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後日譚其の弐 未来への道標

 季節が三度巡り、世界は静かに、だが確実に色を変えていた。

 神の尺度で言えば、三年という月日は瞬きにも満たない刹那だ。けれど、限りある生を生きる人間にとって、それは少女を大人へと変え、少年を男へと変えるのに十分すぎる時間だった。


 高校生活、最後の春。

 乾いた風が、街路樹の枝を揺らしていた。冬の厳しい寒さは去り、枝先には黄色い小さな花が慎ましやかに咲き始めている。

 それは「終わり」と「始まり」が混ざり合う、季節の境界線の匂いがした。

「……ん、風が強くなってきたな」

 隣を歩く祈が、短くなった髪を風に遊ばせながら呟いた。

 精衛は自然な動作で、彼の手をギュッと握り返した。

 かつては触れ合うだけで心臓が飛び出しそうだった指先も、今では自分の一部のように馴染んでいる。

 掌から伝わる彼の体温。少し硬くなった指の関節。

 その温もりは、不安な心を守るための、精衛にとっての唯一にして絶対の結界だった。

 こうして手を繋いで歩くことが、今の二人には「呼吸」と同じくらい当たり前の日常になっていた。

「ねえ、祈」

 精衛は、揺れる黄色い花を見上げながら、ずっと胸につかえていた問いを口にした。

「進路……決めたの?」

 卒業を控えた教室は、どこか浮き足立っていて、同時に焦燥感に満ちていた。

 皆が「未来」という見えない怪物と戦っている。精衛もまた、その戦場に立つ一人の兵士だった。

 祈は立ち止まらず、真っ直ぐ前を見つめたまま、深く頷いた。

「うん。……僕は、警察官になりたい」

 その声には、迷いがなかった。

 三年前、いきなりの理不尽さに巻き込まれ、無力さを嘆いていた少年の姿はもうない。

 精衛という神の存在を知り、同時に人間社会の理不尽さや悪意を直視してきた三年間。

 彼はそこから逃げるのではなく、立ち向かうことを選んだのだ。


「過去のような不幸な出来事は、もう二度と起こしたくない。……もちろん、神や化け物が相手じゃ拳銃なんて役に立たないかもしれないけど」

 彼はそこで少し照れくさそうに笑い、繋いだ手に力を込めた。

「それでも、公の立場から『正義』を守る力になりたいんだ。この世界で、僕ができる一番確かな方法だと思うから」


 眩しい、と思った。

 夕陽に照らされた彼の横顔には、確固たる意志の光が宿っていた。

 彼はもう、守られるだけの存在ではない。誰かを守ろうとする、一人の男なのだ。

 精衛の胸に、誇らしさと、それと同じくらいの質量の寂しさが込み上げてくる。


「いいな……。祈は、本当に強いわね」

 精衛の唇から、ため息のような言葉が漏れた。

「……私は、まだ分からないな」


 繋いだ手が、急に頼りなく感じられた。

 かつての神としての力はない。空を飛ぶ翼もない。

 今の私は、ただの姜衛佳きょうえいか

 何の特別な力も持たない、進路希望調査票の空欄を埋められないだけの、無力な女子高生。

 コンプレックスに似た焦燥が、喉の奥をチリチリと焼いた。



 その日の夕食は、ホワイトシチューだった。

 湯気の向こうで、姉の願がパンをちぎっている。

 お皿とスプーンが触れ合うカチャカチャという音が、静かなダイニングに響いていた。


 この三年間、精衛はただ学校に通っていたわけではない。

 願が立ち上げたNPO法人の手伝いをし、裏方として書類整理やデータ入力をこなしてきた。

 そこで見たのは、神話の戦いよりも地味で、けれど遥かに複雑な「人間社会」の仕組みだった。

 貧困、差別、終わらない事務手続き。

 世界を救うのは、聖剣の一撃ではなく、積み上げられた書類の山なのかもしれない――そんなことすら思うようになっていた。

「願お姉さん」

 精衛はスプーンを置き、意を決して顔を上げた。

「私……何をすればいいのかしら?」

 唐突な問いに、願の手が止まる。

 彼女は穏やかな瞳で精衛を見つめ返した。

「進路の話? ……高校卒業後のことね」

「はい」

 精衛は膝の上で拳を握りしめた。

「祈は、警察官になるって言いました。……私も、それも悪くないかなって思ったんです。祈と一緒に、この世界の平穏を守る。それはとても素敵なことに思えます」

 そこまで言って、精衛は言葉を詰まらせた。

 喉に刺さった棘が、本音を告げるのを拒むように痛む。

 でも、言わなければ。

「でも……私には、無理です」

 視線をテーブルの木目に落とす。

 そこには、見えない境界線が引かれている気がした。


「以前の戦闘の後処理で、私の戸籍や経歴は……お姉さんたちの力で『作られた』ものですよね。公的な記録は改竄されている。警察のような厳格な組織の身辺調査に、耐えられるはずがありません」

 それに、と精衛は自分の掌を見つめた。

「私は、神通力を失いました。今の私は、祈よりも体力がない、ただの非力な女の子です。警察学校の過酷な訓練についていける自信もありません。……足手まといになるだけです」

 神だった頃の記憶が、皮肉にも今の無力さを際立たせる。

 かつては指一本で山を砕けた。なのに今は、腕立て伏せすら満足にできない。

 偽物の経歴と、空っぽの肉体。

 それが「姜衛佳」の正体だ。そんな人間に、社会を守る資格があるのだろうか。

 テーブルの上に、温かい手が重ねられた。

 願の手だった。

「精衛ちゃん」

 願の声は、柔らかく、けれど芯のある響きを持っていた。

「それは、あなたが『過去の精衛』、つまり『力を失った神』として自分を見ている限り、ずっと付いて回る呪いみたいなものね」

 願は、精衛の目を真っ直ぐに見据えた。

「でもね、大事なのは『何ができるか(能力)』じゃないの。『何をしたいか(意志)』よ」

「意志……?」

「そう。警察官になれるかどうか、制度上の問題はあるかもしれない。でも、あなたが『誰かを救いたい』と願うその本質は、神だった頃も、人間になった今も、何も変わっていないじゃない」

 願は優しく微笑み、精衛の手を包み込んだ。

「神の力で救うことだけが、救済じゃないわ。人間の手で、人間の知恵で、泥臭く誰かに手を差し伸べること。……精衛ちゃんがNPOで手伝ってくれた三年間、あなたはもう、それをずっと実践してきたのよ?」

 ハッとした。

 事務作業の日々。地味で退屈だと思っていたあの時間が、誰かの助けになっていた?

 神の力ではなく、人間の意志で。

「道は一つじゃないわ。警察官だけが正義の味方じゃない。……焦らなくていい。今のあなただからこそ出来る『救い』の形が、きっとあるはずよ」

 願の言葉は、冷えて固まっていた精衛の心に、温かい灯火を灯してくれた。

 明確な答えが出たわけではない。

 偽りの経歴という爆弾も、力の無さも、現実は何も変わっていない。

 けれど。

(今の私だからこそ、出来ること……)

 精衛はシチューを一口、口に運んだ。

 野菜の甘みが、身体の芯まで染み渡っていく。

 迷いはまだ晴れない。でも、立ち止まって泣いているだけだった三年前の自分よりは、少しだけ前に進めそうな気がした。



 翌日の昼休み。

 教室は、喧騒という名の温かいスープの中に浸かっていた。

 机を動かして即席の島を作る音、ビニール袋のカサカサという音、そして遠慮のない笑い声。それらが混ざり合い、極めて平和で、少し眠気を誘う「青春」のBGMを奏でている。


 精衛は弁当箱の蓋を開けながら、対面に座る二人――李と薫を見つめた。

 薫は卵焼きを箸で摘み上げ、わざとらしくはしゃいでいる。その隣で李は、相変わらず気怠げに、だが拒絶することなく彼女の世話を受け入れている。

 三年前、一緒に仲良く昼飯を食べることになるとは誰も思わなかっただろう。

「李くん、薫ちゃん」

 精衛は箸を止め、意を決して口を開いた。

 昨夜の姉との会話で得た小さな灯火を、ここで消してしまうわけにはいかない。むしろ、同じ「こちらの世界」を知る彼らにこそ、風を当てて育ててもらう必要がある。

「二人とも……進路は、決めたの?」


 その問いは、賑やかな教室の空気の中に、小さな石ころを投げ込んだようなものだった。波紋は広がらず、すぐに日常に飲み込まれる類のもの。

 だが、薫の反応は早かった。

 彼女は李の腕にぎゅっと絡みつき、花が咲くような満面の笑みを浮かべた。

「もちろんだよー! 私の進路はね……」

 薫は勿体ぶるように一瞬言葉を切り、それから宣言した。

「たっくんのお嫁さんになるのが、高校時代の最重要進路なの!」


「ぶっ……」

 李が飲んでいた茶を吹きそうになり、むせ返った。

「おい、薫。学校で余計なことを言うな」

「えー、だって本当のことじゃん。ねー、精衛ちゃん?」

「す、素敵ね……薫ちゃんらしいわ」

 精衛は苦笑しながら頷いた。

 それは決して冗談半分ではないのだろう。薫にとって、李と共にいることこそが世界の全てであり、彼女の選んだ「戦い」の形なのだから。

 精衛の脳裏に、ふと二年前の文化祭の光景が蘇った。


 あの時も、薫はこんな風に李の手を引いていた。

『メイド喫茶やるからには、たっくんも執事服着てよ! 絶対似合うから!』

 クラスの出し物で、無理やり執事の衣装を着せられた李。

 仏頂面で「お帰りなさいませ」と言う彼の姿に、クラス中が(そして精衛も)驚き、同時に彼が薫に対してだけ見せる絶対的な許容範囲の広さを知った。

 神話の怪物である哪吒が、フリルのついたエプロンをした少女に振り回されている。

 その光景は滑稽で、そして涙が出るほど平和だった。

 あの瞬間、精衛は思ったのだ。

「神様でも、こんな風に笑えるんだ」と。

 そして、「私もいつか、祈とあんな風になれるだろうか」と、淡い憧れを抱いたのを覚えている。


「……でも、現実的な進路はどうするの? その、お嫁さんになるまでの生活基盤とか」

 精衛が尋ねると、薫は「あ、そうそう」と卵焼きを口に放り込んだ。

「私はとりあえず、旅行会社を考えてるよ。だって、世界中を見て回りたいじゃない? 私たち、この街と神界のことしか知らないし。もっと広い世界には、美味しいものとか綺麗な景色がいっぱいあるはずだから!」

「なるほど……旅行会社、か」

 薫の言葉には、未来への無垢な好奇心が溢れていた。

 それは、かつて精衛が人間の世界に降り立った時に感じたものと同じ、純粋な「探求心」だ。彼女には迷いがない。自分の欲望と、愛する人と共に歩く未来が、一本の線で繋がっている。


 精衛は視線をずらし、今度は李を見た。

 彼は箸を置き、静かに精衛を見つめ返した。その瞳の奥には、薫に向けていた温かさとは違う、冷徹で思慮深い光が宿っていた。

「俺は、特に決めていない」

 淡々とした声だった。

「え?」

「薫の夢を支えるには、時間の融通が利く仕事がいいからな。……まあ、フリーターのようなものになるだろう。それが、天界の任務にも都合がいい」

 李は声を潜め、周囲に聞こえないように付け加えた。

「天界の……任務」

 精衛は何かを思うようになった。

 そうだ。忘れていない。

 この平和な昼休みも、文化祭の馬鹿騒ぎも、かつての自分では手に届かない幻だった。

 李宅――哪吒は、依然として天界とのパイプを持ち、この世界の均衡を見張る「管理者」の側面を持っている。

 昨年の体育祭での出来事を思い出す。

 リレーのアンカーとして走っていた李が、トラックのコーナーを曲がる際に見せた、人間離れした加速。

 周囲は「すげー運動神経!」と歓声を上げていたが、精衛だけは気づいていた。彼がほんの一瞬、足元の重力を操作し、遠心力を殺していたことに。

 彼は完全に人間になったわけではない。力を残し、その力を使って「人間としての生活」を守っているのだ。

 李は、精衛の動揺を見透かしたように目を細めた。

「本題はそこじゃないだろ、姜衛佳」

 彼は鋭利な刃物のような言葉で、核心を切り裂いてきた。

「お前のことだ」

 精衛は息を呑んだ。

 李の視線が、精衛の胸の奥にある一番痛い部分を、正確に指し示している。

「林……祈は、警察官を選んだそうだな」

「……ええ」

「彼は『力』を選んだんだ」

 李は静かに、だが重く断言した。

「過去の無力さを呪い、もう二度と同じ過ちを犯さないために、法と武器という『公的な力』を手に入れる道を選んだ。それは彼なりの覚悟だ。正しい選択だろう」

 そして、李は少し身を乗り出した。

 教室の喧騒が遠のく。世界には今、このテーブルの上にある残酷な真実しか存在しないかのように。

「だが、お前は違う」

 精衛は膝の上でスカートの布地を握りしめた。

「お前は、神通力という『神の力』を完全に失った。今の身体能力は、そこら辺の女子高生……いや、部活動をしていない分、平均以下かもしれないな」

 李の言葉は容赦がなかった。

 事実だったからだ。

 昨年の球技大会。バレーボールに参加した精衛は、サーブをネットの向こうに届かせることすらできず、チームの足を引っ張った。

 突き指をした指先の痛み。

「ごめんね、ドンマイ!」と励ましてくれるクラスメイトの笑顔が、どれほど惨めに感じられたか。

 かつては山を持ち上げ、海を割ったこの腕が、たかかボール一つを御せない。

 その落差は、精衛のプライドを粉々に砕き、自分が「ただの人間」以下になったという事実を突きつけてきた。

「その状態で、誰かを守るために警察官を選んでも、林の足手まといになるだけだ」

 ガーン、と頭を殴られたような衝撃があった。

 足手まとい。

 一番恐れていた言葉。

 祈の隣に立つ資格がないと言われることよりも、彼の「負担」になることこそが、精衛にとっての最大の恐怖だった。

「そんな……」

 精衛の声が震えた。

 反論したかった。『意志があればできる』と、昨夜の姉の言葉を借りて叫びたかった。

 でも、李の言う「現実」の重みの前では、その言葉はあまりに軽く、空虚に響く気がした。

 警察官の現場は、綺麗事ではない。

 もし暴漢に襲われた時、今の精衛に祈の背中を守れるのか?

 いいや、守れない。逆に祈が精衛を庇って傷つく未来が見える。それは、あの三年前の悪夢の再来だ。


 李は、打ちのめされた精衛を見て、ふっと表情を和らげた。

 それは嘲笑ではなく、同じ「異端」として生きる者への、不器用な慈悲だった。

「顔を上げるんだ、精衛」

 彼は箸を置き、真剣な眼差しで言った。

「これは現実だ。厳しいが、受け入れなければ前に進めない。……僕らは君の警護はする。だが、進路は人生そのものだ。最終的には君が決めろ」

 李は一呼吸置き、最も重要な助言を口にした。

「『愛する人を守る方法』は、力だけじゃない」

「……え?」

 精衛は顔を上げた。

「力なき者が、どうやって……」

「それを探すのが、お前の『人間としての修行』だろう」

 李はニヤリと笑った。

「力でねじ伏せることだけが解決じゃない。知恵、言葉、癒やし、あるいはただ『そこにいること』。……それは、僕らが一番よく知っている」

 彼はチラリと、隣で美味しそうに弁当を食べている薫を見た。

 何の力も持たない、ただの少女。

 けれど彼女は、最強の神である哪吒を繋ぎ止め、彼に「生きる意味」を与えている。

 彼女は力で彼を守っているわけではない。でも、間違いなく彼を「救って」いるのだ。


「……李くん」

 精衛の目から、鱗が落ちたような気がした。

 守るとは、盾になることだけではない。

 つるぎになることだけではない。


 チャイムが鳴った。

 予鈴の音が、重苦しい空気を強制的に断ち切った。

「さ、行こうか。午後は体育だぞ、姜衛佳。平均以下の体力作り、頑張るんだな」

 李は意地悪く笑い、立ち上がった。

「もう、たっくんったら! 精衛ちゃん、行こ!」

 薫が手を引いてくれる。


 精衛は立ち上がりながら、自分の手のひらを見つめた。

 何も持っていない手。

 でも、だからこそ掴めるものがあるのかもしれない。

 祈が「剛の力」を選ぶのなら、私は「柔の力」を探せばいいのか。

 それが何なのか、まだ明確な輪郭は見えない。

 けれど、李の言葉は、暗闇の中に「北極星」のような微かな光を灯してくれた。

(力だけじゃない……守る方法は……)

 精衛は教室を出る際、一瞬だけ祈の席を見た。

 彼はまだ戻ってきていない。

 彼の目指す場所は、きっと険しい。

 ならば、その険しい道を歩く彼を、どうすれば支えられるのか。

 体育館への長い廊下を歩きながら、精衛は自分自身の心に、深く、静かに問いかけ続けた。



 放課後の屋上。

 精衛は、コンクリートの冷たい手すりに背中を預け、スマートフォンの黒い画面を見つめていた。

 画面に映り込んだ自分の顔は、どこか頼りなく、不安に揺れている。

(誰かに……導いてほしい)

 祈のように強い意志を持てない自分。李のように現実を受け入れられない自分。

 迷子になった子供のような心細さが、胸を締め付けて離さない。

 精衛は震える指先でアドレス帳を開き、一つの名前を表示させた。

『公日月』。

 奇妙な協力関係にある、天界の管理者。

 彼女なら、神の視点から「正解」を教えてくれるのではないか。そんな弱虫な期待が、通話ボタンを押させた。

『プルルル……』

 無機質な呼び出し音が数回鳴り、不意に途切れた。

『……何だ』

 スピーカーから響いてきたのは、絶対零度のような冷徹な声だった。

 挨拶も、名乗りもない。ただ用件を問うだけの、研ぎ澄まされた刃のような問い。

「あ、あの……公日月、様……?」

 精衛の声が裏返る。

『私の時間を割くのだ。それ相応の理由があるのだろうな?』

「は、はい。その……相談、がありまして」

 精衛は必死に言葉を紡いだ。

「私、進路について悩んでいて……。神としての力を失った今、どう生きればいいのか分からなくて……。あなたなら、何か高次な視点から助言をいただけるのではないかと……」

 一瞬の沈黙。

 その後の返答は、嘲笑だった。

『――はっ』

 鼻で笑う音が、鼓膜を小さく打った。

『進路だと? 笑わせるな。下らない』

「え……」

『お前は今、ただの人間だ。神の力も、使命も、因果も失った、矮小な一個体だ。そんなお前のちっぽけな人生の選択になど、私が関与する価値はない』

 公日月は容赦なく切り捨てた。

『その程度の俗世の悩みなら、私ではなく、お前の親父たちにでも聞いたらどうだ?』

「親父……たち……?」

『そうだ。そもそも、元とはいえ神の娘が、赤の他人に人生の舵取りを委ねるな。自分の足で歩け』

 ブツッ、ツーツーツー。

 通話は一方的に切断された。

「……」

 精衛は呆然とスマートフォンを握りしめていた。

 冷たい。あまりにも冷たい突き放し方だ。

 けれど、不思議と腹は立たなかった。むしろ、彼女の言葉の中にあった一つの単語が、暗闇に火花を散らすように輝いていた。

『親父たちに聞け』

 そうだ。

 私には、いるじゃないか。

 血の繋がりはある上、魂の系譜で結ばれた、偉大な父が。

 人間界で生きるための「先輩」であり、誰よりも人間を愛している父が。

 精衛は顔を上げ、屋上のドアへと走り出した。

 迷っている暇はない。会いに行かなければ。

 私の本当の「ルーツ」に。



 消毒液と薬品の匂いが混じり合う、独特の空気。

 総合病院の廊下は、白衣を着た医師や看護師、そして不安げな表情の患者たちが行き交い、常に静かな喧騒に包まれていた。

 精衛は制服姿で、その白い迷路を歩いていた。

 ここに来ると、いつも背筋が伸びる思いがする。ここは「命の最前線」だ。神話の戦場とは違う、静かで、けれど苛烈な戦いが繰り広げられている場所。

「おや? 衛佳ちゃんじゃないか」

 角を曲がったところで、聞き覚えのある声に呼び止められた。

 白衣のポケットに両手を突っ込み、飄々とした笑顔を浮かべている男性。

 そん先生だ。

 彼は病院の精神科医であり、同時にこの病院の不思議な「調停者」のような役割も果たしている人物だ。その瞳の奥には、時折、数千年の時を見通すような鋭い知性が煌めく瞬間がある。

「孫先生、こんにちは」

 精衛は足を止め、ペコリと頭を下げた。

「学校帰りかい? 珍しいね、君が一人でここに来るなんて。いつもは彼氏君と一緒なのに」

「ええと、あの……今日は、ちょっと父に相談があって」

 精衛が言い淀むと、孫先生はすべてを察したように優しく目を細めた。

「……なるほど。眉間にそんな皺を寄せてちゃ、可愛い顔が台無しだよ」

 彼はポケットからキャンディを取り出し、精衛の手のひらに乗せた。

「進路、かな?」

「……! どうしてそれを」

「若者が春先に思い悩むことなんて、大抵決まってるさ」

 彼はクスクスと笑い、院長室の方角を顎でしゃくった。

「行きなさい。君のお父さんは、いつだって民草の未来を見ている人だ。きっと、君の迷いにも灯火をくれるはずだよ」

「……はい!」

 精衛はキャンディを強く握りしめ、深く一礼して駆け出した。

 孫先生の背中が、「行ってらっしゃい」と語っている気がした。


 院長室の重厚な木製のドアの前に立つ。

 心臓が早鐘を打つ。

 ここは、偉大な「炎帝」の執務室であり、同時に私の「父」の部屋だ。

 精衛は深呼吸をして、ノックをした。

 コン、コン。

「どうぞ」

 低く、穏やかな声が響いた。


 精衛はおずおずとドアノブを回し、中へと足を踏み入れた。

 夕陽が差し込む広々とした執務室。

 そこには、二人の人物がいた。

 デスクに向かい、分厚い医学書に目を通していた初老の男性――姜石年きょうせきねん院長。かつての人類の始祖、炎帝神農その人だ。

 そして、応接セットのソファに優雅に腰掛け、紅茶の湯気を楽しんでいる美女。そのあふれ出る気品と、空間そのものを支配するような圧倒的な存在感は隠しきれていない。

 彼女こそが、人類の創造主であり、炎帝さえも敬意を払う至高の女神――女媧じょか様だった。

「まあ、精衛。どうしたの、そんなに慌てて」

 女媧がカップを置き、慈愛に満ちた瞳を向けた。

「お父さん、女媧様……」

 二人が揃っている光景は、まさに精衛にとっての「両親」そのものだった。

 世界のことわりを作った母と、世界の命を育んだ父。

 その圧倒的な安らぎに、張り詰めていた糸がプツリと切れた。

「私……私、どうすればいいのか分からなくて……」

 精衛は駆け寄り、二人の前で泣き崩れるように全てを吐き出した。

 祈が警察官を目指すこと。

 自分には何の力もないこと。

 何かをしたいけれど、何をすればいいのか分からない焦燥感。

 そして、自分が「無価値」な存在になってしまうのではないかという恐怖。

 二人は、ただ静かに、精衛の言葉一つ一つに耳を傾けてくれた。

 決して遮らず、否定せず。まるで、雨が大地に染み込むのを待つように。

 精衛が語り終え、鼻をすする音が部屋に響くまで、長い沈黙があった。

 最初に口を開いたのは、女媧だった。

「……ふふ、可愛いわね」

 彼女は立ち上がり、精衛の隣に座って、その背中を優しく撫でた。

 その手は温かく、そして無限の広がりを感じさせた。

「精衛。あなたはすっかり、人間の女の子になったわね」

「女媧様……?」

「『自分は何者か』『何をなすべきか』。そんなことで悩むのは、人間だけの特権よ。神は悩まない。ただ『在る』だけなのだから」

 女媧は精衛の頬に触れ、涙を拭った。

「もう、私たちの存在や、運命という鎖に縛られる必要はないのよ。あなたは自由だわ。あなたが望むまま、心の赴くままに行けばいい」

「自由……」

「そう。失敗してもいい、回り道してもいい。それが人間の生というものよ」

 至高の女神からの、絶対の許容。

 あなたはあなたのままでいいのだと、存在そのものを肯定された気がした。


 そして、デスクから姜石年が立ち上がり、ゆっくりと歩み寄ってきた。

 白髪交じりの髪、目尻に刻まれたシワ。神としての威光を捨て、人間としての老いをあえて受け入れた父の姿。

 彼は精衛の目の前に屈み込み、視線の高さを合わせた。

 その瞳は、春の陽だまりのように温かく、そしてどこまでも深かった。

「精衛」

「……はい、お父さん」

「お父さんはね、かつて人だった頃……民草が病や飢えで死んでいくのを見るのが耐えられなかった。だから、自らの足で野山を歩き、草木を舐め、薬を探し始めたんだ」

 彼は遠い昔を懐かしむように目を細めた。

「それは誰かに命じられたからじゃない。『救いたい』と思ったからだ。……お前もそうだろう?」

「え?」

「お前がかつて、鳥の姿で小石を運び、大海を埋め尽くそうとしたあの執念。あれは、ただの憎しみだったかい?」

 精衛はハッとした。

 あの時の感情。冷たい海への憎悪。自分を飲み込んだ理不尽への怒り。

 でも、その根底にあったのは――

「違う……。私は……もう二度と、あんな悲劇を繰り返したくなかった。私のように、海に命を奪われる誰かを……守りたかった」

 姜石年は深く頷いた。

「そうだ。やり方は不器用だったかもしれないが、お前の根源にあるのは『守りたい』という純粋な願いだ。それは神力を失っても、決して消えることのないお前の魂の形だよ」


 彼は精衛の手を取り、自分のゴワゴワした大きな手で包み込んだ。

「だから、女媧様の言う通りだ。まずは『できること(能力)』を探すのではなく、『君がやりたいこと(意志)』から始めなさい」

「やりたいこと……」

「力がなければ身につければいい。知識がなければ学べばいい。人間とは、そうやって成長する生き物だ。『やりたい』という種さえあれば、どんな荒地にも道は開ける」

「そこから、今の君にできる具体的な方法を考えればいいんだよ」

 父の言葉が、霧を晴らしていく。

『力がないから無理』なのではない。

『守りたい』という想いがあるなら、そのための力を今から作ればいいのだ。

 精衛は顔を上げた。

 視界の端に、院長室の本棚が見えた。びっしりと並んだ医学書や専門書。

 そして、壁に飾られた一枚の写真。

 それは、手術着を着て、疲れ切っているけれど充実した笑顔で患者と握手をする父の写真だった。

(あ……)

 雷に打たれたような衝撃が走った。

 祈は、盾となり剣となって、悪と戦う道を選んだ。

 なら、私は。

 傷ついた人を癒やし、こぼれ落ちそうな命を繋ぎ止める手になりたい。

 神のような奇跡の力はないけれど。

 父のように、知識と技術と、そして患者への限りない慈愛で、人の命を救うことはできるのではないか。

 かつて海を埋めようとしたあの一途な執念を、今度は「命を救う」ための学びに注げばいいのではないか。

 精衛の瞳に、光が戻った。

 それは、かつての神性のような冷たい輝きではない。

 大地に根を張り、雨風に耐え、太陽を目指して伸びようとする、人間としての強くしなやかな光。


 精衛は涙を拭い、真っ直ぐに二人を見つめた。

「……分かりました。お父さん、女媧様」

 声の震えは、もうなかった。

「私……決めました」

「私は、お父さんのように……みんなを救う医者になりたいです」

 その宣言は、静かな部屋に凛と響いた。

 それは精衛自身の、人間としての「独立宣言」でもあった。

 女媧は満足そうに微笑み、パンと手を叩いた。

「ええ、とても素敵だわ。茨の道かもしれないけれど、あなたならきっと、誰よりも優しい医者になれるわ」

 姜石年は、一瞬目を見開き、それからくしゃりと顔を歪めて笑った。目元が少し潤んでいるように見えた。

「そうか……医者か。これまた、大変な道を選んだな」

 彼は精衛の頭を、ガシガシと乱暴に、けれど愛情を込めて撫で回した。

「だが、嬉しいよ。私の娘が、私の背中を追ってくれるというなら……院長として、父として、全力で鍛えてやるからな。覚悟しておけよ?」

「はい! 望むところです!」


 その瞬間、精衛の心の中にあった重い鉛は消え失せていた。

 窓の外では、春の風が強く吹き抜け、桜の花びらを舞い上げていた。

 私は医者になる。

 祈の隣に胸を張って立てるように。

 そして、この限りある命の輝きを、一つでも多く守り抜くために。

 精衛は、神の娘としてではなく、一人の人間「姜衛佳」として、この世界に確かに立ったのだった。



 窓の外では風が止み、世界は深い藍色に沈んでいた。

 病院からの帰り道、高揚していた心は、夜の静寂しじまに包まれるにつれて、波が引くように少しずつ凪いでいき、代わりに、砂浜に残された貝殻のような小さな不安が顔を覗かせ始めていた。


 祈の部屋。

 天井の照明は消され、唯一、カーテンの隙間から差し込む街灯の頼りない明かりだけが、部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。

 二人はベッドの上、柔らかな布団の中に身を沈めていた。

 お互いに着古したスウェット姿。着飾らない、一番素に近い状態。

 祈はベッドのヘッドボードに背中を預け、片膝を立てて座っている。精衛はその隣で、体育座りをするように膝を抱え、小さくなっていた。

 シーツの擦れる音さえも大きく聞こえる静寂の中で、精衛は口を開いた。

「……祈」

「ん?」

「私、決めたよ」

 精衛は膝に顔を埋めたまま、呟くように言った。

 病院で父と女媧様に誓った時の、あの晴れやかな強さは、今は少し鳴りを潜めている。

 夜という時間は、人間に余計な思考をさせる。神だった頃にはなかった、「迷い」という名の副作用。

「お父さんのように……みんなを救う、医者になりたい」

 言葉にすると、改めてその重みが胸に落ちてきた。

 医者。人の命を預かる仕事。ミスは許されない、極限のプレッシャー。

 今の私に、それが努まるのだろうか。

「そうか」

 祈の声は、驚くほど穏やかだった。

「……医者、か」

 彼は短く納得したように呟くと、ズルリと体を滑らせて横になった。

 そして、自然な動作で腕を伸ばし、小さくなっている精衛の肩を抱き寄せた。

「っ……」

 引き寄せられるまま、精衛の背中が彼の広い胸板に触れる。

 トク、トク、という規則正しい心臓の音が、背中越しに伝わってきた。

 その温もりに触れた瞬間、張り詰めていた糸が緩み、同時に堰き止めていた弱音が溢れ出した。

「ねえ、祈……」

 精衛は彼の腕の中で、頼りなく身をよじった。

「本当に……できるのかな」

「何が?」

「だって、私には……あなたみたいに体力がない。犯人を捕まえる力も、自分を守る力さえ……もう、ないのに」

 以前の私なら、怪我なんて一瞬で治せただろう。病なんて吹き飛ばせただろう。

 でも今は、重い医学書を持ち上げるだけで腕が疲れる、ただの非力な少女だ。

 それなのに、人の命を背負うなんて、傲慢ではないだろうか。

 祈は警察官という「力」を持つ仕事を選んだ。彼と並んで歩くのに、私はあまりに頼りないのではないか。

「大丈夫だ、精衛」

 祈の声が、頭上から降ってきた。

 それは、暗闇の中で響く、世界で一番確かな音だった。

 根拠のない慰めではない。絶対的な確信に満ちた響き。

「……どうして、そう言い切れるの?」

「君が僕に『医者になりたい』と告げた時、僕は……妙に納得したんだ。全てが腑に落ちた気がした」

「腑に落ちた?」

「ああ」

 祈は、抱き寄せていた腕を解き、精衛の手を取った。

 ゴツゴツとした、男の子の手。

「僕が選んだ警察官という道は、悪意と戦い、理不尽を断ち切る『剣と盾』の道だ」

 彼は静かに、諭すように語りかけた。

「でも、それだけじゃ世界は回らない。戦えば傷つく。守っても、壊れるものはある。……そこで君が、傷ついた人々を癒やす『光』を選んだ」

 祈は、精衛の手を強く握りしめた。


「僕の仕事は『正義』のため。君の仕事は『慈愛』のため。……まるで、最初からそうなることが決まっていたみたいに、二人で一つだと思わないか?」

「二人で……一つ……」

 精衛は瞬きをした。

 正義と慈愛。剣と光。

 別々の道に見えて、それは互いを補い合う、一対の翼のようなもの。


 祈は繋いだ精衛の手を引くと、自身の胸の真ん中――心臓の上に、そっと押し当てた。

 ドクン、ドクン。

 掌の下で、彼の命が力強く脈打っている。

「それにね、精衛」

 祈は精衛の目を、真っ直ぐに見つめた。

 薄暗がりの中でも分かる、燃えるような瞳の強さ。

「君は、僕が未来へ迷わず進むための『道標』になったんだ」

「道標……?」

「ああ。僕はこれから、きっと汚いものや、辛い現実にたくさん直面すると思う。正しさが分からなくなる夜も来るかもしれない」

 彼は少しだけ、弱気な笑みを浮かべた。

「でも、君がその道にいて、傷ついた人を救おうとしている限り……僕は決して間違えない。君という光がある場所が、僕の帰るべき場所だから」

 精衛の胸が、熱くなった。

 私が、彼の道標。

 無力で、守られるだけだと思っていた私が、彼の魂を導く光になれるというのか。

「だから、自分の力を疑うな。体力がなくても、戦う力がなくても関係ない」

 祈はもう一度、精衛を抱きしめた。

 今度は強く。壊れ物を守るように、愛おしさを込めて。

「僕がずっと、隣にいるから。君が治療に専念できるように、外敵は僕が全部引き受ける。……だから、君は君のままで、医者になればいい」

 その言葉は、どんな魔法よりも強力な祝福だった。

 私の存在意義を、これ以上ないほど肯定してくれる、愛の証明。

 精衛の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

 それは悲しみの涙ではない。安堵と、幸福の涙だ。

「……ありがとう、祈」

 精衛は彼の胸に顔を埋め、その匂いを深く吸い込んだ。

 石鹸と、陽の光と、彼自身の匂い。

 これがあれば、私はどこまでも行ける。どんな困難な道でも、きっと歩いていける。

「……おやすみ、僕の道標」

「おやすみなさい……私の、ヒーロー」

 限りある生を選んだ二人は、異なる道を進み、けれど一つの未来を目指すことを誓い合った。

 窓の外から差し込む街灯が、重なり合った二人の影を優しく照らしている。

 祈と精衛は、手を堅く繋いだまま、高校生活最後の春の夜を、静かな希望と共に、深く、温かい眠りについた。

後日譚其の弐「未来への道標」をお読みいただきありがとうございます。

力を失った精衛が直面する「進路」という人間ならではの悩み。この回では、彼女が「何ができるか」ではなく、「何をしたいか」という意志を頼りに、未来への一歩を踏み出す姿を描きました。

「剣と盾」の道を行く祈と、彼を支える「光」の道を行く精衛。お互いを「道標」とする二人の選択が、これからどのように展開していくのか、ご期待ください。

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