抗金名将⑩
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反撃の狼煙、岳飛の快進撃
紹興4年(1134年)、南宋の空は、希望の光に包まれていました。これまで金の侵攻に苦しめられてきた宋ですが、ついに反撃の時が来たのです。その中心にいたのは、英雄気質の武将、岳飛でした。彼は「岳家軍」と呼ばれる精鋭部隊を率いて、金人に奪われた領土を取り戻すべく、北へと進軍していました。
襄陽の城壁に、南宋の旗が翻りました。かつて金軍に占領されていたこの地が、ついに岳家軍の手によって奪還されたのです。岳飛は、城壁の上に立ち、眼下に広がる民衆の歓声を聞いていました。
「将軍! 襄陽を奪還いたしました! 民も喜びに沸いております!」
副官が興奮した声で報告します。岳飛は、静かに頷きました。 「うむ。しかし、これは始まりにすぎぬ。失われた国土を全て取り戻すまで、我々の戦いは終わらぬ。」
岳飛の言葉には、強い決意が宿っていました。彼は、襄陽を含む六州を次々と奪還し、長江中流地域を完全に掌握しました。これにより、それまで守りに徹していた宋は、攻める側に回ることができたのです。民衆の間に広がる抗金の士気は、日に日に高まっていきました。
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皇帝の称賛と二人の英雄
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岳飛の快進撃は、都の臨安にも届いていました。皇帝、高宗は、岳飛の武功を高く評価し、彼を宮廷に呼び寄せました。
高宗は、岳飛の前に進み出ると、その手を取り、深く頷きました。 「岳飛よ、そなたの功績は、まことに見事である。襄陽の奪還は、我が宋にとって、大きな転機となるであろう。」
岳飛は、深々と頭を下げました。「陛下の御威光あってのこと。臣はただ、陛下の命に従い、金人を打ち破るのみにございます。」
高宗は、満足そうに微笑みました。 「そなたの忠義、まことに感服いたす。そなたこそ、まさに『中興の武功第一』である!」
その言葉は、岳飛の心に深く響きました。しかし、高宗の称賛は岳飛だけに向けられたものではありませんでした。同じく金との戦いで数々の功績を挙げてきた親分肌の武将、韓世忠もまた、この日、高宗から同じ称賛を受けました。
韓世忠は、かつて妻である梁紅玉と共に黄天蕩の戦いで金軍を苦しめ、その名を天下に轟かせた猛将です。彼は、その武勇と、豪快な人柄で多くの兵士に慕われていました。
ある日、岳飛と韓世忠は、臨安の街で偶然にも出会いました。
「おお、岳将軍ではないか!」韓世忠が、豪快な笑みを浮かべて岳飛に声をかけました。
岳飛は、韓世忠に深々と頭を下げました。「韓将軍。お元気そうで何よりです。」
韓世忠は、岳飛の肩をポンと叩きました。「何を水くさいことを言うか。我らは、同じ志を持つ者同士。今日は一杯やろうではないか!」
二人は酒を酌み交わしながら、これまでの戦いや、これからの宋の未来について語り合いました。
「韓将軍、陛下から『中興の武功第一』とのお言葉を賜り、身に余る光栄にございます。」岳飛が、少し照れたように言いました。
韓世忠は、ニヤリと笑いました。「何を言うか、岳将軍。そなたこそ、真の英雄よ。あの襄陽の奪還は、見事であった。我らも、そなたに負けてはおられぬな。」
岳飛は、韓世忠の言葉に、力強く頷きました。「ええ。我々が力を合わせれば、必ずや金人を打ち破り、失われた国土を回復できるはずです。」
韓世忠は、杯を掲げました。「うむ! この宋の未来のため、我らは命を賭して戦い続けようぞ!」
二人の英雄の誓いは、臨安の夜空に吸い込まれていきました。彼らの活躍は、宋の軍民に大きな希望を与え、抗金の士気を高めることになりました。しかし、この栄光の裏には、やがて来る悲劇の影が忍び寄っていることを、この時の彼らはまだ知りませんでした。
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光と影
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岳飛と韓世忠、二人の武功が称えられ、南宋の士気は最高潮に達しました。しかし、この勝利の影には、和平を望む者たちの存在もまた、確実に存在していました。彼らの存在が、この後の宋の命運を大きく左右することになります。この高揚感の先に待つものは、希望か、それとも絶望か。
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金軍、再び仙人関へ
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紹興4年(1134年)の秋、四川の山々は、静かに冬の訪れを待っていました。しかし、その静けさとは裏腹に、南宋の西の国境では、再び戦いの火花が散ろうとしていました。金の総大将、気宇壮大な兀朮が、大軍を率いて再び仙人関に迫ってきたのです。仙人関は、南宋の西の玄関口とも言える要衝であり、ここを突破されれば、四川全土が危険に晒されることになります。
南宋の武将、呉玠は、苦労人として知られる百戦錬磨の将軍です。彼は、金軍の動きをいち早く察知し、仙人関の防衛準備を進めていました。彼の弟である呉璘もまた、人情派として兵士からの信頼も厚い優秀な武将であり、兄と共に宋の西方を守り抜く決意を固めていました。
呉玠は、軍議を開き、将兵たちに語りかけました。 「金軍が再び仙人関に迫っている。総大将は兀朮。あの猛将が率いる軍だ、油断はできぬ。」
幕僚の一人が、不安げな顔で尋ねました。「将軍、金軍の数は、前回よりも多いと聞きます。それに、兀朮は並の将軍ではありません。我々だけで、本当に守り切れるでしょうか?」
呉玠は、静かに頷きました。「うむ、その通りだ。だが、我々には地の利がある。そして、何よりも、ここにいる兵士たちの忠誠心がある!」
彼の視線は、弟の呉璘に向けられました。 「璘よ、そなたには和尚原を守ってもらいたい。和尚原は仙人関の背後を守る重要な拠点。金軍が仙人関を突破できなくとも、和尚原を攻めてくる可能性は高い。」
呉璘は、兄の言葉に力強く答えました。「兄上! ご安心ください! この呉璘、命に代えても和尚原は守り抜いて見せます!」
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仙人関と和尚原の攻防
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数日後、仙人関に金軍が押し寄せました。その数は、まさに地を覆うほど。兀朮は、馬上から仙人関を睥睨し、高らかに宣言しました。「宋の将兵ども! お前たちに、我が金軍の猛攻は耐えられぬ! 降伏すれば命だけは助けてやろう!」
しかし、仙人関の関上に布陣した呉玠は、その挑発に乗ることはありませんでした。彼は冷静に金軍の動きを観察し、的確な指示を出し続けました。
「第一部隊、弓を構えよ! 敵が射程に入り次第、一斉に射撃開始!」
金軍は、仙人関の堅固な守りに苦戦しました。矢や石が雨のように降り注ぎ、多くの金兵が倒れていきます。しかし、兀朮は諦めませんでした。彼は、仙人関の背後にある和尚原にも部隊を差し向けました。
和尚原では、呉璘が兵士たちを鼓舞していました。 「皆の者! 兄上は仙人関で戦っておられる! 我々がここで敵を食い止めなければ、兄上の苦労が水の泡となるぞ!」
金軍の大将サリカは、和尚原の宋軍に激しく攻め立てました。 「宋の弱兵どもめ! いつまで粘るつもりだ! 貴様らに、我らが進撃を止めることなどできぬわ!」
呉璘は、自らも前線に立ち、兵士たちと共に戦いました。彼は、人情派ゆえに、兵士一人ひとりの命を大切にしながらも、勝利への執念は誰にも負けませんでした。
「たとえ、この身が滅びようとも、和尚原は金軍には渡さぬ! 宋のために、故郷のために、命を賭して戦え!」
呉璘の言葉に、兵士たちは奮い立ち、金軍に決死の抵抗を続けました。
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巧みな連携が生んだ勝利
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仙人関と和尚原での激しい攻防が続く中、呉玠は、ある策を思いつきました。金軍の補給路を断つことです。彼は、密かに精鋭部隊を派遣し、金軍の糧道を襲わせました。
金軍は、仙人関と和尚原の両面作戦で兵力を分散させ、しかも補給を絶たれたことで、次第に疲弊していきました。食料や水が尽き、兵士たちの士気は低下する一方です。
兀朮は、焦りの表情を浮かべました。「なぜだ! なぜ宋軍はこれほどまでに粘るのだ! 補給もままならぬとは…このままでは、兵が持たぬ!」
大将サリカが、顔色を悪くして報告しました。「兀朮様、和尚原の守りは固く、我が軍は大きな損害を出しております。それに、糧道が断たれたため、兵士たちの士気が低下しております。」
兀朮は、歯噛みしました。彼は、撤退を決断するしかありませんでした。
「撤退だ! このままでは全滅してしまう! 一旦引くぞ!」
金軍は、仙人関と和尚原から撤退していきました。呉玠と呉璘の巧みな連携により、金軍は大きな打撃を受け、多くの兵を失ったのです。
戦いが終わり、呉玠と呉璘は、仙人関の関上で再会しました。
「兄上! 大勝利です!」呉璘が、喜びの声を上げました。
呉玠は、静かに頷きました。「うむ、お前のおかげだ、璘。和尚原を堅く守り抜いてくれたからこそ、我々は金軍の補給路を断つことができたのだ。」
呉璘は、兄の言葉に胸を張りました。「兄上のご指示あってのこと。我ら兄弟の連携が、この勝利を呼び込みました!」
この勝利は、呉玠と呉璘の「呉氏兄弟」の絆と、卓越した軍事戦略の勝利でした。彼らは、金軍の猛攻から四川を守り抜き、南宋に大きな希望を与えたのです。しかし、金との戦いは、まだ終わりではありません。これからも、彼らの戦いは続いていくのでした。
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夜の帳が下りた楚州の城壁に、冷たい風が吹き荒れる。紹興5年(1135年)の冬は、例年にも増して厳しいものだった。城内では、金の猛攻にさらされた兵士たちの疲弊が色濃く、誰もが明日をも知れぬ命を覚悟していた。
その中に、ひときわ凛とした女性がいた。南宋の武将、韓世忠の妻、梁紅玉である。彼女は夫と共に、この楚州の防衛戦に参加していた。
「紅玉、休まなくていいのか?」
夫である韓世忠が、心配そうな眼差しで問いかける。彼の顔には、幾日も続いた戦いの疲れが深く刻まれている。
「ええ、大丈夫です。世忠様こそ、少しは休んでくださいな。あなたの体が一番大切なのですから」
梁紅玉は優しく微笑んだが、その瞳の奥には、燃えるような闘志が宿っていた。彼女はただの妻ではない。かつて黄天蕩の戦いで、自ら太鼓を叩いて兵を鼓舞し、金軍を大破させたほどの女傑なのだ。
「そんなことは言っていられない。金の奴らは、またすぐに攻めてくるだろう。それに、食料も残り少ない。このままでは……」
韓世忠の言葉に、梁紅玉は静かに首を振った。
「諦めてはなりません。私たちは、この国の希望なのです。民の、子供たちの未来を、この手で守り抜くのです」
その時、遠くから不気味な太鼓の音が響き渡った。金軍の総大将、兀朮が再び攻めてきたのだ。
「来たか……!」
韓世忠が立ち上がり、剣を握りしめる。梁紅玉もまた、迷うことなく夫の隣に立った。
「皆の者! 決して怯むな! ここを死守するのだ!」
梁紅玉の気迫に満ちた声が、疲れ果てた兵士たちの心に響き渡る。彼女は自ら前線に立ち、弓を取り、次々と敵兵を射抜いていく。その姿は、まさに戦場の女神だった。
しかし、金軍の勢いは凄まじかった。圧倒的な兵力差に加え、連日の戦いで疲弊しきった宋軍は、徐々に追い詰められていく。城壁の一部が崩れ、金兵がなだれ込んできた。
「くそっ!」
韓世忠が歯噛みする。彼もまた、奮戦虚しく、深手を負っていた。
「世忠様! ご無事ですか!?」
梁紅玉が駆け寄る。彼女の頬にも、泥と血が飛び散っていた。
「ああ、何とか……だが、もう、限界かもしれん」
韓世忠の言葉に、梁紅玉は唇を噛みしめた。しかし、彼女は諦めなかった。
「いいえ、まだです! 私たちが、ここで倒れるわけにはいかない!」
梁紅玉は、倒れた兵士の盾を拾い上げ、再び金兵に立ち向かっていく。その眼差しは、死を恐れるどころか、さらなる炎を宿していた。
「梁紅玉!宋軍の戦女神!わが剣にて天に還るがいい!」
金軍の将の一人が、怒号と共に梁紅玉に襲いかかる。剣と剣がぶつかり合う音が、夜空に響き渡った。梁紅玉は巧みに攻撃をかわし、反撃の一撃を繰り出すが、多勢に無勢。ついに、彼女の体は大きく吹き飛ばされた。
「紅玉!!」
韓世忠の叫び声が、虚しく響く。梁紅玉は、血を吐きながらも、ゆっくりと立ち上がろうとした。
「まだ……まだ、私は……戦えますわ」
しかし、彼女の体は、すでに限界を超えていた。意識が朦朧とする中、彼女の脳裏には、夫と共に過ごした日々、そして民の笑顔が浮かんだ。
「世忠様……」
最期の力を振り絞り、彼女は夫の名を呼んだ。その声は、か細く、しかし、確かな愛に満ちていた。
韓世忠は、崩れ落ちる梁紅玉の元へ駆け寄る。彼女の小さな手を取り、その冷たさに打ち震えた。
「紅玉……なぜだ、なぜこんなことに……」
彼の目からは、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちる。愛する妻を、この手で守り切れなかった無念が、彼の心を深く抉る。
「私の……最後の願いです……」
梁紅玉は、かすれた声で言った。
「どうか……どうか、この国の……宋の民を…罪なき女たちを……守ってください……」
彼女の言葉は、途中で途切れた。その瞳から光が失われ、梁紅玉は、夫の腕の中で静かに息を引き取った。
「紅玉うぁぁあああ!!」
韓世忠の絶叫が、血と硝煙に満ちた戦場に響き渡る。彼の咆哮は、金兵を一時的に怯ませるほどだった。愛する妻の死は、彼の心に深い悲しみと、燃えるような怒りを同時に灯した。
その日、楚州の城壁に、一人の女傑が散った。彼女の死は、南宋の民に深い悲しみと同時に、金への憎しみを深く刻み込んだ。そして、その名は、後世に語り継がれる伝説となるのだった。