汚部屋ハンター清美ちゃん
デートの帰り道、清美ちゃんは言った。
「ねぇ、今日は部屋に寄ってもいい?」
付き合って一ヶ月の彼女がこんなセリフを言おうものなら、大抵の男は心の中でガッツポーズするに違いない。
しかし俺は断った。
「ごめん清美ちゃん、それだけは勘弁して」
「どうして?」
「だってほら……俺の部屋、散らかってるって言ったじゃん」
「私、そういうの気にしないって言ったじゃない。少しだけならいいでしょう?」
「申し訳ないけどホント無理なんだよ」
「お願い靴の先だけ! 靴の先だけでいいから入らせて!」
どうしても部屋を見たいと言う清美ちゃんの勢いに俺は負けた。「絶対に靴の先っちょだけしか入らない」という条件で家の前まで来たのだが……。
ドアをほんの少し開けた瞬間、清美ちゃんは隙間から細い体をするりと滑り込ませたのだ。
狭い玄関から、カラランココンッと何かがコンクリートに叩きつけられる音が立て続けに聞こえた。大方、うず高く積まれたガラクタのてっぺんに絶妙なバランスで乗っていた空のペットボトルでも落下したのだろう。
何にせよ、終わった、と俺は思った。
俺と清美ちゃんの出会いは合コンである。
その日の合コンは女子全員のレベルが高かったが、断トツでかわいかったのが清美ちゃんだった。
「ごめんなさい、急に残業入っちゃって」と言いながら申し訳なさそうに現れた彼女を見て、男性陣のテンションは急激に上昇した。
清美ちゃんは一言で言えば清楚系である。一度も染めたことのなさそうな艶のある長い黒髪に透けるような肌、大きな瞳。真っ青なワンピースを嫌味なく着こなしている彼女は、俺のストライクゾーンど真ん中だった。
清美ちゃんは空いていた俺の前の席に座り、「栗田清美です」と名乗った。少し古風だけれど、清流を渡る風みたいな彼女にぴったりな名前だと思った。
俺も自己紹介すると、
「コイツだけはやめといた方がいいよ。部屋が超汚ねぇから」
と隣の友人が茶々を入れた。競争率を下げようとしているに違いない。
「おい!」
俺は友人を睨むが、もう遅い。清美ちゃんの隣の女子が引くのがわかった。
しかしそこに食いついたのが清美ちゃんだった。
「いや、汚いって言ってもゴミ屋敷には程遠くて──」と言い訳を始めた俺を、彼女は遮ったのである。
「私、全然そういうの気にしないから。要するに、細かいことを気にしないタイプってだけでしょ?」
そんなわけで清美ちゃんと俺は連絡先を交換したのである。
俺が住むのは何の変哲もない1Kなのだが、その惨状は実のところ、ゴミ屋敷と呼んでも差し支えないレベルにまで達していた。宅配便の配達員はドアを開けた瞬間、見て見ぬ振りをするかガン見するかのどちらかだ。
まず、玄関とリビングを繋ぐキッチン横の通路は二メートルもないにもかかわらず、もはや通路としての機能を果たしてはいない。
片方が行方不明のサンダルや靴、複数の折れた傘、壁に立て掛けられたいくつもの段ボール、山と積まれた雑誌、謎のレジ袋、ドアの開閉によるわずかな振動にすら簡単に崩される空き缶にペットボトル……積み上げられた物たちが限界を越え少しずつ崩壊していった結果、床は文字通り足の踏み場もない状態となり果てている。
汚れた食器に埋め尽くされた挙句、シンクはもはや死んでいる。収納から溢れ出し行き場をなくした食品の数々、期限のとっくに過ぎたパスタや袋麺、インスタントのカレーや缶詰などが所狭しと乗っているためガスコンロも使用不可。
そんなカオス空間を通り抜けリビングへとたどり着くためには熟練の技を要する。
ゴミの中にも踏むべきポイントがあって、そこを踏み外すと否応なく雪崩に巻き込まれることになる──のだが、もちろんそんなことなど露知らずの清美ちゃんは汚部屋にためらいもなく上がり込み、ガラクタ山脈の標高を根こそぎ低くしながら奥の部屋へと突き進んだ。
仕方なく俺も後を追う。
やっと六畳のリビングへとたどり着いたからと言って、もちろん油断はできない。
床が見えていたのは一体何年前までだろうか。長く閉めっぱなしのカーテンの隙間から差し込む僅かな光が汚部屋の惨状を浮かび上がらせている。
衣服、漫画雑誌、文具、CD、紙袋、レジ袋、書類、ペットボトル、少しでも片付けようと買ってきたが却って空間を圧迫する収納ボックスやカゴ、謎の物体、謎の物体、謎の物体……。
壁から部屋の中央にかけて、なだらかに傾斜しつつ堆積する不要品の数々が小さな盆地を形成している。
天井には蜘蛛の巣のごとく……と言ったら蜘蛛から苦情が来そうなレベルでロープが張り巡らされており、縮れてカピカピになった洗濯物がぶら下がっている。
備え付けのクローゼットは開かずの間と化し、窓際の隅の盛り上がっている部分にはテーブルが隠されている……はずだ、たぶん。ベランダには初期に出た不要品を大量に投げ込んだ記憶があるが、窓が開かないので確かめようがない。
俺は限られた居住空間で、獲物を待ち構えて窪みの中に巣食う蟻地獄のごとく這いつくばって暮らしているのだ。
「掃除しようとは何度も思ったんだけど、どこから手をつければいいのかわからなくて……あ、でも生ゴミが出ないように食事はなるべく外で済ませたり、結構気を遣ってるんだよ」
俺の力ない言い訳を、清美ちゃんは聞いていない様子で部屋を見回している。
彼女はこう吐き捨てるに違いない。最低、もう会うのはやめにしましょう、と。
事実、この汚部屋が原因で俺は過去に三度も女の子に振られていた。
しかし俺の予想とは裏腹に、しばらく立ち尽くした後で振り向いた清美ちゃんの目には、少女漫画みたいに無数の星が輝いていたのである。
「完璧よ……」
恍惚、といってもいい表情だった。
「最高に美しい汚部屋だわ」
汚部屋を「美しい」と形容する人は清美ちゃんが初めてだ。よくわからないながらも俺は「光栄です」と、とりあえずお礼を言っておいた。
すると清美ちゃんは手を合わせて懇願した。
「お願い、全部片付けさせて!」
次の土曜日。
清美ちゃんは朝イチに軽トラックで俺のアパートにやって来た。運転席からピョン、と飛び降りた彼女はマスクに割烹着姿だ。割烹着の下はいつものスカートではなくジャージ、髪は頭の後ろでお団子にまとめてある。
「軽トラ、どっかから借りてきてくれたの?」
「私の車だよ」
マジかよ!
見ると、軽トラの荷台には細々とした掃除道具が乗せられている。雑巾、掃除機、カビ取りスプレー、ハイター、紐、ガムテープ、洗剤、ウェットティッシュ、トイレブラシ、重曹、クレンザー、殺虫剤(スプレータイプと燻煙タイプ)、市のゴミ分別ガイドブック、それに大量の各種ゴミ袋……。
清美ちゃんはその中から軍手とマスクをサッと取り出し俺にくれた。
「さ、始めるよ! 目標は明日の夜までだから急ごう!」
颯爽と俺の部屋へ駆け込んでゆく。完全に彼女の独擅場である。
まず始めたのは明らかにゴミである物体の除去だった。
ゴミをひたすらゴミ袋に詰め込むと、それだけで片付け初日・午前の部が終わってしまったが、部屋の眺めが全然違う。玄関周りはこざっぱりとし、リビングまでスムーズに到達できるようになり、何年かぶりで現れた床の一部には懐かしさすら覚える。窓も開いた。
とてつもなく大きな一歩である。
ここでいったん一休みして昼食でもと思いきや、清美ちゃんは軽トラの荷台にギチギチに詰められた大量のゴミを、いったん環境センターへ捨てに行くと言う。
「待ってる間、お昼ご飯でも食べててね」
助手席まで袋でパンパンなので俺は留守番するしかないのだ。
「え、帰ってきてから一緒に食べようよ」
「私はいいの。片付けだけでお腹いっぱいだから」
特異体質なのだろうか。
帰るまでの時間を有効利用して、燻煙タイプの殺虫剤を焚くのも忘れない清美ちゃんである。慣れた手付きで蓋を取り外し擦ると、もうもうと煙が立ち昇る。
「これで害虫を一網打尽よ!」
煙とゴミの山を背後に立つ姿は、なんだか人間離れして見えた。
彼女の帰りを待つ間、アパートの入り口の段差に腰掛けコンビニのおにぎりを食べながらボーッとしていると、隣人のオッさんが「とうとうゴミに締め出されたか!?」と言って笑いながら通り過ぎた。
午後の部は要る物と要らない物の分別を徹底的にやった。
清美ちゃんが一つ一つ物を持ち上げて、
「いる? いらない?」
と聞くのを、俺が判断して二つに分けていく。
「これは? いる? いらない?」
迷っているとためらいもなく「いらない」の方に分別された。
午後にもう一度環境センターへ行き、夜になったところで初日は終わった。洗濯機の洗濯槽クリーナーを洗濯機にぶち込んでから清美ちゃんは帰って行った。
疲れ果てた俺は片付きつつある部屋の真ん中で夢も見ずに眠った。
次の日。
「おはよう! 今日も最高の片付け日和ね!」
再び割烹着姿で俺の部屋を訪れた清美ちゃんは、まず部屋中の服やシーツを片っ端から洗濯機に放り込んだ。
それから凄まじい勢いで細々とした掃除を始めた。
溜まった埃を掃除する。風呂のカビを取る。シンクの水垢取り。洗面所の詰まりを取る。便器を磨き、外れかけた便座を直す。カーテンを洗う。窓拭き、サッシの掃除。
清美ちゃんは迷いない動作で手際よく進めてゆく。俺は昨日に引き続き、指示を受けただ右往左往するのみである。
彼女の細いけれど力強い手はクーラーの内部、換気扇、電灯のカバーにまで及んだ。
そして午後四時。
「終わったねー!」
深呼吸の後、清美ちゃんは達成感いっぱいに叫び、二日に渡る大仕事の成果を噛み締めるように部屋の中をぐるりと回った。
俺も床に座り込み、改めて部屋を見回した。
塵ひとつない床、ツヤツヤの風呂のタイル、銀色に輝くシンク、設置されたばかりのような便器や洗面台、最低限の家具の上に整然と並ぶ雑誌類、掃き清められたベランダにはためく清潔な洗濯物……。
入居した時よりも断然きれいな俺の部屋。
開け放たれた窓から新鮮な風が吹き抜ける室内で、全ての物たちが差し込む光を誇らしげに反射させている。
「俺の部屋って、こんなに広かったんだな」
がらんとした部屋に俺の声が響く。
「ありがとう清美ちゃん! お礼に今度、何か奢るよ。何がいい?」
だが、清美ちゃんは言いにくそうに「ごめんなさい」と断ったのである。
「汚部屋の住人じゃなくなったあなたとは、もう会えないの」
「は……?」
絶句する俺。
「汚部屋の住人じゃなくなったあなたには、もう魅力を感じないの」
と彼女は言い直した。当然ながら俺は慌てた。
「……じゃ、すぐに作るよ、汚部屋!」
「ダメなの」
彼女はとても悲しそうに目を伏せた。それから遠い目で語り始めた。
「意図して作られた汚部屋は真の汚部屋じゃない、私が求めるのは天然物の汚部屋なの。長い時間をかけて堆積した不用品の数々、床のザラザラ、可愛らしい埃の玉、紅白の水垢。やがて顔を出す青いままの畳や色褪せない床。黒カビ、白カビ、赤カビ。曇って外の見えない窓、正体不明の液体、こびりついた尿石、黒ずみ、排水口のぬめり、換気扇の油汚れ、鏡に張り付いた銀のウロコ、張り巡らされた蜘蛛の糸のきらめき……住人の歴史、物の地層。……それが私が求めるものなの。早く僕たちを掃除して、片付けてって、私を待ってるの、呼んでるの」
清美ちゃんが彼女なりの汚部屋哲学を語り終えた時、俺に何が言えただろうか。
清美ちゃんは行ってしまった。がらんどうの部屋と、呆然と立ちすくむ俺を残して──。
汚部屋である限り、女の子は去って行く。そう悟った俺は心を入れ替えた。
清美ちゃんがやったような完璧な片付けは無理でも、「汚部屋レベル1」くらいを死ぬ気でキープした。
その甲斐もあって、清美ちゃんの後に付き合った彼女と二年の交際の末に結婚し、来年には子どもも生まれる。
そういう意味では俺は清美ちゃんに感謝すべきなのかもしれない。
一度だけ、連絡があった。別れて三年が経ったある日のことだ。
「ねぇ、部屋の具合はどう? もし散らかってるのならまた片付けたいんだけど」
相変わらずの涼風みたいな声で清美ちゃんは尋ねた。
「お陰さまで綺麗さっぱり片付いてるよ」と答えると、続けてこう聞いた。
「じゃあ誰か汚部屋の人、紹介してくれない?」
「いない」とだけ言って俺は通話を終えた。
俺は時々考える。
彼女は今もこの同じ空の下、誰かの汚部屋を輝く瞳で掃除しているのだろうか、と──。