第9話 魔眼と嘘
アグーの語った昔話はここまで。
ここから先は彼の知らない私――パルマ王女の物語だ。
視力を失い表舞台から姿を消した王女さまは、たった一人の侍女と離宮でひっそり暮らしていました。
その間、男の子は一度も訪ねてこなかった。
王女さまは彼に会う資格がないと感じ、それでよかったと思っていたのです。
――そうして、誘拐事件から数年が過ぎた。
王宮の謁見の間は、その荘厳さで訪れる者を圧倒する。
上級貴族たちが並び、そこには重々しい雰囲気が漂っていた。
離宮から呼び戻された私にとって、久しぶりの謁見の間は以前より狭く、そして冷たい。
高い天井と壁の肖像画が、私を見下ろしているようだった。
私は車椅子の盲目の花嫁として、アグーとの婚約式の中心にいる。
これにより大公家は王国の実権を握ることとなる。
正式な結婚式は学園卒業後——ほんの数年だ。
結婚式が終われば、彼は王の伴侶として権力を握り、宰相は王の義父として絶対的な権力を手に入れる。
貴族たちの祝福と贈り物が次々と読み上げられ、アグーは低い声で応じる。
私は静かに頷くだけだった。
「ヴァレンティーニ侯爵より、純金の燭台一対――」
「モント伯爵家より、絹織物二十反――」
次々と読み上げられる贈り物に、アグーは私の隣で短く「感謝する」とだけ応じる。
その声は、少年から青年へと移ろうとする危うさを残しながらも、低く堂々としていた。
やがて、文官の声がふと途切れた。
目録を持つ手がわずかに震え、場の空気が張り詰める。
文官は戸惑い、次の品目を読み上げるのをためらっている。
「どうした? 早く読み上げよ」
アグーの怒気を含んだ声に、文官の声が裏返る。
「目録――視力を補う魔法のアイテム、一点」
その瞬間、会場がざわめきに包まれた。
宰相が慌てた様子で声を上げる。
「誰からの贈り物だ?」
文官はおずおずと答えた。
「差出人は『王家の忠実なる臣下』とだけ記されており、具体的な名前はございません」
王女の目を潰した張本人である大公家にとって、これは極めて厄介な事態だった。
しかし、ここで表立って反対することはできない。
もし異議を唱えれば、王家への忠誠心を疑われてしまうからだ。
暗闇と静寂が私の不安を煽る。
車椅子の私の肩に手が乗せられた。
その大きさと熱さに驚いた。
「大丈夫だ、勇気を持って」
私を落ち着かせてくれるアグーの声。
私は決意を固めた。
顔に触れるベールの感触越しに、暗闇に声を放つ。
「魔道具をこちらに」
文官が近づいてきた。
「待たれよ式の途中だ、婚約者以外が触れることはならぬ」
それを押し留めて、アグーが魔道具を受け取った。
「俺がやろう」
本来であれば贈り物を婚約者につける儀式。
ペンダントが定番だけれど、それが魔道具だなんて。
それを見守る貴族たちの表情は、なんとも複雑だ。
視力を失った王女は、彼らにとって都合の良い存在。
私の存在が彼らの権力の邪魔にならないことに、安堵していたのだ。
ベールの中でアグーの手が私の顔に触れる。数年ぶりに触れる、ごつごつと骨張った青年の手。ああ、やっとあなたの顔が見える。あなたは今、どんな顔をしているの? その期待に、胸が張り裂けそうだ。
私に、ゆっくりと魔道具が当てられる。
目の奥で青い光が弾け、私を包み込む。
そして——失われたはずの世界が、色を取り戻した。
でも、それはあまりにもおぞましい光景の幕開け。
最初に見えたのは、宙を漂う無数の黒い霧。それは文字となり、貴族たちの身体に纏わりついている。嘘。偽り。欺瞞。
そして、その嘘のヴェールの下にいるのは、人ではない何か。贅肉にまみれ、欲望に歪んだ顔、小さく光る狡猾な目。搾取と嘘にまみれた心が、そのまま醜悪な外見となって現れている。まさに、悪夢そのものだ。
「王女殿下。見えますか?」
「……見える」
【おめでとうございます】
【神のご加護がありますように】
【末永くお幸せに】
居並ぶ上級貴族たちの祝いの言葉はどれも真実を語ってはいない。
宰相の言葉からも黒い霧が漏れている。
「【おめでとう】、パルマ殿下」
私は広間を見回した。
そこは、悪夢のような光景。
嘘の霧に包まれた貴族たちの姿は、まさに醜い怪物。
贅肉にまみれ、欲望に歪んだ顔、小さく光る狡猾な目。
搾取と嘘にまみれた心が、外見にもそのまま現れている。
貴族の一人が私に言った。
「王女殿下、私たちの姿が見えますか?」
「……醜い」
私の言葉に、貴族たちがざわめいた。
貴族の視線が一斉に私のそばに立つアグーに向けられる。
彼らは自分たちが醜いなどとは全く思っていない。
だから、その視線は私の婚約者に向けられた。
貴族たちの間から、くすくすと笑い声が漏れる。
彼らにとって、豚公子への侮辱は格好の娯楽なのだ。
「醜い」とは、そんな腐敗貴族たちの姿を見て、思わず漏れた言葉。
――違うのよ、アグー。貴方のことではないの!
すぐにそう訂正したかった。でも、声が出なかった。
ここで私が真実を――「見えているのは、あなたたち自身の醜い心だ」と叫んだら、どうなる?
宰相は激怒し、この魔道具の出所を血眼になって探すだろう。匿名の送り主。王家への忠臣を名乗る、不審な誰か。
格好の的は、すぐ隣にいる。宰相はきっと、あなたを反逆の罪で捕らえるだろう。この危険な魔道具を持ち込んだ張本人として。
それだけは、絶対にさせない。
ならば、彼らが望む答えを。彼らが安心する、愚かで残酷な王女を演じきろう。
アグーに護られるだけの王女は死んだ。
ごめんなさい、アグー。今、この瞬間だけ、あなたの尊厳を盾にする。
真実を見抜く魔眼を持ちながら、嘘にまみれた存在になると決めた、その瞬間。
――頭が痛い。
もう、あなたに守られるだけの私ではいられない。
慣れない魔眼のせいか、気が遠くなっていく。
「王女殿下も酷いことを言う」
貴族たちの嘲笑が聞こえる。それでいい。
――ゴメンね、アグー。
薄れゆく意識の中で、私は最後の力を振り絞る。この呪われた魔眼を、あなたと私を守るための力に変える。そのために、私は喜んで嘘つきになろう。これが、私の最初の嘘。
その言葉は、私自身が吐き出した最初の黒い霧となって、世界に告げられた。
「【醜い豚が見えます】」