第53話:「アヤメの記憶」
──“命令は一つ。ノイズ感染体を排除せよ”
その指示を受けたとき、アヤメはすでに「個」としての感情を失っていた。
いや、正確には──切り離したのだ。過去と、記憶と、名前を。
***
「貴女、もとは研究員だったんでしょう?」
ナナが血を吐きながら、それでも笑った。
アヤメは答えない。ただ、冷たい視線で彼女を見下ろす。
「私が“人間”だったかどうかは、もう関係ない」
クロがアヤメに向き直る。
「ノイズを制御できるなら、感染体を“治す”道はないのか?」
「ない」即答だった。
「ノイズとは、ウイルスでも兵器でもない。“言語”だ。存在そのものを上書きし、意味を狂わせる。感染した時点で、“お前たちはもう人間じゃない”」
ミナが倒れたまま、かすれ声で叫ぶ。
「それでも……私は……人を守るって、決めた……!」
その言葉に、アヤメの瞳が一瞬だけ揺れる。
記憶が――脳に焼き付けられた「誰かの声」が、ノイズのように割り込んできた。
──“あなたは、誰を守りたい?”
【FLASHBACK】
「お姉ちゃん、これ、研究に使ってね!」
幼い少女の声。小さな手には、手作りの紙のウイルス模型。
アヤメ――いや、“綾目シズカ”はかつて、ウイルス工学の若き天才と呼ばれた。
だが彼女の研究は、ある日を境に“兵器”に利用された。
それが、Zウイルスの起源だった。
「私は……私が、あの時殺したんだ……」
アヤメのブレードがぐらつく。震える。
クロが、彼女の前に立つ。
「だったら……その“進化”で、誰かを守ってくれよ」
「……!」
「俺たちはまだ、“人間”でいたいんだよ!」
アヤメの視界が、ノイズまみれになる。血の記憶、研究所の爆発、妹の泣き声。
そして──今、彼女を見上げる“人間たち”の姿。
「──制御、解除。強制命令……破棄」
アヤメのアーマーが崩れ、彼女は膝をついた。
「お前たちは、今もなお“人間”だ……」
そして、その瞬間。
巨大な咆哮が響いた。
山の向こうから、黒く歪んだ巨体が現れる。ノイズ進化体――《プロト・ケルベロス》。
完全なるZ進化兵器の“意志”を持った存在。
「来るぞ……本当の終わりが」
【つづく】
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第54話では、いよいよ「プロト・ケルベロス」との激突と、クロたちZ進化者の覚醒。