抗金名将⑰
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金の国が攻めてくる。その知らせは、まるで嵐の前の静けさのように、南宋の都、臨安に重くのしかかっていた。
紹興31年(1161年)の秋。虞允文は、中書舎人という、本来なら戦場とは縁遠い文官の身でありながら、江淮参賛軍事として采石磯の戦場へと赴任することになった。彼の心には、不安と使命感が入り混じっていた。
赴任先の本陣は、不穏な空気に包まれていた。各地から集められた兵士たちは、金の大軍を前にして、浮足立っていた。そんな中、一人の若者が虞允文の前に進み出た。
「虞允文様、わたくし、韓彦直と申します。父は韓世忠、母は梁紅玉にございます。」
韓彦直は、背筋を伸ばし、まっすぐな目で虞允文を見つめた。その眼差し(まなざし)には、若さゆえのひたむきな覚悟が宿っていた。
虞允文は、その名を聞いて驚いた。あの「中興四将」の一人、勇猛な韓世忠将軍の息子とは。そして、伝説の女傑、梁紅玉の息子でもある。
「うむ、そなたが韓彦直殿か。まさか、このような最前線で出会うとはな。」
虞允文は静かに言った。彼の心には、かつての英雄たちの姿が去来した。
「父上と母上は、常に国のために戦ってこられました。わたくしも、その志を受け継ぎ、この南宋を守り抜く覚悟でございます!」
韓彦直の言葉には、熱い決意が込められていた。しかし、虞允文の表情は険しいままだった。
「覚悟は買う。実は私も、四川の呉璘様の弟子だ。師父の志を受け継ぐ立場にある。貴殿と同じだな。だが、現実は厳しい。金の総大将は迪古乃。あの野心家が自ら兵を率いて攻め入ってきている。兵の数も、我らとは比べ物にならない。」
虞允文は地図を広げ、采石磯の地形を指さした。
「采石磯は長江に面した要衝。ここを突破されれば、南宋の都は危うくなる。しかし、我らの兵はわずか1万8千、騎馬隊も数百騎に過ぎない。対する金は、数えきれないほどの大軍。この劣勢を覆すには、奇策が必要だ。」
韓彦直は、地図に目を落とした。父や母が戦った数々の戦場を思い描き、自らも戦場に立つ覚悟を新たにした。
「ですが、虞允文様。兵の数は劣っていても、わが南宋には、この国を守ろうとする民の心が、そして、わたくしども武人の血が流れております。父と母がそうであったように、わたくしも、決して屈しません!」
韓彦直の声は、本陣に響き渡った。その言葉は、集まっていた他の将兵たちの心にも、静かな波紋を広げた。
虞允文は、韓彦直のまっすぐな瞳をじっと見つめた。文官である自分が、この若者たちの命を預かる。その重責を改めて感じた。
「そうだな……。確かに、数だけが戦を決めるわけではない。わが南宋には、かつて金の大軍を退けた我が師匠や、岳飛将軍。そして、貴殿の両親のような英雄たちがいた。彼らの魂は、きっと我らの中に生きている。」
虞允文は、立ち上がり、韓彦直の肩に手を置いた。
「よし。采石磯の戦いは、我らの知恵と勇気、そして何よりも、この国を守るという強い信念で乗り越える。韓彦直、お前には、そのひたむきな覚悟をもって、我らの兵を鼓舞してもらいたい。」
「はっ!命に代えても!」
韓彦直は力強く答えた。彼の声は、不安に沈んでいた本陣に、一筋の光を灯したようだった。
虞允文は、文官でありながら、その頭脳をフル回転させ、来るべき決戦に備えた。彼は知っていた。この采石磯の戦いが、南宋の未来を決める、最後の砦となることを。
〇薄曇りの空の下、長江の河岸に、金の大軍が押し寄せていた。その数、数十万。対する南宋軍は、わずか1万8千。采石磯の戦場は、まるで巨大な怪物が口を開けているかのようだった。
虞允文は、文官の身でありながら、この南宋の命運をかけた戦いの総指揮を執っていた。彼の隣には、若き将、韓彦直が立つ。彼の父は、あの勇猛な韓世忠、母は伝説の女傑、梁紅玉。その血を受け継ぐ韓彦直の眼差しには、静かな炎が宿っていた。
金軍は、その圧倒的な数を背景に、次々と渡河を試みていた。筏や船が、長江を埋め尽くす。金色の旗が風になびき、鬨の声が轟く。南宋の兵士たちは、その光景に恐怖を覚えずにはいられなかった。
しかし、虞允文は冷静だった。彼は、綿密な作戦を立てていた。
「韓彦直! 準備は整ったか!」
「はっ! いつでも!」
韓彦直の声には、迷いがなかった。
虞允文の指示で、南宋軍の弓兵が一斉に矢を放った。無数の矢が、まるで雨のように金軍に降り注ぐ。金軍の兵士たちは、次々と長江に落ちていく。だが、その数はあまりにも多かった。
「これだけでは、押し切られる……」
兵士の一人が、絶望的な声を上げた。その時、虞允文の采配が動いた。
「火攻めを開始せよ!」
号令と共に、南宋軍が隠し持っていた火薬を装填した弓矢や火器が放たれた。炎をまとった矢が、金軍の船や筏に次々と命中する。木製の船はあっという間に燃え上がり、長江は炎の海と化した。
「ひるむな! 進め! 進むのだ!」
金軍の将兵たちは、炎の中で必死に叫ぶ。だが、燃え盛る船から逃げ惑う兵士たちで、長江は混乱の坩堝と化していた。
その混乱に乗じて、虞允文は、わずかな水軍を投入した。小型の船団が、炎の海の中を駆け巡り、金軍の残存部隊を叩いていく。
「父上! 母上! この采石磯で、わたくしが南宋を守り抜きます!」
韓彦直は、自らも剣を手に取り、前線で兵士たちを鼓舞した。彼の姿は、かつて黄天蕩で金軍と激戦を繰り広げた父と母の姿と重なるようだった。
11月26日から27日にかけての二日間。采石磯の戦いは、まさに死闘だった。金軍は、その圧倒的な数を背景に何度も渡河を試みたが、虞允文の巧みな采配と、韓彦直をはじめとする将兵たちの決死の奮戦によって、そのすべてが阻まれた。
「ここが正念場です。わたしに陽動作戦の許可を!」韓彦直が叫ぶ。
「無茶はするなよ。頼んだぞ!」虞允文が応える。
その頃、迪古乃は苛立ちを隠せなかった。
「なぜ、やつらを倒せない!命懸けで戦え!臆病な兵は殺す!」
そう叫ぶと、金軍の兵たちは狂気の叫び声をあげて突撃する。
そして、ようやく南宋の兵の一角がじわじわと崩れ去る。
「よし、敵が崩れ始めた。突破して敵軍に致命傷を与える!俺に続け!」
迪古乃が疾風のように馬を駆ける。追撃の先頭に立つことで猛将ぶりを味方の兵に見せつけようとしたのだ。
その矢先…突然、左右から伏兵が現れた。
「金の大将とお見受けする。我が名は韓世忠!きさまを殺す漢の名前だ!」
宋軍の壊滅は偽装で、逃げる兵は陽動隊だったのだ。
陽動隊を率いる先頭の将は韓世忠を名乗り、馬上から弓を引いている。
そして、放たれた黒色の矢は迪古乃の右腕に突き刺さる。
「うっ!」
迪古乃が呻いた瞬間に、誰ともなく叫び声があがる。
「万人敵!韓世忠だ!」
「もうだめだ!俺たちは殺される!」
兵たちが悲鳴をあげて逃げ出した。
迪古乃は矢傷の痛みで兵士たちを鼓舞できない。
「貴様は、誰だ!韓世忠なワケがなかろう!バカめ!嘘つきめ!」
と毒づく。
「失礼した!韓世忠の息子!韓彦直見参!父の威を借りる狐となりてこの戦いを制する!」
「卑怯者めが!親の七光りで勝ちやがって!これで終わったと思うなよ!」
負傷した迪古乃は馬首を巡らせて逃げ出した。
そして、ついに金軍は、撤退を開始した。
「勝った……! 我らが勝ったのだ!」
南宋の兵士たちから、歓声が上がった。それは、この数年間、金に苦しめられ続けてきた南宋の民の、心の底からの叫びだった。
虞允文は、長江の向こうに遠ざかる金軍の背中を見つめていた。彼の表情には、安堵と疲労が入り混じっていた。
「見事な戦いでした、虞允文様。」
韓彦直が、深く頭を下げた。
「いや、そなたの奮戦があってこそだ、韓彦直。そして、何よりも、この国を守ろうとする兵士たちの勇気が、我らを勝利に導いたのだ。」
虞允文の言葉は、静かだったが、その声には、確かな重みがあった。
「師父!やりましたぞ。貴方の軍略が金軍を打ち砕いた…」
采石磯の戦いは、南宋の命運を救った。それは、文官が指揮を執り、わずかな兵で大軍を退けた、歴史に残る大勝利だった。そして、この勝利は、金の南進を食い止める、決定打となったのである。
〇
正隆6年(1161年)11月27日の夜。采石磯の戦場で南宋軍に大敗した金の皇帝、迪古乃は、荒れた天幕の中で苛立ちを隠せないでいた。彼の顔は、疲労と怒りで歪んでいた。
「くそっ! たかが文官と親の七光りごときに、この私が敗れるとは!」
迪古乃は、目の前の机を叩きつけた。机の上には、南宋の地図が広げられていたが、もはやその地図は彼の思い通りにはならないことを示していた。
側近の将軍たちが、震える声で報告する。
「陛下……、兵の損害は甚大でございます。このままでは、さらに南進することは叶いません。」
「黙れ! 貴様らなど、何の役にも立たぬ!」
迪古乃は、将軍たちを一喝した。彼は、自らの野望が打ち砕かれたことに、ただただ激しく感情を揺さぶられていた。
南宋を滅ぼし、自らの名を歴史に刻む。それが迪古乃の最大の野望だった。そのために、彼は多くの皇族や重臣を殺し、邪魔な者を排除してきた。しかし、采石磯での敗北は、その野望に大きな亀裂を入れたのだ。
その時、一人の兵士が慌てて天幕に飛び込んできた。
「陛下! 大変な知らせが!」
「何事だ! また敗戦の報告か!」
迪古乃は、怒鳴りつけた。
兵士は震えながら、告げた。
「遼陽にて……完顔雍殿が、帝位に就かれたとの由……」
その言葉を聞いた瞬間、迪古乃の顔から血の気が引いた。完顔雍は、彼の従弟にあたる人物。まさか、自分が遠征している間に、裏切られるとは。
「なんだと……!? 烏禄が!?この私が、皇帝であるこの私が、ここにいるというのに……!!」
烏禄とは、完顔雍の女真名である。完顔雍は、太祖阿骨打の五男である訛里朶の長男として生まれた。
生まれた時から胸に北斗七星の痣があったという伝説があり、騎射に優れていた。仁孝な性格で知られ、葛王に封じられ、兵部尚書や判大宗正事、中京留守などの役職を歴任していた。
完顔雍は、従兄である第4代皇帝の迪古乃とは折り合いが悪かった。迪古乃は猜疑心が強く暴虐な人物であったため、完顔雍は常にその目を欺く必要があった。迪古乃が完顔雍の妻を奪おうとした際、彼女は自殺してしまった。しかし、完顔雍はグッと怒りをこらえて不満を一切見せず、迪古乃の警戒を解くよう努めていたのだ。
そして、完顔雍は、千載一遇のこのチャンスに素早く行動を起こしたのである。
迪古乃は、全身を震わせた。采石磯での大敗に加えて、故郷では新たな皇帝が誕生したという情報が、彼の精神を追い詰めていく。
その知らせは、瞬く間に金軍の内部に広まった。兵士たちの間には、大きな動揺が走る。彼らは、采石磯での敗北で士気が下がり、すでに限界に近い状態だった。そこに、皇帝の座を巡る争いという、新たな混乱の種が蒔かれたのだ。
迪古乃は、部下たちに撤退の指示を出した。しかし、その声には、以前のような力強さはなかった。彼の瞳には、焦り(あせり)と絶望の色が混じり合っていた。
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数日後、南宋遠征の途上にある金軍の宿営地は、冷たい雨に打たれていた。兵士たちは、故郷への思いと、尽きることのない疲労に打ちひしがれていた。
その夜遅く、迪古乃は、天幕の中で酒を飲んでいた。彼の目には、もうかつての輝きはなかった。そこへ、数名の将軍が、静かに天幕に入ってきた。彼らの顔は、皆一様に決意に満ちていた。
「陛下。」
そのうちの一人が、低い声で呼びかけた。
迪古乃は、顔を上げた。その目には、虚な光が宿っていた。
「何だ……? また私を詰りに来たか?」
「いいえ、陛下。我々は……もはや、陛下に従うことはできません。」
将軍の言葉に、迪古乃は目を見開いた。
「何を言うか! 貴様ら、謀反を起こす気か!?」
「これは、金のため、民のため、そして、陛下自身のためでもございます。」
別の将軍が、静かに続けた。
迪古乃は、ふと、これまでのことを思い出した。皇帝となるために、どれほどの血を流してきたか。しかし、その結果が、この惨めな敗北と、部下たちの裏切りだった。
彼の脳裏に、かつて殺害した従兄である熙宗の顔がよぎった。あの時、自らが犯した罪の報を、今受けているのかもしれない。
「私は……私は、金の皇帝だぞ……」
迪古乃の声は、か細く、天幕の中に虚しく響いた。
その言葉を最後に、迪古乃は、部下たちの手によってその生涯を閉じた。享年39歳。采石磯での大敗と、新たな皇帝の即位という情報が、野心に満ちた皇帝の命を奪ったのである。
こうして、金の皇帝、迪古乃の南宋遠征は、悲劇的な結末を迎えた。彼の死は、金の歴史に、新たな時代が訪れることを告げていた。