アイリスの決意(後編)
この国の貴族の子供は、早ければ3歳、遅くても5歳までには家庭教師がつけられる。
学問を教える家庭教師と、マナーを教える家庭教師だ。
幼い子供は、家庭教師から字の読み書きを教わり、挨拶の仕方、食事の仕方を教わる。
ルクスには、3歳から数人の家庭教師がつけられたが、私には家庭教師がつけられることはなかった。
子供の家庭教師の手配をするのは母親の役目だ。
ただし、母は意地悪をしたわけではない。いくらいてもいなくてもどちらでもいい子だとしても、教育を施されていない子供は家門の恥になる。
母はただ忘れたのだ。
大切な跡取り息子のルクスに夢中で。私に家庭教師をつけることを、ただ忘れた。
5歳の時、ルクスが高熱を出し病気がちになったので、それどころではなかったのだろう。
そして、私が字も読めず、マナーを知らないことを、家族の誰ひとりとして気づかなかった。
本当に、彼らにとって私は透明人間だったのだ。
マリーを含め三人の使用人は、いずれも下級メイドで字が読めなかった。
自分達が当たり前に字を読むことのない世界で生きているのに、字が読めない私に違和感を感じるはずがない。
贈り物で本を贈られたり、手紙の一つでも貰えれば、気が付いた可能性もある。だけど、そんなことは一度だって起こらなかった。
そうして私は、字が読めないことを誰にも気づかれないまま、12歳で王立学園に入学した。
最初の授業。
その時の絶望を、言葉で表現することができない。
配られた教科書、先生が黒板に書く文字、私はそれを何一つ理解できなかったのだから。
そして、私以外の生徒全員がそれを理解していることに、恥ずかしさと恐怖を覚えた。
それからというもの、私は学園で息を潜めて過ごした。何かささいなきっかけで、字が読めないことが白日のもとに晒されるかもしれない。そんなことには耐えられなかった。
誰とも話さず、息を殺し、ただ時間が過ぎ去るのを待つ。授業で当てられた時は、呆れた先生が「もういいです」と言うまで、下を向いてやり過ごした。
そんな私は、クラスメイト達の格好のいじめの的になった。馬鹿にされ、笑われ、物を隠される日々。それでも、下を向いて黙って耐え続けた。どんなにいじめられようとも、字が読めないことを知られることの方が恐ろしかったから。
だけど、いつまでも隠し通せるはずがない。
入学してから1ヶ月後の最初のテストで、私が字が読めないことが教師達に知られることになった。
「この齢になるまで、字も読めないとは……」
「いったい、伯爵家ではどんな教育をしているんだか」
学園に呼び出され、教師たちに責められた母は、怒りから唇を噛み締め、その白く美しい手を震わせていた。
そうして、入学してからたったの1ヶ月で、私は王立学園を退学になった。貴族の家で、これ程の不名誉はなかった。
帰りの馬車の中、恥をかかされたと罵倒される覚悟をしていたけれど、母は何も言わなかった。ただ、真っ白い能面のような顔をして、宙を見つめていた。
今の母は、あの時と同じ顔をしていた。
「家庭教師がついていないとは……、字が読めないとは……、一体どういうことだ!」
父が母に噛みつく。
「それは……」
さっきの威勢はどこへやら、母はしどろもどろになりながら目を泳がせた。
その目が私を捉えると、さっと凍てつくような冷たさを宿す。憎しみと嫌悪が入り混じったいつもの目だ。
(少しも悪いと思ってないのね)
「はぁ……」
溜息を吐きながら、少し癖のある薄茶色の髪をかき上げる父。それから、私の方を見ることなくこう言った。
「家庭教師は手配する。部屋に戻りなさい」
「わかりました。それでは失礼します」
前世では、学園を退学になった後、父の手配で家庭教師がつけられた。前世の記憶がある今は、簡単な字の読み書きと基本的なマナーはわかる。
だけど、本来の10歳のアイリスは、字も読めなければカーテシーもできない。
(少しは罪悪感を感じればいいわ)
わざと下手くそなカーテシーをして、部屋を出た。
父も母も私を見ていなかったので、あまり意味はなかったけれど。
「アイリスお嬢様!」
よほど心配だったのか、マリーが迎えに来てくれていた。
「マリー!」
マリーにかけ寄る。
マリーの可愛らしい丸い顔とアーモンド型の瞳を見ると、途端に緊張が解けていく。
これで、王立学園を退学になる心配はなくなった。学園できちんと学ぶことができる。
精一杯勉強しよう。そして、入学するまでに遅れを取り戻そう。
入学したら、良い成績を収めて先生に目をかけて貰おう。先生に目をかけて貰えれば、条件のいい仕事を紹介して貰えるかもしれない。そうすれば、屋敷を追い出された後、マリーひとりを働かせなくてもいい。
それに、学んだことは絶対に役に立つ。
(今世では、マリーに苦労はさせない。私がマリーを幸せにするからね!)
「マリー、私頑張るわ!」
マリーは、不思議そうな顔をして首を傾げたけれど、
「はい、お嬢様!」
と言って、栗色の瞳を三日月にして笑った。