

 カーテンの隙間から差し込む遠慮のない朝日が、精衛の瞼を白く染めた。

 重い瞼を持ち上げると、視界いっぱいに、安らかな寝息を立てている祈の寝顔があった。

 まつげが長い。鼻筋が通っている。唇が少し乾燥している。

 そんな些細なディテールの一つ一つが、涙が出るほど愛おしい。

「……ん」

 精衛の視線を感じたのか、祈がゆっくりと目を開けた。

 ぼんやりとした瞳が焦点を結び、精衛の顔を認めると、ふにゃりと柔らかく崩れる。

「……おはよう、奥さん」

「おはよう、旦那様」

 照れくさそうに呼び合う声は、朝の空気のように澄んでいた。

 精衛は布団から身を起こしかけ、ふと自分の肩や胸元に落ちた視線に気づき、頬を染めた。

 白い肌のあちこちに散る、淡い紅色の花びらのような痕跡。

 それは昨夜の情熱の残滓であり、彼がどれほど深く自分を求めてくれたかという、消えない愛の刻印だった。

 祈もまた、精衛の視線を追ってそれを見つけ、少し気まずそうに、でも誇らしげに視線を逸らした。彼自身の首筋にも、精衛が夢中で爪を立ててしまった赤い線が残っている。

「……つけすぎたかな」

「ふふ、お互い様よ」

 精衛はクスクスと笑い、その痕跡を指でなぞった。

 痛みはない。あるのは、満ち足りた幸福感だけ。

 二人は顔を見合わせ、どちらからともなく再び唇を重ねた。

 朝の光の中で交わすキスは、昨夜の熱狂と違い、穏やかで、永遠に続く日常の始まりの味がした。



 二人は身支度を整え、ホテルの廊下へと出た。

 ドアが閉まる重たい音と同時に、先ほどまでの密室の熱気が遮断され、冷房の効いた公共の空気が肌に触れる。

 精衛は、少しだけ歩き方がぎこちない自分に気づき、恥ずかしさで耳を赤くした。祈が気遣うように彼女の腰に手を回そうとした、その時だ。

「おや。随分と遅いお目覚めだな」

 エレベーターホールの方から、涼やかな声が飛んできた。

 そこには、壁に背をもたれかけ、腕を組んでこちらを見ている李の姿があった。

 彼はいつもの気怠げな表情の中に、隠しきれない――いや、あえて隠そうともしない意味深な笑みを浮かべていた。その視線は、二人の少し乱れた髪や、妙に艶のある肌の質感を、まるでレントゲン写真のように見透かしている。

「おはよう、新婚さん。……昨夜は、さぞかし激しい『戦い』だったと見える」

「っ!?」

「な、何を言ってるんだ、李くん!」

 祈が瞬時に赤面して抗議するが、李は「別に?」と肩をすくめただけだ。

「防音設備がしっかりしていて助かったな、と言っただけだ。さあ、行こうか。朝食会場で『お姉さん』が死んだ魚のような目をして待っているぞ」


 李はニヤリと笑い、踵を返した。

 精衛と祈は顔を見合わせ、どちらからともなく照れ笑いを浮かべると、赤くなった頬を冷ますように手をパタパタと仰ぎながら、彼のに続いた。

 ホテルのレストランは、開放的なオーシャンビューだった。

 朝の強い日差しが、青い海面を宝石のようにきらめかせている。ビュッフェ形式の華やかな朝食会場の一角に、そこだけ重力が違うかのようなテーブルがあった。

「……」

 願は、目の前の皿に盛られたスクランブルエッグを、フォークで突っつき続けていた。もう十分すぎるほど細かくなっているのに、彼女の手は機械のように動いている。

 その目は焦点が定まっておらず、虚空を見つめていた。

 テーブルを挟んで座る薫は、そんな義姉(仮)の様子などお構いなしに、パンケーキに山盛りのホイップクリームを乗せて、「ん~! おいしーい!」と頬を緩ませている。

 祈と精衛が席に着くと、願の視線がゆっくりと二人へ移動した。

「あ……おはよう、二人とも」

「おはよう、姉さん。……大丈夫?」

 祈が恐る恐る尋ねると、願は深いため息をつき、コーヒーカップを両手で包み込んだ。

「大丈夫……なわけないでしょ。まだ脳みその処理が追いついてないのよ」

 彼女はチラリと、平然とサラダを食べている李を見た。

「昨日……あの後、夢かと思って自分の頬をつねったけど、痛かったわ。それに、父さんが……いえ、炎帝陛下? が、酔っ払って病院の中庭に薬草を植えようとしているのを見て、確信したわ。……全部、マジなんだって」

 精衛は申し訳無さそうに身を縮こまらせた。

「ごめんなさい、願お姉さん。ずっと黙っていて……」

「いいのよ、精衛ちゃん。……ただ、私の知ってる『常識』と『世界』が、昨日一日で粉々に砕け散って、まだ再構築できてないだけだから」

 願は力なく笑い、ふと視線を二人に戻した。

 そこには、自然な動作で精衛のカップにジュースを注ぐ祈と、それを見て嬉しそうに微笑む精衛の姿があった。

 精衛の首筋には、ファンデーションで隠しきれていない淡い痕跡が見える。そして祈の、どこか男として一皮むけたような落ち着いた雰囲気。

 二人の間には、言葉などなくても通じ合う、甘く、濃密な空気が流れていた。

 それは神話も、奇跡も関係ない。ただ愛し合う男女の、ありふれた、けれど何よりも尊い幸福の形。


 願の表情から、憑き物が落ちたように力が抜けていった。

(……ま、いっか)

 彼女はフォークを置き、口元を紙ナプキンで拭った。

 相手が元・神様だろうが、弟が炎帝の義理の息子になろうが、世界がひっくり返ろうが。

 目の前で、弟がこんなにも幸せそうに笑っている。

 孤独だった精衛ちゃんが、こんなにも愛されて輝いている。

 それ以上の正解なんて、この世にあるだろうか。

「……うん。まあ、いいわ」

 願は姿勢を正し、ニカッと笑った。いつもの、頼れる姉の顔に戻っていた。

「あんたたちが幸せなら、相手が神様でも宇宙人でも、姉ちゃんは祝福するわよ! ……その代わり、帰ったら詳しく聞かせてもらうからね。神話の裏話とか、不老不死の美容法とか!」

「ええっ、美容法ですか!?」

「当たり前でしょ! 女媧様の肌、見た!? あれで数千歳とか詐欺よ! 絶対何か秘訣があるはずだわ!」

 願の復活に、テーブルがドッと沸いた。

 李もまた、フッと静かに口角を上げ、コーヒーを啜った。

「たくましいな、人間の女性というのは」

「でしょ? だからたっくんも、私に振り回されて幸せでしょ?」

 薫がニシシと笑って、李の口元についたソースを指で拭った。



 朝食を終え、ホテルのロータリーには空港へ向かうタクシーが待機していた。

「じゃあな、祈。精衛。……羽目を外しすぎるなよ」

 李が荷物をトランクに入れながら、軽く手を挙げた。

「うん。気をつけて帰ってね」

「お土産、いっぱい買ってきてねー!」

 薫が車の窓から大きく手を振る。

 願は最後に、祈と精衛をまとめてギュッと抱きしめた。

「楽しんでらっしゃい。……あ、別に急かさないけど、孫の顔を見るまでは死ねないからね、よろしく」

「姉さんっ!」

「ふふ、行ってきます、お姉さん」

 タクシーが南国の強い日差しの中を走り去っていく。

 それを見送った後、祈と精衛は二人きりになり、繋いだ手に力を込めた。

「さて……僕たちも行こうか」

「ええ。……新婚旅行ハネムーンの続きへ」


 ハワイの風は、どこか懐かしい匂いがした。

 白い砂浜、エメラルドグリーンの海、そして咲き乱れる極彩色の花々。

 かつて精衛が石を運んだ東の海とは違う、明るく、開放的な海。

 二人は時間を忘れ、ただ波音に包まれて過ごした。

 ある夕暮れ時。

 人気の少ないビーチを散歩していた二人の前に、ふと、奇妙な影が落ちた。

「――おや? 珍しい客人が来たものだ」

 その声は、波音よりも深く、風よりも軽やかに響いた。

 見上げれば、ヤシの木の木陰に、見慣れない異国の装束を纏った男が立っていた。肌は褐色に焼け、瞳には太平洋の荒波のような力が宿っている。

 彼の背後には、サメのヒレのようなオーラが揺らめいていた。

 精衛はハッとして足を止めた。

 肌が粟立つ。これは、人間ではない。

「……あなたも、神?」

 精衛が警戒しつつ問いかけると、男はニカリと白い歯を見せて笑った。

「ここは島々のアクアが住まう土地。東洋の鳥の神と、その伴侶よ。……我々の宴に招こうか?」

 祈は精衛を庇うように一歩前に出たが、その表情に敵意はなかった。

「新婚旅行に、予期せぬツアーガイドが現れたみたいだね」

「……そうね。断るのも野暮かもしれないわ」

 精衛は祈の腕にしがみつき、冒険を楽しむ子供のように目を輝かせた。

 人間の医師として生きると決めたけれど、神々のえにしはそう簡単には切れないらしい。

 だが、それも悪くない。

 最愛の夫と一緒なら、どんな神話の世界でも、きっと最高の旅になる。

 二人は顔を見合わせて微笑むと、異国の神が手招きする未知なる森の奥へと、新たな一歩を踏み出した。

 それはまた、別の物語――。

後日譚其の参「幸せへ踏み出した歩幅」をお読みいただきありがとうございます。

今回は、三つの時間軸を経て、二人が「永遠の愛」を誓う結婚式までの道のりを描きました。神々に見守られながら、人間として結ばれる二人の姿に、作者自身も感慨深いものがありました。

七年間封じてきた愛の解放、そしてハネムーン先での新たな出会い。物語は着実に、彼らの新しい人生へと進んでいきます。

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