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拾壱 夜明けの誓い

どうも、作者です。第十一話「拾壱 夜明けの誓い」の始まりです。

前話の最後の一言が示す通り、彼らに与えられた束の間の平穏は、突然の破局をもって終わりを告げました。李の予感が現実となり、同時多発テロという未曾有の事態が発生します。戦いの舞台は、華山の修行場から、人間界の境界線へと移されます。

今回は、それぞれのキャラクターが守るべきもの、そして能力の限界を超えて立ち向かう壮絶な戦いが描かれます。祈と精衛、そして李と薫は、この境界線の攻防を生き抜くことができるのか。クライマックスへ向け、誰もが息をのむ展開となる第十一話、ぜひご一読ください。

 闇。

 粘りつくような、漆黒の闇だ。

 その闇を切り裂くように、鼻腔を突く強烈な臭気が立ち込めている。

 鉄と、硫黄と、そして――肉が焦げる、あの独特の甘ったるい異臭。

「ギャアアアアアッ!」

「ひ、ひいぃっ! 助け――」

「おっ、俺の脚が! 脚がああああッ!」

 耳をつんざくような悲鳴と絶叫が、暴風のように吹き荒れている。

 視界が開ける。そこは、業火に包まれた陳塘関ちんとうかん

 かつて神々と人が交わり、繁栄を極めた街は、今や見る影もない煉獄と化していた。瓦礫の山と化したかつての美しい楼閣が、赤い舌を伸ばす炎に舐められ、崩れ落ちていく。

 だが、何よりも恐ろしいのは、その炎ではない。


 その中心に立つ、一人の男だ。

 返り血で全身を朱に染め上げ、手には剣すら持っていない。

 それなのに、彼の周囲には、何千何万という水族の兵の死体が山をなしている。

 龍族が誇る精鋭たち。鋼鉄をも砕く鱗を持ち、雷を操るはずの彼らが、まるで紙細工のように引き裂かれ、踏み砕かれている。

 男が、無造作に足元の草をむしり取った。

 ただの、道端の草切れだ。

 彼がそれを指先で弾いた瞬間、草は鋼よりも硬く、矢よりも鋭い凶器へと変貌し、襲いかかる龍兵の喉笛を正確に貫いた。

「カ、ハッ……」

 喉を潰された龍兵が、泡を吹いて倒れる。

 石ころが砲弾となり、木の枝が槍となる。

草木皆兵そうもくかいへい」のことわり

 この世の万物を武器と化し、圧倒的な質量と神威で蹂躙する、理不尽なまでの暴力。

 その男が、ゆっくりとこちらを振り向いた。

 逆光の中で、顔の輪郭は曖昧だ。だが、那個の双眸だけが、凍てつくような輝きを放っている。

 底知れない、虚無の瞳。

 そこには怒りも、喜びも、憎しみすらない。蟻を踏み潰す時に人間が感情を抱かないように、ただ淡々と、効率的に、目の前の生命活動を停止させていく。

 純粋な殺意の塊。

 男が、一歩踏み出した。

 ズズッ……。血の泥濘ぬかるみを踏む音が、心臓を直接鷲掴みにされるような恐怖となって響く。

(来る……!)

 逃げなければ。殺される。引き裂かれる。

 だが、足が動かない。金縛りにあったように、膝が震え、喉がひきつる。

 男が手を伸ばす。その指先が、自分の眼球に触れようとした、その瞬間――。



「ひぃあああアアアアアアッ!!」

 敖丙ごうへいは、喉が裂けんばかりの絶叫と共に、豪奢なキングサイズのベッドから跳ね起きた。

「はぁッ、はぁッ、はぁッ……!!」

 心臓が、早鐘のように激しく肋骨を叩いている。

 全身から吹き出した脂汗で、シルクのパジャマはもとより、シーツまでがぐっしょりと濡れそぼっていた。

 視界が定まらない。

 燃え盛る炎の赤と、血の海が、網膜に焼き付いて離れない。鼻の奥には、まだあの焼けるような死臭がこびりついている。

「くっ、ううぅ……」

 彼は震える手で自身の喉元を掻きむしり、必死に呼吸を整えようとした。

 ここはどこだ? 陳塘関か? 処刑場か?

 違う。

 暖かいエアコンの風が、汗ばんだ肌を撫でる。


 ここは上海。地上400メートルに位置する、D・P・ホールディングス本社ビルのペントハウスだ。

 壁一面の強化ガラスの向こうには、かつての戦場とは似ても似つかない、人工的な光の海が広がっている。

「……また、あの夢か」

 敖丙は乱暴に前髪をかき上げ、深い溜息を吐き捨てた。

 あれは数千年前の記憶。遠い過去の汚点だ。

 自分は今、神話の時代の敗北者ではない。現代中国の経済を裏で牛耳る、巨大企業グループのオーナーだ。

 震えが止まらない指先を強引に鎮め、サイドテーブル上のミネラルウォーターを掴む。キャップをねじ切り、ボトルごと煽るようにして水を流し込んだ。

 冷たい液体が食道を通る感覚だけが、彼を辛うじて現実へと繋ぎ止めていた。

「……クソッ。あの化け物め」

 忌々しげに呟き、ボトルをテーブルに叩きつける。

 夢の中の男――子遠。

 転生した今となっては、あの飄々としたジャージ姿の男だが、その本質にある“異質さ”は変わっていない。神ですら恐怖する、圧倒的な個の暴力。

(だが、今度は違う)

 敖丙は自分に言い聞かせるように、闇の中で拳を握りしめた。

 今は力だけの時代ではない。情報、経済、技術……複雑に絡み合った現代社会のシステムこそが、新たな“力”なのだ。そしてその全てを、今の自分は握っている。

 ふと、サイドテーブルのスマートフォンへ視線を移した。

 デジタル表示は、午前3時14分を示している。

 世界が最も深く眠る時間帯。丑三つ時。


 その静寂を破るように、スマートフォンが不気味な赤色に明滅し始めた。

『EMERGENCY ALERT』

 画面に躍る警告の文字と共に、骨を軋ませるような低いバイブレーションが響く。

 敖丙の表情から、怯えの色が瞬時に消え失せた。

 代わりに浮かび上がったのは、捕食者の冷徹な仮面だ。

「……来たか」

 通話ボタンをスワイプする。

 中空にホログラムウィンドウが展開され、ノイズ混じりの映像が映し出された。

 背景には、けたたましいサイレンの音と、怒号、そして爆発音が入り乱れている。

 映っているのは、戦闘用のタクティカルギアに身を包み、目出し帽を被った部下の男だ。

「報告します! 敖丙様!」

 男の声は興奮と緊張で上ずっていた。

「『ラグナロク計画』フェーズ1、定刻通り開始しました! 現在、北京、上海、広州の三大都市における主要霊的結界ラインへの同時多発テロ、順調に進行中です!」

「状況は?」

 敖丙はベッドから立ち上がり、バスローブを羽織りながら短く問うた。

「はっ! 北京では地下鉄網を利用した『穢れ』の散布により、天壇公園の結界機能が麻痺! 上海では外灘バンドの龍脈ポイントを爆破、霊力の逆流が発生しております! 各地の天兵部隊および退魔組織は混乱の極みにあり、対応が後手に回っております!」

 ホログラムの横に、別のウィンドウが開く。

 SNSのトレンドワードやニュース速報のヘッドラインが、滝のように流れていく。


『上海中心部で謎の爆発、火薬痕跡なし』『北京地下鉄、緊急停止』『原因不明?専門家は老朽化だと指摘』

 人工的なパニック。計算された混沌。

 敖丙の作り上げたシナリオ通りに、巨大国家が悲鳴を上げ始めていた。

「……ふん。脆いものだ」

 敖丙は窓辺に歩み寄り、眼下の夜景を見下ろした。

 宝石箱のように輝いていた上海の街が、所々で黒い煙を上げ、不穏な赤色灯に染まりつつある。

 平和という名の薄い皮を一枚剥げば、そこにあるのは恐怖と暴力だ。人間など、少し不安を煽ってやれば、勝手に疑心暗鬼に陥り、自滅していく愚かな生き物に過ぎない。

「さらに、別動隊より報告!」

 部下の声が、一層の熱を帯びる。

「泰山の『天柱』攻略部隊も、配置につきました。結界の綻びを確認次第、突入を開始します。……邪魔な“番人”どもは、どう処理しますか?」

 番人。

 泰山を守る、忌々しい東岳大帝と、その弟子たち。

 敖丙の脳裏に、先ほどの悪夢の残滓がある。冷や汗が背筋を伝うが、彼はそれを嘲笑で塗り潰した。

「構わん。徹底的にやれ」

 敖丙の声は、氷点下の刃のように冷たく、鋭かった。

「我々の目的は『天柱』の破壊による、現世と常世の境界崩壊だ。その過程で虫ケラが何匹潰れようが、知ったことではない。……いや」

 彼は一瞬言葉を切り、窓ガラスに映る自分の、爬虫類のように縦に割れた瞳と目を合わせた。

「むしろ好都合だ。混乱に乗じて、あの化け物どもをこの手で葬り去る絶好の機会だ」

「はっ! 承知いたしました! 全戦力を投入し、我らの悲願を……!」

「……ご苦労。予定通りに進めろ。失敗は許さん」

 通信を切ると、ホログラムが霧散し、再び静寂が戻ってきた。


 だが、その静寂は先ほどまでのものとは違う。

 嵐の前の静けさではなく、嵐そのものがすぐそこまで迫っている、濃密な殺気に満ちた静寂だ。

 敖丙はワインセラーから年代物の赤ワインを取り出し、グラスに注いだ。

 血のように赤い液体を揺らし、夜景に乾杯する。

「……見ていろ、女媧じょか。そして、天界の老いぼれ共」

 彼は低く、呪詛のように呟いた。


 かつて自分たちを侮辱し、理不尽な裁きを下した始祖神。

「貴様らの作った箱庭は、今日壊れる。……俺が、俺たちが、新たな世界のルールになるのだ」

 グラスを口に運ぶ。

 芳醇な香りの中に、微かに硝煙の匂いが混じっているような気がした。

 それは、戦争の匂い。復讐の匂い。

 そして、もうすぐ手に入るであろう、絶対的な支配の甘美な香りだった。

 敖丙は確信していた。

 この完璧な計画に、一片の隙もないことを。

 あの小僧がどれほど強かろうと、個人の武力など、組織された悪意と、暴走する時代のうねりの前では無力だ。

「さあ……始めようか」

 彼は飲み干したグラスを置き、その美しい緑色の髪をかき上げた。

 夜明けはまだ遠い。

 だが、漆黒の闇こそが、龍が昇るには相応しい舞台だった。


 西安市内、とある廃墟と化した地下倉庫。

 かつては防空壕として使われていたその広大な空間は、今、異様な熱気と静謐さが同居する天界軍の臨時拠点と化していた。

 コンクリートの壁には無数の護符が貼られ、蛍光灯の頼りない明かりの下、数百名もの人間離れした気配を纏う者たちがひしめき合っている。現代的なタクティカルベストを着込んだ者もいれば、時代がかった道着を纏う者もいるが、共通しているのはその瞳に宿る、研ぎ澄まされた刃のような光だ。

「――状況は逼迫している。無駄話をしている暇はない」

 空間の中央、即席の指揮台に立つ男の声が、ざわめきを一瞬で切り裂いた。

 楊戩ようせん。三つ目の瞳を閉じた額に冷徹な知性を宿す、天界最強の司法神。

 彼は広げられた周辺地図を指し棒で叩きながら、氷のように鋭い視線で戦況を見極めていた。

「敵の狙いは明確だ。各地の龍脈を汚染し、『天柱』の結界を内部から腐らせること。……すでに北京と上海の防衛線は瓦解しつつある」

 彼の言葉に合わせて、周囲の空気が張り詰める。

 絶望的な状況報告にもかかわらず、楊戩の声には微塵の揺らぎもなかった。その絶対的な落ち着きが、兵たちに奇妙な安心感を与えている。

「総員に通達する。我々の主戦場はここではない。残存戦力のすべてを、現世と常世の境界線――『狭間』へと投入する。指揮は私が執る」

「はっ!!」

 数百の声が一つになり、地下壕を震わせる。

 楊戩は迷いなく踵を返し、部下たちへの具体的な配置指示に移った。その背中は、世界の命運を背負うにふさわしい、鋼鉄の強さを誇示していた。

 その喧騒の片隅で。

 李が、静かに祈と精衛の手を引いた。

「行くぞ。俺たちは別行動だ」

「えっ? 別の仕事って……先生も境界線に行くんじゃないんですか?」

 祈が戸惑いの声を上げる。

 李は足を止め、二人に向き直った。その表情は、先ほどまでの「体育教師の李」とは決定的に何かが異なっていた。

「楊戩の部隊は陽動だ。奴らが派手に暴れれば暴れるほど、敖丙の意識はそちらに向く。……だが、本丸を叩くには、もっと外科手術的なアプローチが必要だ」

 李は懐からスマートフォンを取り出し、三人の目の前にかざした。

 画面には、中国全土を網羅する複雑な龍脈地図が表示されている。それはまるで生き物のように脈打ち、所々で不気味な赤い光が明滅していた。

「見ろ。各地で同時多発的にテロが起きている。地下鉄の脱線、ビルの倒壊、橋の崩落……。ニュースじゃ『構造上の老朽化』だの『原因不明のガス爆発』だのと報道されているが、そんなわけがあるか」

 李は鼻を鳴らし、画面上の赤い点を指先で弾いた。

「これは、魔術と科学を悪魔合体させた結果だ。『D・P・ホールディングス』の連中め、龍脈の結節点ノードにピンポイントで“穢れ”を注入しやがった。物理的な爆弾なら警察も動けるが、霊的な崩壊となると、人間の科学捜査じゃお手上げだ。現場検証したって、出てくるのはコンクリートの残骸だけで、火薬の痕跡ひとつ見つからない」

「そんな……。じゃあ、一般の人たちは何も知らずに……」

 精衛が青ざめた顔で口元を覆う。

「ああ。パニックと恐怖だけが拡散され、それがさらに“穢れ”を増幅させる。完璧な悪循環だ」

 李は忌々しげに舌打ちをすると、自身の身なりを整えるように手を動かした。

 その動作一つ一つに、奇妙な“重み”が宿り始める。

 彼が無造作に束ねていた長い髪。その結び目にある赤い紐が、風もないのにふわりと生き物のように蠢いた。

 ――混天綾こんてんりょう。海を掻き回し、龍宮を震撼させた伝説の宝貝。

 彼が左手首にはめていた、一見するとただの高級腕時計。その金属ベルトが、微かな駆動音と共に輝きを増し、黄金色の光を放ち始める。

 ――乾坤圏けんこんけん。あらゆる邪悪を打ち砕く、至高の円環。

 そして、彼が胸ポケットから取り出した一本のボールペン。銀色のボディが熱を持ち、周囲の空気が陽炎のように揺らぎ、先端から赫々たる霊気が迸る。

 ――火尖槍かせんそう

 最後に、彼がポケットの中で弄んでいた二枚のコイン。チャリ、チャリと触れ合うたびに、火花が散り、足元に小さな旋風が巻き起こる。

 ――風火輪ふうかりん

 現代のガジェットや装飾品に偽装された神具たちが、主の覚醒に呼応して真の姿を現そうとしていた。

 目の前にいるのは、もはや一般の高校生ではない。

 三頭六臂の鬼神、中壇元帥――哪吒なたその人であった。

「俺たちの任務は、この混乱の元凶である敖丙の本拠地、上海タワーへの『強襲カチコミ』だ。……ビビってションベン漏らすなよ」

 ニヤリと笑うその顔は、好戦的で、不敵で、そしてどこまでも頼もしかった。

「……ッ」

 祈はゴクリと生唾を飲み込む。

 足が震えそうになるのを必死で堪えた。怖い。当たり前だ。相手は神話級の怪物なのだから。

 だが、隣にいる精衛の手を握りしめると、不思議と力が湧いてくる。


 その時だった。

「――おいおい、随分と血なまぐさいねぇ。ここからはガキの使いじゃ済まないぜ?」

 地下壕の影から、一人の男がひらりと舞い降りてきた。

 重力を感じさせない軽やかな着地。擦り切れた革ジャンに、ボサボサの金髪。口には爪楊枝を咥え、人を食ったような笑みを浮かべている。

 斉天大聖、孫悟空。

 彼はリアルタイムで収集していた情報をスマートフォンの画面に流し続けながら、目の前の哪吒を一瞥もしなかった。まるで、そこには空気しかないかのように。

「へっ。相変わらず堅苦しいツラしやがって」

 孫悟空は哪吒を完全に無視し、まっすぐに祈の前へと歩み寄った。

 その双眸には、黄金色の火が灯っている。

「よお、坊主」

 彼は祈の肩を、親しげに、しかし骨がきしむほどの力で叩いた。

「こんな修羅場までノコノコついて来るとは、ご苦労なこった。……だがな、お前はいつの時代も変わらねぇな」

「……え?」

「天界の命令だの、神の使命だの、そんな小難しい理屈はどうでもいいんだよ」

 孫悟空はニッと笑い、その牙を剥き出しにした。

 その笑顔は獰猛だが、どこか清々しく、この場に満ちる重苦しい空気を吹き飛ばすような力強さがあった。

「お前はお前の信じる道を行け。お前にはお前の戦う理由があるんだろ? ……あの可愛い小鳥ちゃんを守るためか? それとも、お前自身の意地か?」

「僕は……」

 祈は言葉に詰まる。だが、孫悟空は答えを待たずに続けた。

「それでいい。その『人間の矮小な理由』こそが、俺たち神様気取りには持ち得ない最強の武器だ。……命を使え、坊主。お前が守りたい、その小さな、泥臭い『人間界』のために」

 孫悟空の言葉は、重いハンマーのように祈の心臓を叩いた。

 神々の壮大なチェスゲームではない。これは、僕たちの、人間のための戦いなのだ。

「……はいッ!」

 祈は力強く頷いた。その目から、迷いの色が完全に消え失せた。

「ケッ、いい返事だ。死ぬんじゃねぇぞ」

 孫悟空はひらひらと手を振ると、再び闇の中へと姿を消した。まるでつむじ風のような男だった。



 場面は一転し、上海のとある高級レジデンス。

 その最上階にあるペントハウスでは、二人の男が静かにグラスを傾けていた。

 広大なガラス窓の向こうには、魔都・上海の煌びやかな夜景が広がっている。

 だが、その光の海のあちこちから黒煙が立ち上り、サイレンの赤色が不吉な動脈のように街を走っているのが見て取れた。

「……いよいよ始めたか」

 重厚な革張りのソファに座り、渋い顔で呟いたのは、白髪の老紳士――姜石年。

「あの龍太子の憎悪は、我らが予想していた以上に、止めがたい勢いを持っているようだ。……数千年の時を経ても、怨念とはこうも冷めやらぬものか」

 彼の前には、立体映像で投影された「戦局盤」が展開されている。

 中国全土の龍脈エネルギーの流れを示すその光は、急速に赤黒く変色し、崩壊の兆しを見せていた。

「ククッ、そう悲観したものでもあるまい?」

 窓際でワイングラスを揺らす青年――公日月が、愉しげに笑った。

「面白くなってきたじゃないか。秩序と混沌、創造と破壊。女媧の作りしこの箱庭が、果たして若き魂たちによってどう守り抜かれるか。……あるいは、壊されるか」

 公日月は窓ガラスに手を当て、遥か彼方、西安の空を見据えるように目を細めた。

「これは試練だ。神々の、そして人間の。その証明を待とうではないか」

 二人の表情は、この世界の混乱をまるでチェスの盤面のように俯瞰していた。だが、その瞳の奥には、プレイヤーたちの行方を案じる微かな熱が灯っているようにも見えた。



 一方、遠く離れた西安。

 深夜の静まり返った医大病院。

 その一室にある当直室で、白衣を纏った初老の医師――孫慈恩そん じおんは、ひとり窓の外の曇り空を見上げていた。


 彼のデスクに置かれたノートパソコンからは、龍脈計測プログラムの警告音が断続的に鳴り響いている。

『ALERT: 霊的波動異常検知』『WARNING: 華山エリア、結界強度低下』

 だが、彼は画面を見ようともせず、じっと椅子に座し、瞑目していた。

 その手には、古びた数珠が握られている。

「……祈くん、精衛くん」

 誰に聞かせるでもなく、唇が動く。

「頼んだぞ。……君たちの手で、未来を」

 その声は震えていた。

 医者として、数え切れないほどの命を見送ってきた彼にとっても、この戦いの結末はあまりに残酷で、予測不能なものだった。

 彼にできるのは、ただここで、若者たちの生還を祈ることだけ。無力感と、それを上回る希望を込めて、彼は深く祈りを捧げた。



 同時刻。

 祈のクラスメートであり、李と恋仲でもあった少女、薫――転生した趙子薫は、自宅のリビングで膝を抱えていた。

 部屋の明かりは消されている。

 窓から差し込む月明かりだけが、彼女の不安げな横顔を青白く照らし出していた。

『いいか、薫。絶対に家から出るな。誰が来てもドアを開けるな。……必ず戻る』

 先ほどかかってきた李からの電話。

 その声はいつも通りぶっきらぼうだったが、隠しきれない焦燥と、そして深い愛情が滲んでいた。

「……バカ」

 薫は胸元のペンダントを強く握りしめた。

 それは前世の記憶を繋ぐ、唯一の形見。

 窓の外は、まだ何事もない日常の風景が広がっている。

 コンビニの明かり、遠くを走る車のヘッドライト、隣の家から聞こえるテレビの音。

 だが彼女には、その薄皮一枚隔てた向こう側で、世界が音を立てて崩れようとしているのが分かっていた。

 前世の記憶がフラッシュバックする。

 目の前で血を流し、倒れていく愛する人の姿。

 冷たくなっていく手。届かなかった声。

 二度と会えない絶望。

「……嫌よ」

 恐怖で指先が白くなるほど、ペンダントを握りしめる。

「お願い、たっくん。……今度こそ、生きて」

 涙が頬を伝い、膝に落ちる。

「私を残して逝かないで。……絶対に、帰ってきて」

 その悲痛な願いは、静寂なリビングに吸い込まれ、誰に届くこともなく消えていった。


 街は眠り続けている。

 明日のテストの心配をする生徒、残業に追われる教師、深夜のアニメを楽しむ若者たち。

 彼らは何も知らない。

 自分たちの日常が、今まさに薄氷の上にあることを。

 そして、その氷を支えるために、数人の少年少女たちが命を懸けて暗闇へと飛び込んでいったことを、知る由もなかった。



「……到着したぞ。ここが『境界線』だ」

 哪吒が指差した先には、現代社会の地図からは抹消された空白地帯が広がっていた。

 秦嶺山脈の奥深く、人の足跡を拒絶する険峻な断崖絶壁。その頂にへばりつくようにして、風化した古代の関所跡が鎮座している。

 月光さえ届かない濃い霧の向こうで、空気が歪んでいた。そこは現世と魔界(常世)を隔てる物理的な結界の綻びであり、同時に大地を流れる巨大なエネルギー――『龍脈』が交差する、心臓弁のような場所でもあった。

「うっ……何、この匂い……」

 精衛が鼻を押さえて呻く。

 硫黄と、腐った魚、そして古い血の匂い。それらが混ざり合った吐き気を催すような悪臭が、谷底から吹き上がってくる。

「見ろ。歓迎委員会の出迎えだ」

 哪吒の声は、凍りつくほど低かった。

 霧が晴れた瞬間、祈は喉の奥で悲鳴を飲み込んだ。

「な……ッ!?」

 眼下の谷底、そして遺跡の周囲を埋め尽くしていたのは、数千、いや数万という規模の『異形』の群れだった。

 半魚人のようなぬめった鱗を持つ者、甲殻類のように硬い殻に覆われた者、あるいは深海魚のように巨大な目玉だけをギョロギョロと動かす者。

 敖丙が魔術の粋を集めて常世から召喚した、「水族の雑兵ポーン」たちだ。

 それらが黒い津波となって、今にも崩れそうな青白い光の壁――結界に群がり、爪を立て、牙を突き立てている。バリバリ、シミシミという、ガラスにひびが入るような不快な音が、絶えず響き渡っていた。

「楊戩様、あれをッ!!」

 先行していた天界軍の斥候が、悲痛な声で叫んだ。

「結界の浸食率、すでに限界値を超えています! このままでは、“門”がこじ開けられます!」

「慌てるな」

 前線基地の指揮所に立つ楊戩の声には、一切の動揺が含まれていなかった。

 彼は額の第三の目を見開き、戦場の全貌を冷徹にスキャンする。

「数が多いな……。だが、烏合の衆だ。統率が取れていない」

 楊戩は鋭い視線で敵陣深くを見据えたが、そこに龍族特有の強大な覇気――敖丙の気配は感じられなかった。

(……いない。奴はここにはいないのか? ならば、この大軍はただの目眩ましか、それとも時間稼ぎか)

 思考を一瞬で切り替え、楊戩は三尖両刃刀を地に突き立てた。

「総員、防御陣を展開せよ!! 一歩も引くな! ここを抜かれれば、人間界は終わるぞ!!」

「応ッ!!」

 数百名の天界軍兵士たちが一斉に武器を構え、光の防壁を展開する激しい音が轟いた。


 その喧騒の中、哪吒が懐から取り出したスマホには、世界中から悲鳴のような報告が飛び交っていた。

『緊急警報! 西安の古城壁、南門付近が原因不明の崩落!』

『上海、電力供給網がダウン! 通信タワーからの応答なし!』

 ノイズ混じりの音声に被さるように、どこかのニュースキャスターの震える声が漏れ聞こえてくる。

『――現場からの報告です。警察および消防の一次調査によれば、爆発現場から火薬や爆発物の痕跡は一切検出されていません。専門家は、老朽化による地盤沈下、あるいは構造上の欠陥による事故との見方を強めており……』

「……クソッ。やっぱりな」

 哪吒は忌々しげに舌打ちをした。

「人間たちには、本当の原因が見えていない。魔法で支柱を腐らせ、結界を溶かしたんだ。“事故”として処理されれば、誰も敵の存在に気づけない」

 彼は祈と精衛の方をぐいと振り向き、その肩を掴んだ。

「いいか、よく聞け。あそこでドンパチやっているのは陽動だ。楊戩たちがあの魚臭い連中を食い止めている間に、俺たちにはやるべきことがある」

 哪吒の瞳が、燃えるように熱く輝く。

「破壊された龍脈の修復だ。世界中のパワースポットが“穢れ”で詰まりかけている。それを俺たちの力で無理やり通す。……いわば、世界規模の血管バイパス手術だ」

「じゃ、じゃあ……急がないと!」

 精衛が青ざめた顔で、祈の手を強く握りしめた。その手は冷たかったが、力強かった。

「このままじゃ、本当に世界が終わっちゃうよ! 祈、行こう!」

「……ああ、分かってる!」

 祈は息を弾ませながらも、眼下に広がる地獄絵図から目を逸らさなかった。

 足が震えていないと言えば嘘になる。

 彼はただの高校生だ。数ヶ月前までは、テストの点数や部活のことだけを考えて生きていた。こんな神話のような戦争に、生身で飛び込んでいいはずがない。


 だが。

 脳裏に浮かんだのは、昨夜の喫茶店の温かい光景だった。

 甘いココアを飲んで笑った精衛の顔。

 くだらない冗談を言い合うクラスメートたち。

 小うるさいが心配性の姉。

 それらすべてが、あの醜悪な化け物たちの泥足で踏みにじられようとしている。

「この現世ここは……」

 祈は前を向いた。その瞳に宿るのは、恐怖ではなく、静かなる憤怒と決意だった。

「僕たちが人間として生まれ、泣いて、笑って、恋をして……そうやって積み上げてきた、僕たちの故郷だ」

 彼の拳が固く握りしめられる。

「敖丙のつまらない復讐心のために、理不尽な暴力のために、この世界を滅ぼさせていいはずがないッ!!」

 その叫びは、轟音の鳴り響く戦場にあって、不思議なほど明瞭に仲間たちの耳に届いた。

 近くで準備をしていた天界軍の兵士たちが、驚いたように彼を見る。神でも仙人でもない、ただの「人間」の少年が放つ、純粋で強烈な意志の光。

「僕は……力なんてない、ただの人間かもしれない」

 祈は精衛の手を握り返し、哪吒を見据えた。

「けれど、僕たちには戦う理由がある。……守りたいものがあるから、戦えるんだ!」


 一瞬の静寂。

「……フン」

 哪吒の唇が、三日月のように吊り上がった。

 それは、かつて陳塘関で共に暴れた悪童への顔ではなく、一人の戦士を認めた男の笑みだった。

「上等だ。その意地、見せてもらうぜ」

 哪吒は親指で、遺跡の奥に隠された古びた石のアーチ――転移ゲートを指し示した。

「行くぞ! 乗り遅れるな!」

「はいッ!!」

 三人が地面を蹴り、転移ゲートへと疾走を始めた、その瞬間だった。

「放てェェェェッ!!」

 楊戩の号令と共に、天界軍の放つ無数の光弾が夜空を焦がし、水族の大軍へと突き刺さる。

 閃光。爆発。咆哮。

 世界を分かつ境界線での激突を背に、祈と精衛は、光の渦巻くゲートの中へとその身を投じた。

 守るべき日常を取り戻すために。



 光に包まれた転移の眩暈が収まると、そこは異界の静寂に支配されていた。

 周囲の空気は、鉛のように重く、冷たい。

 そこは「天柱てんちゅう」の基部――現世のことわりと常世の渾沌を繋ぐ、巨大な楔が打ち込まれた聖域だった。

 だが、その神聖さは既に穢されていた。

 足元の石畳には、血のような赤黒い脈動が走り、本来清浄であるはずのプラーナが、腐敗した瘴気となって渦巻いている。

「祈……、ここ……」

 精衛が小さく身震いする。

 寒さのせいではない。本能的な、魂の奥底から湧き上がる拒絶反応だ。

 祈はその震える肩を庇うように前に立ち、薄暗い広間の最深部を睨み据えた。

 そこに、ひとつの影があった。

 巨大な石柱を背に、まるで自分の庭でくつろぐかのように佇む男。

 仕立ての良いスーツの襟を寛げ、緑色の長髪を風に遊ばせながら、彼はゆっくりとこちらを振り返った。

「……よぉ、精衛。それに祈」

 その声は、粘着質な蛇が肌を這うような不快感を伴って、二人の鼓膜を震わせた。

 敖丙ごうへい

 D・P・ホールディングスの総帥にして、かつての東海龍王三太子。

 彼は細めた目を歪に歪ませ、恍惚としたような吐息を漏らした。

「いや……、女娃じょか。そしてよう。五千年ぶりだな」

 その視線が、祈を通り越し、精衛の全身を舐め回すように這いずる。

 制服のスカートから覗く白い脚、恐怖に少しだけ強張る胸元、そして意志の光を宿した大きな瞳。

 敖丙の脳裏で、現実の光景と、あのどす黒い妄想ファンタジーが重なり合った。

(ああ……、そうだ。その顔だ)

 彼の瞳孔が爬虫類のように縦に収縮する。


 今の彼女は、まだ穢れを知らない、高潔な少女の姿をしている。

 だが彼には見える。

 その白い肌が自分の爪で裂かれ、痣に染まり、泥と体液に塗れていく未来の姿が。

 気丈に振る舞うその唇が、苦痛と快楽で歪み、自分の足元で「許して」と泣き叫びながら、無様なほどに涎を垂らして懇願する様が。


 かつて海を埋めようとしたあの小鳥の羽を一本一本むしり取り、鎖で繋ぎ、二度と空を見上げられない“愛玩動物”へと堕としていく嗜虐的な愉悦。

 敖丙は、堪えきれないというように喉を鳴らして笑った。

「ククッ……。待っていたよ。ずっと、この時を夢見ていた」

 彼は一歩、また一歩と、ゆったりとした足取りで二人に近づいていく。

 その一歩ごとに、周囲の空気が物理的な重圧プレッシャーを増していく。

「あの時は邪魔が入ったが、今度は誰にも邪魔させない。天界の連中は雑魚の相手で手一杯だ。……ここは俺たちだけの、完璧な密室ステージだ」

 敖丙の目が、いやらしいほど光を帯びて精衛を捉えた。

 それは人間が対等な存在に向ける目ではない。所有者が、壊れやすい硝子細工の玩具おもちゃを品定めし、どう壊して愛でてやろうかと思案する目だった。

「精衛」

 甘く、そして残酷な響きを含んだ声で、彼は宣言した。

「今度こそ、お前を俺の玩具おもちゃにしてやる。……泣いても叫んでも、もう海からは逃がさない」

第十一話までお読みいただきありがとうございます! いかがでしたでしょうか?

同時多発テロと壮絶な攻防。緊迫感とアクションが続く中、それぞれの覚悟の重さが伝わったかと思います。彼らが守りたかった日常、愛する人々、そして人間界の秩序。守り抜くことはできたのでしょうか?

戦いはまだ終わっていません。次回、いよいよ第十二話です。全ての因果が収束し、この長い戦いに決着がつけられます。彼らの物語の結末を見届けてください。ご期待ください!

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