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抗金名将⑦

夕焼けが、空と大地を赤く染め上げていた。遠くで、疲れた兵士たちのざわめきが聞こえる。建炎けんえん元年(1127年)、北宋ほくそうみやこである開封かいほうは、きんの侵攻によって陥落した。皇帝こうていたちは捕らえられ、多くの民が故郷を追われた。そんな混乱の中、康王こうおう(後の高宗こうそう)は南へと逃れ、新たな国、南宋なんそうを建国しようとしていた。


康王こうおうを護衛する武将ぶしょうの一人、劉光世りゅうこうせいは、馬上で疲れた表情を浮かべていた。彼は臆病者おくびょうもの陰口かげぐちを叩かれることもあったが、この時ばかりは、康王こうおうを守り抜くという強い意志を宿していた。


殿下でんか、この先はさらに厳しい追撃ついげきが予想されます。どうか、ご無理をなさらないでください。」


劉光世りゅうこうせいは、康王こうおうの馬に寄り添い、声をかけた。康王こうおうは青ざめた顔で頷いた。


劉将軍りゅうしょうぐん、頼りにしておるぞ。そなたの働きが、南宋なんそうの未来をひらくのだ。」


その言葉に、劉光世りゅうこうせいは決意を新たにした。彼の任務は、金軍きんぐんの追撃をかわし、康王こうおうを守りながら江南こうなんを転々とし、時間を稼ぐことだった。それは、まさに命がけの逃避行とうひこうであった。


その頃、別の場所でも、康王こうおうのために戦う男がいた。張俊ちょうしゅんである。彼は、南方へ逃れた康王こうおうにいち早く仕え、金軍きんぐんとの戦いや各地で起こる反乱の鎮圧ちんあつ尽力じんりょくしていた。


とある村で、張俊ちょうしゅんは兵士たちを鼓舞こぶしていた。彼の顔には、疲労ひろうよりも勝利への執念しゅうねんが刻まれている。


「聞け、お前たち! きんのやつらが、我らの故郷こきょうを荒らしている。康王こうおう殿下でんかは、この国の希望だ。我々は、その希望を守り抜かねばならぬ!」


兵士たちの士気しきは高まり、張俊ちょうしゅんの言葉に呼応こおうして、大きな歓声かんせいが上がった。その中には、張俊ちょうしゅん金軍きんぐんから奪還だっかんした高宗こうそうの姿もあった。高宗こうそう張俊ちょうしゅんの活躍をたたえ、武寧軍節度使ぶねいぐんせつどし御前右軍都統制ぎょぜんうぐんととうせいといった高い地位を与えた。しかし、張俊ちょうしゅんの心には、ある種の打算ださんも渦巻いていた。


ある夜、張俊ちょうしゅんは酒を片手に、副官ふくかんを呼び出した。


よ、この乱世らんせい、力をつけねば生き残れぬ。康王こうおう殿下でんかをお守りするのは当然だが、我ら自身の力も盤石ばんじゃくなものにせねばな。」


は頷いた。


「おっしゃる通りでございます、将軍。我らの軍は、殿下でんかの信頼を得て、ますます強力になりましょう。」


「うむ。だが、それだけでは足りぬ。この先、どのような世になるか分からぬ。我らの地位ちい確固かっこたるものにするには、さらなる功績こうせきが必要だ。そして、時には、他の者たちとの駆け引きも重要になる。」


張俊ちょうしゅんの目は、ただ戦功せんこうだけを追い求めるのではなく、その先の権力けんりょくを見据えていた。


一方、劉光世りゅうこうせいは、康王こうおうを連れて、険しい山道を越えていた。金軍きんぐんの追撃は、日増しに激しくなる。食料も底をつき、兵士たちの疲労ひろうは極限に達していた。


劉将軍りゅうしょうぐん、もう限界だ……。」


一人の兵士が、へたり込んだ。劉光世りゅうこうせいは馬を降り、その兵士の肩を支えた。


「諦めるな! ここで諦めれば、我らの故郷こきょうきんの手に落ちる! 康王こうおう殿下でんかを守り抜けば、必ずやこの苦境くきょうを乗り越えられるはずだ!」


その時、遠くから金軍きんぐん騎馬隊きばたいの足音が聞こえてきた。劉光世りゅうこうせいは顔色を変えた。


「まさか、ここまで追いつかれるとは……!」


康王こうおうは震える声で言った。


劉将軍りゅうしょうぐん、どうすればよいのだ!?」


劉光世りゅうこうせいは、一瞬の躊躇ちゅうちょの後、覚悟かくごを決めたように顔を上げた。


殿下でんか、どうかご安心ください! 私がこの場を食い止めます。その間に、どうかお逃げください!」


康王こうおうは驚いた。臆病者おくびょうものと評される劉光世りゅうこうせいが、自らを犠牲ぎせいにしてまで自分を守ろうとしている。


「しかし、劉将軍りゅうしょうぐん、そなたまで失うわけにはいかぬ!」


「これが私の役目です! 殿下でんかがご無事ぶじであれば、南宋なんそうは必ずや再興さいこうできます! さあ、急いで!」


劉光世りゅうこうせいは、残りの兵士たちに指示を出し、金軍きんぐんへと向かっていった。彼の背中は、もはや臆病者おくびょうもののそれではなかった。康王こうおうは涙を流しながら、劉光世りゅうこうせいの言葉を胸に、さらに南へと進んだ。


夕日は地平線に沈み、夜の闇が全てを覆い尽くそうとしていた。しかし、その闇の中にも、新たな時代の光が灯り始めていた。劉光世りゅうこうせい張俊ちょうしゅん、それぞれの形で南宋なんそうの建国に貢献する彼らの奮闘ふんとうは、まだ始まったばかりであった。




風が木々を揺らし、その音は、まるで宗沢そうたくの心の叫びのようだった。建炎けんえん二年(1128年)。南宋なんそうみやこは、きん脅威きょういから逃れるように南へ移されたばかりだった。しかし、宗沢そうたくの心は、いまだ北の故郷、開封かいほうにあった。


彼は高宗こうそう皇帝こうていの元へ、何度も何度も足を運び、みやこを北へ戻すこと、そして失われた国土を取り戻すための北伐ほくばつを訴え続けた。その回数、二十度にじゅうどを超える。


陛下へいか! どうか、わが開封かいほうへお戻りくださいませ! 民は陛下の帰還を待ち望んでおります! そして、きん蛮族ばんぞくをこの大地から追い払い、失われたそうの栄光を取り戻すのです!」


宗沢そうたくの言葉は、いつも力強く、情熱じょうねつに満ちていた。しかし、高宗こうそうの表情は、いつもどこか曖昧あいまいだった。


宗沢そうたくよ、そなたの忠義ちゅうぎはよくわかる。しかし、今はまだ時期ではない。きんとの和議わぎこそが、この国の平和を保つ道だと、ちんは考えているのだ。」


高宗こうそうの言葉を聞くたび、宗沢そうたくの胸には、熱いものがこみ上げてきた。和議わぎだと? 祖先の地を奪われ、民が苦しんでいるというのに、平和をうたうのか。


ある日のこと、宗沢そうたくは、ついに憤激ふんげきのあまり、その場に倒れした。医者が駆けつけ、懸命けんめい治療ちりょうが施されたが、彼の体は、もう長くはなかった。病床びょうしょう宗沢そうたくは、それでもなお、北への思いを捨てなかった。


枕元まくらもとには、弟子の岳飛がくひが座っていた。岳飛がくひは、宗沢そうたくから多くのことを学び、その思想を受け継いでいた。


師匠ししょう……」


岳飛がくひの声は、震えていた。宗沢そうたくは、かすかに目を開けた。


岳飛がくひよ……お前は、わしの後を継いでくれるか……? 北の地には、まだ多くの同胞どうほうきんの支配に苦しんでいる。彼らを救い出すのだ……!」


岳飛がくひは涙をこらえながら、力強く頷いた。


「もちろんです、師匠ししょう! 私が必ずや、師匠ししょうこころざしを継ぎ、北伐ほくばつを成し遂げます!」


宗沢そうたくは、満足げに微笑んだ。彼の目は、しかし、まだ遠い北の空を見つめているようだった。


そして、建炎けんえん二年(1128年)7月12日。70歳の宗沢そうたくは、静かに息を引き取った。しかし、その最期の瞬間、彼はまるで北の地へ向かうかのように、力強く三度さんど、叫んだという。


「過河!(河を渡れ!)」


その声は、病室びょうしつの壁を突き破り、遠く南宋なんそうの空に響き渡った。それは、失われた故郷こきょうへの、そして未来の希望への、彼の最後の願いだった。宗沢そうたくの死は、朝廷ちょうていに深い悲しみをもたらしたが、それ以上に、彼の遺志は、岳飛がくひをはじめとする多くの抗金こうきん志士ししたちに、燃え盛るほのおとなって受け継がれていった。


宗沢そうたくの魂は、きっと今も、失われた北の地をうれい、河を渡る日を待ち望んでいるに違いない。



かわいた風が吹き荒れる関中かんちゅうの地は、常に緊張感きんちょうかんに包まれていた。建炎けんえん二年(1128年)、南宋なんそうきんの戦いは、ますます激しさを増していた。この地に、一人の苦労人くろうにんの武将がいた。名を呉玠ごかいという。


彼は、荒れた大地に立つかのように、どっしりと構えていた。その顔には、これまでの苦難くなんと、それでもなお戦い抜くという強い意志が刻み込まれている。呉玠ごかいの率いる軍は、数に勝る金軍きんぐんの度重なる侵攻しんこうを、何度も退けてきた。


ある日のこと、金軍きんぐんの大部隊が関中かんちゅうへ向かってくるというしらせが届いた。兵士たちはざわつき、不安な空気が陣地じんちに広がる。


「将軍、きんの奴らは、今度こそ本気で攻めてくるようです。兵の数も、これまでの比ではありません!」


副官ふくかんが、あせりの表情で呉玠ごかいに報告した。呉玠ごかいは、静かに地図を広げ、指で関中かんちゅうの地形をなぞった。


ひるむな。数が多いからといって、恐れることはない。この関中かんちゅうは、我々の故郷こきょうを守るかなめだ。決して渡してはならない。」


彼の声は、低く、しかし確かな響きを持っていた。兵士たちの動揺どうようが、少しずつ収まっていく。


「我々は、地の利を最大限に活かす。敵の動きを読み、待ち伏せ、そして一気に叩く。この地で、きんの侵攻を食い止めるのだ!」


呉玠ごかい指揮しきのもと、宋軍そうぐん巧妙こうみょうわなを仕掛けた。そして、金軍きんぐんわなにはまったその時、呉玠ごかいは自ら先頭に立ち、敵陣てきじんへと突撃した。激しい戦いが繰り広げられたが、呉玠ごかいり上げられた戦術せんじゅつと、兵士たちの奮戦ふんせんにより、金軍きんぐん大敗たいはいきっした。


金軍きんぐん撃退げきたいした安堵あんども束の間、翌年には新たな問題が起こった。史斌しひんという者が反乱を起こし、その勢力は日に日に増していた。南宋なんそう朝廷ちょうていは、きんとの戦いだけでなく、国内の反乱にも頭を悩ませていたのだ。


呉玠ごかいは、疲れ果てた兵士たちを前に、再び語りかけた。


「休む間もなく、新たな戦いがお前たちを待っている。史斌しひんの反乱は、きん侵攻しんこうと並んで、この国の安定をおびやかすものだ。民の暮らしを守るため、我々は戦わねばならぬ。」


兵士の中には、疲労ひろうの色を隠せない者もいたが、呉玠ごかいの言葉には、不思議と人を奮い立たせる力があった。


「将軍、私たちはどこまでもついていきます! 将軍の指示しじに従い、必ずや反乱を鎮圧ちんあつしてみせます!」


兵士の一人が叫び、他の兵士たちもそれに続いた。呉玠ごかいは頷き、兵士たちと共に反乱軍の鎮圧に向かった。


史斌しひんの反乱軍は、その勢いを増していたものの、呉玠ごかい卓越たくえつした軍事的な才能と、粘り強い戦術の前に、次第に追い詰められていった。幾度いくどかの激しい戦闘せんとうの末、呉玠ごかいはついに史斌しひんを捕らえ、反乱を完全に鎮圧ちんあつすることに成功した。


この功績は、すぐに南宋なんそう朝廷ちょうていへと伝わった。宣撫処置使せんぶしょちしという高官こうかんである、張浚ちょうしゅんは、呉玠ごかいの報告書を読み、その能力に深く感銘かんめいを受けた。


ちなみ、この張浚ちょうしゅんは、南宋の「中興四将」の一人である「ずる賢い張俊ちょうしゅん」とは別人である。「にんべんの張俊ちょうしゅん→悪い方」「さんずいの張浚ちょうしゅん→良い方」で覚えて頂きたい。


張浚ちょうしゅんは、隣に座る幕僚ばくりょうに語りかけた。


「この呉玠ごかいという男、只者ではない。関中かんちゅう金軍きんぐん撃退げきたいし、続けて史斌しひんの反乱まで鎮圧ちんあつしたか。これほどのしょうが、今までうもれていたとは……。」


幕僚ばくりょうは頷いた。


「はい、その通りでございます。彼の戦術せんじゅつ緻密ちみつでありながら、時には大胆だいたんな一手を見せると評判ひょうばんでございます。」


張浚ちょうしゅんは、満足げに目を細めた。


「うむ。南宋なんそうには、彼のような将軍が不可欠ふかけつだ。彼を重用ちょうようし、さらなるにんを与えるべきであろう。」


こうして、呉玠ごかいの名は、南宋なんそう朝廷ちょうていに広く知られることとなった。一人の苦労人くろうにんの武将が、その実力で確かな地位を築き、南宋なんそうの未来を支える柱の一つとなる、その序章じょしょうが今、静かに幕を開けたのである。

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