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痛みの調整

作者: 夏目有也
掲載日:2025/09/23

 夏菜子は腰痛持ちだった。大学時代に熱中した走り高跳びで痛めた腰が、社会人になった今でも癒えない。雨の日なんかは屈むことすらできないときもある。あらゆる接骨院や形成外科を巡ったが、治癒する兆しが見えない。腰痛が酷い日なんかは、これを治せるなら、高額な施術料だって払うし、どんなことでもする。そんな風に思うこともあった。


 半ば諦めて、この腰痛と一生付き合う覚悟が固まりつつあったとき、陸上部時代の友人である優子からある整体師の噂を聞いた。なんでも、神業の整体師で、どんな肩こりや怪我も治してしまうという。

 浪費癖のある優子の彼氏に関する愚痴を散々聞かされた後、肩こりの話題になったとき、思い出したように優子がその整体の話を始めた。

「その整体、ちょっと高いんだよね。気になるけど、私はまだ行けてなくて。奨学金を頑張って返済して、クズな彼氏とも別れて、早くこの肩こりも治してほしいな」

 そう言って、優子は肩をぐるりと回した。


「古羽療術院」というらしいが、口コミを確認するためネット検索してもそんな店は見当たらなかった。

 夏菜子も奨学金の返済に追われる日々で経済的な余裕はないが、腰痛がひどいある雨の日に、一縷の望みに賭けてその整体に赴くことにした。


 優子から教わった道順を頼りに、その整体を目指す。内臓のように入り組んだ路地の突き当たり、かすれた文字で「古羽療術院」と書かれた、朽ちかけた看板が見えた。

 院内に入ると、壁いっぱいに筋肉や神経の専門書が積まれていて、カビ臭い。骨格標本が幾体も立ち、天井からは解剖図が垂れている。奥に押し入れがあり、その扉には大きな茶色のシミがこびりついていた。

「腰痛ですか。ここまで来る人は、だいたい最後の望みです。大丈夫ですよ。今日治りますから、絶対に」

 整体師の男が笑う。目が糸のように細い。頬骨が突き出ていて、エラも張っている。白衣の袖から伸びる前腕は縄のように筋張り、手がアンバランスに大きい。生理的に苦手かもしれないと、夏菜子は思った。この密室でこの男と二人きりなのは、なんだか怖い。


 施術台にうつ伏せになると、男が囁いた。タバコとコーヒーが混ざった口臭がする。

「楽にして、いきますよ」

 硬い指が腰に触れて、筋肉をほぐしていく。「音鳴りますよ。せーの」と男が力を込めると、バキッと関節が鳴る。

「え、嘘!」と夏菜子が思わず声を上げる。

 長年の鈍痛がふっと消えた気がした。羽が生えたように軽い。試しに立ち上がり、屈むと嘘みたいに痛みが消えていた。

「すごい!なにこれ!」

 整体師の男の笑顔が深まる。目尻に皺が三本できる。一本の糸目に、皺が三本生えているみたいに見える。

「では、調整をもう一段階進めましょうか。少し我慢してくださいね」

 神経の奥に潜り込み、まるで糸を解くようにぐりぐりと擦る。耐え難い激痛が走り、息が詰まる。

「すみません。ちょっと痛いです」

「ああ、ごめんなさい。弱くしますね。でも、ちょっとだけ耐えてくださいね。今だけ我慢すれば、一生腰痛から解放されるんです」


 男の指が右脚の付け根を押し込む。ビリビリと痺れる感覚が走った。

「ほら、ここを押すと右脚に力が入らなくなるんです」男は淡々と告げる。

 いくら力んでも、本当に右脚に力が入らない。指圧が解かれると、嘘のように力が入り、自由に動くようになる。

「すごいですね……本当に」感嘆と畏怖が入り混じった声で夏菜子はつぶやく。神業に驚嘆しつつ、同時に、この密室でこの男にならいかようにも制されてしまうのではないかという恐怖が胸をかすめた。


 指圧は弱まることなく続く。息を殺して数分は我慢した。だが、硬い指が筋肉を縫うようにすり抜け、ごりごりと神経にねじ込まれ、電流が流れるような痛みが走ったときに我慢の限界を迎えた。

「痛い!ちょっと、本当にダメ。やめて……!」

 男はそれを無視して、施術を続ける。

「ちょっと、もう無理。ほんとにやめて!無理、無理。限界!」


「ここをバキッとすると、下半身が動かなくなるんです。せーの」男はバキッと夏菜子の腰を鳴らす。すると、下半身が一切動かなくなる。脳が動けと指示しても、それが筋肉まで届かない。

 男は淡々とびりびりと痺れる神経をなぞっていく。笑顔がなくなると、三白眼が覗く。その眼差しは、どこか愉悦を帯びている。サディスティックな光が一瞬、瞳に宿った。


 まずい。逃げなければならない。叫びながら上半身だけで暴れて、男の前腕を引っ掻く。夏菜子は施術台から転がり落ちて、上半身だけで這って出口に向かおうとする。だが、その芋虫のような遅さに、絶望感が込み上げた。逃げることも、抗うこともできないと悟る。

 男は余裕を持って歩いて近づいてくる。

「誰か!助けて!」と叫ぶ夏菜子の口を、男のカサついた大きな手が覆う。

 男はいとも容易く夏菜子を仰向けにひっくり返す。

「せーの」左の肩を鳴らすと、左腕に力が入らなくなる。

「せーの」右の肩を鳴らすと、右腕に力が入らなくなる。

「せーの」首を鳴らすと、首に力が入らなくなる。

 徐々に身体の機能が剥奪されていく。やがて、全身が動かなくなってしまう。力を入れようにも入らない。糸の切れた人形のように動かなくなった。

 力の限り叫ぶが、喉の何かを外されて、声も出せなくなる。さらに、口の横の筋肉も外されて、口も動かせなくなる。緩まった口の端から舌がこぼれ落ちて、涎が滴り落ちる。全身が脱力しきっていた。もう眼球しか動かすことができない。全身のあらゆる場所が痛むが、腰痛は消えていた。

 

 男は満足げな笑顔のまま、カルテに何かを書き込む。

「よかったですね。腰痛が治って」と男が言うと、奥の押し入れを開ける。そこには、何人もの若い男女が折りたたまれるように収納されていて、一斉に夏菜子に目を向けた。

 彼らもまた、眼球しか動かすことができないらしい。

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