第10話 アグーの覚悟
アグーの語る過去が私の記憶を鮮明に思い起こさせた。
両親を失い、誘拐されたこと。
その事件の黒幕は宰相——つまりアグーの父だったこと。
誘拐犯によって失明したこと。
匿名で贈られた魔眼によって視力を回復したこと。
「ところで公子。その話の魔道具、送り主は公子ですよね?」
私は長年の疑問をポロリと零してしまった。
アグーの表情が強ばったのは、それが若旦那がたどり着かない疑問だからだろう。
「なぜそう思う?」
「いや、その。パルマから聞きしました」
慌てて付け加える。
苦しい言い訳だと慌てていると、ミラが会話に割って入る。
助け舟だと胸を撫で下ろす。
「あなたとは違いますの、豚公子。お二人は信頼関係で結ばれているのですよ」
助け舟と言うより泥舟で突撃してきた。
「君は本当に物おじしないな。王女殿下に似ている」
それでもアグーの気は逸れたようだ、ナイス泥舟。
「光栄です。あなたには見る目がおありのようですね」
「本当に、辛辣なところがそっくりだ」
アグーは笑いを堪えながら言っている。
「違うでしょ!? いや、もう少し、こう、気品というか王女らしかったでしょ? 攫われたときも優しかったでしょう? そう聞いてますよ」
私は慌てて否定してしまった。
アグーが天を仰ぐ。その横顔に、諦めにも似た表情が浮かんだ。
「そうか、若旦那は誘拐事件の事も王女殿下から聞いているんだな」
笑うアグー。でも、その笑顔は寂しそうだった。
「こればかりは俺と王女殿下の思い出だと思っていた。ちょっとした二人だけの秘密があるんだぞという婚約者から嫌味のつもりだったのだがな」
彼は私との秘密を宝物のように大切にしてくれていたのに、それを私が若旦那に話したことになってしまった。
アグーの大きな手が、私の肩を包み込む。
その手の温かさが私の意識を奪った。痛みよりも先に、肌を通して伝わる彼の体温が、私の理性を蝕む。
王女としては絶対に触れられない距離で、今の私は彼に触れられている。
「だが、もう少し鍛えた方が安心できるな」
大きな手に力が込められる、ちょっと痛い。
「若旦那にあまり近づきすぎないでください、豚公子」
ミラが慌てて私たちの間に割って入る。
『この人、身を引くとか言いながら、随分と積極的ですね』
『若旦那の正体が私だって知らないんだから、仕方がないでしょ』
私の心の声は複雑だった。嬉しいような、困ったような——
どうして良いか分からない私は……とりあえず握手を求めた。
「俺と王女殿下の結婚式は卒業と同時に行われることになった。もちろん、【愛のない形だけの政略結婚】だがな」
アグーの口から黒い霧が漏れ出し文字が宙に浮かんだ。
突然告げられた、聞いていない結婚式の計画。形だけと分かっていても、「結婚」という言葉の響きに心が揺れる。卒業と同時に、か……。そんな感傷を悟られぬよう、私は若旦那として冷静を装う。
「思ったより冷静に受け止めたな」
アグーが意外そうに私を見る。先の見えない話に、ミラが口を開いた。
「諦めて身を引くつもりではなかったのですか?」
ミラの率直な質問に、アグーは苦笑いを浮かべた。
「ああ、【愛のない結婚】だからな。若旦那も心配しなくて良い」
また黒い霧。【愛のない結婚】という文字が、痛々しく宙を漂う。
嘘、また嘘。
つまりアグーは……
まるで告白みたいな言葉に、胸が熱くなってしまう。顔が勝手に緩んでしまいそうで、必死に平静を装うのだった。
*
「若旦那は先日起きた中庭の騒動も聞いているな?」
もう何でも若旦那に話しちゃう女に思われてる。
今更聞いてないと言っても仕方ないか。
「隅々まで聞いてますよ」
「殿下は明確に平民側につくと表明されたのだろうか? それとも目の前の不正を正しただけなのだろうか?」
私は王国の封建制度は、歪んでいると思う。
だって、この国の貴族は何も責任を負わない。
この国は丸ごと結界に覆われ、あらゆる外敵から守られている。
そして魔術契約で国民を押さえつけている。
民衆も諸外国も怖くないのは、不健全だ。
これは危険な思想だ、おいそれと口にして良いものではない。
「慎重だな。もっとも、そのくらいでなくては困る」
アグーが事務所に置かれている絵画を指し示す
離宮から売るために持参したもので、中庭と恋人の鐘が描かれている。
「若旦那、最近商売の調子はどうだ?」
アグーが不意に話題を変えてきた。その声色は穏やかだが、どこか探るような響きがある。
「……正直、あまり良くありません。表通りの商会を回ってみたのですがどこも不誠実で、街全体に活気がなくなってきている気がします」
私は率直に答えた。
「やはりそうか。住民たちはみな苦労している。昔のような賑わいがなくなった」
アグーが静かに頷く。
「こういう時こそ、正直な商売が大事だと思います。でも、それだけじゃどうにもならないことも多くて……」
私は言葉を選びながら続ける。
「結局、街全体の仕組みが変わらないと、根本的な解決にはならないのかもしれません」
アグーが私の言葉にじっと耳を傾けている。
「若旦那、君もそう思うのか。実は俺も、今のままではいけないと考えている。いずれ、もっと大きな改革が必要になるだろう」
「なんの話です?」
アグーの表情が変わった。今までの軽やかさが消え、何か重大な決意を固めたような——
「この絵画を見たことがあるか」
私たちが療養所から持ち出したものだ。
見覚えがあるどころではない。
幼い頃から何度も目にしてきた、この中庭の風景。
その思い出には常に愛らしい少年が一緒にいた。
描かれているのは、手入れの行き届いた美しい庭園に囲まれた東屋の姿だった。
「学園の中庭、東屋を描いた絵ですね」
「この絵は二十年前の作品だ。当時の貴族が理想とした、完璧な秩序の庭園を描いたものだ」
東屋の周りには一面の花畑と舞う蝶が描かれていた。
この絵が老商人の行商に持ち出されなかった理由がある。
「よく見ると中央の誓の鐘が書き直されているだろう? かなり雑に」
私は懐かしさに胸を締めつけられながら中庭の絵を見つめていた。
しかし、不意にアグーが低い声で言い放った。
「……この絵を見ると、どうしようもなく腹が立つんだ」
あまりに強い語気に、私は驚いてアグーを見つめた。
「どういうことですか?」
私は驚きを隠しながら、友人として率直に問いかけた。
「見てくれ、この温室の蝶たちを。外の世界では生きられないくせに、野の花から蜜だけは吸い尽くしている」
アグーの声には静かな怒りが込められていた。男性らしい力強さと品格を兼ね備えた怒り。
「蝶ですか?」
「そうだ。温室がなければ死んでしまうような脆弱な存在が、野に咲く花を食い物にしている。花が枯れても平然と次を探すだけだ」
私は息を呑んだ。これは政治の話だ。
アグーの拳がゆっくりと握りしめられた。
その時、ミラが椅子の上で膝を抱え、むっとした顔で身を乗り出した。
「温室の蝶って、ずるいですよね。花の蜜だけ吸って、受粉も手伝わないなんて。自分だけ甘い思いして、花が枯れたら知らんぷり。そんなの、ただのわがままじゃないですか?」
ミラは小さな拳をぎゅっと握りしめて、テーブルを軽くとんとんと叩いた。
「この絵に描かれているのは、手入れされた花と蝶だけだ。野に咲く花はどこにもない」
アグーの言葉に、私は息を呑んだ。
「野に咲く花ですか?」
『パルマ様、温室って王国を覆う結界のことですね。蝶は貴族で、野に咲く花は庶民です』
『王国をすっぽりと覆う不可侵の結界。原初の魔術契約書で守られた貴族だけの楽園ね』
「そうだ。今は雑草扱いされ、蝶たちに蜜を搾り取られるためだけに育てられている花たちのことだ」
アグーの声には深い怒りが込められていた。この男は本気で世界を変えるつもりなのだ。
「俺は、この温室を解体するつもりだ」
「随分と……過激な改装ですね」
「中途半端な改装など、何の意味もない」
アグーは、王国ごと破壊するつもりだろうか?
「そうですね。東屋も温室の一部のようなものですし、一緒に取り壊した方が良いかもしれません」
瞬間、アグーの表情が変わった。
「東屋だと?」
「はい、中庭の中央にある古いだけで何の価値もない存在です」
『中央の古い東屋。王家の比喩ですか?』
『そう。もう私しかいないし無くてもいいんじゃない?』
「いや、それは違う。東屋は残すべきだ。野に咲く花たちにも、憩いの場所が必要だからな」
『豚公子は魔術契約書という温室を壊しても、王家だけは守ろうとしている様ですね。褒めてやりましょう』
「でも、古い建物では時代にそぐわないのではないでしょうか?」
「……改修すれば十分だ。東屋を温室から切り離し、新しい憩いの場として立て直す」
アグーの声に迷いが現れた。
「そうでしょうか? 案外、野の花たちは東屋と底に住む庭師を邪魔に思っているかもしれませんよ?」
「どうしたら良いと思う?」
『庭師というのは王家と宰相家、いえパルマ様と豚公子ですね』
私の声は軽やかだが、その言葉には深い意味が込められていた。
「最後は民衆と一体になるものです」
「なるほど、だから君なのか。若旦那」
あれ? なんか納得してる?
『民間人の若旦那と結ばれて、市井で若旦那が幸せにする宣言です。見事な宣戦布告です、パルマ様』
そんな意図はないよ!
「そうだな。若旦那に任せよう」
「その後貴方は、どうするつもりなんですか?」
「庭師として、責任を取る」
責任? まさか、この国を去るつもり?
「公子も共に生きればいい」
「大きなハサミを握ってか? いつ自分たちを切り落としに来るかわからないぞ? 庭を壊した庭師は消えるべきだ」
やっぱり、王国から去るつもりだ。
アグーは絵画の中央を指した。
「知っているか若旦那、この絵の恋人の鐘の本来の姿を?」
アグーが静かに問いかけてくる。その声には、どこか覚悟のような重みがあった。
本来の姿? なんのことだろう。私は思わず絵に目を向ける。
そこに描かれた鐘はから、一瞬黒い霧が見えた気がして慌てて目を擦る。
「舞台の上に巨大な二本の柱、吊り下げられた金属の塊——本来ここにあったのはギロチンの刃。これは断頭台だったのさ」
アグーの言葉に、私は息を呑んだ。まさか、あの美しい鐘が、そんな恐ろしいものだったなんて。私の背筋に冷たいものが走る。
「貴族社会の終焉にふさわしいセレモニーが必要だ」
アグーの目は、どこか遠くを見つめている。彼の中で、すでに覚悟は決まっているのだろうか。私は彼の横顔を見つめながら、胸の奥がざわつくのを感じた。
「古い時代の終わりを告げる鐘を鳴らすのさ」
アグーの声は静かだが、決意に満ちていた。私はその重さに圧倒され、思わず問いかける。
「まさか、貴方が……処刑人に?」
私の問いに、彼は静かに首を横に振った。
「いや、違う。俺は使われる側だ」
「え……?」
アグーの瞳に、深い覚悟が宿っている。
「この国の貴族たちが犯してきた全ての罪——搾取、弾圧、そして王女殿下の失明。その全てを、俺が背負う」
「何を言って……」
「誰かが、この腐った時代の罪をすべて背負う必要がある。宰相の息子として、豚公子として、俺はこの体制の最も醜い象徴だ。だから俺が全ての悪行の首謀者となり、その罪を認めた上で裁かれる。それが民衆に必要な『清算』なんだ」
私の血の気が引いた。彼は自分を生贄にするつもりだ。
「古い時代の全ての膿を、この豚に詰め込んで断ち切る。貴族社会の終焉と、その贖罪。これこそ、この豚顔の最高の利用方法だ」




