抗金名将③
〇
嵐のような時代が、宋の国を揺さぶっていました。宣和2年(1120年)、江南で起きた方臘の乱は、国中に大きな不安をもたらします。しかし、この混乱の中で、二人の武将が、それぞれの持ち場でその才能を輝かせ始めました。一人は苦労人の呉玠、そしてもう一人は、ずる賢い(ずるがしこい)張俊です。
________________________________
西の守護者、呉玠の登場
呉玠は、生まれながらの武人ではありませんでした。彼の実家は裕福ではなく、早くから自分で生きていく道を模索する必要がありました。しかし、彼は誰よりも努力を惜しまない(おしまない)「苦労人」でした。兵法書を読み漁り、弓術や馬術の腕を磨き、来るべき戦乱の時代に備えていました。
宣和2年(1120年)、呉玠は、西方で強大な力を誇る西夏との戦いに身を投じていました。国境の最前線は、常に緊張に包まれていました。
ある日のこと、西夏の騎馬隊が、宋の国境の村を襲撃しました。呉玠は、報せを聞くや否や、すぐさま兵を率いて駆けつけました。
「あの村の民は、きっと無事ではあるまい。急げ!」
彼の目は、獲物を狙う鷹のように鋭く、兵士たちもその気迫に圧倒されていました。
村に着くと、そこにはすでに惨状が広がっていました。家々は燃え、人々は怯えきっていました。呉玠は、怒りに震えながら、西夏兵に立ち向かいます。
「貴様ら! よくも罪のない民を……許さん!」
彼は、自ら弓を取り、馬を走らせながら、次々と西夏兵を射抜いていきました。その正確無比な射術は、まるで神業のようでした。さらに、彼は兵士たちを巧みに指揮し、西夏兵を包囲するように命じました。
「右翼は敵を追い詰めろ! 左翼は退路を断て! 一人たりとも逃がすな!」
呉玠の指揮は、的確で、兵士たちは迷うことなく動きました。西夏兵は、彼の予想を超える素早い動きに混乱し、やがて全滅させられました。
戦いが終わると、呉玠は、傷ついた村人たちを自ら手当てし、食料を分け与えました。彼は、ただ戦うだけでなく、民の心を救うことにも心を砕く(こころをくだく)将軍でした。この戦いでの活躍により、呉玠の名は、西方にその名を轟かせ(とどろかせ)、その武勇と才覚を誰もが認めるようになりました。
________________________________
乱世を泳ぐ、張俊の計算
同じ頃、江南で猛威を振るっていた方臘の乱の鎮圧には、もう一人の武将、張俊も参加していました。彼は「ずる賢い」と言われるように、戦場でも、常に損得を計算し、確実に手柄を立てることを考えていました。
方臘軍が立てこもる城は、頑丈で、容易には落ちそうにありませんでした。多くの将軍たちが、正面から攻め入ろうとしましたが、張俊は違いました。彼は、密偵を使い、城の守りの弱点を探らせていました。
「ふむ……この城は、南の門が手薄か。それに、裏手の井戸からは、敵兵が水を汲みに来ているな」
張俊は、にやりと笑い、部下たちに命令しました。「夜陰に乗じて、南門から奇襲を仕掛ける。同時に、井戸に毒を撒け。敵は混乱するだろう」
部下の一人が、不安そうな顔で尋ねました。「将軍、井戸に毒を撒くとは、あまりにも卑怯では……」
張俊は、その部下を一瞥し、冷たく言い放ちました。「戦に、卑怯も何も無い。勝てば官軍だ。無駄な犠牲を出すことなく、勝利を掴むことが、我らの使命だ」
彼の言葉には、一切の迷いがありませんでした。張俊の計画通り、夜になると金軍は南門から侵入し、同時に井戸に毒が撒かれました。方臘軍は、突然の奇襲と、水が飲めないという事態に大混乱に陥り、統制を失いました。
張俊は、混乱する方臘軍を容赦なく攻め立て、見事、城を陥落させました。この功績により、彼はまた一つ、武功を重ね、その地位を確固たるものにしていきました。
呉玠と張俊。同じ方臘の乱の鎮圧に参加しながらも、彼らの戦い方は対照的でした。一人は民を思い、正々堂々(せいせいどうどう)と戦い、もう一人は勝利のためなら手段を選ばない。しかし、どちらも宋の国の混乱の中で、その実力を示し、後に大きな影響を与える存在へと成長していくのでした。
〇
遠く北の地で、金がその勢力を広げている頃、南の宋では、二人の若き才能が、それぞれの運命の渦に巻き込まれていました。一人は、武勇と知略を兼ね備えた女傑、梁紅玉。もう一人は、荒くれ者ながらも、比類なき武功を誇る将軍、韓世忠です。
________________________________
梁紅玉の悲運と覚悟
宣和元年(1119年)。京口の街は、今日もにぎわいを見せていました。しかし、その華やかさの裏で、梁紅玉の心には、深い悲しみが沈んでいました。彼女の祖父と父は、戦の局面を誤ったという罪で、命を落としてしまったのです。武人の家系に生まれた梁紅玉は、幼い頃から武術を学び、将来は父や祖父のように国の役に立つことを夢見ていました。しかし、その夢は、無情にも打ち砕かれてしまいました。
「なぜ……なぜ、このようなことになってしまったのだろう」
梁紅玉は、暗い部屋の隅で、膝を抱え、ただ涙を流していました。しかし、悲しみに暮れる時間も、彼女には許されませんでした。家族の罪を償うため、彼女は京口の営妓となることを強いられたのです。
営妓とは、軍の施設で働く女性たちのことです。美貌と歌舞音曲の才に恵まれた梁紅玉は、その世界で瞬く間に頭角を現しました。彼女の歌声は、人々の心を震わせ、舞は、まるで天女が舞い降りたかのようでした。やがて、彼女の名声は国中に響き渡り、「南に梁紅玉、北に李師師あり」と称えられるほどの「名妓」となりました。
ある日、梁紅玉は、客のいない静かな部屋で、窓の外の月を眺めていました。その瞳には、美しく飾られた営妓としての自分とは裏腹に、決して消えることのない、武人の誇りと、故郷への思いが宿っていました。
「この身は、たとえ汚されようとも、心だけは、決して屈することはない……」
彼女は、静かに誓いました。いつか、必ず、この身を賭して、国のために尽くす日が来ると信じていました。
________________________________
韓世忠、乱を鎮める
宣和2年(1120年)。江南の地では、方臘という男が率いる大きな反乱が起きていました。農民たちの苦しみから始まったこの乱は、瞬く間に勢いを増し、宋の朝廷を震え上がらせていました。
その頃、宋の将軍として名を馳せていた男がいました。彼の名は韓世忠。親分肌で、荒々しい性格の持ち主ですが、戦場での度胸と武勇は、誰もが認めるところでした。
韓世忠は、王淵という将軍の指揮のもと、反乱鎮圧の任務に就いていました。方臘が籠る要塞は、難攻不落と噂されていました。多くの兵士たちが、攻めあぐねていました。
「おい、こんなところで足踏みしていてどうする! 俺たちがやらなきゃ、いつまで経っても終わらねぇぞ!」
韓世忠は、苛立ちながら、部下たちに声をかけました。彼は、自ら先陣を切って敵陣へと突撃していきます。彼の雄叫び(おたけび)は、兵士たちの士気を高め、彼らは韓世忠の後を追って、猛然と攻め上がりました。
激しい戦いが繰り広げられましたが、韓世忠の活躍は目覚ましいものでした。彼は、まるで鬼神のような強さで敵兵をなぎ倒し、ついに方臘の居場所へとたどり着きます。
方臘は、韓世忠の前に立ちはだかりました。
「貴様ごときに、我らの大義が理解できるものか!」方臘は、怒りに満ちた声で叫びます。
韓世忠は、冷ややかに言い放ちました。「大義だと? 民を苦しめるのが大義だというのなら、俺は貴様を許さない。貴様の乱は、ここで終わりだ!」
一騎討ち(いっきうち)の末、韓世忠は方臘を打ち破り、見事捕虜にすることに成功しました。この功績は、瞬く間に宋の朝廷に伝えられ、韓世忠の名は、さらに高まりました。人々は彼を「万人敵」と称賛し、彼の武勇は伝説となりました。
同じ頃、四川の地では、後に「呉氏兄弟」として名を馳せることになる呉玠も、その才能を現し始めていました。兵法に通じ、弓術や馬術に長けていた彼は、西夏との戦いや、方臘の乱の鎮圧で武勇を示し、その頭角を現し始めていたのです。また、張俊も方臘の乱の鎮圧に参加し、武功を重ねていました。
遠く離れた場所で、それぞれの境遇にありながらも、梁紅玉と韓世忠は、まだ見ぬ運命の糸で結ばれていました。彼らが、いつか出会い、共に乱世を駆け抜けることになるなど、この時の彼らは知る由もありませんでした。しかし、その出会いは、もうすぐそこまで迫っていたのです。
〇
時は流れて宣和2年(1120年)。遠く北の地で、新しい王朝が生まれ、その勢力を広げ始めていました。その名は金。そして、その初代皇帝こそ、冷静沈着な完顔阿骨打でした。彼は、長年にわたり中国北部を支配してきた遼という国を滅ぼすため、ある大胆な決断を下します。それは、南の宋王朝と同盟を結ぶことでした。
________________________________
「海上之盟」の裏に秘められた思惑
金の都、上京会寧府の豪華な広間では、重々しい雰囲気が漂っていました。完顔阿骨打は、その中心で堂々(どうどう)と座り、宋からの使者を待っていました。彼の隣には、好戦的な弟、呉乞買が、いかにも不満そうに腕を組んでいました。
やがて、宋の使者が広間に入ってきました。使者は、いかにも尊大な態度で、完顔阿骨打に深々と頭を下げました。
「宋の皇帝陛下より、金国の皇帝陛下へ、ご挨拶申し上げます」
完顔阿骨打は、静かに使者を見つめました。彼の目には、何を考えているのか、誰にも分からない深い光が宿っていました。
「宋は、我ら金国と協力し、長きにわたり宋の北方を脅かしてきた遼を共に滅ぼしたいと願っております」
使者の言葉に、呉乞買は鼻で笑いました。
「ふん。今さら何を言っている。長年、遼に苦しめられてきたくせに、我らが遼を攻め始めた途端に、助けを求めてくるとはな」
使者の顔色が、一瞬にして変わりました。しかし、完顔阿骨打は、そんな呉乞買を制し、静かに口を開きました。
「よかろう。宋の提案、受け入れよう。しかし、一つ条件がある。遼を滅ぼした後、遼がかつて宋から奪った燕雲十六州は、宋に返還する。だが、その代わり、宋は金国に毎年莫大な歳幣を支払うこと。これでどうだ、宋の使者殿」
使者は、顔を紅潮させながら、完顔阿骨打の言葉に驚きました。燕雲十六州は、宋にとって長年の悲願でした。しかし、そのために莫大な金銭を支払うという条件は、決して安くはありません。
「それは……すぐに皇帝陛下にご報告し、お返事いたします」
使者は、震える声で答えました。
使者が去った後、呉乞買は完顔阿骨打に問いかけました。
「兄上。なぜ、あのような条件を? 遼を滅ぼせば、燕雲十六州など、我らのものになるものを。わざわざ宋に返還する必要などないではないか」
完顔阿骨打は、広間の窓から遠くの空を見つめながら、静かに語り始めました。
「呉乞買よ。目先の利益に囚われるな。宋は、遼を滅ぼすためには必要不可欠な存在だ。彼らに燕雲十六州を返すことで、我らの大義を示すことができる。そして、毎年歳幣を支払わせることで、宋を我らの言いなりにできる。それに、宋は、我らの真の力をまだ知らぬ。彼らは、遼を滅ぼした後、我らの次の目標となるだろう」
呉乞買は、完顔阿骨打の言葉に、ハッとしました。彼の冷静沈着な思惑は、常に先の先まで見据えていました。
「兄上は、そこまでお考えでいらっしゃったとは……」
完顔阿骨打は、穏やかな笑みを浮かべました。
「そうだ。我ら金国は、この契機を逃してはならぬ。宋と同盟を結ぶことで、遼は確実に滅びる。そして、その次は……宋の番だ」
こうして、金と宋の間で「海上之盟」と呼ばれる同盟が結ばれました。表面上は、共に遼を滅ぼすための協力関係に見えましたが、完顔阿骨打の心の中には、すでに次の大きな野望が燃え盛っていたのです。この同盟は、後に宋にとって、想像を絶する悲劇の始まりとなることを、この時の宋の者たちはまだ誰も知りませんでした。