抗金名将⑬
〇かつて黄河を渡り、故郷を取り戻すことを誓った岳飛は、宰相の秦檜の陰謀によって、無実の罪で捕らえられた。英雄の輝きは、まるで燃え尽きたかのように消え去り、その身は牢獄の中にあった。
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英雄の最期
紹興11年(1142年)12月29日。臨安の牢獄の冷たい石壁に、わずかな光が差し込んでいた。その光は、もうすぐ39歳になる岳飛の、やつれ果てた顔を照らしていた。彼の体は、何度も拷問を受け、傷だらけだったが、その瞳には、まだかすかな光が宿っていた。
牢番が、無言で扉を開けた。そこに立っていたのは、秦檜の忠実な部下である万俟卨だった。彼の顔には、冷酷な笑みが浮かんでいる。
「岳飛殿、お迎えが来ましたぞ」
岳飛は、ゆっくりと立ち上がった。彼の足元はふらついていたが、それでも背筋はまっすぐに伸びていた。
「何の用だ。わしに、何か罪があるというのか?」
万俟卨は、鼻で笑った。
「罪など、どうでもよい。宰相様のご命令だ。そなたは、もはやこの世には不要なのだ」
岳飛は、深いため息をついた。彼は、自分が陥れられていることを十分に理解していた。しかし、最期まで、彼は南宋の高宗への忠義を貫こうとしていた。
「わしは、陛下に背いたことは一度もない。金を退け、失われた国土を回復させることだけを考えてきた」
万俟卨は、耳を貸さなかった。
「その『失われた国土』とやらが、宰相様には邪魔なのだ。和平こそが、この国の安寧をもたらす。そなたのような好戦的な英雄は、不要なのだ」
その言葉に、岳飛の瞳の奥に、怒りの炎が燃え上がった。
「好戦的だと?民が苦しむ姿を見て、どうして戦わずにいられようか!お前たちのような売国奴どもが、この国を滅ぼすのだ!」
万俟卨は、顔色を変えた。
「何を言うか!黙れ!」
岳飛は、力なく笑った。彼の脳裏には、故郷の湯陰県で幼い頃に見た、母の背中に彫られた「尽忠報国」(忠を尽くして国に報いる)の文字が浮かんだ。そして、朱仙鎮で共に戦った兵士たちの顔が、走馬灯のように駆け巡る。
万俟卨が、兵士たちに合図を送った。兵士たちが、岳飛に近づいてくる。
「わが国土を……わが国土を返せ……!」
岳飛の最後の叫びは、まるで魂の叫びのように、冷たい牢獄の中に響き渡った。その声は、やがて来るであろう、彼の死後の世にも、長く語り継がれることになる。
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英雄を悼む(いたむ)者
同じ頃、南宋の都から離れた場所で、親分肌の武将、韓世忠は、岳飛の死の報を聞き、深い悲しみに暮れていた。彼は岳飛と共に「中興四将」と称された盟友であり、その武勇を心から尊敬していた。
韓世忠もまた、秦檜によって兵権を奪われ、自宅に蟄居させられていた。彼のもとには、同じく兵権を奪われた将軍たちが集まり、岳飛の無実を嘆き悲しんでいた。
「まさか……岳飛殿が、あのような形で……」
一人の将軍が、声を震わせながら言った。
韓世忠は、酒を飲み干し、杯を強く卓に叩きつけた。
「秦檜め!あの男は、岳飛殿を、無実の罪で殺したのだ!ありもしない罪をでっち上げて、この国の柱を折ったのだ!」
彼の目は、怒りに燃えていた。
「しかし、韓世忠殿、我々には、もう何もできない……」
別の将軍が、力なく言った。秦檜の権力は絶大であり、彼に逆らうことは、自らの命を危険にさらすことを意味した。
韓世忠は、立ち上がり、窓の外の空を見上げた。
「何もできないだと?いや、できることはある。たとえ、この命を懸けても、岳飛殿の無実を、そして秦檜の悪行を、世に知らしめてやる」
彼は、秦檜のもとへ乗り込み、岳飛の罪状について問いただした。
「岳飛は、何の罪を犯したのだ!謀反を企んだと申すが、その証拠はどこにある!」
秦檜は、涼しい顔で答えた。
「『莫須有』。ひょっとしたら、あったのかもしれない、というだけのことだ」
その言葉に、韓世忠は激しく憤った。
「莫須有だと!そのような理由で、この国の英雄を殺したというのか!秦檜!お前は、後世に必ずその罪を問われることになるぞ!」
「わたしにそのような暴言を吐いて許されるとでも思っているのか?韓世忠どの、今までの働き大義であった。軍権は、全て朝廷に返上してもらおう。これからはゆっくりと養生するがいい。」
「貴様!どこまでも見下げ果てたヤツ!」
韓世忠の言葉は、秦檜には届かなかった。しかし、彼のこの行動は、後世に語り継がれることになる。岳飛の死は、南宋の民の心に深い傷を残したが、彼の忠義と勇気は、決して忘れ去られることはなかった。
〇
南宋の英雄、岳飛が無実の罪で命を落とした頃、北の金の国では、総大将であった兀朮が、その存在感をさらに高めていた。彼は、ただ戦に強いだけでなく、政治の世界でも大きな力を持ち始めていたのだ。
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敵国の頂点へ
紹興12年(1142年)。南宋で岳飛の悲劇が起こったその年、金の都、上京会寧府では、金の皇帝である煕宗が、兀朮の活躍ぶりに目を細めていた。
兀朮は、これまで幾度となく南宋との戦で、金軍を勝利に導いてきた。特に、黄天蕩の戦で南宋の韓世忠に苦戦させられたものの、その後の南宋への大規模な侵攻では、岳飛率いる「岳家軍」と激戦を繰り広げ、結果として南宋の北伐を阻んだ。
「兀朮よ」
煕宗は、玉座から兀朮に声をかけた。兀朮は、一際厳かな雰囲気をまとって、その場に控えていた。
「この度の南宋との和議も、そなたの尽力あってこそだ。もはや軍事的な面だけでなく、政治の才も抜きん出ていると聞く」
兀朮は、深く頭を垂れた。彼の顔には、微かな笑みが浮かんでいた。
「もったいないお言葉にございます、陛下。これもひとえに、陛下の御威光と、我が金の民の団結の賜物でございます」
実際には、岳飛の排除は、南宋の宰相秦檜の陰謀によるものだったが、金の側から見れば、それは自国の軍事的な圧力と、兀朮の政治手腕によって得られた成果と見なされていた。
「うむ。よって、そなたを尚書・左丞相に任じる。さらに、侍中の位も授けよう。そなたの異母兄である斡本と共に、この金の頂点として、国を支えてもらいたい」
煕宗の言葉に、周囲の臣下たちは、どよめいた。尚書・左丞相は、国の政治を取り仕切る最高位の役職であり、侍中もまた、皇帝の側近として重要な役割を果たす。軍事の才だけでなく、政治の才も認められた兀朮は、まさに金の国の未来を背負う存在となったのだ。
「ははっ!陛下の御恩、この身に染み入りまする。必ずや、陛下の御期待に応え、金の国の発展に尽力いたします」
兀朮の言葉には、確固たる自信と、気宇壮大な彼の性格が表れていた。彼は、これまで幾多の戦を経験し、勝利を重ねる中で、自らの実力と、金の国の強さを確信していた。
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頂点に立つ者の葛藤
謁見の後、兀朮は、自室に戻り、静かに目を閉じた。彼の脳裏には、南宋との激しい戦の日々が蘇る。特に、岳飛という敵将の存在は、彼にとって常に大きな脅威であった。
「岳飛……」
兀朮は、静かにその名を呟いた。
そこに、彼の異母兄である、斡本が入ってきた。斡本もまた、金の重鎮として、兀朮と共に国を支えてきた人物である。
「四弟よ、左丞相就任、まことにおめでとう。これで、金の国は、そなたと私の双璧によって、さらに盤石となるだろう」
斡本が、穏やかな口調で言った。
兀朮は、目をゆっくりと開け、斡本を見た。
「兄上……しかし、岳飛を失った南宋は、もはやかつての勢いを失うでしょう。彼ほどの将は、宋には二度と現れぬやもしれぬ」
斡本は、兀朮の言葉に、少し驚いた表情を見せた。
「確かに、岳飛は類稀な将であった。だが、それは我々金にとって、好都合なことではないか? これからは、戦ではなく、政治で南宋を支配する時代となる」
「父上のおっしゃる通りです、叔父上。」
静かに声が響き、部屋の入口に迪古乃が立っていた。まだ若い彼だが、その眼差しには聡明さが宿っている。
「南宋は、かつて我らが父と祖父の代に滅ぼした北宋と同じ轍を踏んでいます。内からの腐敗こそ、最大の敵。秦檜は、その最たる例でしょう」
斡本は、愛息の言葉に頷いた。
「迪古乃の言う通りだ。戦では勝てぬ相手でも、内側から崩れることもある。それが、秦檜のしたことだ。」
兀朮は、静かに首を横に振った。
「戦は、力と力のぶつかり合い。だが、政治は、もっと複雑で、人を欺き、陥れることもある。南宋の宰相秦檜は、岳飛という英雄を、己の保身のために葬った。あのような愚かな真似は、決してしてはならない」
斡本と迪古乃は、兀朮の真剣な眼差しに、言葉を失った。兀朮は、敵国の英雄の死を悼むと同時に、自らの未来、そして金の国の未来に、静かな覚悟を決めていた。軍事の頂点に立ち、今や政治の頂点に立とうとしている兀朮は、かつての好戦的な武将の顔だけでなく、国の未来を真剣に考える、一人の統治者としての顔を持ち始めていたのだ。
〇
南宋の都、臨安は、表面上は落ち着きを取り戻しているように見えた。しかし、宰相の秦檜によって岳飛が殺害されたことで、忠義を重んじる多くの者たちの心には、深い影が落とされていた。ずる賢い性格の張俊は、その影の中で、さらなる出世を企んでいた。
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一時的な栄光
紹興12年(1142年)。岳飛の死から間もない頃、南宋の朝廷では、大きな人事が発表された。秦檜と結びつき、岳飛を陥れることに深く関わった張俊が、国の軍事を司る最高位の一つである枢密使に任じられたのだ。
張俊は、豪華な執務室の椅子に深く腰掛け、満悦の表情で机の上に広げられた辞令を眺めていた。
「フフフ……ついにこの時が来たか」
彼は、独り言のように呟いた。これまで多くの戦を経験し、血生臭い世界を渡り歩いてきた張俊にとって、岳飛という存在は、常に自分の邪魔になるものだった。岳飛が、忠義や清廉を口にするたびに、張俊は、その言葉が、自分の生き方とは正反対であることに苛立ちを感じていたのだ。
そこへ、秦檜の部下である万俟卨が、恭しく入室してきた。
「張枢密、この度の御就任、誠におめでとうございます。これもひとえに、宰相様のお力添えあってのこと。今後とも、宰相様にご忠誠を尽くしてくだされば、張枢密の御栄達は、確固たるものとなるでしょう」
万俟卨の言葉は、ねっとりとして、張俊の耳には心地よく響いた。
「うむ、当然のことだ。秦檜宰相がいなければ、この張俊も、ここまでの地位には上り詰められなかっただろう。岳飛のような愚か者とは違う」
張俊は、嘲笑するように言った。彼は、岳飛が排除されたことで、南宋の軍事は自分の意のままになると信じていた。そして、秦檜との協力関係が、自分をさらなる高みへと押し上げると考えていたのだ。
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権力者の思惑
しかし、張俊の栄光は、長くは続かなかった。
数ヶ月後、再び秦檜の執務室に、張俊が呼び出された。彼は、内心では今回の呼び出しで、さらなる要職への就任を期待していた。しかし、秦檜の顔には、いつもの冷たい笑み(えみ)しか浮かんでいなかった。
「張枢密、日頃の働き、ご苦労である」
秦檜の言葉は、いつも以上に丁寧で、それがかえって張俊の胸に不穏な響きを与えた。
「もったいないお言葉にございます、宰相様。この張俊、国の為、宰相様の為に、粉骨砕身の覚悟でございます」
張俊は、いつものように恭しく答えた。
秦檜は、ゆっくりと立ち上がり、張俊に近づいてきた。
「そうか。しかし、この国の情勢は、今、大きく変わろうとしている。金との和平は進み、これ以上、軍部の力が強大になるのは、我々朝廷にとって、望ましくない」
張俊の顔から、血の気が引いた。秦檜の言葉の意味を、彼はすぐに理解した。
「宰相様……それは、一体……」
秦檜は、冷酷な目で張俊を見下ろした。
「張枢密。これまでの功績は認める。しかし、もはやそなたの『張家軍』のような大規模な軍隊は、この国には必要ない。軍権は、全て朝廷に返上してもらおう」
張俊は、愕然とした。岳飛を排除し、権力の座を手に入れたと思った矢先、今度は自分がその地位を追われる番だというのか。
「しかし、宰相様!わたくしは、宰相様のために、岳飛を……」
張俊が、思わず口を滑らせた。しかし、秦檜は、その言葉に全く動じなかった。
「岳飛の件は、もはや過去のことだ。そなたの役割は、これで終わりだ。これからは、ゆっくりと隠居し、これまでの功績を称えられるがよい」
秦檜は、張俊に言い聞かせるように言った。しかし、その言葉の裏には、冷たい脅しが隠されていた。もし逆らえば、岳飛と同じ運命を辿ることになる、と。
ずる賢い張俊は、それが何を意味するのかを悟った。彼は、秦檜の掌の上で踊らされていたのだ。岳飛を排除するための道具として利用され、その役目が終われば、容赦なく切り捨てられる。
張俊は、何も言えなかった。彼の全身から、力が抜けていく。権力の甘い蜜に誘われ、岳飛という英雄を葬ることに加担した結果が、これだった。
こうして、張俊は、岳飛が獄死したわずか数ヶ月後には、その強大な軍権を完全に剥奪され、表舞台から姿を消すことになった。彼は、岳飛とは違う形で、秦檜の権力の前に屈したのだった。