第1話 侍女と王女と豚公子
「ねぇ、アグー。ぶひーって鳴いてみてよ」
私はベンチに腰掛け、隣に座る少年に話しかけた。
庭園の中央にぽつんと立つ、柱と屋根だけの小さな建物。そこはまるで二人だけの小さなお城で、毎日ここで過ごすのが私たちの決まりだった。
少年は顔を赤らめた。まんまるな体に、くりくりした瞳。子豚みたいに愛らしい姿が、恥ずかしさで染まっていく。
「やだ! 恥ずかしいよ」
「どうして? 可愛いじゃない、私の子豚さん」
「僕は君の豚じゃないよ」
彼は真剣な顔で私を見つめた。
「それに、君だってこれからどんな魔法が使えるようになるか分からないんだ」
「どういうこと?」
「僕たいに魔力を体に溜め込んじゃう体質だったら……」
彼は自分のまんまるなお腹をぽんぽんと叩いた。
「こんな風に太っちゃうんだ。貴族の子は、そんな相手を結婚相手に選んでくれないよ」
彼の真剣な心配を、幼い私は最高のからかいのチャンスだと思った。
「ひっく……うわーん! アグーがイジワル言うー!」
わざとらしい鳴き真似だった。案の定、優しい彼はすぐに慌てふためく。
「ご、ごめん! 泣かないで。僕、なんでもするから!」
「……ほんと? なんでも?」
ぴたりと涙を止めて、上目遣いで彼を見つめる。悪戯っぽく笑う私に、彼は騙されたことに気づいた。でも、優しい彼は諦めたようにため息をついて頷いた。
私は満足して、一番の要求を突きつける。
「じゃあ、ずっとね、私の子豚さんでいること!」
「……うん。わかった。君がそれで泣かないなら、僕は……」
彼の素直な反応に、私は急にいたたまれなくなった。自分のウソに、彼はいつだって本気で向き合ってくれる。自分がすごく意地悪な子に思えた。
私は彼の視線の先にある、大きな「誓いの鐘」に目を向けた。
「……ううん、それだけじゃだめ」
私は立ち上がり、鐘を指さした。今度は、からかいの響きを消して。
「あそこで誰かが泣いてたら、あなたが絶対に助けてあげること」
「それだけ?」
「それだけじゃないわ。ちゃんとご褒美があるの」
私は得意げに胸を張った。
「その誓いを守れたら……特別に、私が結婚してあげる!」
「……え?」
アグーは首を傾げた。
「それって、ご褒美なの?」
「当たり前じゃない! すごいご褒美よ!」
私は両手を腰に当てて、自信満々に言い切った。
「私、かわいいでしょ? それに優しいし、面白いし」
「うーん……」
「みんなが羨ましがるわよ。『アグーは素敵な人と結婚するんだ!』って」
彼はまだ納得していない顔をしていたけれど、私の勢いに押されて頷いた。
「……わかった。約束するよ」
「本当? 絶対よ?」
「うん、約束」
私はアグーの手を取った。そして、彼の頬に軽くキスをした。
「約束のしるしよ」
彼は真っ赤になって固まってしまった。私は得意げに笑って、彼の手を引っ張る。
「ほら、鐘を鳴らしに行くわよ!」
小屋のそばには、大きな誓いの鐘が立っている。二本の柱が天に向かって伸び、頂上で美しいアーチを描いて繋がる、中庭のシンボルだ。
小さな子供の私たちには、鐘の紐は高すぎた。でも、私たちは必死に背伸びをして、一緒に紐を掴んだ。
「せーの!」
二人で力を合わせて引っ張る。カランカランと鐘の音が庭園に響き渡った。
「やったね、アグー! あなたはずっと私の子豚さん」
「うん。そして僕たちは、あそこで泣いている人がいたら絶対に助ける」
「約束よ」
「約束だよ」
*
あの約束から、数年の歳月が流れた。
思い出の鐘は今も変わらず空に聳えている。けれど、私たちはもう、無邪気に笑い合えた頃の二人ではない。
私は地味な侍女として思い出の庭園に立っている。厚い瓶底眼鏡。三つ編みを後ろで束ねた髪。動きやすさだけが取り柄の質素な灰色の侍女服。
「懐かしいなぁ。中庭はあのころのままね」
この侍女の役なら、誰にも邪魔されずに特等席から眺められる。
綺麗な中庭を?
いえ、私がこの目で見たかったものは、そんな綺麗なものじゃない。
私は学園をくまなく歩いて、生徒たちの話し声を聞いて回った。
いえ、正確には「声を見て」回ってた。
「あなた、見ない顔ですわね」
声をかけてきたのは素敵な人だった。
艶やかな黒髪が肩で踊るように揺れて、健康的な褐色の肌がお日様の匂いを運んでくるみたい。でも一番心を奪われたのは、その笑顔だった。まるで春の陽だまりみたいに温かくて、見ているだけで私まで笑顔になりそうだ。
「その侍女服、どちらかのお貴族様に仕えているのでしょう?」
私は「お貴族様」なんてトゲのある言い方に驚いてしまう。
「はい、そうでございます、お嬢様」
それでも私が型通りに答えると、彼女は悪戯っぽく片目を瞑った。
「『お嬢様』はやめて。私は見ての通りの平民よ」
平民――その響きに、私の心は弾んだ。本当の学園が知りたいとの願いが、彼女になら叶えられるかもしれない。
「平民の方なのですね!」
私は喜びのあまり、思わず彼女の手を両手で握りしめていた。
「え、ええ……?」
「平民の方とお話できるのが、とても嬉しくて」
彼女は困惑しながらも、やがて柔らかく微笑んだ。
「あなた面白い子ね。まぁ、広く国民に開かれた学園といえど、大半は貴族の子女ばかりですからね。私たちは平民同士仲良くやりましょう。実は私も寂しかったのよ」
颯爽とした雰囲気の彼女が、寂しかったと言ったのは私に気を使ったのだと思う。フラフラとキョロキョロと学内を歩いていた私は、なんとも頼りなく見えたことだろう。
「あなた、その格好は侍女でしょ?」
「【はい、そうです】お嬢さま」
【はい、そうです】という言葉が黒い霧となり、霧は文字になった。私はそれを手を振ってかき消す。わたし以外には見えないけれど、自分の罪を見せつけられるのは、やはり気まずいのだ。
「お嬢様はよして。私はリエットよ」
「リエット様……」
「様もいらないわ。私たちは平民同士、名前で呼び合いましょう?」
「はい、リエット。私は……【ミラ】と言います」
またしても黒い霧が吐き出された。
二人は中庭の東屋で学園の話をする。この東屋は幼い頃にアグーと語りあったあの場所だ。
リエットは平民の苦労話を面白おかしく聞かせてくれる。
「まぁ、そんな事があるのですね!」
「ほんと貴族はハッキリ言わないのよ、察してもらうのが当たり前だと思ってる。相手するのは大変よね、ミラはあんまり苦労してない感じ?」
苦労……しているのだろうか?
そんな、二人の楽しい東屋に邪魔が入った。
「こんにちは、リエット君」
突然かけられた声に、私たちは振り返った。見目の良い若い男性が立っていた。年齢と服装からして生徒ではない。教師だろうか。
そして、リエットの表情が目に見えて陰った。
「ごきげんよう、ヴルスト先生。なにか御用でしょうか?」
不自然な作り笑いを浮かべながら、リエットは挨拶を返す。
男性の名はヴルストで教師らしい。彼は私を一瞥したけれど、気を使う相手ではないと見て無視を決め込んだ。
「言わなくてもわかるでしょう? それともまさか私に言わせる気ですか?」
なんとも面倒くさい言い方は、まさに貴族の見本のようだ。
動揺し悩むリエットに、私は不安げな彼女の手をそっと握った。
リエットはハッとした様子で私を見つめ、何か意を決したような表情を浮かべた。
「先生。お願いです、もうこれ以上は……」
予想外の返答だったのだろう。ヴルストの顔に動揺が走った。
「ま、まさか、断る気ではないでしょうね?」
ヴルストは慌てて懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
紙が当たり前の今では、羊皮紙はとても珍しい。ある用途でしか見ることはない。
「あの羊皮紙はもしかして」
私が呟くと、リエットが小さく頷いた。
「そうよ、魔術契約書よ」
「よくわかってるじゃないか。そうさ魔術契約書さ」
ヴルストが巻かれた羊皮紙を振って誇示する。
「これは【正当な】契約ですよ。このとおり契約書にサインをいただいています」
宙に描かれた【正当な】という言葉が、真っ黒な文字となる。
そう、私は嘘が「黒い霧の文字」になって見えるのだ。
――来た。
これこそが、私がこの侍女を演じてまで見たかったもの。
私の魔眼は「嘘」を暴く。人の偽りは、黒い霧となってこの目に映るのだ。
でも、まさかリエットが犠牲者だなんて。
「サインさせられたのですか! 一体どんな!?」
「父の商会は公爵領で新しい事業をするの。ヴルスト先生はその事業の認可に携わっていて、事前の調査費用をお渡しするという契約書よ」
ヴルストはこれみよがしに羊皮紙を広げ、声を荒らげてリエットに差し出した。その口元には、獲物をいたぶるような歪んだ笑みが浮かんでいる。
「そうですよ、わかっているじゃありませんか」
「ですが先生……これ以上の遅延と出費は、もうセラーノ商会の資金が持ちません」
「何を言うのです。ちょっと待たせているだけでしょう」
「もう半年です」
「事業の認可を望むなら、契約書に従い調査費用を払っていただきたい。セラーノ商会の事業は【少々問題がある】ようでしてね」
「問題、とは具体的にどのような? セラーノ商会の事業は、王国の法に厳格に従っております。ご指摘の根拠をお示しください」
令嬢は毅然として言い返した。平民の身ながら、その才覚でこの学園への入学を勝ち取った彼女だ。コネだけで教師になった男に、理論で負けるはずがない。
「ぐっ……」
ヴルストは一瞬言葉に詰まったが、すぐに嘲るような笑みを浮かべた。
「平民の分際で私を問い詰めるか! 契約書を見ろ!『調査が必要と判断された場合、それに従う』と書いてあるだろうが!」
「その判断の妥当性について伺っております。不当な要求に応じる義務はございません」
「不当かどうかは私が決めるのだ! なにせ……」
ヴルストは羊皮紙の美しい飾り模様にしか見えない部分を、意地悪く指でなぞった。
「魔力のない平民には、契約書の本当の意味が読めないのだからな!」
令嬢は悔しさに唇をきつく結び、うつむいた。その才気あふれる瞳から光が消えていく。
これこそが、魔術契約書の恐ろしさ。契約に込められた魔法の力が、どんなに正しい言葉さえも無力にしてしまうのだ。
「魔術契約書があるかぎり、これは【本当に必要な】経費なのですよ。私の信頼する仲間と【事業について】夜通し語り明かすのですから。まさか酒や女も用意せず、私に恥をかけと?」
胸の奥で、静かな怒りが燃え上がる。
侍女服の硬い布地の下で、思わず拳を握りしめた。
でも、駄目だ。侍女が貴族に意見などすれば、不敬罪で罰せられるだけ。彼女を救うことなどできない。
この男を黙らせ、令嬢を救うには、もっと大きな力が必要。侯爵家の人間を屈服させるほどの、絶対的な権威が。
「リエット、私が人を呼んできます」
震える声で申し出た私を、リエットは力なく制した。
「よしなさい、ミラ。ヴルスト先生は侯爵家よ。学園で侯爵家に逆らえる人なんて……それに、あなたの主人にまで迷惑がかかってしまうわ」
「ですが、こんなことが許されていいはずがありません!」
私の訴えに、リエットの瞳が悲しげに揺れる。
「いることはいるのよ、二人だけ。一人は休学中のパルマ王女殿下……でも、今は静養中で学園にはいらっしゃらないわ。もう一人は平民を助けるために、貴族としての体面を汚すような方ではないもの」
その言葉を聞きつけたヴルストが、歪んだ笑みを浮かべて近づいてきた。
「どうした、侍女のお嬢さん。君の主人に泣きついてみたらどうだ? まあ、この僕、ヴルスト侯爵家に逆らえるような大層な御方なら、の話だがね!」
悔しさに唇を噛みしめる。ここで引き下がれば、リエットの名誉は地に堕ちたまま。何より、私自身の誇りが許さない。
「わ、私【の主】は……王女です」
絞り出した言葉は、自分でも驚くほどはっきりと響いた。だが、その言葉は黒い霧の文字となり、嘘を告げている。
ヴルストは一瞬きょとんとした後、腹を抱えて笑い出した。
「これは傑作だ! とんだ嘘つきがいたものだな!」
彼の笑い声に同調するように、周りを取り巻いていた貴族の子息たちからも嘲笑が漏れる。
「ならば呼んでみせろ! 王女殿下が、侍女ごときの願いを聞き入れ、泥にまみれた平民を助けるというのならな!」
ヴルストは唾を吐き捨てるような仕草で、さらに言葉を重ねる。
「そもそも、お前のような者が王女殿下の侍女であるはずがない。離宮の門をくぐることすらできまい? さあ、行ってこい」
「ミラ、いいからこのまま逃げて。私は【大丈夫】だから、実はね【秘策がある】のよ」
私はリエットに向き直り、その手を取った。
「この場所は元々、王家の静養所を学園のために解放したもの。王女の離宮はすぐそこです」
そして、真っ直ぐに彼女の目を見て約束する。
「私に任せてください。必ず、すぐに戻ってきます」
震えるリエットに固く誓うと、私は踵を返し、離宮へと一目散に駆けた。
*
離宮は学園の敷地の片隅にひっそりと佇む、忘れられたような小さな建物だ。
表向きは、ある事件で視力を失ったパルマ王女の静養所。その実態は、魔眼で嘘を見抜く厄介な王女を学園に閉じ込めておくための鳥かごだ。
扉を開けると、純白のドレスに身を包んだ美しい少女が、雑巾で床を一心不乱に磨いていた。
王女が掃除をするというシュールな光景。その手際の良さは、とても盲目だったり病で静養中だったりする人間には見えない。
「あら、おかえりなさいませ【侍女のミラ】さん。私を身代わりにして学園に行くなんて自由でいいですね」
ぐぅ、王女殿下はお怒りのようです。
「悪かったわよミラ、怒らないで」
「一人で暴走するのはこれっきりにしてくださいね、パルマ王女殿下!」
私は彼女をミラと呼んだ、そして彼女は私をパルマ王女と呼んだ。
そう、私こそがこのプロシュート王国のパルマ王女だ。
「ミラこそ私の姿で掃除はやめてといつも言っているでしょ」
「じっと待っているのは暇なので嫌です」
王女の姿で掃除をしているのは、私の魔法で生み出した分身のミラ。私と鏡写しの存在だから、ミラと名付けた。
ねぇ、アグー。私の魔法は、変な魔法なんかじゃなかったよ。
「それより急いで、学園に行くわよ」
「無茶をするつもりでは無いですよね?」
「だって、友達を助けるためなのよ」
「友達? パルマ様は変装をしておいでですが、誰のことです?」
そう言われるとリエットに嘘をついた事が心苦しい。
「それもそうね。ミラの友達ができたの」
「……私に、ですか?」
クールなミラは交友関係が狭い。意外そうな顔も無理はなかった。
「ええ、リエットっていう素敵な子よ。だから、助けに行かなくちゃ」
ミラは呆れてため息をついた。
「ハァ……承知いたしました」
ミラはぱっと立ち上がり、自分の体をポンポンと叩いた。
すると、一瞬で私と同じ地味な侍女に変わる。これがミラの変身魔法だ。
「ついに、表舞台にお戻りになるのですね。さぁ、パルマ様は久しぶりの王女様スタイルですよ」
ブラシを手に張り切るミラを私は止める。
「ううん、時間がないわ。今日の王女役は、あなたにお願いする」
ミラは少し残念そうにしながらも頷いて、再び純白のドレス姿のパルマ王女へと変身する。そして顔を隠すために白いレースのヴェールをかけた。
うん、これで「静養中の王女パルマ」の完成。
「行くわよ、ミラ。私たちの舞台へ」
王女姿のミラの手を掴んで走り出そうとしたけれど、ミラが動かない。
「お待ち下さい。パルマ様はご自分が何故に療養しているかお忘れですか?」
「それは、失明してから【治療の経過が悪い】からよね?」
「そうです。そういう事になっているのです。元気に走り回っては駄目ですよ」
ミラは車椅子を用意するとそこに座った。
なるほど、これなら急げる。
「はい、押してください」
そうか、押すのは私の仕事か。
リエットにミラの主人は働き者だと言いたい。そんな気持ちを押し殺して、代わりに車椅子を押す。
私たちは渦中の中庭へと急いだ。
*
静養中のパルマ王女が突然現れた。庭園は水を打ったように静まりかえり、やがて大きなどよめきに包まれた。
「まさか、本当にパルマ王女様が?」
「ご病気でずっと伏せっておられるはずでは?」
こうして公の場に姿を現すのは、実に数年ぶりのことなのだ。
生徒たちの視線が突き刺さる中、私はミラと念話を開始した。手が触れるほどの距離にいれば、私たちは誰にも知られず会話ができる。
『あの派手な教師がヴルストよ。金に汚い、典型的な腐敗貴族』
『冷静に参りましょう、パルマ様。相手を煽ってはなりません』
この間、信じられない光景に口をパクパクとしていたヴルスト。
私は侍女として一歩前に出る。そして、凛とした声で告げてやったのだ!
「王女殿下がお尋ねです。この騒ぎは一体何事でございましょうか」
全ての視線が私と車椅子の王女へと向けられる。
ヴルストはなんとか気を取り戻したようで、貴族然とした優雅な所作で一礼をしてみせた。
「これはこれはパルマ王女殿下。お初にお目にかかります。私はヴルスト侯爵家の者でございます。これは【些細な】商取引の話でして、殿下のお気を煩わせるようなものではございません」
「些細な取引、ですって?」
私は侍女として、あくまで王女の言葉を代弁する形で問い返した。
「さようでございます。その侍女から何を聞かれたかは察しがつきますが、それは平民の妬みから来る嘘です」
車椅子のミラはじっとしているだけ。
全部私が答える。さっきまで言えなかったことを言ってやるのだ。
「ヴルスト侯爵子息様。事業認可を盾に、度重なる金銭のご要求。これが些細な話だと、本当にそう思っていらっしゃるのですか?」
完璧な笑顔を貼り付けていたヴルストの顔が、わずかにひきつった。平民の侍女ごときに意見されたのだ、彼のプライドはさぞかし傷つけられた事だろう。
私は彼を無視して、リエットの手を取り立ち上がらせた。
「あなた、本当に王女様の侍女だったのね」
「嘘だと思いました?」
「だって、信じられるわけがないでしょう」
リエットは私の助けを得て、震える声で車椅子の王女に事情を説明し始める。教師という立場を利用した心理的圧迫のこと。今日もまた、新たな追加費用を要求されたこと。
その悲痛な訴えを、ヴルストが遮った。
「騙されてはいけません、王女殿下! これはセラーノ商会の事業認可に必要な、【正当な】手続きなのですよ! 平民と侍女の言うことなど、信用してはいけません! ここに魔術契約書もあります。貴族ならば、王族ならばこの意味はおわかりでしょう?」
彼は勝ち誇ったように、魔術契約書をひらひらとさせて見せた。その言葉が、真っ黒な霧と共に吐き出されるのを私は見逃さない。
『パルマ様、貴族にとって魔術契約書は何でも許される免罪符のようなものです』
『それは貴族が平民に対しての事でしょう、だったら貴族は王族に逆らっちゃ駄目よね』
「ヴルスト様。その契約書、王女殿下にもご提示いただけますでしょうか」
「……ええ、どうぞ。ご覧ください。【全く問題のない】正当な契約書ですとも」
渋々差し出された契約書を、私は車椅子の王女の前に広げてみせる。
「なるほど、調査費用とありますね。でも、さっきあなたはこう仰いましたよね?『酒や女も用意せず、私に恥をかけと?』と」
私は冷静に続けた。
「これって調査費用じゃなくて、先生が個人的に遊ぶためのお金じゃありませんか?」
『さあ、どんどん喋りなさい。嘘つきは、喋れば喋るほどボロが出るんだから!』
「馬鹿なことを! 【違う】に決まっているだろう! あれは事業を円滑に進めるための【大事な打ち合わせ】の費用だ!」
『ミラ、全部真っ黒な嘘よ』
『はい、パルマ様。これで詰みですね』
ミラの念話に頷く。私は静かに、しかし庭園に聞こえるようはっきりと告げた。
「王女殿下の魔法は【偽りを見抜く力】。その御前で、偽りの契約など結べるはずもありません」
ヴルスト先生の顔が見る見るうちに青ざめていく。
「そ、そんな馬鹿な……あれは、ただの噂ではなかったというのか……」
「まさか、王女殿下の魔法を疑うおつもりですか?」
これで終わりよ。私たちの完全な勝利。正義は成されたのだった。
「結論を申し上げます。この契約は不正なものです」
*
俺は読んでいた本から顔を上げた。
また何か騒いでいるな。
「またヴルスト先生が何かやってるらしいぜ」
「ああ、あの強欲教師か」
ヴルスト。腐敗貴族の典型だ。だが、俺の知ったことではない。
俺には俺のやり方がある。
俺は再び本に視線を落とした。
「場所は東屋だとか」
……東屋?
その単語に、俺の思考がわずかに揺れる。
「セラーノ商会のリエットが、泣かされてるって話だ」
――泣いている。
その一言が、古い約束の錠をこじ開ける。
『――もし、泣いていたら助けてあげてね』
ちっ……。
俺は本を閉じると、乱暴に立ち上がった。
「……約束か」




