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抗金名将⑫

深い谷に囲まれた四川しせん要衝ようしょう仙人関せんにんかん南宋なんそうきんの最前線であるこの地で、病にせる一人の将軍がいた。彼の名は呉玠ごかい南宋なんそうの西方を守り抜いてきた「呉氏兄弟ごしきょうだい」の兄である。


紹興しょうこう9年(1139年)の春、仙人関せんにんかんとりでの一室は、静まり返っていた。窓からは、まだ冷たい山風が吹き込み、呉玠ごかいせ細った体をさらに冷やすようだった。彼の傍らには、弟の呉璘ごりんが付きっきりで看病している。その表情には、兄への深い愛情と、不安が入り混じっていた。


兄上あにうえ……どうか、無理をなさらず」


呉璘ごりんが、かゆを差し出しながら声をかけた。呉玠ごかいは、か細い手でそれを押し戻した。


「もうよい……。わしには、時間がない」


呉璘ごりんは、兄の言葉に涙をこらえた。呉玠ごかいは、きん猛攻もうこうを幾度となく退け、この四川しせんの地を守り抜いてきた英雄だった。しかし、長年の激戦と、重い責任が、彼の体をむしばんでいた。まだ47歳という若さなのに、その顔は老人のようにやつれている。


兄上あにうえがいなくなれば、この仙人関せんにんかんを、誰が守るというのですか」


呉璘ごりんの言葉に、呉玠ごかいは静かに目を閉じた。


「……お前がいるではないか。呉璘ごりん。お前には、わし以上の才能がある。人情に厚く、兵士からの信頼も厚い。わしは、ただ厳しく戦場を生き抜いてきただけだ」


呉璘ごりんは首を横に振った。


「そんなことはありません!兄上あにうえ戦術せんじゅつは、誰も真似のできぬものです。和尚原わしょうげんでの勝利も、兄上あにうえがいなければ……」


呉玠ごかいは、苦しげに微笑んだ。


「わしがいなくとも、きんは攻めてくる。南宋なんそうの民を守るためには、誰かがこのとりでに立たねばならぬ。わしが倒れたら、お前が立つ番だ」


その言葉は、呉璘ごりんの胸に重く響いた。彼は兄の言葉の裏に、深い決意と、未来に託す思いを感じ取った。


その日の夜、激しい咳が呉玠ごかいの体を揺さぶった。呉璘ごりんは、兄の背をさすりながら、必死に呼びかけた。


兄上あにうえ!しっかりしてください!」


呉玠ごかいは、かすれた声で言った。


呉璘ごりん……。よく聞け。秦檜しんかいめは、きんとの和議わぎしか考えておらぬ。岳飛がくひ韓世忠かんせいちゅうのような強硬派きょうこうはは、いずれ排除されるだろう。だが、お前は……お前だけは、この四川しせんかなめを、決して明け渡すな……」


彼の言葉は、途切れ途切れだったが、その瞳には、かつての戦場できんの兵士たちを震え上がらせた、強い光が宿っていた。


「わしは……。わしは、南宋なんそうの守り神となる……」


それが、呉玠ごかいの最後の言葉だった。彼の体から力が抜け、その魂は、静かに天へと昇っていった。享年47歳。


兄の死を目の当たりにした呉璘ごりんは、深い悲しみと同時に、計り知れない重圧を感じていた。しかし、同時に、兄の最後の言葉が、彼の胸に熱く響いていた。


兄上あにうえ……。お任せください。この呉璘ごりんが、この四川しせんを、そして南宋なんそうを、必ず守り抜いて見せます!」


呉璘ごりんは、亡き兄の遺志を継ぎ、その軍権ぐんけんと防衛の重責じゅうせきを一身に背負った。彼は兄の卓越した戦術を受け継ぎ、自らの人情深い性格と粘り強さを加えて、四川しせんの地をきんの侵攻から守り続けることを誓った。


呉玠ごかいの死は、南宋なんそうにとって大きな損失であった。しかし、その遺志は、弟の呉璘ごりんによって引き継がれ、四川しせんの守りは、その後も堅固であり続けた。きん猛攻もうこうが続く中、呉氏兄弟ごしきょうだいの築き上げた防衛線は、南宋なんそうの最後のとりでとして、その名を歴史に刻むことになる。


彼の死は、来るべき、さらなる悲劇の時代の始まりを告げる、静かな鐘の音だったのかもしれない。



黄河こうがのほとり、朱仙鎮しゅせんちん。風になびく南宋なんそうの軍旗の下、岳飛がくひは馬上で遠くを見据えていた。彼の視線の先には、北に広がる故郷の地、そして奪われた首都、開封かいほうがあった。時は紹興しょうこう10年(1140年)。きんが再び南宋なんそうへ大々的に攻め入ってきたのだ。


岳飛がくひの率いる「岳家軍がくかぐん」は、これまで幾度となくきん猛攻もうこうを退け、その名を天下にとどろかせてきた。しかし、今回のきんの侵攻は、これまでとは比べ物にならないほどの規模だった。きんの総大将は、気宇壮大きうそうだい皇族こうぞく兀朮ウジュ。彼は河南かなん南部をあっという間に奪回し、南宋なんそう軍を苦しめていた。


「将軍!」


副将の王貴おうきが、馬を寄せてきた。その顔には、疲労と焦りの色が浮かんでいる。


きんの兵は、我々の想像をはるかに超える数です。このままでは、朱仙鎮しゅせんちんも危ういかもしれません」


岳飛がくひは、静かに首を振った。


ひるむな、王貴おうき。今こそ、我々の真価が問われる時だ。長年、我々はきんに故郷を奪われ、民は苦しんできた。この苦しみを終わらせるために、我々はここにいるのだ」


彼の言葉には、揺るぎない決意が込められていた。その視線は、再び北の空へと向けられる。


「この朱仙鎮しゅせんちんを足がかりに、黄河こうがを渡り、失われた国土の全てを奪還する。それが、わしが命を懸けて果たすべき使命だ」


岳飛がくひの言葉に、王貴おうきははっと息を呑んだ。それは、長年、南宋なんそうの将兵たちが夢見てきた、しかし誰もが口にすることをためらっていた「北伐ほくばつ」の宣言だった。


「ガハハハッ!それでこそ我が司令官殿のお言葉であられる。ワシが先陣をきり、兀朮ウジュめの首を跳ね飛ばしますぞ!」


これは、岳飛軍の客将である「牛皋ぎゅうこう」という人物の発言だった。


________________________________


その頃、きんの陣営では、総大将の兀朮ウジュ苛立いらだちを募らせていた。


「何だと!岳飛がくひの奴め、朱仙鎮しゅせんちんに陣を敷いたと申すか!」


伝令の兵士が、恐る恐る頭を垂れている。


「は、はい!しかも、黄河こうがを渡り、直接、我らが本拠地を狙うと息巻いているとか……」


兀朮ウジュは、忌々(いまいま)しげに舌打ちした。


「あの岳飛がくひめ……。奴の『岳家軍がくかぐん』の強さは認めよう。だが、まさかここまで攻め上がってくるとはな。奴は、わしをあなどっているのか!」


そばに控えていた副将が、進言した。


兀朮ウジュ様、ここは一旦、態勢を立て直し、迎え撃つ準備を……」


兀朮ウジュは、机を拳で叩いた。


「馬鹿め!攻められてからでは遅い!南宋なんそうの将軍どもは、腰抜けばかりと思っていたが、岳飛がくひだけは違う。奴の勢いに乗せてはならぬ!この朱仙鎮しゅせんちんで、奴を叩き潰す!」


兀朮ウジュの目は、血走っていた。彼の「気宇壮大きうそうだい」な性格は、時に傲慢ごうまんにも映ったが、その裏には、きんの皇族としての誇り、そして何よりも、岳飛がくひという強敵に対する、並々ならぬ闘志が燃え上がっていた。


________________________________


朱仙鎮しゅせんちんの戦いは、激戦となった。南宋なんそう軍は、岳飛がくひの指揮の下、怒涛どとうの勢いできん軍に迫った。一方、兀朮ウジュ率いるきん軍も、その圧倒的な数を背景に、宋軍を押し返そうと必死だった。


戦場の中心で、岳飛がくひはまさに「武聖ぶせい」と呼ぶにふさわしい活躍を見せていた。彼の剣さばきは神業かみわざのようであり、その指揮は的確てきかくだった。兵士たちは、将軍の姿に鼓舞され、死を恐れずに戦い続けた。


「進め!進め!我らが故郷を取り戻すのだ!」


岳飛がくひ雄叫おたけびが、戦場に響き渡る。きん軍の兵士たちは、次々と倒れていく。


兀朮ウジュは、自らも剣を振るい、前線で指揮をっていた。しかし、岳飛がくひの勢いは、彼の想像をはるかに超えていた。


「くそっ!あの男の底力は、どこまで深いのだ!」


朱仙鎮しゅせんちんでの戦いは、岳飛がくひ軍事的絶頂期ぜっちょうきを象徴する戦いとなった。彼は、きんの主力部隊を打ち破り、河南かなんの地を奪還することに成功したのだ。黄河こうがを渡り、北伐ほくばつを成し遂げるという夢は、もはや手の届くところまで来ていた。


しかし、この輝かしい勝利の裏で、南宋なんそうの朝廷では、宰相さいしょう秦檜しんかいが、冷徹な目で岳飛がくひの動向を監視していた。彼は、きんとの和議わぎを何よりも優先しており、岳飛がくひ北伐ほくばつは、その邪魔にしかならなかった。


戦場の勝利とは裏腹に、岳飛がくひの運命は、すでに暗転し始めていたのかもしれない。彼の忠義と勇気が、やがて彼自身の首を絞めることになることを、この時の彼はまだ知るよしもなかった。



朱仙鎮しゅせんちんの戦いできん軍を打ち破り、失われた故郷の奪還まであと一歩と迫った南宋なんそうの英雄、岳飛がくひ。彼の胸には、かつて師と仰いだ宗沢そうたくが臨終の際に叫んだ「過河!(河を渡れ!)」の言葉がこだましていた。まさに今、その夢がかなうかという時だった。


師匠ししょう!見ておられますか。今一歩です。この岳飛がくひが、師匠に代わって、河を渡りますぞ!」


________________________________


英雄の絶望


紹興しょうこう11年(1141年)の夏、朱仙鎮しゅせんちん南宋なんそう軍の本陣では、勝利の興奮と、北伐ほくばつへの期待が渦巻いていた。兵士たちは、疲労ひろう困憊こんぱいしながらも、故郷を取り戻せるという希望に満ちていた。


しかし、岳飛がくひの心には、不吉な予感が影を落としていた。連日、みやこ臨安りんあんから、撤退を命じる「金牌きんぱい」が届き続けていたのだ。それは皇帝こうてい高宗こうそうからの命令だが、その裏には、宰相さいしょう秦檜しんかいの意図があることを、岳飛がくひは薄々(うすうす)感づいていた。


「将軍!」


副将の王貴おうきが、青い顔で駆け込んできた。その手には、またしても金牌きんぱいが握られている。


「またですか……これで、12通目です!」


岳飛がくひは、黙って金牌きんぱいを受け取った。その文字には、これまでと同じく「直ちに撤退せよ」と書かれていた。彼の顔から、血の気が引いていく。


「何故だ……何故、今なのだ……!」


岳飛がくひは、金牌きんぱいを握りしめ、悔しさのあまり唇をんだ。


「将軍、兵士たちは、このまま攻め進むことを望んでいます!今、撤退すれば、これまでの苦労が水の泡になってしまいます!」


王貴おうきが、目に涙を浮かべて訴えた。兵士たちの間でも、撤退命令に対する不満が渦巻いているのが感じられた。


岳飛がくひは、天を仰いだ。彼の心には、長年抱き続けた北伐ほくばつの夢と、高宗こうそうへの忠義ちゅうぎが激しくぶつかり合っていた。


「わしは、陛下へいかしんだ。陛下の命令には逆らえぬ……しかし、河を渡りたい!河を渡らねばならないのだ!師匠のために!」


その言葉は、絶望に満ちていた。彼の忠義心ちゅうぎしんが、彼自身の、そして南宋なんそうの運命を、大きく狂わせることになることを、岳飛がくひはまだ知らなかった。


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狡猾こうかつ策略さくりゃく


その頃、南宋なんそうの都、臨安りんあんでは、宰相さいしょう秦檜しんかいが、不敵な笑みを浮かべていた。彼の傍らには、もう一人の「中興四将ちゅうこうししょう」の一人、張俊ちょうしゅんが座っている。張俊ちょうしゅんの顔には、どこか落ち着かない様子が見て取れた。


「ふむ、岳飛がくひめも、これで大人しく撤退するであろう」


秦檜しんかいが、茶をすすりながら言った。


「しかし、宰相さいしょう様。岳飛がくひは、あまりにも手柄を立てすぎました。あのまま北伐ほくばつを続ければ、彼の勢力は、我々の想像をはるかに超えるものになっていたでしょう」


張俊ちょうしゅんが、不安げに言った。彼は岳飛がくひの武勇を認めつつも、その勢力拡大を恐れていた。特に、秦檜しんかいが進めるきんとの和議わぎ路線に賛同する張俊ちょうしゅんにとって、徹底抗戦を主張する岳飛がくひは邪魔な存在だった。


秦檜しんかいは、嘲笑ちょうしょうするように言った。


「心配ご無用。北伐ほくばつなど、愚かな夢だ。きんと和平を結び、この南宋なんそう安泰あんたいさせることが、真の賢者の道。それに、英雄えいゆうとは、時に邪魔な存在になるものだ」


張俊ちょうしゅんは、秦檜しんかいの言葉に、ごくりと唾を飲み込んだ。


「では、岳飛がくひをどうなさるおつもりで……」


秦檜しんかいは、冷たい目で張俊ちょうしゅんを見据えた。


「彼は、もはや邪魔だ。和議わぎを進める上で、彼の存在は危険すぎる。そこで、そなたの出番だ、張俊ちょうしゅん


張俊ちょうしゅんは、一瞬たじろいだが、秦檜しんかいの言葉の裏にある、甘い誘惑ゆうわくと、逆らえばどうなるかという恐怖を感じ取った。


「わ、私に、一体何を……」


秦檜しんかいは、にやりと笑った。


岳飛がくひの部下、王貴おうき張憲ちょうけんが、岳飛がくひ謀反むほんを企てているという密告があった。この件について、そなたに調査を命じる。この意味、わかっているな?」


張俊ちょうしゅんの顔から、血の気が引いた。それは、あからさまな「でっちあげ」の命令だった。彼は岳飛がくひ忠義心ちゅうぎしんを知っている。しかし、秦檜しんかいの圧力に逆らえるほどの度胸はなかった。


「……承知いたしました。宰相さいしょう様の命とあれば、この張俊ちょうしゅん、いかようにも」


こうして、岳飛がくひを陥れるための謀略ぼうりゃくが、静かに、しかし着実に進められていった。岳飛がくひ忠臣ちゅうしんである王貴おうき脅迫きょうはくされ、岳飛がくひの部下である張憲ちょうけん謀反むほんを企てたと偽って告発させられた。そして、この偽りの告発が、最終的に岳飛がくひ自身の逮捕へと繋がっていくことになる。


________________________________


英雄の悲劇


朱仙鎮しゅせんちんから撤退した岳飛がくひは、臨安りんあんへと戻る途中、無実の罪を着せられ、捕らえられた。彼の軍事的な絶頂期ぜっちょうきは、あまりにもあっけなく終わりを告げた。英雄えいゆうは、戦場ではなく、裏切りの陰謀いんぼうによって、その輝きを失ったのだ。


この後、岳飛がくひを待ち受けるのは、さらに残酷な運命だった。忠義に生きた英雄の悲劇は、ここから本格的に幕を開けることになる。

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