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後日譚其の壱 ありふれた一日

 柔らかな朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。

 その光は、まるで祝福のようであり、同時に、これから始まる「人間としての日常」を告げる合図のようでもあった。


「ん……」


 精衛は重たい瞼をゆっくりと持ち上げた。

 体が、鉛のように重い。

 かつて神として生きていた頃には決して感じることのなかった、全身にまとわりつくような気怠さ。筋肉の一つ一つが、昨日の活動を覚えているかのように微かに軋む。

(これが……『疲労』……)

 神力で構成された体ではなく、タンパク質と水分とカルシウムで構成された、脆弱で愛おしい肉体。

 精衛はシーツの感触を確かめるように、指先で布地をギュッと握りしめた。温かい。海の底の冷たさとは違う、生命の灯火が宿る布団の温かさだ。

 隣で、布が擦れる音がした。

「……おはよう、精衛」

 その声に、心臓がドキンと大きく跳ねた。

 まだ少し掠れた、少年の声。

 精衛は首だけを動かして、隣を見た。

 そこには、まだ眠気眼をこすりながら体を起こそうとしている、愛する人――林祈がいた。

 彼の髪は無造作に跳ねていて(いわゆる寝癖というやつだ)、パジャマの襟元からは鎖骨が覗いている。

 こんなに無防備な彼を一番近くで見られることが、今の私には何よりも新鮮で、そして甘美な衝撃だった。

「……おはよう、祈」

 精衛の声もまた、まだうまく喉が開いていないのか、少し鼻にかかったような甘い響きになっていた。

 精衛は、ただじっと彼を見つめる。

 瞬きをするのも惜しい。朝日に照らされた彼の睫毛の長さも、少し不機嫌そうな口元も、すべてが新しい世界の構成要素なのだから。

「……何でそんなに、人の顔をジロジロ見てるんだよ」

 祈がバツが悪そうに視線を逸らした。耳の先が少し赤い。

「別に……」

 精衛はふふっと小さく笑った。

 別に、と言葉では否定しながらも、彼が拒絶していないことは、伝わってくる体温で分かる。

 彼は、精衛が人間になったことへの戸惑いや、これからの責任感、そして(これが一番大きいのかもしれないけれど)年頃の男の子としての照れ臭さを、必死に平静な仮面の下に隠そうとしているのだ。

「……着替えるか」

「うん」

 精衛たちは、示し合わせたようにお互いに背を向け合った。

 その一連の動作にも、まだぎこちなさがあった。

 以前の精衛なら、神力で衣服を一瞬で具現化していただろう。けれど今は、布切れ一枚を脱ぎ着するのにも、手順と手間が必要なのだ。

 パジャマのボタンを一つ、また一つと外していく。

 衣擦れの音がやけに大きく響く静かな部屋。

 精衛は脱ぎ捨てたパジャマをベッドに置き、新しい体を外気に晒した。

 ひんやりとした朝の空気が、素肌を撫でる。鳥肌が立つ感覚。それすらも、生きている証拠のように感じられた。

 ふと、背後からの気配が変わった気がした。

 祈が、動くのを止めている?

 悪戯な好奇心が、精衛の胸の内で小さく頭をもたげた。

 神としての倫理観はもう捨てた。今の精衛は、好奇心旺盛な人間の少女なのだ。

 精衛は、脱いでいたシャツで胸元を隠しながら、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ首を回して背後を盗み見た。

(あっ……)

 視線が、絡み合った。

 祈もまた、シャツを頭から被ろうとして、その動作を止めて、こちらを振り返っていたのだ。

 朝の光の中で、彼の背中は白く、そして思っていたよりもずっと逞しかった。

 少年特有の、骨格が浮き出たしなやかなライン。けれど、その筋肉には確かな力が宿っていることを、昨日の戦いで精衛は知っている。

 肩甲骨のあたりにある小さな黒子や、うっすらと汗ばんだ首筋の質感までもが、驚くほど鮮明に目に飛び込んできた。

 心臓が、早鐘を打つ。

 神話の怪物たちと対峙した時とは違う、もっと根源的な、甘く痺れるような動悸。

 そして、祈もまた、精衛を見ていた。

 彼の視線が、精衛の露わになった肩から、背中のライン、そして――

 精衛は今日、淡い桜色の下着を選んでいた。

 繊細なレースがあしらわれた、少し大人びたデザイン。人間の体になって、初めて自分で選んだ「女性」としての装い。

 その淡いピンク色が、精衛の白い肌の上で恥じらうように主張しているのを、彼の瞳が捉えている。

「……っ!」

 数秒か、あるいは永遠にも感じられた静止画のような時間。

 祈が弾かれたように顔を真っ赤にして、バッと前を向いた。

 精衛もまた、カッと頬が熱くなるのを感じて、慌てて制服のブラウスを掴んだ。

「み、見るなよ!」

「み、見てないわよ! 祈こそ!」

 お互いに上ずった声で言い合う。

 でも、不思議と嫌な気分ではなかった。

 彼の視線には、いやらしい欲望というよりも、異性に対する純粋な驚きと、大切にしたいものを見るような……そんな慎重な光が混じっていたから。

 精衛に見られることを許し、精衛を見ることを許された関係。

 この「恥じらい」という感情こそが、精衛たちが人として、男と女として、距離を縮めている証拠なのだと思うと、胸の奥がきゅっと甘く痛んだ。

 精衛はブラウスのボタンを留めながら、誰にも見えないように小さく微笑んだ。

(……悪くないわね、こういうのも)



「……よし」

 祈がネクタイを締め終わり、深い息を吐いた。

 精衛もスカートのプリーツを整え、鏡の前で最後のチェックをする。

 鏡に映るのは、どこにでもいる女子高生。

 かつて大地を統べた炎帝の娘の面影は、その瞳の奥の深い光に残るだけだ。

「行こうか、精衛」

「ええ、祈」

 二人並んで、階段を降りる。

 一歩、また一歩。

 トン、トン、という足音が、リズムよく響く。

 精衛の足の裏に感じるフローリングの硬さ。スカートが揺れて膝に触れる感触。そして何より、重力。

 地球の中心へ向かって引っ張られるこの力に逆らって、自分の筋力だけで体を支え、下へ降りていく。

 それは本来、無意識に行う単純な動作のはずだ。

 けれど精衛にとっては、これが冒険だった。

 神力で浮遊していた頃には味わえなかった、「地面を踏みしめる」という確かな実感。

 一歩踏み出すたびに、世界が私に「お前はここにいる」と語りかけてくるようだ。

 精衛は手すりに触れ、その冷たさを楽しみながら、祈の背中を追った。

 リビングに入ると、コーヒーの香ばしい匂いと、トースターが焼ける香りが鼻孔をくすぐった。

 生活の匂い。平和の象徴。

「おはよう、精衛ちゃん。昨日はよく眠れた?」

 キッチンカウンターの向こうで、願が微笑んでいた。

 願は朝のニュースを見ながら、片手でマグカップを持っている。

 その変わらない日常の風景が、昨日の世界の崩壊の危機がまるで嘘だったかのように錯覚させる。

 制服姿の精衛を見て、願の表情がふっと和らいだ。

 安堵。そう、彼女はずっと心配してくれていたのだ。二人が無事に「こちらの世界」に戻ってこられるか、と。

「はい、お姉さん。おはようございます」

 精衛は椅子を引き、食卓についた。

「昨夜は……まるで数千年ぶりに眠ったかのように、深く、泥のように眠れました」

 精衛の言葉に嘘はなかった。

 神としての数千年は、常に意識の一部が覚醒しているような状態だった。本当の意味での安息など、あの冷たい海の中にはなかったのだ。

 昨夜の眠りは、ただの睡眠ではない。魂の休息だった。

「あ……」

 願が一瞬、きょとんとした顔をした。

 そうだった。願にとって、精衛は「設定に凝り性の女の子」で通しているのだった。

「あぁ、ふふ。チャットでの設定ロールプレイがまだ抜けないのね。可愛いわ」

 願は朗らかに笑い流してくれた。彼女のこの大らかさに、精衛たちはどれだけ救われているだろう。


 コトッ、と目の前に置かれたのは、湯気を立てる白いお粥。

 鶏肉と生姜の香りがふわりと漂う。

 精衛はスプーンを手に取り、そっと一口、口に運んだ。

「……ぅ」

 熱い。

 舌先が少し焼けるような熱さ。

 でも、それを通り越して、口いっぱいに広がるお米の優しい甘みと、出汁の旨み。

 食道を通り、空っぽだった胃袋に温かいものが落ちていく感覚。

 じわじわと、体の内側から熱が生まれてくる。

(これが……「食べる」ということ……)

 神には必要のない行為。プラーナを摂取すれば事足りる存在だった精衛には、これほど鮮烈な「快楽」はなかった。

 空腹という欠落が、他者の命(食材)によって満たされていく。

 その単純で、けれどあまりに切実な幸福に、目頭が熱くなった。

「……美味しい」

 精衛の思わず漏れた声は、自分でも驚くほど震えていた。

 ただのお粥なのに。どうしてこんなに、胸が詰まるのだろう。

「ふふ、よかった」

 願が精衛の頭を撫でるような視線で見守ってくれている。

「そういえば祈、姉さん今日、仕事で遅くなるから。悪いけど帰りにスーパーで食材買ってきてくれない? 今日の特売品リストと買うものはLINEで送っておくから」

 祈がパンを齧りながら、わざとらしく顔をしかめた。

「えー、面倒くさいな……。俺、今日課題もあるし……」

「あら、誰のおかげで毎日ご飯が食べられているのかしら?」

 願の笑顔の圧に、祈は即座に降伏した。

「……分かったよ、行けばいいんだろ。仕方ない、精衛も一緒に行くぞ。荷物持ちが必要だからな」

 ぶっきらぼうな言い方。でも、精衛には分かる。

 祈が精衛を一人にしたくないこと、そして精衛と一緒にスーパーに行くのを、少し楽しみにしていること。

「はい、祈!人間としての初めての『買い出し』ね。光栄だわ」

 精衛はスプーンを握りしめ、敬礼するように背筋を伸ばした。

「そんな大袈裟なことじゃねーよ」

 祈が苦笑し、願が「いってらっしゃい」と手を振る。

 この騒がしくも温かい朝の1ページが、精衛の新しいアルバムの最初の一枚になった。



 二人は家を出て、学校へと続く並木道を歩く。

 冷たい風が精衛の頬を刺すが、マフラーに顔を埋めると自分の息で暖かい。

 二人は、並んで歩いていた。

 けれど、肩が触れ合う距離ではない。人一人分くらいの、微妙な隙間を開けて。

 お互いに意識しすぎているのが、この空間の緊張感で伝わってきてしまう。

(手を……繋ぎたい)

 ふと、そんな衝動に駆られる。

 昨日の夜、二人は泥だらけの手をずっと繋いでいた。あの時の安心感が恋しい。

 でも、今は白昼の通学路だ。

 周りには他の生徒もいる。それに、二人はまだ「そういう関係」だと公言したわけではない。

 祈の横顔を盗み見る。彼もまた、真っ直ぐ前を見ているようで、時折精衛のほうを気にする素振りを見せていた。

 近づきたい。触れたい。でも、恥ずかしい。

 まるで磁石の同じ極同士が反発し合っているみたいに、近づこうとしては弾かれ、離れようとしては引き寄せられる。

 このもどかしい距離感さえも、今の精衛には愛おしかった。人間ならではの、「恋」の形のような気がして。

 その時、前方から見慣れた二つの影が近づいてきた。

「おはよう、祈くん! そして衛佳えいかちゃん、今日も可愛い!」

 花が咲くような笑顔で手を振ってきたのは、薫だった。

 その隣には、けだるげにポケットに手を突っ込んだ李――かつて、敵だと思った、哪吒なたがいる。

「どうも、薫ちゃんも可愛い!」

 精衛は反射的に挨拶を返す。


「よ、林くん。衛佳ちゃん。……朝から甘ったるい匂いがすると思ったら、やっぱり二人一緒か」

 李が、ニヤリと口の端を歪めた。

 その鋭い視線が、精衛と祈の間の「微妙な距離」を射抜く。

 そして、精衛の制服の襟元あたりを一瞬だけじっと見た。

 かつて、彼は精衛を「鳥」と呼び、敵意を向けてきた。だが今は、その瞳に険はない。あるのは、すべてを知る者としての意地の悪い共感だけだ。

 ふと、薫が李の胸元に手を伸ばした。

「もう、たっくんったら。ネクタイ曲がってるよ」

「ん? ああ、悪い」

 薫の手つきは慣れたもので、李もされるがままになっている。

 その一連の動作の自然さ。

 そこには、言葉など要らない、長い時間を共有した夫婦のような安定感があった。

 精衛は羨ましい、と少し思った。二人のような初々しい緊張感ではなく、魂が溶け合っているような空気。

「お前こそ、薫といつもベタベタしてるじゃないか」

 祈が少し不貞腐れたように言い返す。

「……それより李、ネクタイ曲がってるぞ。薫に直してもらえ」

「もう直してもらったよ。見てないのか?」

 李は、やれやれと肩をすくめた後、意味深な視線を祈に向けた。

「ふふん。まあ、頑張りたまえよ林くん。お互い、『神様』の機嫌を取るのは大変だからね」

「なっ……」

 祈が言葉に詰まる。

「神様」という言葉を、ただの比喩のように軽く使いながら、李は二人の秘密を揶揄ったのだ。

「行くよ、薫。遅刻する」

「あ、待ってよ李くん! じゃあね、二人とも!」

 李は薫の手を引き、さっさと校門の中へと消えていく。その後ろ姿は、どこか頼もしかった。

 彼らは彼らなりに、人と神との共存の形を見つけているのだ。精衛たちの、少し先を行く先輩として。



 1時間目のチャイムが鳴り、ホームルームが始まる。

 教室の扉が開き、担任の王植偉おうしょくい先生が入ってきた。

 少し猫背で、柔和な笑顔を絶やさない、お父さんのような先生。

 けれど、時折見せるその眼光の深さは、彼もまたただの人間ではないことを予感させる。

きょうくん、学校生活には慣れたか?」

 出席簿を置きながら、王先生が精衛に声をかけた。

「姜」というのは、私の人間界での名字だ。父・炎帝の姓でもある。

「はい、王先生。ありがとうございます」

 精衛は席から立ち上がり、答えた。

「毎日が学ぶことばかりで……とても新鮮で、楽しいです」

 黒板の文字、チョークの匂い、クラスメイトたちのざわめき。

 そのすべてが教材であり、精衛の新しい世界のパーツだ。

 王先生は、眼鏡の奥で目を細め、満足そうに頷いた。

「そうか、それは良かった。困ったことがあったら、何でも私に言うんだぞ。……もちろん、林にもな」

 先生が祈の方を見てウィンクする。

 クラス中から「ヒューヒュー!」とはやし立てる声が上がり、祈が「先生まで!」と机に突っ伏した。

 精衛は顔が熱くなるのを感じながらも、胸の奥が温かくなるのを止められなかった。

 ここでは、精衛はただの「転校生の女の子」で、祈と仲の良いクラスメイトとして受け入れられている。

 炎帝の娘でも、精衛でもなく。

 

そして、続く2時間目は現代文。

 担当は、公孫夏夜こうそんかや先生。

 カツカツカツ、とヒールの音を高く響かせながら、彼女は教室に入ってきた。

 整った顔立ちには隙がなく、冷徹な知性が漂う。彼女の授業はいつも緊張感が漂うが、その言葉には不思議な引力があった。

「…さて。今日のテーマは『限りある生』についてです」

 公孫先生は、教壇に手をつき、教室全体を見渡した。

 その視線が、一瞬だけ精衛の上で止まった気がした。

「皆さんは若く、自分たちの時間が永遠に続くかのように錯覚しているでしょう。ですが、現実は違います」

 彼女の声は、乾いた氷のように冷たく、そして鋭かった。

「神話の英雄や神々のように、永遠を生きる者など現実にはいません。……もし仮にいたとしても、彼らは『変化』を知らない。変化なき永遠は、死よりも虚しい停滞です」

 ドキリ、とした。

 公孫先生の言葉は、精衛の過去そのものを指しているようだった。

 あの冷たい海の底で、ただ憎しみと後悔だけを抱えて彷徨っていた数千年。あれは確かに、生きてはいなかった。死ねないだけの、永遠の停滞だった。

 公孫先生は黒板に『刹那』と書き殴った。

「この世は公平ではありません。夢だけでは生きられない。……ですが、だからこそ」

 公孫先生はチョークを置き、静かに言った。

「限りがあるからこそ、その一瞬一瞬が輝くのです。終わりがあるからこそ、私たちは『今』を選択し、足掻き、何かを残そうとするのです」

『限りある生』。

 かつては恐怖の対象だった言葉。喪失の同義語だと思っていた言葉。

 でも今は、それが何よりも重く、現実的な「希望」となって精衛の胸に突き刺さる。

 精衛は神の座を捨て、永遠に別れを告げた。

 それは、この「一瞬の輝き」を手に入れるため。

 祈と共に老い、皺を刻み、最後には土に還るという、人間だけが許された贅沢な旅路を歩むため。

 精衛はペンを握りしめ、ノートに『今を生きる』と書き記した。

 視線を横に向ける。

 隣の席では、祈が真剣な顔で黒板を写していた。

 シャーペンを動かす指の関節。少し伸びた爪。熱心な眼差し。

 その横顔を見ているだけで、愛おしさが込み上げてくる。

(これから、あなたと過ごす何十年……。それは神の時間からすれば一瞬かもしれない)

 でも、その一瞬はきっと、あの灰色の数千年よりも遥かに鮮やかで、価値のあるものになる。

「……何?」

 視線に気づいたのか、祈が小声で聞いてきた。

「ううん」

 精衛は首を振り、小さな声で、けれどはっきりと答えた。

「幸せだな、って思っただけ」

 祈は目を丸くし、それからふっと優しく笑った。

「……変なやつ」

 窓の外の青空はどこまでも高く、澄み渡っていた。

 精衛の「人間一年生」の生活は、まだ始まったばかりだ。


 放課後のチャイムが鳴り響いた瞬間、教室の空気が一変した。

 気怠げな授業の余韻は霧散し、若者たちの解放されたエネルギーが廊下へと溢れ出す。

「精衛ちゃん、行こう! 今日はとことん歌うんだから!」

 薫が弾けるような笑顔で精衛の手を引いた。

「え、ええ。……歌、ですか」

 精衛は少し戸惑いながらも、その熱意に引かれるように立ち上がった。

 神代の宴とは違う、現代の若者たちの娯楽。

 それは精衛にとって、教科書には載っていない「生の感情」を学ぶための、未知なる儀式だった。



 薄暗い個室の扉を開けた途端、極彩色のレーザービームと重低音が、精衛の新しい鼓膜を直撃した。

 壁一面に貼られた極彩色のポスター、マイク独特の金属臭、そして微かに残る甘い芳香剤の匂い。

 五感を刺激する情報の洪水に、精衛は一瞬目眩を覚えた。

 かつて東海を統べていた頃の静寂とは対極にある、雑多で、暴力的で、けれど生命力に満ちた空間。

「ほらほら、まずは精衛ちゃんから! これ、今一番流行ってるラブソングだから!」

 薫がリモコンを操作し、マイクを強引に握らせてくる。

 モニターに映し出されたタイトルは、『永遠の恋人』。

 なんて、大袈裟で、直球なタイトルなのだろう。

 精衛はマイクの冷たい感触を指先で確かめながら、ソファの隅に座る祈を盗み見た。

 彼は少し居心地が悪そうに烏龍茶のグラスをいじっている。その横顔が、照明の点滅に合わせて赤や青に染まるのを見て、精衛の胸の奥がキュッと音を立てた。

 イントロが流れる。

 甘く切ないピアノの旋律が、スピーカーから振動となって伝わってくる。

(歌う……。私の声を、感情を、旋律に乗せて)

 精衛は深く息を吸い込んだ。

 神代の歌は、天地を鎮め、精霊を慰めるための祈りだった。

 だが、今の私が歌うべきは祈りではない。

 もっと個人的で、もっと切実な、たった一人の人間へと捧げる「叫び」だ。

 精衛は瞼を開いた。その赤い瞳が、薄暗い部屋の中でルビーのように鮮烈な光を放ち、真っ直ぐに祈を射抜く。

「♪君をこんなに、こんなに、愛してるのに……」

 第一声が放たれた瞬間、空気が震えた。

 それは単なる声帯の振動ではなかった。

 数千年の孤独、氷の海に沈んでいた絶望、そしてそこから引き上げてくれた手の温もり――。

 精衛の中に渦巻く強烈な感情の奔流が、人間の肉体というフィルターを通して「歌」へと昇華されていた。

 プロの歌手のような技巧ではない。技術を超越した、魂の共鳴。

 サビに向かって高まっていくメロディに合わせて、精衛の声も熱を帯びていく。

 歌詞の一語一語が、まるで自分自身の血肉を削り出したかのように、重く、熱く響く。

「♪言葉にできない想いが、君に届きますように……」

 精衛は、祈から視線を外せなかった。

 彼に届けたい。

 この胸を焦がすどうしようもない熱を、言葉という形を借りて、彼の魂に直接触れたい。

 祈が、驚いたように目を見開き、グラスを持つ手を止めているのが見えた。

 彼の顔が、照明のせいだけでなく、明らかに赤く染まっていく。

 その動揺した表情が、精衛にはたまらなく愛おしく、そして少しだけ愉快だった。

(あ……)

 ふと、我に返る。

 サビの最高音を歌い上げた直後、とてつもない羞恥心が遅れてやってきた。

 私、なんて顔をして歌っていたんだろう。

 まるで、公開告白じゃないか。

 急に心臓が早鐘を打ち始め、顔から火が出そうだ。

 精衛は歌い終わりのフレーズを口ずさみながら、たまらず祈から視線を逸らした。

 モニターの歌詞を追うふりをしながら、マイクを握る手が小刻みに震えるのを必死に抑える。


 演奏が終わり、静寂が戻った一瞬の後。

「す、すごい……!」

 薫が目を輝かせて拍手をした。

「精衛ちゃん、上手すぎるよ! なに今の表現力!? まるで本気の告白みたいだった!」

「え……そ、そうでしょうか……?」

 精衛はマイクを両手で包み込み、視線を泳がせた。

「ふふ。……この歌は、限りある生を持つ人間の、最も尊い感情を表現していますから。……全身全霊を込めるべきでしょう?」

 精一杯の正当化。

 あくまで「楽曲への解釈」として振る舞おうとしたが、声が少し上ずっているのは自分でも分かった。

 恐る恐る、もう一度祈の方を見る。

 祈は口元を手で覆い、どこか遠くを見るように視線を天井に向けていた。

 耳まで真っ赤だ。

(……届いた、のかしら)

 その反応が嬉しくて、精衛は小さく安堵の息を吐いた。

「……へぇ」

 ソファの奥、影に沈むような位置で、李宅が足を組んで座っていた。

 彼は、グラスの氷をカランと鳴らし、面白そうに目を細めていた。

 その瞳には、ただのクラスメイトとしての親愛だけでなく、神話を知る者としての冷徹な観察眼が宿っていた。

「悪くないね。……霊力は失っても、感情の炎は人間以上に強いか」

 李は独り言のように呟き、口角を歪に吊り上げた。

「面白い。だが、その炎こそが、いつか彼女自身を焼き尽くすことになるのかもしれないな」

 彼は音もなく拍手をした。

 乾いた拍手の音は、カラオケの喧騒にかき消され、誰の耳にも届かなかった。

 だが精衛には、背筋に一筋の冷たい風が走ったように感じられた。

 彼の視線は、精衛という「新しい人間」の危うさを、的確に見抜いているようだったからだ。



 店の外に出ると、世界は夕焼けのオレンジ色に染まり始めていた。

 李と薫と駅前で別れ、精衛と祈は並んで歩き出した。

 向かう先は、日常の象徴である「スーパーマーケット」。

 姉の願から託されたミッションを遂行するために。


 自動ドアが開くと、暖房の効いたほかほかとした空気が二人を包んだ。

 蛍光灯の白々しい光が、所狭しと並べられた商品の山を照らし出している。

「ここは……」

 精衛は息を呑んだ。

 色とりどりの果物、ビニールに包まれた肉塊、整然と陳列された調味料の列、列、列。

 神界の宮殿にも、これほど多様で、これほど「生」に直結した物資の集積所はなかっただろう。

「神界には存在しない、『食料供給の戦場』ね……」

 精衛は真剣な眼差しで周囲を見渡した。

「戦場って……。ただのスーパーだって」

 祈が呆れたように苦笑するが、精衛の耳には届かない。彼女はポケットからスマートフォンを取り出し、願から送られてきたLINEのメッセージを開いた。

「いいえ、祈。甘く見てはいけません。お姉さんの指令は絶対です」

 精衛は画面を指でなぞり、読み上げた。

「任務目標:『今夜の野菜炒め用に、葉がシャキシャキした新鮮なキャベツを一玉確保せよ』。……難易度の高いミッションね」

「だから、普通に選べばいいだろ」

「いけません!」

 精衛は鋭く言い放ち、野菜売り場へと足早に向かった。

「『食』とは、命を繋ぐ神聖な儀式。その触媒となる食材選びに、妥協など許されないのです」


 キャベツ売り場の前で、精衛は立ち止まった。

 山積みにされた緑色の球体たち。

 彼女は、まるで爆弾処理班のように慎重な手つきで、その内の一つに手を伸ばした。

 ひんやりとした葉の感触。少し湿り気を帯びた、植物特有の青い匂い。

 かつては念じるだけで食事が現れた。

 けれど今は、この重みを、この冷たさを、自分の五感で確かめなければならない。

 精衛は人差し指で、キャベツの表面をそっと押してみた。

 キュッ、という微かな音と共に、指先に確かな反発が返ってくる。

(……生きている)

 土から切り離されてもなお、その細胞の一つ一つが水分を保ち、生きようとしている。

 その事実に、精衛は不覚にも感動してしまった。

「……祈、見て」

 彼女は振り返り、キャベツを宝物のように掲げた。

「この弾力。この艶。……素晴らしいわ」

「ははっ、すげー真面目な顔して何言ってんだよ」

 祈が吹き出した。

 彼は優しく目を細めて、精衛を見つめている。

「でも、まあ……お前が選んだなら、きっと一番美味いとおもうよ」

 その言葉に、精衛は虚を突かれたように瞬きをした。

 ただの野菜選び。

 それなのに、彼の「お前が選んだなら」という無条件の信頼が、胸をくすぐった。

「……そう。なら、これを採用します。この瑞々しい弾力こそ、お姉さんの望む『シャキシャキ』に違いありません」

 精衛は少し顔を伏せ、照れ隠しのように素早くキャベツをカゴに入れた。

 平凡な日常のタスク。

 人間にとっては退屈な義務かもしれないそれが、精衛にとっては、祈と共に生きる世界を構築する、かけがえのない煉瓦の一つ一つだった。



 買い物を終え、スーパーを出る頃には、空はすっかり濃紺に変わりかけていた。

 西の地平線にわずかに残る茜色が、古都西安の瓦屋根のシルエットを美しく切り取っている。

 街灯がポツポツと灯り始め、家路を急ぐ人々の波が道を埋めていく。

 精衛と祈は、一つのレジ袋を二人で持つわけにもいかず(それは少女漫画の読みすぎだと祈に却下された)、半分ずつ荷物を持って並んで歩いた。

 人通りの少ない裏路地に入ると、周囲の喧騒が遠のき、二人の足音だけが響くようになった。

 沈黙。

 でも、気まずい沈黙ではない。

 ただ、お互いの存在を意識しすぎて、言葉が見つからないだけの、甘酸っぱい沈黙。

 ふと、隣を歩く祈の歩調が、わずかに乱れた気がした。

 精衛が顔を上げようとした、その時。

 右手に、温かい感触が触れた。

「……ッ」

 驚いて見ると、祈の大きな手が、精衛の空いている右手を、不器用に、でも力強く包み込んでいた。

 祈の顔は見えない。彼はあさっての方向を向き、耳まで真っ赤にして黙々と歩いている。


 精衛の掌は、冷たかった。

 スーパーの冷蔵ケースで冷えたせいもあるだろう。

 だが、それ以上に、彼女の肉体には、まだ「冷たい海」の記憶が微かに残っているのかもしれない。

 そんな冷え切った指先を、祈の体温がじわりと溶かしていく。

 熱い。

 火傷しそうなくらい、彼の命の熱量が伝わってくる。

 精衛は反射的に手を引っ込めそうになった。

(私なんかが、触れていいの……?)

 神としての穢れ。数千年の呪い。

 そんな汚れた自分が、こんなにも純粋な温もりに触れていいのかという、根源的な恐怖。

 だが、祈は手を離さなかった。

 逃がさない、と言うように、さらに指を絡ませ、ギュッと握りしめてきたのだ。

「……冷たいな、お前の手」

 祈が、前を向いたままポツリと言った。

「……はい。スーパーにいましたから」

「違うよ。……前からだ。精衛の手は、いつも少し冷たい」

 彼は、ほんの少しだけ力を込めた。

「だから、俺が温める」

 単純で、飾り気のない言葉。

 でも、だからこそ、精衛の心の殻を粉々に打ち砕いた。

 精衛は立ち止まりそうになる足を、必死に動かした。

 涙が出そうだった。

 神通力を失った。空を飛ぶ翼も、海を割る力も、もうない。

 私は無力で、脆弱な、ただの人間になった。

 けれど。

(ああ……これね)

 精衛は、祈の掌の感触を、魂に刻み込むように確かめた。

(愛しい人の体温。……これが、私が神の座を降りて、この世界で得たもの)

 どんな強力な結界よりも、どんな破壊的な魔法よりも。

 この温もりこそが、私を「生」に繋ぎ止める、最も強く、最も確かな力だ。

 精衛はそっと、祈の手を握り返した。

 恐る恐る、でも精一杯の想いを込めて。

 親指で、彼の甲を優しく撫でる。

 祈の肩がビクリと跳ねたのが分かった。

 精衛は、くすりと笑った。

「……温かいです。祈」

 精衛は上目遣いに、彼の横顔を見上げた。

 一瞬、視線が合う。

 祈が驚いたように目を見開き、そして照れ臭そうに鼻をこすって、また前を向いた。

 その一連の仕草が、どうしようもなく愛おしくて。

 精衛はもう一度、強く彼の手を握った。

 アスファルトの上に、長く伸びた二人の影。

 その影の手と手の部分は、完全に溶け合って、一本に繋がっていた。

 まるで、二人のこれからの運命が、もう二度と離れないことを予言しているかのように、夕闇の中で揺れていた。



「ただいま」

 玄関の扉を開けると、リビングから漂ってくるごま油と焦がし醤油の香ばしい匂いが、精衛の鼻腔をくすぐった。

 それは世界を救った英雄を迎える凱旋のファンファーレではなく、ただの「家族の帰宅」を告げる、平和な匂いだった。


「おかえりなさーい! おおっ、見事なキャベツ!」

 キッチンから顔を出した願が、精衛が恭しく差し出したレジ袋を受け取り、大げさに目を丸くしてみせた。

「よくやったわ、二人とも。特に精衛ちゃん、この選び方はプロ級よ。瑞々しくて最高!」

「はいっ! 任務、完了いたしました」

 精衛は少し誇らしげに胸を張る。

 たかが野菜。されど、このキャベツ一玉が、今夜の姉の笑顔を作り、三人の食卓を彩るのだと思うと、どんな魔除けの宝珠よりも尊いものに見えた。

「ふふ、偉い偉い。……じゃあ、ご褒美にお風呂、一番風呂をあげるわ」

 願がウィンクする。

「え……?」

「女の子は長風呂したいでしょ? 夕飯ができるまで、ゆっくり温まってきなさい。あ、入浴剤も新しいの買っておいたから、好きに使っていいわよ」

「あ、ありがとうございます……お姉さん」

 精衛はペコリと頭を下げ、脱衣所へと向かった。

 背後で、祈が「えー、俺、汗かいてるんだけど……」と抗議の声を上げ、「レディーファースト!」と願にたしなめられているのが聞こえる。

 その賑やかなやり取りが、くすぐったくて、温かい。

 カチリ、と浴室の鍵を閉める。

 そこは、白いタイルに囲まれた、狭くも清潔なプライベート空間だった。

 蛇口をひねると、ボイラーの唸る音と共に、勢いよく湯がバスタブへと注がれていく。立ち昇る湯気が鏡を曇らせ、空間が乳白色の霧に包まれていく。

 精衛はゆっくりと制服を脱ぎ捨てた。

 ブラウス、スカート、そして下着。

 最後に残った一枚の布が床に落ちると、鏡の中に、ありのままの「一人の少女」が映し出された。

 精衛は、曇った鏡を手のひらで拭い、自らの新しい肉体をまじまじと見つめた。

「これが……今の、私……」

 神代の威厳を纏っていた頃とは違う。

 そこにあるのは、柔らかく、脆く、そして瑞々しい生命の器だった。

 精衛は、そっと自分の鎖骨の下あたりに指を這わせた。

 指先が辿る肌は、驚くほどきめ細かく、滑らかだ。陶磁器のような無機質な白さではない。皮膚の下を流れる血液が、ほんのりと桜色の赤みを透かせている。

 視線を下ろす。

 胸の膨らみは、呼吸に合わせて小さく上下していた。かつての完璧な造形美とは違う、重力に従って自然な曲線を描く柔らかさ。

 指先でその頂に触れてみる。ビクリ、と身体が反応し、甘い電流のような感覚が背筋を走った。

(……敏感、なのね)

 神の体にはなかった、過剰なまでの感覚受容器。

 くびれたウエスト、そこからなだらかに広がる腰のライン。

 太ももの内側は、指が沈み込むほど柔らかく、それでいて弾力がある。

 膝小僧の薄い皮膚の下には、確かに骨の硬さを感じる。

 精衛は、自分の二の腕をつねってみた。

 痛い。

 でも、その痛みさえもが愛おしい。この痛みこそが、私がここに「実在」している何よりの照明あかしなのだから。

 バスタブの淵をまたぎ、温かい湯の中へと、ゆっくりと身体を沈めた。

「ふぁ……ぁ……っ」

 思わず、あられもない声が漏れた。

 熱い湯が足先から腰、そして胸へと這い上がってくる。

 まるで温かい羊水に抱きしめられているような、絶対的な安心感。

 昨日の激戦で張り詰めていた筋肉の繊維が、一本、また一本と解けていくのが分かる。

 血管が拡張し、滞っていた血液が全身を巡り始める幸福な痺れ。

 神だった頃は、汚れなど霊力で弾き飛ばせばよかった。疲労など瞑想すれば消えた。

 けれど人間は違う。

 こうして湯に浸かり、物理的な熱で身体を癒やさなければならない。

 なんて非効率で――なんて快楽的な儀式なのだろう。


 精衛は湯船の中で膝を抱え、頬をその上に乗せた。

 湯に濡れた肌は、さらにその艶を増し、浴室のオレンジ色の照明を弾いて光っている。

 自分の太ももが、温まったことでほんのり上気し、桃のように色づいているのが見える。

(祈も、いつか……この体を見るのかしら)

 ふと、そんな想像が脳裏をよぎり、湯の熱さとは違う種類の熱が顔に集まった。

 さっき、彼の手のひらに触れた時の感触が蘇る。ごつごつして、大きくて、熱かった手。

 あの手が、もしこの肌に触れたら。

 この柔らかな胸を、腰を、彼の手が愛撫したとしたら。

「……んぅ」

 精衛は首を振り、パシャパシャとお湯で顔を洗った。

 まだ早い。まだ、そんなことを考えるのは早すぎる。

 でも、いつか。

 この「人間の体」を使って、彼と愛し合う日が来るのかもしれません。

 その時は、神としてではなく、一人の女として、彼を受け止めたい。

 精衛は湯の中でそっと自分の体を抱きしめ、満ち足りたため息を吐き出した。



 夜が更けた。

 夕食の野菜炒め(キャベツは驚くほど甘かった)を食べ終え、願におやすみを言った後、精衛と祈は二階の自室へと戻った。

 六畳間に、布団が二つ、少しだけ隙間を開けて並べられている。

 電気を消すと、部屋は深い闇に包まれた。

 窓の外から聞こえる虫の声と、遠くを走る車の走行音だけが、静寂の輪郭をなぞっていた。

「……おやすみ、精衛」

 暗闇の向こうから、祈の声がした。

 昼間よりも低く、力の抜けた、無防備な声。

「おやすみなさい、祈」

 精衛も、布団の中から応えた。

 それは、単なる就寝の合図ではない。

「今日一日、あなたが無事で、私も無事でした」

「明日もまた、ここで目覚めましょう」

 そんな、限りある命を持つ人間同士だからこそ交わせる、切実で神聖な契約の確認だった。

 精衛は目を閉じ、耳を澄ませた。

 結界も、千里眼も、今の彼女にはない。

 あるのは、ただの聴覚だけ。

 でも、その耳には、隣で眠る祈の、規則正しい寝息がはっきりと届いていた。

 スー、スー、と。

 一定のリズムで繰り返される、生命の音。

 五千年前、冷たい海の底で聞こえていたのは、孤独な波の音だけだった。

 誰の体温も感じず、誰の声も届かない、永遠の幽閉。

 でも今は違う。

 手を伸ばせば届く距離に、愛する人がいる。

 彼の呼吸を感じながら、同じ夜の闇を共有している。

(……独りじゃない)

 その事実が、じんわりと胸の奥に染み渡っていく。

 恐怖も、不安も、寂しさも、彼の寝息がすべて塗り替えていく。

 精衛は、暗闇の中で小さく微笑んだ。

 瞼の裏には、今日の夕焼けの下で繋いだ手の感触が、まだ残っている。

 明日、目が覚めたら、また彼に「おはよう」と言おう。

 そんな些細な約束を胸に抱き、精衛は、人間として初めての、穏やかで深い眠りの海へと漕ぎ出していった。

後日譚其の壱「ありふれた一日」をお読みいただきありがとうございます。

元・神である精衛にとって、人間としての日常の一つひとつが新鮮な驚きと発見の連続です。隣に愛する人がいることの甘美さ、キャベツ一玉を買う任務の切実さ。この「ありふれた一日」こそが、彼女が神の座を降りて手に入れたかった「希望」の形です。

祈と精衛が人間として、男女として距離を縮めていく様子を、温かく見守っていただければ幸いです。

次回もお楽しみに!

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