ルクスとアイリス
「お嬢様、久しぶりに森へ行ってはいかがですか?」
ジュリアの言葉で私が傷付いたと思ったのか、マリーが気遣うような素振りを見せる。
“森”とは、屋敷の裏庭の向こうにある小さな森だ。その森までが、クロフォード伯爵邸の敷地になっている。
字が読めなかった頃は、部屋にいるのがあまりに退屈で、よく一人で森に行っていた。
本の一つも読めなければ(そもそも本という存在を認識していなかった)、遊び道具もない。
屋敷を歩けば使用人に陰口を囁かれ、家族には無視される。退屈しのぎに裏庭で草をむしったりしながら遊んでいるうちに、森の中へ入るようになったのだ。
「そうね。久しぶりに行ってみようかしら」
ジュリアにドレスを投げつけたせいで下着姿の私は、クローゼットの中の数少ない洋服の中から動きやすいワンピースを選び、それを着て森へ向かった。
裏庭を突っ切り、いつも通っている小道から森の中に入る。少し歩くと小さな川があって、さらに5分ほど歩くと開けた場所に出る。
大きな岩があって、その岩に登って空を見上げると、ちょうど丸い形に空が切り取られている。天気の良い日は、切り取られた丸い空から陽光が差し込み、そこに光の柱が生まれる。そこが私のお気に入りの場所だ。
だけど、その日は、その光の柱の中に先客がいた。
(誰……?)
柔らかそうな金色の髪が風に揺れる度、纏った光がキラキラと煌めく。
「……ルクス?」
そこにいたのは、私の双子の兄、ルクスだった。
光を弄ぶ金色の髪、透き通るようなペリドットの瞳。
だけど、その顔は青白く生気がない。
痩せ細った体は、少し苦しそうに肩で息をしていた。
「アイリス……?」
名前を呼ばれて、どきりとする。
「私の名前、知ってるんだ……」
口に出すつもりはなかったのに、言葉はするりと零れ落ちた。
その言葉を聞いたルクスは、少しムッとしたように、
「当たり前じゃないか」
と呟く。
(ああ、ルクスってこんな声よね)
私達は双子の兄と妹だが、言葉を交わしたことは殆どない。
ルクスの周りには、母やメイド達がルクスを守るように常に側にいて、私が近付こうものなら、バイ菌でも見るかのような目で見られ遠ざけられたから。
私のお気に入りの場所に陣取ったルクスは、それを知ってか知らずか退く気はないらしい。仕方がないので、近くに小さめの岩を見つけてそこに腰を下ろした。
(お母様やメイドを撒いてくるなんて、なかなかやるじゃない)
だけど、屋敷は今ごろ大騒ぎだろう。
「みんな、血相変えて探してるんじゃない?」
話しかけてみる。
「…………」
ルクスは答えない。
「帰った方がいいんじゃない?」
不機嫌そうに口を尖らせながら、ルクスは独り言のように呟いた。
「……僕だって、ひとりになりたい時があるんだ」
それから、急に早口で喋り始める。
「外は危険だからと部屋に閉じ込められて、いつも監視されてる。熱が出るかもしれないからって、何もさせてもらえない。勉強以外の時間は、ベッドの上か、人形みたいに椅子に座らされているんだ。食べる物も食べる順番も、決めるのはお母様。僕には何ひとつ自由なんてない。君がうらやましいよ」
「うらやましい?」
それは、さすがに聞き捨てならなかった。
「あなたのお皿に載っているのが新鮮な野菜で、私のお皿に載っているのが萎びた野菜でも? 私は家庭教師をつけるのを忘れられて、この間まで字が読めなかった。それでもうらやましいと思う?」
私の言葉を聞いたルクスのペリドットの瞳が、激しく揺らめく。それから、
「……ごめん」
と呟いて肩を落とした。
その時、ルクスに降り注ぐ光の柱が消えた。
雲が空を覆ったのだ。
「雨が降るかもしれない。帰った方がいいわ」
声をかけると、ルクスは言うことを聞かない、重たい体を引きずるようにしてゆっくりと岩から降りた。
それだけで、さっきより呼吸が荒くなっている。それから、乱れた呼吸を整えるように息を吐いた後、私に尋ねた。
「君はどうするの?」
「私はもう少しここにいるわ。今来たばかりだし」
「…………」
何か言いたげな顔のルクスは、また口を尖らせている。
「仕方がないわね。屋敷まで送ってあげる」
それから、先頭を切って歩く私の後を、ルクスが追いかける形で森の小道を歩いた。
ルクスの歩調に合わせて、一歩一歩、時間をかけて歩く。
森から出ると、ルクスを呼ぶ使用人達の声が、屋敷の周辺から聞こえてきた。
「行って」
「一緒に入らないの?」
不思議そうな顔で尋ねるルクスに、漏れ出そうな溜め息をぐっと堪える。
「私と一緒にいるところを見られたら、お母様に何を言われるかわからないわよ」
少しの間考え込んだ後、コクンと頷いたルクスは、私に背を向けて屋敷へ向かっていく。
私はただ、遠ざかっていくルクスの金色の髪が風に揺らめいているのを、身動ぎもせずに眺めていた。
青白い顔、上がる息、重たそうな体。
あの日以来、ルクスの姿を何度も思い返していた。
(あの子も思っているのかな? 自分が病弱になったのは私のせいだって)
ルクスは死ぬ。16歳の夏に、何日も高熱を出して息を引き取る。
後のことは知らない。屋敷を追い出されたから。
クロフォード家の家督は、セリーヌの婚約者が継ぐだろう。
母は死ぬまで嘆き悲しんだかもしれない。
だけど、私には関係のないことだ。
私と家族の縁は、前世のあの日に切れたのだから。
「お前が死ねばよかったのに」
そう言われ、屋敷を追われたあの日に。
(だけど、このままでいいの?)
ルクスと話してしまったからか、いずれ来るルクスの死が、私の心をざわつかせていた。
私は思う。
(何か、私に出来ることはないのだろうか……?)