片耳クロス
右耳は、音を受け取ることができない。
触れればひんやりとした金属とシリコン、見た目は精巧だけどそこに機能する音のぬくもりはない。
それでも毎朝鏡の前でそっと装着する義耳は、義耳、飾りの耳だ。
それ以上でも、それ以下でもない。だけど、これを外すと自分の罪がむき出しになるような気がして・・・・・。
電車に揺られて駅に着くといつもの光景が目に飛び込んできた。
西口の片隅に小さな少年が立っていた。まだ十歳くらいの彼はやや汚れたパーカーを羽織り、胸元に白いハーモニカを下げている。
彼はいつも同じように音を鳴らしている。ただ静かに・・・。
誰に聴かせるでもなく、誰からも無視されて、それでも彼はそこでハーモニカを吹いている。
私の左耳にだけ音は届く。
右耳は義耳。音のない機械と生きた音の境界に今日も自分が立っている。不意に妹の姿がよぎった。
「ちゃんと聞いてる?」昔もそう問いかけられていた。
私がスマホをいじりながら相槌だけしていたころ。あの頃の自分は"聞いているフリ"の達人だった。
あの日も言葉を遮るように「大丈夫でしょ」と軽く言った。
ほんの少し真剣に止めていれば・・・。
夜の山道に一人で向かわせなければ、後悔は右耳から消えない。
その夜事故が起きた。妹は命を失い、私は右耳を失った。以来心に、十字架のような影を同伴させている。
物思いに更けて、足を留めていたら、少し音が変化した。
昔彼女が引いていたピアノの旋律に似ている。それだけで、胸の奥が軋んだ。
少年と目が合った。黒目のその瞳は、妹にどことなく重なり、何かが宿っている、そう感じた。
彼は何も言わない。私も何も言えなかった。
けれどその日、右の義耳に、微かな"揺れ"が伝わった。風や電車の音でもない。
あの旋律の断片が、確かにそこに触れたような気がした。聞こえるはずがないのに。
同時に心の中で誰かの声が重なった。
「ちゃんと届いているよ」
ハッとして義耳を外す。空気が頬を撫で、右耳の"ない"部分に涼しさを迎えた。
少年はいつのまにか立ち去っていた。
見えない十字路の先へと後ろ姿が小さく残していた。
上空を横切る、一筋の飛行機雲は、白い十字架のように瞳に映していた。
それはまるで私の中に長く沈んでいた『交差点』を誰かが優しくなぞったようだった。
右耳には届かない。それでいい。
私の中であの子の音は今も鳴っている。言葉にならない祈りが今は心の内側で静かに反響している。
「ありがとう」これは誰かに届くでもない言葉。
けれど、風がそれを拾ってくれる、きっと・・・
義耳をそっと装着した。
明日、また音のない朝は来る。その静けさを私は抱きしめて歩こう。今日音のない右耳でちゃんと"想い"を聴いたのだから・・・。
義耳という、『もうきこえない耳』が過去の心と交差点となる。本当に必要だったのは、音ではない。向き合う勇気。
聞えないからこそ感じられる音がある。
その透明な音に人の想いは響き、時には隠れたりするのかもしれません。
じゅラン 椿