第2話 魔眼が見る真実
私たちを静かに見守っていた生徒たちの間から、新たなざわめきが波のように広がった。
それは、先ほどまでのものとは質の違う、恐怖と嫌悪に満ちた囁きだった。
「豚公子だ……」
「なぜ、あの方がここに……」
豚公子?
その名前を聞いた瞬間、心臓が氷の手に掴まれたみたいに、どくんと大きく跳ねた。
だって、その名前は……。
『パルマ様、あれが噂の豚公子ですよ。この学園に君臨する腐敗貴族の頂点、油断なさいませんよう』
ミラの冷静な警告が念話で届く。
『アグー・イベリコ・ロッパーク大公嫡男。生まれつきの魔力蓄積体質のせいで、醜い豚の姿をしていると誰もが嘲笑う人物です』
アグー。
感情の波が抑えられない。豚だなんて、なんて酷い言い方。人を見た目で判断するなんて、決してしてはいけないことなのに。
——でも、その言葉を、世界で最初に彼に言ったのは……他の誰でもない、私なんだ。
『ねぇ、アグー。ぶひーって鳴いてみてよ』
罪悪感で足がすくんで、顔を上げられない。私は思わずうつむいて、彼の姿を見ることができなかった。
「侍女風情が、王女殿下を顎で使うとはな」
地を這うような、低く落ち着いた声が私の頭上から降ってきた。
記憶の中の、あの頃の少年の声とは全然違う、大人の男性の声。
重くて確かな足音が、一歩、また一歩と近づいてくる。
「その魔法は、王女殿下ご自身の心身に大きな負担となると聞く。このような些事で、軽々しく使うべきではない」
アグーの言葉に同調するように、周りの貴族たちが嘘の霧を吐き出し始める。
「確かに、王女様のお体が【心配】ですわ」
「私たちも、ずっと【心配】しておりましたのよ」
俯いている私の視界に、嘘の霧が漂う。
アグーの口からも、同じように黒い霧が出ているの?
私は勇気を振り絞り、ゆっくりと顔を上げた。
——そして、息を呑んだ。
そこに立っていたのは、私よりもずっと背の高い、一人の青年だった。
磨き上げられた黒曜石みたいな澄んだ瞳。真っ直ぐに前を見据えている。その堂々とした姿には、何にも揺るがされない鋼の意志が宿っているみたいだった。端正な顔立ちは、まるで宮廷画家が理想を追い求めて描いた騎士の肖像画そのもの。
あまりのことに、私の口からは場違いな言葉がこぼれ落ちた。
「え? ……だれ?」
私の素っ頓狂な声に、周囲がざわめく。
目の前の美青年は一瞬驚いたように目を見開いた。
「俺を知らないとはな。大公家嫡男、アグー・イベリコ・ロッパークだ覚えておけ。もっとも俺を見て忘れることなど出来ないだろうがな」
——アグー? 本当に?
混乱する頭で、私はミラの肩にそっと手を触れて、念話を送る。
『ミラ、どういうこと? 豚公子はどこにいるの? みんなが言う「醜い豚」の姿なんてどこにもないじゃない』
『パルマ様、目の前にいらっしゃるではありませんか。噂に違わぬ豚が』
これが、アグーの姿なの?
私の魔眼は、嘘を、偽りを見抜く力。だから、誰もが嘲笑う「醜い豚の姿」が私にだけは見えないようだ。
『私、てっきり……大きな豚さんになったアグーに会えると思ってたのに……』
『パルマ様、期待してたんですね』
目の前の状況から逃げるように、現実逃避に没頭しかけた。
そうよ、私は豚が好きよ。良いじゃない可愛いし。
その時だった。
「おい、聞いているのか」
不意に、強い力で顎に指がかかる。強制的に顔を上げさせられた。間近に、彼の顔がある。
「人と話をするときは相手の目を見るものだ。……もっとも、俺のような醜い男が相手では、目を逸らしたくもなるか」
自嘲的に笑う彼の瞳。
どうして、こんなにも美しい人が、自分を醜いなんて言うの?
私は言葉を失って、ただ彼の瞳を見つめることしかできない。
幼い日の罪悪感と、目の前にいる青年の本当の姿が、私の心をめちゃくちゃにかき乱していた。
「その力は王女殿下の負担になる。このような些事で使うべきではない」
アグーの言葉に、嘘の霧はかかっていなかった。私の魔眼がはっきりと捉えている。彼は本当に、王女の——私の身を心配してくれているんだ。
どうして? 車椅子のミラに深々と臣下の礼をとる彼の姿に、私の体は震えた。その振る舞いは丁寧すぎるほど丁寧で、そこには確かに、王女への敬意が込められていた。
『パルマ様? どうかなさいましたか?』
ミラの冷静な念話が届く。
『恐れてはなりません。この豚公子に言い返してやるのです。パルマ様なら出来ます』
そう言われても、私の目に映っているのは、完璧な立ち姿の騎士そのもの。民から信頼される、本来あるべき貴族の見本みたいな人なのに。
なのに、周りの生徒たちの囁き声は、信じられない言葉ばかりだった。
「あの豚、また威張ってるわ」
「本当に醜いわね。豚小屋にでも帰ればいいのに」
え? どこが? この人のどこが豚だっていうの?
私の頭の中で、十年前の子豚みたいだったアグーと、目の前の美青年がまったく繋がらない。みんなが「醜い豚」「膨れ上がった肉塊」と口にするたびに、私の混乱は深まるばかり。
「この醜い身体が、それほど恐ろしいか?」
その言葉に嘘はなかった。
この人は、アグーは本当に自分のことを醜いと思っているんだ。
自分の本当の姿を知らないの? それとも、おかしいのは私? もしかして、私の魔眼が壊れちゃったの?
「王女殿下のお力を使うまでもありません。この度の諍い、このアグーにお預けください」
もう、あどけない少年の声じゃない。
彼は、幼い頃の「護ってやる」っていう約束を、今ここで果たそうとしているのでしょうか?
*
私が感傷に浸っている間に、アグーは私の手から魔術契約書をひったくっていた。
「不正な契約の証拠だと?」
彼が契約書を両手で掴んだ瞬間、私の血の気が引いた。
まさか破るつもり? 危険すぎる! あれは魔術契約書なのよ!?
「な、なにをするのです公子! それを破れば——」
ヴルストの声が恐怖に裏返る。
そう、魔術契約書は一度結ばれれば、契約の悪魔が取り憑く呪われたシステム。破棄すれば、その瞬間に違反者は悪魔の餌食になる。それを貴族が自ら破り捨てるなんて、ありえない。
『パルマ様、危険です! 豚公子の無謀な行動に巻き込まれてはいけません』
でも、私の魔眼には、アグーの確信に満ちた表情が見えていた。
「や、やめろ公子! やめろと言っているんだ豚公子!」
ヴルストの本音が漏れる。
ビリビリと契約書が破り捨てられた瞬間、その場が凍りついた。黒い炎と共に現れたのは、グレムリンみたいな体に蝙蝠の羽根を生やした小悪魔だった。
「契約を満了せずに破棄されましたので、ヴルスト様とアグー様に制裁を加えさせていただきます」
事務的で感情のない声。悪魔が魔法を使おうとした、その瞬間。
アグーは、その恐ろしい存在の首を片手で締め上げていた。
「小悪魔か。遊ぶ金を要求する程度の契約ではこんなものだろう」
そのまま、握りつぶす。
その圧倒的な力の差に、私は息を呑んだ。
「さすがは大公家のお血筋、見た目こそ……いえ、やはり実力がおありなのね」
「私、豚公子様が歩く時、ブヒブヒって音がするって聞いたわ」
「きっと蹄で踏みつぶしたのよ」
——してない! 全然してない! むしろ爽やかな石鹸の香りがしたわよ!
もう無理、頭がおかしくなりそう!
『パルマ様、大丈夫ですか?』
『ミラ、この人、本当に豚に見えるの?』
『当然です。巨大な豚が二足歩行している姿は、控えめに言ってもオーク鬼です』
腰を抜かしたヴルストが、アグーにすがりつく。
「あぁ、ありがとうございます公子! 流石は大公家のお血筋! このような……その豚……【立派なお体】で、これほどの力を!」
この期に及んで、まだ嘘が言えるなんて大したもんだ。




