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拾 境界線(ボーダー)の向こう側

どうも、作者です。第十話「拾 境界線ボーダーの向こう側」の始まりです。李の提案で始まった華山での修行、そして束の間の休息として立ち寄るカフェでの一幕。それぞれの守るべき幸せの形が描かれます。李と薫の様子を見た祈と精衛の関係にも小さな波紋が広がり、物語は人間模様も深めていきます。しかし、その平穏な時間は長くは続きません。最後の一言が、物語の雰囲気を一変させます。クライマックスへの助走となる第十話、ぜひご一読ください。

 十二月の華山は、山全体が巨大な保冷庫と化していた。

 岩肌を削り取るように吹き荒れる北風は、その中に無数の見えない刃を隠し持っているかのように鋭く、触れるもの全ての体温を容赦なくこそぎ落としていく。

 切り立った崖に囲まれた滝壺には、飛沫が凍りついてできた氷柱つららが牙のように垂れ下がり、轟音と共に落ちる水流だけが、この極寒の世界で唯一動くものだった。

「――遅いッ! 那由多の隙があるぞ!!」

 轟音さえも切り裂く鋭い怒声が、峡谷に反響した。

 李宅は、普段の飄々とした態度をかなぐり捨て、文字通りの“修羅”と化していた。黒のジャージ姿という現代的な装いだが、その立ち姿から放たれる威圧感は、神話の時代の武神そのものだ。

 彼の対面に立つ少年――祈もまた、動きやすいスポーツ用のジャージに身を包んでいたが、その顔色は蒼白で、息は白く荒れ狂っていた。

「ぐっ……!」

 祈が防御のために交差させた腕の上から、李の回し蹴りが炸裂した。

 骨がきしむ鈍い音が響き、祈の身体が枯れ葉のように容易く吹き飛ばされる。湿った地面を数メートルも滑り、受け身を取って体勢を立て直す祈の額からは、氷のような冷たい汗が滴り落ちている。

(……感覚は悪くない。だが、決定的に“殺気”が足りない)

 李は冷徹な目で分析した。

 祈の動きには、前世から引き継いだ「大先輩しえん」としての技術的な記憶がある。李の神速の攻撃に反応できていること自体が奇跡に近い。だが、それはあくまで「型」としての対応だ。命のやり取りをする者特有の、泥臭い生存本能と、相手を屠ろうとする獣性が欠落している。

 敖丙が狙うのが「天柱」である以上、敵は手加減などしない。一瞬の躊躇いが、世界ごと砕かれる結果を招く。

「どうした、立ってこい! 敖丙の氷槍ひょうそうは、俺の蹴りよりも重くて冷たいぞ!」

 李は容赦なく罵声を浴びせる。

 本来ならば時間をかけて育てるべき才能だ。だが、今はその猶予がない。李の心中で渦巻く焦燥感が、彼を鬼教官へと変貌させていた。


 その一角、滝壺のすぐ脇では、さらに過酷な光景が繰り広げられていた。

「くっ……ぅう……ッ!」

 少女の喉から、苦悶のうめき声が漏れる。

 精衛だ。彼女は薄い道着一枚という軽装で、氷点下に近い滝の飛沫を至近距離で浴び続けていた。

 彼女に課された修行は「水の拒絶」。自身の神力を瞬時に展開し、皮膚に触れる直前で水を弾き返すという、極めて高度な霊力制御の訓練である。

 だが、今の彼女の力では、自然の圧倒的な質量を前にしてはあまりに無力だった。

 防御膜の形成が間に合わず、大量の飛沫が彼女を直撃する。

「あっ……!」

 白い道着は瞬く間に水を吸い、重く、冷たい拘束具となって彼女の肢体に絡みついた。

 水分を含んで半透明になった布地が、彼女の肌にぴたりと貼り付く。肩の丸み、背中の柔らかなライン、そして寒さで強張る胸元の膨らみ――若く瑞々しい肉体の輪郭が、残酷なほど鮮明に浮き彫りにされていた。

 氷水のような滝水は、布を通して容赦なく彼女の体温を奪い去っていく。唇は紫色に変わり、濡れた髪が頬に張り付き、細い指先は感覚を失って白く変色していた。


 普通ならば、低体温症で意識を失っていてもおかしくない状況だ。

 それでも、彼女の瞳から光は消えていなかった。

(負けない……。私が強くならないと、祈を守れない……!)

 ガチガチと歯の根が合わないほどの震えを意志の力でねじ伏せ、精衛は再び両手を水面に向ける。何度も何度も、冷水に打たれ、道着が肌に食い込む不快感に耐えながら、彼女はその華奢な体で過酷な運命に抗い続けていた。

「よそ見をするなッ!!」

 李の容赦ない一撃が、祈のわき腹を捉えた。

 精衛を気遣って視線を逸らした一瞬の隙を見逃さなかったのだ。

「がはっ……!」

 祈が苦悶の声を上げて膝をつく。

 李は倒れた祈を見下ろし、冷やりと言い放った。

「優しいのは結構だがな、戦場で女の心配をする余裕があるなら、まずは目の前の敵を殺してからにしろ。……でないと、お前も精衛も、二人揃ってあの世行きだ」

 その言葉は非情だったが、まぎれもない真実だった。

 李は倒れた祈の胸ぐらを掴んで無理やり引き立たせると、その耳元で獣のように低く囁いた。

「立て。死ぬ気で来い。……俺を超えられないようなら、お前に世界も女も守れやしない」


「――休憩!」

 李の鋭い一声が、極寒の滝壺に響き渡った。

 その瞬間、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れ、支配していた殺気が霧散する。

「はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」

 祈は膝から崩れ落ちそうになるのを堪え、濡れた岩場に手をついた。全身の筋肉が悲鳴を上げ、李の蹴りを受けた脇腹が焼けるように痛む。肺が凍りつくような冷気を吸い込み、吐き出す息は白い蒸気となって視界を覆う。

 だが、彼は自分の痛みなど一顧だにしなかった。

「……! 精衛!」

 祈は、這うようにしてタオルを掴み取ると、よろめく足取りで滝の直下から這い上がってきた少女のもとへ駆け寄った。

 精衛の状態は、見ていて痛々しいほどだった。

 水を含んで重くなった道着が、華奢な体を冷たく締め付けている。唇は完全に血の気を失って紫色に変色し、指先は凍傷のように白く染まっていた。小刻みな震えが止まらず、カチカチと歯が鳴る音が祈の耳に届く。

「精衛、大丈夫か!? 息はできるか!?」

 祈は彼女の肩を抱き寄せ、持っていた大判のタオルで頭からすっぽりと包み込んだ。

「う……、ん……私、は……」

 壊れた人形のように震える彼女の体を、祈は必死に摩擦して温めようとする。

 冷たい。あまりにも冷たい。

 タオルの上から触れる彼女の腕は、まるで氷柱のようだった。

「ごめん、ごめんな……! 俺がもっと強ければ、こんな……!」

 祈は自分の無力さを呪いながら、濡れた髪の先から滴る水滴を丁寧に拭っていく。

 その手つきは、ガラス細工を扱うよりも慎重で、優しかった。

 こめかみに張り付いた髪を払い、冷え切った頬を両手で包み込む。指先から少しでも自分の熱が伝わるように、祈るような思いでその小さな顔を覗き込んだ。

 彼の脇腹には李の踵によるどす黒い痣が浮き上がり、呼吸をするたびに激痛が走っているはずだ。それでも、その瞳には彼女への慈愛以外、何一つ映っていなかった。


「……ふふ」

 不意に、タオルの隙間から微かな笑い声が漏れた。

「い、祈……顔、近、いよ……」

 精衛が、震える唇で精一杯の微笑みを浮かべていた。

「痛いのは、祈のほう、なのに……そんなに、必死な顔しないで」

「ばか! 自分の心配をしてくれよ……」

 言い返そうとした祈の言葉は、彼女の冷たい手がそっと自分の頬に触れたことで遮られた。

「……あったかい」

 彼女は目を細め、祈の手のひらに猫のように頬を擦り寄せた。

 その仕草に、祈の胸が締め付けられる。

 極寒の修行も、肉体的苦痛も、彼女のこの笑顔が曇ることの方が何倍も辛い。

 祈は無言で彼女を強く抱きしめ、その背中を何度も何度もさすり続けた。摩擦熱で、凍りついた彼女の皮膚に再び血が通うまで。


 少し離れた岩の上で、李はスポーツドリンクを喉に流し込みながら、その光景を横目で見ていた。

(……ったく。相変わらず甘いな)

 あんなボロボロの体で、よくもまあ人の心配ができるものだ。

 だが、李の口元には微かな笑みが浮かんでいた。

(だが、その甘さが強さに変わる時がある。……アイツらの“共鳴”は、俺たちが失った何かを持っているのかもしれないな)

 李は空になったボトルを握りつぶり、視線を重く垂れ込める冬の空へと向けた。

 嵐の前の静けさは、もうすぐ終わる。



 上海の中心部に聳え立つ、ガラス張りの摩天楼。その最上階にある「D・P・ホールディングス」理事長室は、地上の喧騒とは無縁の静寂に包まれていた。

 空調によって完璧に管理された室温。床には最高級のペルシャ絨毯が敷き詰められ、壁には本物のルノワールが無造作に飾られている。

 その窓辺に、一人の男が立っていた。

 仕立ての良いスーツを着崩した、長身の青年。

 色素の薄い肌に、作り物のように整った顔立ち。ウェーブのかかった長い緑色の髪が肩にかかり、その隙間から、人間のものではない角――鹿の角に似た形状の“龍角”が露わになっていた。

 彼こそが、この巨大コングロマリットの若き総帥であり、かつての東海龍王の三男、敖丙だ。

「大方様。首尾は整いました。各地の龍脈への干渉装置デバイス、設置完了です。ご命令があれば、いつでも“天柱”をへし折ることができます」

 背後で跪く部下の報告に、敖丙は振り返りもせずに答えた。

「ご苦労。……下がっていいよ」

 滑らかで、それでいて絶対的な拒絶を含んだ声。

 部下が逃げるように退出すると、敖丙は手にしたクリスタルグラスをゆっくりと揺らした。注がれたヴィンテージワインが、血のように赤く波打つ。

「……ククッ」

 喉の奥から、抑えきれない笑いが漏れた。

 眼下に広がる上海の夜景。無数の光の粒が、まるで宝石箱をひっくり返したように輝いている。だが、彼の目にはそれらがすべて、自分の足元にひれ伏す有象無象の灯火にしか見えなかった。

「長きにわたる神々の支配も、ここで終わりだ。……天界の老いぼれ共も、地上の猿共も、すべて俺が管理してやる。この俺こそが、新たな世界のルールになる」

 グラスを口に運び、ワインの芳醇な香りを楽しみながら、彼の思考は暗く濁った過去へと沈んでいく。



 数千年前の記憶。

 東海龍王の寵愛を一身に受け、欲しいものは全て手に入ると信じていたあの頃。

 人間など、龍族の餌か玩具に過ぎないと思っていた。

 だが、あの娘だけは違った。数千年の時を経ても決して色褪せることのない、あの忌々しくも甘美な記憶が蘇っていた。

「ーー女娃」

 舌の上でその名を転がすだけで、下腹の奥が疼くような熱を帯びる。

 東海龍王の三太子として生を受けた自分にとって、世界は巨大な玩具箱に過ぎなかった。

 金銀財宝も、広大な海域も、そして人間の命さえも。

 父である龍王の名を借り、あるいは自らの神威を振りかざせば、望むものは全て手に入った。生贄として捧げられる村娘たちの、恐怖に歪む顔。泣き叫びながらも最後には絶望し、自分のなすがままにされる柔らかな肢体。

 それらを踏みにじり、慰み者にする愉悦こそが、支配者たる自分の特権だと信じて疑わなかった。


 だがある日、その退屈な飽食の日々に、衝撃が走った。

 生贄として海岸に引きずり出されたその少女ーー後の精衛となる女娃を見た瞬間、敖丙の全身に電流のような戦慄が走ったのだ。

 怯え、震え、泥にまみれてなお、その瞳だけは決して屈服していなかった。

 嵐に打たれても折れない野の花のような、凛とした美しさ。

(……欲しい)

 一目見た瞬間、喉が焼けるほどの渇きを覚えた。

 今までの有象無象の女たちとは違う。この美しい“最上の獲物”を、自分のコレクションの特等席に加えたい。硝子のケースに閉じ込め、手足をもいで、毎日その高潔な瞳が自分の欲望の前に曇っていく様を眺めていたい。

 そう思った矢先の、屈辱的な光景。

 彼女の視線は、神である自分ではなく、その傍らに立つ薄汚い人間の男――よう、今の祈に向けられていた。

 許嫁だというその男の手を握りしめ、互いに庇い合うように寄り添う姿。

 矮小な虫ケラの分際で、神の所有物に触れる男。そして、神の寵愛を拒み、虫ケラごときに純潔を捧げようとする女。

「……不愉快だ」

 敖丙の端整な顔が、醜悪な憤怒と嫉妬で歪む。

 妄想が、毒々しい蔦のように思考を絡め取っていく。

(あの生意気な小娘……俺様の寝所で、泣いて許しを請うまで犯し尽くしてやる)

 想像の中の自分は、女娃を組み敷き、その白い喉元に爪を立てている。

『やめて……陽……!』

 愛する男の名を叫ぶ彼女の口を無理やりこじ開け、舌をねじ込み、悲鳴を快楽の喘ぎへと変えさせてやる。

 彼女が大切にしている純潔を、その男の目の前で無惨に引き裂き、汚濁で塗り潰す。

 絶望に染まり、光を失った瞳で、それでもなお自分を睨みつける顔が見たい。

「お前の体も心も、この俺様の玩具だ」と教え込み、二度とあの男の名を呼べないように壊してしまいたい。


 だが現実には、その愉悦は阻まれた。

 津波を起こし、全てを飲み込もうとした自分に対し、彼らは抗ったのだ。

 女娃は海に飲まれるその瞬間、自らの霊魂を焼き尽くして鳥へと姿を変え、さえずりながら石を運び、海を埋めんと抵抗し続けた。

 そして陽もまた、瀕死の重傷を負いながらも祈りを捧げ、その執念が天を動かし、自分に罰を与えた。

「……愛おしいよ、精衛」

 敖丙は窓ガラスに映る自分の顔を見つめ、嗜虐的な笑みを深めた。

 あの時、殺してしまったことが唯一の心残りだった。あの高潔な魂を、もっと時間をかけて、じっくりと磨り潰すべきだったのだ。

 あの時の屈辱。

 切り裂かれた龍の鱗、奪われた領地、地に落ちた権威。

 それでも懲りず、自分は新たな生贄を求め続けた。地位も名誉も関係ない、逆らう者は全て敵だ。

 だか、それすらも――あの忌々しい蓮根野郎、哪吒によって阻まれた。

「……ククッ、だが、それも終わりだ」

 敖丙は独りごちて、暗い笑みを漏らした。

 そうだ、自分は間違っていない。俺様は龍王の子、選ばれた支配者だ。

 俺様に逆らう世界の方が狂っているのだ。

 ならば、作り変えてしまえばいい。天庭も、人間界も、全てひっくり返し、俺様が頂点に立つ新たなルールを打ち立てる。

「待っていろよ、精衛。……そして陽」

 薄暗い空間に、敖丙の情欲と憎悪に濡れた声が響く。

 今度こそ、邪魔などさせない。

 世界を転覆させた瓦礫の山の上で、あの時叶わなかった妄想を――もっと酷く、もっと残酷な形で、現実に変えてやる。


 脳裏に、現代の姿となった精衛――可憐な制服姿の少女が浮かぶ。

 そして、妄想が膨れ上がる。

 俺の玉座の前で、あの薄汚い男(祈)の生首を転がしてやろう。

 その時、彼女はどんな顔をするだろうか?

 絶望に染まり、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして、俺の足元に縋り付いてくるだろうか。

『お願い、許して……何でもするから』と、プライドをかなぐり捨てて懇願する姿が見たい。

「たっぷりと可愛がってやるからな……俺の可愛い小鳥ちゃん」

 想像するだけで、下腹部に重く熱い疼きが走る。

「ハァ……ッ」

 敖丙の瞳が、爬虫類特有の縦に割れた虹彩へと変貌する。

 捕らえた彼女を、最高級のシルクのシーツに押し倒し、その白く柔らかな肢体に、俺の爪を立てるのだ。

 嫌だと泣き叫ぶ口を塞ぎ、抵抗する手足をへし折り、その純潔な体に俺の全てを刻み込んで汚してやる。

 かつては鳥となって空へ逃げたが、今度は逃がさない。羽を毟り取り、鎖で繋ぎ、二度と空を見上げられないようにしてやる。

 絶望と快楽で理性が崩壊し、俺の名前だけを呼んで喘ぐようになるまで――徹底的に、壊してやる。


「……待ちくたびれたよ、精衛」

 敖丙はグラスのワインを一気に飲み干すと、空になったグラスを指先の力だけで粉々に握り砕いた。

 破片が掌に突き刺さり、赤い血が滴り落ちるが、痛みなど感じない。

 その痛みさえも、彼女を蹂躙する時の予行演習のように感じられた。

「抗う者すべてを屈服させてやる。そして、最後にはお前だ……。俺の下で泣き叫び、許しを請うその声を、特等席で聞かせてもらおうか」

 夜景を見下ろす龍の王子の顔には、世界への冷徹な征服欲と、一人の少女への粘つくような欲望が、醜悪なまでに混ざり合っていた。



 華山の凍てつく暴風圏を抜け、西安の市街地に戻った頃には、すっかり陽が落ちていた。

 古都の夜は、ネオンとテールランプの光の川で彩られている。山での極限状態が嘘のように、街は平和な喧騒に満ちていた。

「……ふぅ。生き返った気分だ」

 李はジャージの襟を正しながら、雑踏の中に佇む一軒の喫茶店『ルナール・コーヒー・ラウンジ』を指差した。

 レンガ造りの外壁に、アンティーク調のランプが揺れている。学生向けのチェーン店とは違う、静寂と深みを売りにした大人の隠れ家だ。

「奢ってやるよ。地獄の特訓の後の打ち上げだ」

「あ、ありがとうございます……」

「……助かります」

 祈と精衛は、疲労困憊の体を引きずるようにして李の後に続いた。

 店内は焙煎された豆の芳醇な香りと、ジャズのピアノ曲が静かに流れていた。案内された奥のソファ席――ふかふかのベルベットに体を沈めた瞬間、祈の口から深い、本当に深い溜息が漏れた。

「……はぁ。もう動けない」

「だらしないぞ。まだ準備体操レベルだ」

 李はメニューも見ずに、通りかかったウェイトレスに指を立てた。

「エスプレッソ、ダブルで。……お前らは?」

「僕は……ホットのカフェオレで」

「私は……えっと、この『マシュマロ・ホットチョコレート』をお願いします」

 それぞれの性格が表れた注文だ。

 やがて運ばれてきたカップから、白い湯気が立ち昇る。

 李のエスプレッソは漆黒の闇のように濃く、祈のカフェオレは穏やかな狐色。そして精衛のホットチョコレートは、溶けかけたマシュマロが雪のように浮かび、甘い香りを漂わせている。

「……わぁ」

 精衛は両手でマグカップを包み込んだ。

 陶器越しに伝わる熱が、凍えきっていた指先の感覚をゆっくりと解凍していく。


 現代に顕現してから早二ヶ月。戸籍の改竄、学校への転入、そして終わりの見えない戦いの日々。情報の濁流に押し流されそうになっていた彼女にとって、この小さなマグカップの中にある世界は、あまりに優しく、温かかった。

热的あったかい……」

 恐る恐る口をつける。

 濃厚なカカオの甘さと、ミルクのコクが舌の上で広がり、喉を通って胃の腑へと染み渡る。

 その瞬間、緊張で張り詰めていた彼女の表情筋が、みるみるうちに蕩けていった。強張っていた肩の力が抜け、頬がほんのりと桜色に染まる。

 まるで冬の氷が春の日差しで解けるかのような、無防備で幸福そうな表情。

「美味しい……。こんなに甘くて温かいものが、この世にあるなんて」

 吐息混じりの声で呟くと、彼女はもう一度、大切そうにカップに口をつけた。

 その様子を向かいの席で見ていた祈は、不意に胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。

 走馬灯のように、この二ヶ月間の記憶が蘇る。

 空からボロボロの小鳥の姿で落ちてきた日。

 初めて現世の服を着て、ぎこちなく立っていた姿。

 戦場で気丈に振る舞う凛とした横顔。自分の無力さに涙を流した夜。

 そして今、一杯のココアでこんなにも幸せそうに笑う少女。

(……守りたい)

 その温かな感情は、もはや義務感などではなかった。彼女のこの笑顔が、戦火で煤けて消えてしまうことだけは絶対に許せないという、魂の渇望だった。

「……さて」

 李がエスプレッソを一気に煽り、カップをソーサーに置く乾いた音が、甘い空気を断ち切った。

 彼はスマートフォンを取り出し、画面をスワイプさせながら冷静なトーンで切り出した。

「感傷に浸っている時間はない。対策を練るぞ」

 画面には、複雑なグラフと、中国全土の地図が表示されている。

「敖丙の野郎は、ただの暴力装置じゃない。『D・P・ホールディングス』という巨大資本のオーナーだ。地下鉄、通信網、電力……あらゆる現代インフラを利用して、物理的にも霊的にも『龍脈』に干渉できる」

 李の指先が画面上の赤い点を叩く。

「奴らは科学と呪術をハイブリッドで使いこなしている。俺たちのように単純に武器を振り回すだけじゃ、奴の喉元には届かん。物理的な防衛ラインだけでは穴だらけだ」

「じゃあ、どうすれば……」

 祈が身を乗り出すと、李は鋭い眼光で答えた。

「総力戦だ。俺たちの伝手で集められる戦力をすべて招集する。……楊戩やあのサル(そんごくう)、それに隠遁している他の神格たちにも声をかける。境界線へ向かうぞ」

 李は「ふぅ」と息を吐くと、二人の顔を交互に見つめた。

「いいか、ここから先は遊びじゃない。……死ぬかもしれんぞ」

「覚悟の上です!」

 祈は即座に答えた。迷いのない、澄んだ瞳だった。

 精衛もまた、飲みかけのマグカップを置き、真剣な表情で頷いた。

「私も……行きます。祈と一緒に」

「よろしい」

 李は満足げに口角を上げ、伝票を掴んで立ち上がった。

「行くぞ。夜はこれからだ」



 三人は店を出て、夜風が吹き抜ける大通りへと出た。

 街は帰宅を急ぐ人々で溢れている。この平穏な日常の皮一枚下で、世界を揺るがす戦いが始まろうとしていることを知る者は誰もいない。

「じゃあな。俺は少し野暮用を片付けてから合流する。先に行っててくれ」

 李が軽く手を振り、人混みの方へと歩き出した直後だった。

「たっくん!」

 鈴を転がすような、よく通る女性の声。

 祈と精衛が振り返ると、その光景はあまりに鮮烈だった。

 トレンチコートを着た美しい少女ーー薫が、人目を憚ることもなく李に駆け寄り、その首に腕を回したのだ。

 そして、当然のように彼の頬にキスをした。

「っ!?」

 精衛は息を呑み、反射的に両手で口元を覆った。

 李は憎まれ口を叩きながらも、その表情はどこか嬉しそうで、自然に女性の腰に手を回している。大人の余裕と、深い信頼関係が滲み出るその姿は、まるで映画のワンシーンのようだった。

「あ、あの二人って……そ、そういう関係だったんですか!?」

 精衛の顔が、カッと音を立てそうなほど赤くなる。

 祈もまた、目を白黒させていた。

「さ、さぁね……。李は、意外と隅に置けないというか……」

 見せつけられた濃厚な愛の形に、二人の間に妙な気恥ずかしさが漂う。

 夜風が熱った頬に冷たく、それでいて心地よい。

 精衛は、隣に立つ祈の横顔を盗み見た。

 街灯に照らされた彼の横顔は、頼もしく、愛おしい。

 高鳴る心臓の音が、彼に聞こえてしまうのではないかと不安になるほど、ドクドクと脈打っている。

(……あんなふうに)

 精衛の手が、自分の意思とは無関係に、そっと動いた。

 ふわりと。

 祈の小指に、精衛の小指が触れる。

 祈の体がビクリと跳ねたのがわかった。でも、彼は手を引っ込めなかった。

 それどころか、彼はためらいがちに、けれど確かな意志を持って、精衛の小さな手を包み込むように握り返してきたのだ。

 彼の掌は、さっきのホットチョコレートよりもずっと温かかった。

 男の子の手。ゴツゴツしていて、大きくて、安心する温度。

「……ねぇ、祈」

 精衛は俯き、蚊の鳴くような声で囁いた。

 でも、その言葉は夜の喧騒の中でも、祈の耳には痛いほど鮮明に届いた。

「私たちも……いずれ、あんな関係になれるかな?」

 祈は息を呑んだ。

 握りしめた手から伝わる彼女の震え。

 その問いかけに含まれた、切実な祈りと、全幅の信頼。

 祈はゆっくりと精衛の方を向き、その潤んだ瞳を正面から見つめ返した。

「なれるよ」

 言葉にした瞬間、迷いは消え失せていた。

「僕も……精衛のことが、好きだ。……だから、この戦いには絶対に負けない。精衛を守るためにも」

 それは告白であり、誓いだった。

 精衛の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。それは悲しみの涙ではなく、あまりの幸福に心が溢れてしまった証だった。守るべき幸せの形が、この手のひらの中に確かにあった。


 だが――運命は、その甘い瞬間を無慈悲に切り裂いた。

 ブブブッ!! ブブブッ!!

 鋭い振動音が空気を震わせた。

 少し離れた場所にいた李のスマートフォンだ。

 薫と談笑していた李の表情が、一瞬にして凍りつくのを二人は目撃した。

 彼が画面を見た瞬間、その場から温度が消え失せたようだった。

『緊急!敖丙出動!』

 その数文字が、つかの間の安息を粉々に打ち砕き、人々を再び過酷な戦場へと引き戻していく。

第十話までお読みいただきありがとうございます! いかがでしたでしょうか?

カフェでの和やかな雰囲気から、最後の「始まった」の一言で一気に緊張感が高まったかと思います。あの束の間の休息が、彼らにとって最後の平穏な時間になるかもしれません。次回、いよいよ第十一話「拾壱 境界線の攻防」。同時多発テロが発生し、壮絶な戦いが始まります。ご期待ください!

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