第12話 治癒術師
私とミラは、意識のないアグーを居住スペースへとなんとか運び込み、ミラの急ごしらえのベッドメイキングに寝かせた。
触れた彼の体は、まるで氷のように冷たい。苦しげに繰り返される浅い呼吸が、私を不安にさせる。
——また目覚めないのではないか?
幼い頃の誘拐事件の記憶が蘇る。あの時も、アグーはこうして魔力を使い果たして倒れたのだ。そして私は、無意識に彼に魔力を分け与えた……。
アグーを助けるには同じことをやればいい。
手を握り、魔力を流し込もうとするが、うまくいかない。どうして? あの時はどうしたんだっけ?
アグーを頭を膝の上にのせた。こうすると足からも魔力を送り出せる。
真上から彼の顔を覗き込む。
「大丈夫よ、魔力もすぐに回復するわ」
アグーに触れて魔力を送り込むと、彼の体が少しずつ温かさを取り戻していく。やがて彼の呼吸が落ち着き、体の震えも止まった。
*
「……だれ?」
どのくらい時間が過ぎただろうか。
不意に、膝の上から声がした。いつの間にか目を覚ましたアグーの声だ。
「え?」
何を言っているのだろう。私は若旦那ハモンなのに。
そう答えようとして、自分の声の高さに違和感を覚える。視線を落とせば、男物のシャツではなく、いつのまにか離宮を出たときの服に戻っていた。彼に触れている手も小さくて細い。変身魔法が解けてしまったのだ。
「きみは、だれ?」
魔力を使い果たしたせいだろうか。眠りから覚めたばかりの彼は、まるで警戒心というものをどこかへ置き忘れてしまったかのようだった。
普段の彼がまとう硬い鎧は影も形もなく、ただ夢うつつの無防備な男の子がそこにいる。
その頼りない姿が、私の胸をきゅっと締め付けた。
……アグーってばなんかフニャフニャしてる。
フニャフニャのアグーは不思議そうな顔で私を見上げている。
彼はゆっくりと瞬きを繰り返し、まだ夢の中にいるような、どこか焦点の定まらない瞳で私を見上げている。
そうだ。アグーは成長してからの私の顔を知らないのだ。
「【私は……若旦那に呼ばれてきた、治療師よ】」
咄嗟の嘘に、自分の口から黒い霧が漏れるのが見えた。
今はとにかく、彼を休ませるのが先決だ。身を起こそうとするアグーの肩をそっと押さえる。
「ぼくなんかを……助けてくれるの?」
うっかり寝てしまった男の子が目覚めたみたいだ。
今なら何を言っても受け入れそうに無垢だ。
「まだ寝ていなさい」
私の手から、膝から、アグーへ穏やかな魔力を流し込む。
「これは……魔力?」
魔力が満たされていく心地よさに、彼も再び身を任せてくれた。
目の前のきれいな顔をゆっくりと眺める。
そうしているとアグーも目を覚めたようで、彼の瞳にだんだんと理性の光が戻ってきた。
「俺のような醜い男の治療などをさせてしまってすまない」
自嘲するような彼の言葉に、私は彼が「豚公子」と呼ばれていることをすっかり忘れていたことに気づく。
「気にしないで。これが……私の役目だから」
【仕事】と言えば嘘になる気がして役目と言ってみたが、霧は出なかった。
大義名分を得た私は、治療と称して、心ゆくまで彼の髪を撫で、頬に触れた。指先に絡む、柔らかな髪。血の気のない頬に、そっと自分の熱を分け与える。
アグーは気まずそうに視線を逸らす。そのあまりに純粋な反応が、私の胸の奥を甘く疼かせる。普段なら許されない、この危ういほどの距離。けれど今は、治療という大義名分がすべてを肯定してくれる。動けない彼を独り占めできるこの瞬間が、どうしようもなく満ち足りていて、愛おしくてたまらなかった。
「こっちを見てください。【治療のため】です」
彼の戸惑いがちな視線を感じ、私の胸に小さないたずら心が芽生える。
私はゆっくりと頭を下げ、彼の胸にそっと耳を当てた。規則正しく、けれど少し早い鼓動が、とくん、とくん、と直接耳に響いてくる。
「なっ……!?」
「心音の確認です。これも【治療の一環】ですから」
私がしれっとそう告げた瞬間、口元から濃い黒い霧がぽろり、と漏れ出た。
しまった。さすがにこの言い訳は、私の魔法には通用しなかったらしい。
「俺は、このような見た目だから。あまり人と目が合うことがないんだ」
「噂では、豚公子はその権力で酒池肉林の日々だと聞きますよ? 女性なんて、よりどりみどりなのでは?」
もちろん、そんな噂は私の作り話だ。私の口から、またしてもふわりと黒い霧が漏れ出す。彼の純粋な反応が面白くて、つい意地悪をしてしまう。
私がからかうと、アグーは顔を赤くして慌てて反論した。
「ちがう! そんな事はしていない!」
その純粋な慌てぶりがおかしくて、愛おしくて、思わず笑みがこぼれる。
「変なの。もぐりの治療師に、豚公子様がいいわけだなんて」
アグーは苦笑いを浮かべながら、私の膝の上で小さくうなづいた。
「俺は、ずっと想い続けていた人がいたんだ。幼い頃から、ずっと」
私の手が、無意識に彼の髪を撫でていた。
柔らかな髪の感触が、指先に伝わってくる。
「その人は……美しくて、優しくて、強くて。俺なんかには勿体ないほど素晴らしい人だった」
アグーの声が遠くなっていく。まるで大切な思い出を語るように。
「でも、その人には……俺以外に想う人がいた」
「パルマ王女殿下のことですか?」
咄嗟に出た言葉に、アグーは驚いたように目を見開く。
「どうして……?」
「若旦那から聞きました。豚公子とパルマ王女の結婚の話を」
アグーは一瞬むっとした表情を浮かべた。
「……また若旦那からの話か。ああいう顔のいい男には、何でも聞いてくれる女性がいるのだな」
アグーが拗ねた。
私はそれがまた可愛くて、笑ってしまった。
「その……きっとアグー様のことを大切に思っている人もいらっしゃいます」
「どうしてそう思うんだ?」
「だって、真剣に生きている人はちゃんと見ている人がいるものですよ」
私は彼の頬にそっと触れた。
私がちゃんと見ているからね。
その時、アグーがはっとしたように目を見開いた。
「す、すまない! 君も、若旦那のことを……」
彼はひどく狼狽えていた。きっと、治療師が若旦那に恋をしているとでも思ったのだろう。だから、若旦那と王女の婚約話は聞きたくなかっただろうと、そう心配してくれているのだ。
「大丈夫ですよ。若旦那と私は、あなたが心配するような関係ではありませんから」
「だが……」
「本当に。だから、気にしないでください」
私が微笑むと、アグーは少しだけ安心したように見えた。けれど、その表情はすぐにまた曇ってしまう。
「……やはり、若旦那のような男は、誰からも好かれるものなのだな」
その声には、諦めと、ほんの少しの羨望が滲んでいた。
「言いましたよね、アグー様を想っている人も居るかもしれませんよ?」
彼が私を見上げる。
私は彼の頬を両手で包んだ。
「私には、とても美しく見えます」
アグーが息を呑む。
「本当です。アグー様は……とても、とても美しい」
私の声が震えた。涙が頬を伝って落ちる。
彼が自分を醜いと言うたび、私の心は引き裂かれる。
「俺のことを……そんなふうに思ってくれる人がいるなんて」
アグーの声も震えていた。
「います。きっと、たくさんいます」
彼の魔力が十分に回復したのを感じ、私は触れてた手を止めた。
「もう、大丈夫そうですね」
「……名前を、教えてくれないか?」
まさかこの人、治療師である私に、もう恋をしてしまったのでは?
その真剣な眼差しに、私の心にちくりと意地悪な疑惑が芽生える。
パルマ王女への長年の想いはどうなってしまうのよ。私(治療師)に対する、私の嫉妬心。なんだかおかしくて、つい彼を試すような言葉が口をついて出た。
「いけませんよ。私は若旦那様に雇われた身。あなたは、私に心を許してはいけないわ」
「だが、こんなに心が安らいだのは初めてだ。どこか……懐かしい感じがする」
懐かしい?
動揺を隠すように、私はわざとそっけなく言い放った。
「心まで癒すのが、私の治療技術ですのです」
「技術……では、若旦那に金を払えば、また君に会えるのか?」
あまりにまっすぐなその問いに、私のいたずら心は一瞬で吹き飛んだ。
ああ、違う。この人は、そんな駆け引きで私を試しているわけじゃない。ただ、本当に寂しいんだ。
「……そんなに、寂しいのですか?」
私の言葉に、アグーは寂しそうに微笑んだ。
「知っているだろう?……失恋したばかりなんだ」




