抗金名将⑱
〇
静かに雨が降り続く、南宋の都、臨安。かつての都、開封は、未だ金の支配下にあった。
________________________________
再び北伐の夢
隆興元年(1163年)の春、南宋の宮廷では、久しぶりに北伐の機運が高まっていた。宰相の張浚は、孝宗皇帝に進言した。
ちなみ、張浚は、南宋の「中興四将」の一人である「ずる賢い張俊」とは別人である。「張俊→悪い方」「張浚→良い方」で覚えて頂きたい。
「陛下、今こそ失われた国土を取り戻す好機にございます!」
張浚は、熱い眼差しで孝宗を見つめた。孝宗もまた、即位以来、金との和平路線に不満を抱いていた。
「うむ、張浚。そなたの志はよく分かる。しかし、金は強大だ。慎重に事を運ばねばならぬ。」
孝宗は、そう言いながらも、その瞳にはかすかな期待の色が宿っていた。
その頃、南宋の西方を守る、百戦錬磨の将軍、呉璘の陣営にも、張浚からの書簡が届いていた。
「北伐……か。虞允文があれほどの活躍を見せた今。ワシも負けてはいられないのだが。勝算があるだろうか?」
呉璘は、書簡を読み終えると、深いため息をついた。彼は、兄の呉玠と共に、長年、金との最前線で戦い続けてきた。失われた国土を取り戻したいという思いは、誰よりも強かった。しかし、同時に、北伐の難しさも、誰よりも理解していた。
「将軍!」
配下の若い将校が、意気揚々(いきようよう)と天幕に入ってきた。
「ついに、北伐の時が来たのですね! 岳飛将軍の無念を晴らす時が!」
呉璘は、その若者のまっすぐな目に、かすかな寂しさ(さびしさ)を感じた。岳飛の死から20年以上が経っていたが、その志は、今も多くの兵士の心に深く刻まれていた。
「うむ。しかし、戦は甘くはない。我々は、これまでも厳しい戦を経験してきた。決して油断してはならぬぞ。」
呉璘は、静かに言った。彼の言葉には、経験に裏打ちされた重みがあった。
________________________________
苦戦の北伐
張浚の提案により、呉璘もまた、北伐に協力し、兵を動かした。南宋軍は、かつて岳飛が夢見たように、失われた国土を目指して北へと進軍した。
しかし、戦況は、必ずしも南宋の思い通りには進まなかった。金軍の抵抗は激しく、南宋軍は各地で苦戦を強いられた。補給線は伸び、兵士たちの疲労は蓄積されていった。
ある日の夜、呉璘は、月明かりの下、遠く北の空を見上げていた。彼の顔には、疲労と、どこか諦めにも似た表情が浮かんでいた。
そこへ、彼の古くからの戦友である老将が、静かに近づいてきた。
「将軍。おやすみになられてはいかがですか。」
「いや……眠れぬのだ。この北伐が、果たして正しい道なのか、自問自答するばかりでな。せっかく、虞允文が大勝利を勝ち取ったのだ。ここで和議を結ぶという手段もあるだろう」
呉璘は、そう言って、深くため息をついた。
「我らは、確かに善戦しておる。しかし、金の守りは固い。このままでは、兵が無駄に疲弊するばかりではないか。」
老将は、静かに頷いた。彼もまた、同じ思いを抱いていた。
「陛下も張浚宰相も、この北伐に大きな期待を寄せている。しかし、この犠牲に見合うだけの成果が得られるのか……」
呉璘は、拳を握りしめた。彼の心は、板挟み(いたばさみ)になっていた。国のために戦いたいという情熱と、現実の厳しさ。その間で、彼の心は深く揺れ動いていた。
結局、この北伐は、大きな成功を収めることなく終わった。失地回復という夢は、またしても遠のいてしまったのだ。
________________________________
呉璘の死
乾道元年(1165年)。呉璘の北伐の失敗から2年後、呉璘は病の床に伏していた。彼の病室には、見舞いの客がひっきりなしに訪れていた。
虞允文が、静かに病室に入ってきた。呉璘は、やせ細った体で、それでも穏やかな笑みを浮かべた。
「師父……」
虞允文は、声を詰まらせた。
「心配するな。人生とは、ままならぬものよ。兄の呉玠も、私も、長年、この国のために戦ってきた。後悔はない。」
呉璘は、そう言って、遠くを見つめた。彼の脳裏には、兄と過ごした日々、そして金との激しい戦いの記憶が蘇っていた。
「ただ……岳飛将軍のような、真の英雄になれなかったことが、唯一の心残りか……」
彼の声は、弱々しかったが、その言葉には、武人としての誇り(ほこり)と、そして少しの悔しさ(くやしさ)が込められていた。
「師父は、この国の守りの要でございました。この允文が金軍を打ち払ったのも、師父から教わった軍略でございます。師父は誰もが認める、大英雄でございます!」
虞允文は、目に涙を浮かべながら訴えた。
呉璘は、かすかに微笑んだ。
「ありがとう……。弟子からのその言葉、何よりも嬉しいなあ…だが、これからは、若い者たちがこの国を背負っていく。お前たちが、岳飛や韓世忠の志を継いでくれると信じている。どうか、お前のような優れた若い英雄がこの四川を受け継いで守ってくれることを願う。」
彼の目は、希望に満ちていた。
そして、その日の夜、南宋の英雄、呉璘は、静かに息を引き取った。享年64歳。
彼の死は、南宋の人々に深い悲しみをもたらした。しかし、彼が金から四川を守り抜いた功績は、人々の心に深く刻まれていくこととなる。
〇
南宋の都、臨安は、一時期の混乱から立ち直りつつあった。しかし、北方の金との間には、常に緊張の空気が漂っていた。
________________________________
再び迫る金の影
隆興2年(1164年)の春、南宋の朝廷に、再び不穏な知らせが届いた。金の軍勢が、再び淮水を渡り、南宋領へ侵攻を始めたというのだ。
孝宗皇帝は、重臣たちを集め、評議を開いた。
「金が再び攻めてきたか……。誰か、この国難を救う者はいないのか!」
皇帝の声は、焦り(あせり)と怒りに満ちていた。多くの文官や武将が、うつむき、沈黙していた。誰もが、金の恐ろしさを知っていたからだ。
その時、一人の男が進み出た。彼の名は、虞允文。文官でありながら、以前の采石磯の戦いでは、混乱する南宋軍をまとめ上げ、金の大軍を打ち破った経験を持つ。
「陛下! 私めが、この難局に当たらせていただきます!ここで私が立たねば亡き師父に合わせる顔がありません」
虞允文は、毅然とした態度で言い放った。彼の言葉に、朝廷はざわめいた。文官が、戦の指揮を執るということに、誰もが驚きを隠せない。
孝宗は、虞允文の顔をじっと見つめた。采石磯での彼の活躍は、孝宗の耳にも届いていた。
「うむ……虞允文。そなたに任せよう。端明殿学士、そして僉書枢密院事として、呉璘の弟子として、この戦に臨め!」
皇帝の言葉に、周囲の重臣たちは驚きに声を上げた。しかし、虞允文は、ただ静かに頭を垂れた。彼の心には、ただひたすら、国を守るという決意だけがあった。
________________________________
文官から国を動かす重臣へ
虞允文は、期待に応えた。彼は軍を再編し、金軍の侵攻を再び食い止めた。彼の軍事的な才能は、采石磯の戦いだけのものではなかったことを証明したのだ。
乾道元年(1165年)、その功績が認められ、彼はさらに重要な役職に任命された。
「参知政事、そして知枢密院事の職を命ずる!」
孝宗皇帝の声が、厳かに響き渡った。この任命は、虞允文が、もはや一介の文官ではなく、国の政治と軍事を動かす中心人物となったことを意味していた。
虞允文は、皇帝の前に進み出ると、深々と頭を垂れた。
「陛下の御期待に、必ずやお応えいたします。」
彼の言葉には、以前にも増して重みが加わっていた。
________________________________
四川の改革
乾道3年(1167年)、虞允文は、さらに大きな使命を帯びて、遠く四川の地へ赴くことになった。
「資政殿大学士、そして四川宣撫使として、四川の統治を任せる。」
孝宗皇帝は、虞允文に直接、そう告げた。四川は、長らく金との最前線であり、軍事と政治の両面で問題が山積していた。
「英雄だった師父の呉璘様が命懸けで守られたこの故郷の地。私が命懸けで受け継ぐべきだ!」
四川に到着した虞允文は、早速、現状を把握するために動き出した。軍営では兵士たちの訓練が疎かになり、物資の横領も横行していた。地方の役所では、役人たちが私腹を肥やし、民衆は苦しんでいた。
ある日、虞允文は、軍の幹部たちを集めて、厳しい表情で言った。
「諸君! この四川の現状を、どう思っているのだ!」
誰もが、虞允文の剣幕にたじろいだ。
「呉璘殿が亡くなってから、軍規は乱れ、士気は低い。これでは、いつ金が攻めてきても、防ぎきることはできぬぞ!」
一人の将軍が、恐る恐る口を開いた。
「しかし、宣撫使殿。長年の慣習でして、今さら変えるのは……」
「慣習だと!? 慣習が国を滅ぼすのだ!今までこの地は呉璘殿に頼りすぎていた。これからはすべての民が国を守るべき意識を持つのだ」
虞允文は、怒りを露わにした。
「今日より、兵制を改める! 訓練を強化し、規律を徹底する! そして、政治の悪い風習は、すべて取り除く!」
彼の言葉は、まるで雷鳴のように響き渡った。兵士たちは、彼の決意に圧倒された。
それから数年の間、虞允文は、四川の改革に心血を注いだ。彼は兵制を改革し、軍の訓練を強化した。また、腐敗した役人を厳しく罰し、民衆の暮らしを改善するための政策を次々と実行した。その結果、四川は、再び強固な防衛拠点となり、民衆の生活も安定していった。
________________________________
南宋の宰相へ
乾道5年(1169年)、虞允文は、四川での功績を認められ、ついに南宋の最高位の官職に任命されることになった。
「右僕射・同中書門下平章事、そして枢密使を拝命せよ!」
孝宗皇帝の声が、臨安の宮廷に響き渡った。これは、実質的に宰相の地位であり、南宋の全権を任されたに等しい。
虞允文は、一人の文官として、采石磯の戦いで名を上げ、軍事の指揮を執り、地方の改革に尽力し、そしてついに、南宋の最高権力者の座に就いたのだ。
彼の生涯は、文官でありながら武の才能を発揮し、混乱する南宋を支え続けた、まさに波乱に満ちたものだった。彼の存在は、南宋の人々に、希望の光を与え続けた。
〇
物語の幕が閉じようとしていた。南宋と金の終わりなき戦いは、多くの英雄を生み出し、そしてまた、多くの悲劇を繰り返してきた。
________________________________
英雄たちの残影
夕暮れの臨安の街は、今日も穏やかだった。しかし、その静けさの中にも、かつての激しい戦いの記憶が息づいているかのようだった。
酒楼の一角で、老いた語り部が、いつものように人々に囲まれていた。彼の語る物語は、南宋を支えた英雄たちの戦いだった。
「……宗沢将軍は、老いながらも、北伐の夢を諦めなかった。その最期の叫びは、『過河!(河を渡れ!)』であったと伝えられまする!」
語り部の声が響き渡る。聴衆は、皆、息をのんで聞き入っている。
「宗沢様……」と、若者がつぶやいた。「もっと生きていれば、宋の未来は変わっていたのだろうか」
語り部は、ゆっくりと首を横に振った。
「誰にも、それはわからぬ。しかし、宗沢将軍の志は、確かに後の世に受け継がれたのだ。」
________________________________
中興四将の光と影
「そして、忘れてはならぬのが、中興四将と呼ばれる方々じゃ。」
語り部は、扇子を広げた。
「まずは、岳飛将軍。彼は、まさに英雄であった。金を恐れぬ勇気と、民を愛する心。その『岳家軍』の強さは、金の兀朮でさえ恐れたほどじゃ。」
一人の男が、低い声で言った。
「しかし、岳飛将軍は、秦檜によって……」
語り部の顔に、悲しみが浮かんだ。
「うむ。それが、この国の悲しき運命であった。忠義の士が、奸臣の謀略によって殺される。しかし、その死は無駄ではなかった。岳飛将軍の『還我河山(わが国土を返せ)』の叫びは、今も我らの心に響いておる。」
次に、語り部は韓世忠と梁紅玉夫妻に目を向けた。
「韓世忠将軍は、まさに猛将と言うべき武人であった。そして、その妻、梁紅玉殿! 黄天蕩での戦いでは、自ら太鼓を叩き、兵士を鼓舞したという。あの壮絶な戦いを、皆は忘れてはならぬ!」
「梁紅玉様は、本当にすごいお方でしたね!」と、女性が目を輝かせた。
「うむ。夫を支え、自らも戦場に立つ。彼女の胆力は、並大抵のものではなかった。」
語り部は、少し間を置いて、劉光世と張俊について語り始めた。
「劉光世将軍は、確かに臆病な一面もあったかもしれぬ。しかし、高宗皇帝を護衛し、金軍の追撃から逃れ続けた功績は大きい。彼の軍が時間を稼いだおかげで、南宋は滅亡を免れたのだ。」
「それに比べて、張俊将軍は……」と、別の男が顔をしかめた。
語り部は、静かにうなずいた。
「張俊将軍は、ずる賢い一面があった。しかし、彼は乱世を生き抜き、自らの軍を率いて多くの戦果を挙げたのも事実。彼の功績と過ち、どちらも歴史の一部として語り継がれるべきであろう。」
________________________________
四川を守った兄弟と、文官の英雄
「そして、西方、四川の地を守り抜いた呉玠と呉璘の兄弟を忘れてはならぬ。」
語り部は、語り続けた。
「兄の呉玠将軍は、苦労人であった。しかし、その軍事的な才能は天下一品。仙人関や和尚原で金軍を撃退した戦いは、後世の兵法にも影響を与えたほどじゃ。」
「弟の呉璘将軍は、兄の志を受け継ぎ、人情に厚い将軍であった。兄が亡くなった後も、四川の防衛に尽力し、金の侵攻を幾度となく退けた。彼ら兄弟がいなければ、四川は金の手に落ちていたであろう。」
最後に、語り部は、自らの物語を締めくくるかのように、虞允文の名を挙げた。
「そして、我らの時代の英雄、虞允文殿! 彼は文官でありながら、采石磯の戦いで金の大軍を打ち破った。彼の采配がなければ、南宋はあの時、滅びていたやもしれぬ!」
聴衆は、皆、顔を見合わせた。采石磯の戦いは、彼らの記憶に新しい、鮮烈な勝利だった。
「虞允文様は、その後も南宋を支え、宰相として国を導かれた。彼の頭脳と勇気が、この国の未来を切り開いたのだ。」
________________________________
戦いの意味
語り部は、静かに扇子を閉じた。
「我らが南宋と金の戦いは、決して終わったわけではない。しかし、宗沢、岳飛、韓世忠と梁紅玉、呉氏兄弟、劉光世、張俊、そして虞允文といった英雄たちがいたからこそ、我々は今、ここに生きているのだ。」
空を見上げると、夜空には満月が輝いていた。その月は、遠い昔、英雄たちが戦い、そして散っていった戦場をも照らしているのだろう。彼らの戦いは、単なる領土の争いではなかった。それは、誇り(ほこり)を、自由を、そして未来を守るための、尊い(とうとい)戦いだったのだ。
英雄たちの物語は、語り継がれ、人々の心の中で永遠に生き続ける。それは、彼らの血と汗と涙が、この国の礎となっている証だからだ。