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第1話 侍女と王女と豚公子

「ねぇ、アグー。ぶひーって鳴いてみてよ」


 東屋のベンチに座る私の隣で、まんまるな少年が顔を赤らめていた。


「やだ! 恥ずかしいよ」

「どうして? 可愛いじゃない、私の子豚さん」

「僕は君の豚じゃない! ……それに、君だってこれからどんな魔法が使えるようになるか分からないんだ。もし変な魔法だったら……僕と結婚できないからね」


 彼の真剣な心配を、幼い私は最高のからかいのチャンスだと思った。


「ひっく……うわーん! アグーが意地悪言うー!」


 わざとらしい鳴き真似だった。案の定、優しい彼はすぐに慌てふためき、私の涙を止めようと必死になる。


「ご、ごめん! 泣かないで、パルマ! 僕、なんでもするから!」

「……ほんと? なんでも?」


 ぴたりと涙を止め、悪戯っぽく笑う私に、彼はこくこくと力強く頷いた。私は満足して、一番の要求を突きつける。


「じゃあ、一生、私の子豚さんでいること!」

「……うん。わかった。君がそれで泣かないなら、僕は……」


 あまりにも素直に頷く彼を見て、私は急にいたたまれない気持ちになった。自分のウソに、彼はいつだって本気で向き合ってくれる。なんだか、自分がすごく意地悪な子に思えた。

 私は彼の視線の先にある、大きな「誓いの鐘」に目を向けた。


「……ううん、それだけじゃだめ。私だけじゃない」


 私は立ち上がり、鐘を指さした。今度は、からかいの響きを消して。

「ここで泣いている人がいたら、あなたが絶対に助けること。もし、その誓いを守れたら……特別に、あなたと結婚してあげる」

「……本当に?」

「本当よ。約束」


 私はアグーの手を取り、二人で鐘に繋がる紐に向かった。東屋のそばには、大きな誓いの鐘が立っている。二本の柱が天に向かって伸び、頂上で美しいアーチを描いて繋がる、学園のシンボル。


 小さな子供の私たちには、鐘の紐は高すぎた。でも、私たちは必死に背伸びをして、一緒に紐を掴んだ。


「せーの!」


 二人で力を合わせて引っ張ると、ゴーン、と厳かな音が庭園に響き渡った。


「やったね、アグー!」

「うん……約束だよ、パルマ」


 あの鐘の音は、祝福だったのだろうか。それとも……。

 今の私は……。


 *


 あの約束から、数年の歳月が流れた。

 思い出の鐘は今も変わらず空に聳えているけれど、私たちはもう、無邪気に笑い合えた頃の二人ではない。


 私は厚い瓶底眼鏡をかけ、地味な侍女として思い出の庭園に立っている。三つ編みにした髪を後ろで束ね、動きやすさだけが取り柄の質素な灰色の侍女服。


 「真実を覗き見るには、この姿が一番都合がいいのよね」


 誰も、ただの侍女の存在など気にも留めないのだから。


 かつて無邪気に駆け回ったこの学園は、今や腐敗した貴族の子女たちの狩場と化していた。彼らはその権力を傘に、罪のない平民を食い物にしている。


「見せかけだけの平穏なんて、もううんざり」


 そんな午後のひととき。東屋の方から、切羽詰まった声が聞こえてきた。


「先生。お願いです、もうこれ以上は……」

「これは【正当な】手続きですよ。追加の調査費用の支払いについては、このとおり契約書にサインをいただいています」


 東屋で、男性教師であるヴルスト先生が、一人の令嬢に羊皮紙を突きつけてる。

 あの先生はヴルストとかいう貴族だったはず。口から黒い霧が溢れ出してる。私の持つ魔眼には、霧が禍々しい光を放って【正当な】っていう嘘の文字を宙に作ってるのが見えた。


 令嬢は王都では珍しい、南国を思わせる容姿。日に焼けた健康的な褐色の肌に、夕陽のような温かみのある琥珀色の瞳。豊かな黒髪が、潮風に吹かれたように艶めいてる。


「ですが先生……これ以上の遅延と出費は、もうセラーノ商会の資金が持ちません」


 そして、私の目にははっきりと見えてた。ヴルスト先生が持つ羊皮紙に渦巻く、黒く邪悪な魔力の揺らめきが。


「魔術契約書ね……」


 それは古い魔法王国の技術で、魔力を持つ者が持たざる者を搾取するための呪われた道具。契約書に魔力で隠された不利益な条文は、魔力のない平民には美しいインクの模様にしか見えない。


「事業の認可を望むなら、契約書に従い調査費用を払っていただきたい。なにせ君の父君、セラーノ商会の事業は【少々問題がある】ようでしてね」


 また黒い霧が噴き出した。【少々問題がある】っていう偽りの文字が宙に浮かんでる。彼はさらに、心底楽しそうな、卑劣な笑みを浮かべた。


「それに、これは【本当に必要な】経費なのですよ。私の信頼する仲間と事業について夜通し語り明かすのですから。まさか酒や女も用意せず、私に恥をかけと?」


 ヴルスト先生の下卑た視線が、令嬢の褐色の肌と豊かな胸のラインをなぞる。その目に、私は胸の奥で静かな怒りが燃え上がるのを感じた。侍女服の硬い布地の下で、思わず拳を握りしめる。

 でも、侍女が貴族に意見なんて、許されるはずもない。

 周囲の囁き声が私の耳に届く。


「あの子、セラーノ商会の…先代は王家御用達だったのに、可哀想に」

「それで弱みにつけ込んで、ヴルスト先生が…」


「つまり、こういうことね」


 噂話をまとめると、ヴルスト先生は地方領主の三男で、実力もなく父親のコネで教師になっただけの男。

 本来なら事業認可などに関わる権限は一切ないはずなのに、貴族という身分を盾に無理やり介入して、手続きをわざと遅延させては金を巻き上げてる。そして今回の標的が、セラーノ商会の令嬢ってわけ。


 こんな腐敗が、この学園では日常茶飯事。王がご健在であったなら……いや、今は宰相である大公家が事実上この国を牛耳ってる。


「認可のためには、追加の調査費が【必要】でしてね」


 【必要】っていう嘘の文字が、令嬢を絶望の淵に追いやっていく。


「このままじゃいけない」


 衝動的に割って入ろうとして、はっと我に返る。


「平民の侍女では話を聞いてもらえないどころか、不敬罪で罰せられるのが関の山。あの令嬢を助けるには、もっと大きな力が必要。伯爵家の人間を黙らせるほどの、絶対的な権威が」


 ——王女でなくては。


 私は震える令嬢に、必ず戻ると心の中で誓い、誰にも気づかれぬよう静かにその場を離れた。質素な革靴で庭園の土を蹴り、王女の静養する離宮へと一目散に駆けた。


 *


 離宮は学園の敷地の片隅にひっそりと佇む、忘れられたような小さな建物だ。表向きは、ある事件で視力を失ったパルマ王女の静養所。その実態は、魔眼で嘘を見抜く厄介な王女を閉じ込めておくための鳥かご。


 扉を開けると、純白のドレスに身を包んだ美しい少女が、雑巾で床を一心不乱に磨いていた。その姿は私と瓜二つ。王女が掃除をするというシュールな光景だが、その手際の良さは、とても盲目だったり病で静養中だったりする人間には見えない。


「おかえりなさいませ、パルマ様」


 私そっくりの姿で掃除をしているのは、私の魔法で生み出した分身のミラ。私と鏡写しの存在だから、ミラと名付けた。

 ねぇ、アグー。私の魔法は、変な魔法なんかじゃなかったよ。


「ドレス姿で掃除はやめてといつも言っているでしょう。それより急いで、車椅子の用意を」

「承知いたしました。……ついに、表舞台にお戻りになるのですね」


 ミラは感慨深げに呟くと、ぱっと立ち上がり、その姿を私と同じ地味な侍女服に変えた。


「さぁ、パルマ様は久しぶりの王女様スタイルですよ」

「ううん、時間がないわ。今日の王女役は、あなたにお願いする」


 ブラシを手に張り切るミラを制し、私は告げたの。

 ミラは少し残念そうにしながらも頷くと、再び純白のドレス姿のパルマ王女へと変身する。盲目の王女を演じるため、顔には白いレースのヴェールをかけた。うん、これで「静養中の王女パルマ」の完成。


「行くわよ、ミラ。私たちの舞台へ」

「はい、パルマ様」


 私は車椅子を押し、渦中の中庭へと急いだ。

 静養中のパルマ王女が突然現れたものだから、庭園は水を打ったように静まりかえり、やがて大きなどよめきに包まれた。こうして公の場に姿を現すのは、実に数年ぶりのことなんだから。


「まさか、本当にパルマ王女様か?」

「ご病気でずっと伏せっておられるはずでは?」


 生徒たちの視線が突き刺さる中、私はミラと念話を開始した。手が触れるほどの距離にいれば、私たちはこうして誰にも知られず会話ができる。


『あの派手な教師がヴルストよ。金に汚い、典型的な腐敗貴族』

『冷静に参りましょう、パルマ様。相手を煽ってはなりません』


 ミラの冷静な忠告に頷き、私は侍女として一歩前に出る。そして、凛とした声で告げた。


「王女殿下がお尋ねです。この騒ぎは一体何事でございましょうか」


 全ての視線が私と車椅子の王女へと向けられる。ヴルスト先生は一瞬目を見開いたが、すぐに貴族然とした優雅な所作で一礼した。


「これはこれはパルマ王女殿下。お初にお目にかかります。私はヴルスト伯爵家の者。これは【些細な】商取引の話でして、殿下のお気を煩わせるようなものではございません」

「些細な取引、ですって?」


 私は侍女として、あくまで王女の言葉を代弁する形で問い返した。


「ヴルスト伯爵子息様。お話は伺いました。事業認可を盾に、度重なる金銭のご要求。これが些細な話だと、本当にそう思っていらっしゃるのですか?」


 完璧な笑顔を貼り付けていたヴルスト先生の顔が、わずかにひきつった。平民の侍女ごときに意見されたことに、彼のプライドが傷つけられたんでしょうね。私はすかさず、うなだれているセラーノ商会の令嬢の手をそっと取り、立ち上がらせた。


 令嬢は私の助けを得て、震える声で事情を説明し始める。教師という立場を利用した心理的圧迫のこと。そして今日もまた、新たな追加費用を要求されたこと。その悲痛な訴えを、ヴルスト先生が遮った。


「騙されてはいけません、王女殿下! これはセラーノ商会の事業認可に必要な、【正当な】手続きなのですよ!」


 彼は勝ち誇ったように、魔術契約書をひらひらとさせて見せた。その言葉が、真っ黒な霧と共に吐き出されるのを私は見逃さない。

『やっぱり真っ黒じゃない。こんな卑劣な手口、許すわけにはいかないわ』


「ヴルスト様。その契約書、王女殿下にもご提示いただけますでしょうか」

「……ええ、どうぞ。ご覧ください。【全く問題のない】正当な契約書ですとも」


 渋々差し出された契約書を、私は車椅子の王女の前に広げてみせる。

「なるほど、調査費用とありますね。でも、さっきあなたはこう仰いましたよね?『酒や女も用意せず、私に恥をかけと?』と。これって調査費用じゃなくて、先生が個人的に遊ぶためのお金じゃありませんか?」


『さあ、どんどん喋りなさい。嘘つきは、喋れば喋るほどボロが出るんだから!』


「馬鹿なことを! 【違う】に決まっているだろう! あれは事業を円滑に進めるための【大事な打ち合わせ】の費用だ!」


『ミラ、全部真っ黒な嘘よ』

『はい、パルマ様。これで詰みですね』


 ミラの念話に頷き、私は静かに、しかし庭園の誰もに聞こえるようはっきりと告げた。

「結論を申し上げます。王女殿下の魔法は【偽りを見抜く力】。その御前で、偽りの契約など結べるはずもありません」


 私の口からも、作戦通りの嘘の霧が漏れ出た。ヴルスト先生の顔が見る見るうちに青ざめていく。


「そ、そんな馬鹿な……あれは、ただの噂ではなかったというのか……」

「まさか、王女殿下の御力を疑うおつもりですか?」


 これで終わりよ。私たちの完全な勝利。こうして、正義は成されたのだった。


 *


 俺は読んでいた本から顔を上げた。

 また何か騒いでいるな。


「またヴルスト先生が何かやってるらしいぜ」

「ああ、あの強欲教師か」


 ヴルスト。腐敗貴族の典型だ。だが、俺の知ったことではない。

 俺には俺のやり方がある。

 俺は再び本に視線を落とした。


「場所は東屋だとか」


 ……東屋?

 その単語に、俺の思考がわずかに揺れる。


「セラーノ商会のリエットが、泣かされてるって話だ」


 ――泣いている。

 その一言が、古い約束の錠をこじ開けた。


『――もし、泣いていたら助けてあげてね』


 ちっ……。

 俺は本を閉じると、乱暴に立ち上がった。


「……約束か」


 *


 私たちを静かに見守っていた生徒たちの間から、新たなざわめきが波のように広がった。それは、先ほどまでのものとは質の違う、恐怖と嫌悪に満ちた囁きだった。


「豚公子だ……」

「なぜ、あの方がここに……」


 豚公子?

 その名前を聞いた瞬間、心臓が氷の手に掴まれたみたいに、どくんと大きく跳ねた。

 だって、その名前は……。


『パルマ様、あれが噂の豚公子ですよ。この学園に君臨する腐敗貴族の頂点、油断なさいませんよう』


 ミラの冷静な警告が念話で届く。

 そう、彼こそがアグー・イベリコ・ロッパーク公爵嫡男。

 そして——生まれつきの魔力蓄積体質のせいで、醜い豚の姿をしていると誰もが嘲笑う人。


 アグー!?

 感情の波が抑えられない。豚だなんて、なんて酷い言い方。人を見た目で判断するなんて、決してしてはいけないことなのに。

 ——でも、その言葉を、世界で最初に彼に言ったのは……他の誰でもない、私なんだ。


 『ねぇ、アグー。ぶひーって鳴いてみてよ』


 罪悪感で足がすくんで、顔を上げられない。私は思わずうつむいて、彼の姿を見ることができなかった。


「侍女風情が、王女殿下を顎で使うとはな」


 地を這うような、低く落ち着いた声が私の頭上から降ってきた。記憶の中の、あの頃の少年の声とは全然違う、大人の男性の声。

 重くて確かな足音が、一歩、また一歩と近づいてくる。


「その魔法は、王女殿下ご自身の心身に大きな負担となると聞く。このような些事で、軽々しく使うべきではない」


 些事、ですって?

 その声の底に、押し殺したみたいな怒りが潜んでいるのを感じた。

 アグーの言葉に同調するように、周りの貴族たちが嘘の霧を吐き出し始める。


「確かに、王女様のお体が【心配】ですわ」

「私たちも、ずっと【心配】しておりましたのよ」


 (アグーの口からも、同じように黒い霧が出ているの?)

 私は勇気を振り絞り、ゆっくりと顔を上げた。

 ——そして、息を呑んだ。


 そこに立っていたのは、私よりもずっと背の高い、一人の青年だった。

 磨き上げられた黒曜石みたいな澄んだ瞳が、真っ直ぐに前を見据えている。その堂々とした姿には、何にも揺るがされない鋼の意志が宿っているみたいだった。端正な顔立ちは、まるで宮廷画家が理想を追い求めて描いた騎士の肖像画そのもの。

 ……どうして、こんなに。

 あまりのことに、私の口からは場違いな言葉がこぼれ落ちた。


「え? ……だれ?」


 私の素っ頓狂な声に、周囲がざわめく。

 目の前の美青年は一瞬驚いたように目を見開いた。


「公爵家嫡男、アグー・イベリコ・ロッパークだ」


 ——アグー? 本当に?

 混乱する頭で、私はミラの肩にそっと手を触れて、念話を送る。


『ミラ、どういうこと? 豚公子はどこにいるの? みんなが言う「醜い豚」の姿なんてどこにもないじゃない』

『パルマ様、目の前にいらっしゃるではありませんか。噂に違わぬ豚が』



 これが、アグーの本当の姿なの?

 私の魔眼は、嘘を、偽りを見抜く力。だから、誰もが嘲笑う「醜い豚の姿」という偽りの幻を、私の目だけが最初から見破っていたんだ。


『私、てっきり……大きな豚さんになったアグーに会えると思ってたのに……』

『パルマ様……』


 目の前の状況から逃げるように、私はミラとの念話に没頭しかけた。その時だった。


「おい、聞いているのか」


 不意に、強い力で顎に指がかかり、強制的に顔を上げさせられた。間近に、彼の顔がある。


「人と話をするときは相手の目を見るものだ。……もっとも、俺のような醜い男が相手では、目を逸らしたくもなるか」


 自嘲的に笑う彼の瞳。どうして、こんなにも美しい人が、自分を醜いなんて言うの?

 私は言葉を失って、ただ彼の瞳を見つめることしかできない。

 幼い日の罪悪感と、目の前にいる青年の本当の姿が、私の心をめちゃくちゃにかき乱していた。


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