抗金名将⑧
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風は冷たく、長江のさざ波が絶え間なく岸を打つ。建炎3年(1129年)の冬、金の軍勢が南へと押し寄せ、宋の都、建康はまさに嵐の前の静けさに包まれていた。
皇帝である高宗は、目の前の地図を睨みつけていた。疲労と不安がその顔に色濃く浮かんでいる。宰相の秦檜が隣に控えていたが、その表情にはどこか冷たさが漂っていた。
「陛下、金軍はすでにここまで迫っております。もはや長江を渡り、さらに南へお移りになるしか…」秦檜の声は、静かではあったが、有無を言わせぬ響きがあった。
高宗は、かぶりを振った。「また逃げるというのか。父上や兄上が金に囚われた悪夢が、再び蘇るようだ…」
その言葉に、秦檜は眉一つ動かさなかった。「陛下、今は耐え忍ぶ時でございます。国力を蓄え、いつか捲土重来を期すために…」
一方、遠く北の地では、金の大将、粘没喝が高笑いしていた。彼はまさに、北宋の皇帝である徽宗と欽宗の二人の皇帝を捕虜として北方に連行する際に中心的な役割を果たした男だった。
「ハッハッハ! 宋の皇帝など、まるで雛鳥ではないか! 少し脅せば、すぐに逃げ出す腰抜けばかりだ!」粘没喝は、凍える風の中で、それでも上機嫌に酒を煽っていた。
その傍らで、金軍の幹部たちが集まっていた。気宇壮大な(きうそうだいな)兀朮が、冷徹な目で遠く南方を見据えている。
「粘没喝殿、油断は禁物ですぞ。宋には、岳飛や韓世忠のような手ごわい将軍がいると聞きます。」
粘没喝は鼻で笑った。「ふん、その程度、恐れるに足りぬ! 所詮は南方の軟弱者よ。我ら金の精強な騎馬隊の前には、塵も同然!」
しかし、彼の言葉とは裏腹に、粘没喝の心には一抹の不安がよぎっていた。彼は知っていた。宋の民の心には、まだ燃え盛る火があることを。そして、その火を消し去ることは、決して容易ではないことを。
時を同じくして、長江のほとりでは、高宗の南遷を見送る人々の中に、岳飛の姿があった。彼の表情は怒りに満ちていた。
「陛下は、なぜ逃げられるのだ! 戦うべきではないのか!」岳飛の拳が、きつく握りしめられる。
そこに、親分肌の韓世忠がやってきた。「岳飛よ、気持ちはわかる。だが、今は耐える時だ。陛下にも、陛下の考えがあるのだろう。」
「しかし、このままでは、宋の民は希望を失ってしまいます!」岳飛の目に、熱いものがこみ上げてくる。
姉御肌の梁紅玉が、そっと韓世忠の腕に触れた。「世忠様、岳飛殿のお気持ちもわかります。私たちが、この国の希望にならねばなりません。」
韓世忠は妻の言葉に頷いた。「ああ、その通りだ。例え陛下が逃げようとも、我らはこの国の民を守る。そして、いつか必ず、失われた国土を取り戻すのだ。」
その頃、西の辺境では、苦労人の呉玠が弟の呉璘と共に、金軍の動きを警戒していた。
「兄上、金軍の勢いは凄まじい。このままでは、四川も危ういかもしれません。」呉璘が不安げに言った。
呉玠は冷静に答えた。「心配するな、璘。我々が守り抜く。一歩も引かんぞ。」
遠く離れたそれぞれの場所で、それぞれの思いを抱え、宋の将軍たちは、未来への希望を胸に抱いていた。それは、たとえ今がどれほど苦しくとも、必ず金軍を打ち破り、再び故郷の地を踏むという、強い決意の表れでもあった。
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建炎3年(1129年)、南宋の都、建康は混乱の渦中にあった。金軍の猛攻にさらされ、皇帝の高宗は長江を渡って南へ逃れたばかり。そんな中、都では新たな騒乱が持ち上がっていた。それが、苗傅と劉正彦が起こした反乱、「苗傅の乱」である。
ある日の夕暮れ、将軍、韓世忠の陣営に、一人の男が駆け込んできた。息を切らし、顔は土気色だ。
「韓将軍!大変でございます! 苗傅らが謀反を起こし、宮城を占拠いたしました!」
韓世忠は、その報告に眉をひそめた。親分肌の彼は、顔には出さずとも、心中では激しい怒りが渦巻いていた。金との戦いの最中に、味方が内乱を起こすとは。
「何だと!? この大事な時に、そのような狼藉を働くか!」
その時、韓世忠の妻、梁紅玉が静かに隣に立った。姉御肌の彼女は、夫と同様に武勇に優れ、その知略で韓世忠を支えてきた。
「世忠様、落ち着いてください。今、感情的になっても事態は好転しません。」
韓世忠は深く息を吐き、梁紅玉の言葉に頷いた。 「紅玉、済まぬ。しかし、この怒りは抑えられぬ。陛下は、今まさに金軍から逃れてきたばかりだというのに…。」
梁紅玉は、夫の肩にそっと手を置いた。「だからこそ、私たちが出陣するのです。この乱を速やかに鎮め、陛下をお守りしなければなりません。」
翌朝、韓世忠と梁紅玉は軍を率いて反乱軍の鎮圧に向かった。建康の街は、いたるところで火の手が上がり、人々の悲鳴が響き渡る。
「紅玉、お前は後方で指揮を執れ。私は前線で兵を鼓舞する!」韓世忠が叫んだ。
しかし、梁紅玉は首を横に振った。「いいえ、世忠様。私も前線に立ちます。この乱を鎮めるには、夫婦の力が必要です。」
彼女は自ら太鼓を手に取り、高らかな音を響かせた。ドドン、ドドン、ドドン! その音は、兵士たちの心に響き渡り、士気を高めた。
反乱軍との激しい戦闘が始まった。苗傅と劉正彦の兵は、数の上では優勢だったが、韓世忠と梁紅玉の率いる軍は、その連携と士気で圧倒していた。
「この国の未来は、私たちが守る!」梁紅玉の凛とした声が響く。
韓世忠は、その妻の姿を見て、さらに奮い立った。「皆の者、続け! 宋のために、陛下の御ために!」
数日にわたる激戦の末、苗傅の乱は鎮圧された。苗傅と劉正彦は捕らえられ、都にはようやく平穏が戻った。
乱の鎮圧後、高宗は韓世忠と梁紅玉を謁見した。高宗の顔には、安堵の表情が浮かんでいた。
「韓世忠、梁紅玉。そなたらの働き、見事であった。よくぞ朕を守り、この国を守ってくれた。」高宗は深々と頭を下げた。
韓世忠は恐縮し、平伏した。「もったいのうございます、陛下。これも、臣下として当然のこと。しかし、これも紅玉の働きあってこそです。」
梁紅玉は静かに言った。「陛下、我々はただ、この国を愛し、民の安寧を願うばかり。金軍との戦いは、まだ終わってはおりません。どうか、お心を強くお持ちください。」
高宗は、二人の忠誠心に深く感動した。そして、改めて金との戦いへの決意を新たにした。
こうして、苗傅の乱という内憂を乗り越えた宋は、さらに団結を強め、外敵である金に立ち向かう力を蓄えていくことになった。韓世忠と梁紅玉の名は、この時、揺るぎない忠義と武勇の象徴として、人々の心に深く刻まれたのである。
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黄天蕩の激戦
建炎4年(1130年)6月、長江の南は、まさに死の淵に立たされていた。金の精強な騎馬軍団を率いる総大将、兀朮が、その圧倒的な兵力をもって長江を渡り、南宋へと迫っていたのだ。十万という途方もない数の金軍が、まるで黒い津波のように押し寄せ、行く手を阻むものは全て呑み込まれていく。宋の民は、希望の光を失い、ただ来るべき破滅を待つばかりだった。
そんな絶望的な状況の中、一筋の光が差し込んだ。その光は、将軍、韓世忠とその妻、梁紅玉から放たれていた。親分肌の韓世忠は、わずか八千の兵を率いて、この途方もない脅威に立ち向かおうと決意したのだ。彼の決断に、多くの者が「無謀だ」と囁いた。しかし、韓世忠の瞳には、燃え盛る炎のような決意が宿っていた。
彼の傍らには、常に冷静沈着な姉御肌の梁紅玉がいた。夫の常識外れの決断にも、彼女は微塵も動じることなく、静かに夫を見つめていた。
「世忠様、策はございますか?」梁紅玉が尋ねた声は、戦場の喧騒の中にあっても、不思議と韓世忠の心に響いた。
韓世忠は、広げられた長江の地図に指を滑らせ、ある水域に止めた。「黄天蕩。ここだ、紅玉。金軍は陸戦に長けているが、水上では我々に及ばぬ。この黄天蕩こそ、奴らを誘い込み、息の根を止めるための絶好の場所だ。」
黄天蕩は、長江の河口付近に位置し、入り組んだ水路と浅瀬が複雑に絡み合う難所だった。大型の戦船では自由に動けず、座礁すればたちまち身動きが取れなくなる。韓世忠は、金軍の圧倒的な兵力を前に、この地の利を最大限に生かすことを考えていた。
「しかし、数の差は歴然です。八千で十万を相手にするなど、あまりにも…」部下の一人が不安そうに口を開いた。彼の言葉は、兵士たちの間に広がる恐怖を代弁しているようだった。
梁紅玉は、その言葉を遮るように、毅然とした声で言った。「数が全てではない。地の利と、そして何よりも、兵士たちの士気が勝利を呼び込むのです。我々には、この長江がある。この長江が、我々の盾となり、剣となる!」
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戦いの火蓋は、ついに切って落とされた。兀朮率いる金軍の巨大な戦船が、黄天蕩の水域に押し寄せると、韓世忠が指揮する宋軍の小型で機動力のある小舟が、まるで水面に舞う蝶のように、素早く水路を駆け巡り、金軍の陣形を乱した。
梁紅玉は、自ら太鼓を手に取り、その場に響き渡る轟音を叩き出した。ドドン!ドドン!ドドン!と鳴り響く太鼓の音は、兵士たちの心臓を打ち、彼らの士気を極限まで高めた。それはまるで、彼らの心に宿る最後の炎を煽り立てるかのようだった。
金軍の総大将、兀朮は、宋軍の予想外の抵抗に苛立ちを隠せない。気宇壮大な、彼は、まさかこれほど小さな宋軍に手こずるとは、夢にも思っていなかったのだ。
「何をしているのだ!早くあの小舟どもを沈めろ!たかが宋の雑兵どもに、この大金軍が阻まれるとは、恥を知れ!」兀朮が、怒りの形相で部下たちに怒鳴り散らした。彼の苛立ちは、金軍全体の焦りへと伝播していった。
しかし、宋軍の水上戦術は、兀朮の想像をはるかに超えていた。彼らは黄天蕩の地形を熟知しており、金軍の大型船が身動きできない狭い水路へと巧妙に誘い込み、そこを集中攻撃した。梁紅玉は、常に戦況を見極め、的確な指示を夫に伝えた。
「世忠様!敵の左翼が手薄です!そこに火矢を集中させてください!水面を油で覆い、一気に燃やし尽くすのです!」
韓世忠は、妻の言葉に従い、すぐさま部隊を動かした。火矢が雨のように降り注ぎ、油の引かれた水面は瞬く間に炎の海と化した。金軍の船団は、炎と煙に包まれ、大混乱に陥った。さらに、宋軍は水中に隠していた網を仕掛け、金軍の船を絡め取った。身動きの取れなくなった金軍の兵士たちは、次々と炎と煙が渦巻く長江の冷たい水に投げ出されていった。
戦いは、昼夜を問わず続けられ、四十八日間に及んだ。宋軍の食料は尽きかけ、兵士たちの疲労はピークに達していた。しかし、梁紅玉の叩く太鼓の音は、一度たりとも途絶えることはなかった。その音は、彼らの心に希望の火を灯し続け、兵士たちは飢えと疲労を忘れ、ただひたすらに戦い続けた。
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ついに、金軍は壊滅的な被害を受け、兀朮は顔を青ざめさせたまま、敗北を悟った。
「くそっ!まさか、これほどの損害を出すとは!あの夫婦め…!この借りは必ず返してやる…!」兀朮は、悔しさに顔を歪めながら、残ったわずかな兵と共に、辛うじて黄天蕩から脱出した。十万の金軍は、二万五千もの兵を失い、惨敗を喫したのである。
戦いが終わった黄天蕩は、静寂を取り戻していた。しかし、その水面には、金軍の燃え落ちた船の残骸と、兵士たちの血が混じり合い、壮絶な戦いの痕跡が残されていた。
韓世忠は、力なく座り込む兵士たちを見回した。彼らの顔は泥と血にまみれていたが、その瞳には、勝利の光が宿っていた。
「皆、よくぞ戦ってくれた!我らの勝利だ!この勝利は、宋の未来を照らす光となるだろう!」韓世忠の声が響き渡ると、兵士たちは、歓声を上げた。疲労困憊の体で、それでも互いに抱き合い、勝利を分かち合った。
梁紅玉は、静かに太鼓を下ろした。その顔は憔悴しきっていたが、瞳には確かな達成感が輝いていた。「世忠様、やりましたね…!私たちの宋は、まだ滅びません…!」
韓世忠は、妻の肩を抱き寄せた。「ああ、全てお前のおかげだ、紅玉。お前がいなければ、この勝利は決して手に入らなかった。」
黄天蕩の戦いでの梁紅玉の活躍は、瞬く間に天下に轟いた。「紅玉」の名は、武勇と知略を兼ね備えた女傑の代名詞となり、南宋の民に大きな希望を与えた。この戦いは、劣勢に立たされた南宋が、金に一矢報いる(いっしむくいる)大きな転換点となったのである。