表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/48

アイリスの決意(後編)

 

 この国の貴族の子供は、早ければ3歳、遅くても5歳までには家庭教師がつけられる。

 学問を教える家庭教師と、マナーを教える家庭教師だ。

 幼い子供は、家庭教師から字の読み書きを教わり、挨拶の仕方、食事の仕方を教わる。

 

 ルクスには、3歳から数人の家庭教師がつけられたが、私には家庭教師がつけられることはなかった。

 子供の家庭教師の手配をするのは母親の役目だ。

 ただし、母は意地悪をしたわけではない。いくらいてもいなくてもどちらでもいい子だとしても、教育を施されていない子供は家門の恥になる。

 母はただ忘れたのだ。

 大切な跡取り息子のルクスに夢中で。私に家庭教師をつけることを、ただ忘れた。

 5歳の時、ルクスが高熱を出し病気がちになったので、それどころではなかったのだろう。

 そして、私が字も読めず、マナーを知らないことを、家族の誰ひとりとして気づかなかった。

 本当に、彼らにとって私は透明人間だったのだ。


 マリーを含め三人の使用人は、いずれも下級メイドで字が読めなかった。

 自分達が当たり前に字を読むことのない世界で生きているのに、字が読めない私に違和感を感じるはずがない。

 贈り物で本を贈られたり、手紙の一つでも貰えれば、気が付いた可能性もある。だけど、そんなことは一度だって起こらなかった。


 そうして私は、字が読めないことを誰にも気づかれないまま、12歳で王立学園に入学した。


 最初の授業。

 その時の絶望を、言葉で表現することができない。

 配られた教科書、先生が黒板に書く文字、私はそれを何一つ理解できなかったのだから。

 そして、私以外の生徒全員がそれを理解していることに、恥ずかしさと恐怖を覚えた。


 それからというもの、私は学園で息を潜めて過ごした。何かささいなきっかけで、字が読めないことが白日のもとに晒されるかもしれない。そんなことには耐えられなかった。

 誰とも話さず、息を殺し、ただ時間が過ぎ去るのを待つ。授業で当てられた時は、呆れた先生が「もういいです」と言うまで、下を向いてやり過ごした。


 そんな私は、クラスメイト達の格好のいじめの的になった。馬鹿にされ、笑われ、物を隠される日々。それでも、下を向いて黙って耐え続けた。どんなにいじめられようとも、字が読めないことを知られることの方が恐ろしかったから。


 だけど、いつまでも隠し通せるはずがない。

 入学してから1ヶ月後の最初のテストで、私が字が読めないことが教師達に知られることになった。


「この齢になるまで、字も読めないとは……」

「いったい、伯爵家ではどんな教育をしているんだか」


 学園に呼び出され、教師たちに責められた母は、怒りから唇を噛み締め、その白く美しい手を震わせていた。

 そうして、入学してからたったの1ヶ月で、私は王立学園を退学になった。貴族の家で、これ程の不名誉はなかった。


 帰りの馬車の中、恥をかかされたと罵倒される覚悟をしていたけれど、母は何も言わなかった。ただ、真っ白い能面のような顔をして、宙を見つめていた。


 今の母は、あの時と同じ顔をしていた。


「家庭教師がついていないとは……、字が読めないとは……、一体どういうことだ!」


 父が母に噛みつく。


「それは……」


 さっきの威勢はどこへやら、母はしどろもどろになりながら目を泳がせた。

 その目が私を捉えると、さっと凍てつくような冷たさを宿す。憎しみと嫌悪が入り混じったいつもの目だ。


(少しも悪いと思ってないのね)


「はぁ……」


 溜息を吐きながら、少し癖のある薄茶色の髪をかき上げる父。それから、私の方を見ることなくこう言った。


「家庭教師は手配する。部屋に戻りなさい」

「わかりました。それでは失礼します」


 前世では、学園を退学になった後、父の手配で家庭教師がつけられた。前世の記憶がある今は、簡単な字の読み書きと基本的なマナーはわかる。

 だけど、本来の10歳のアイリスは、字も読めなければカーテシーもできない。

 

(少しは罪悪感を感じればいいわ)


 わざと下手くそなカーテシーをして、部屋を出た。 

 父も母も私を見ていなかったので、あまり意味はなかったけれど。

 


「アイリスお嬢様!」


 よほど心配だったのか、マリーが迎えに来てくれていた。


「マリー!」

 

 マリーにかけ寄る。

 マリーの可愛らしい丸い顔とアーモンド型の瞳を見ると、途端に緊張が解けていく。

 

 これで、王立学園を退学になる心配はなくなった。学園できちんと学ぶことができる。

 精一杯勉強しよう。そして、入学するまでに遅れを取り戻そう。

 入学したら、良い成績を収めて先生に目をかけて貰おう。先生に目をかけて貰えれば、条件のいい仕事を紹介して貰えるかもしれない。そうすれば、屋敷を追い出された後、マリーひとりを働かせなくてもいい。

 それに、学んだことは絶対に役に立つ。


(今世では、マリーに苦労はさせない。私がマリーを幸せにするからね!)


「マリー、私頑張るわ!」


 マリーは、不思議そうな顔をして首を傾げたけれど、


「はい、お嬢様!」


 と言って、栗色の瞳を三日月にして笑った。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ