ルクス・クロフォード 第三章
その日、ガゼボでの授業の合間に、キース先生が言った。
「卵と牛乳はたんぱく質が豊富で、砂糖はエネルギーになります。もちろん野菜も体に良い食べ物ですが、食べ物にはそれぞれ異なった栄養素が含まれているのですよ。大切なのは、バランス良く食べることですから」
キース先生が嘘を教えるはずがない。
ロザンナ・キンバリーの言葉はすべて戯言だったのだ。
(もしかして、この体の不調はそのせいだったんじゃ……?)
僕は、タチアナの言葉を思い出した。
「ルクス様、私はベアール先生の所へ行ってきました。そして聞いたのです。ルクス様は栄養のある食べ物を食べなければならないと」
あの医者も、タチアナも正しかったのだ。
ガゼボでの授業を終えて部屋に戻った僕は、母にその話をした。
「お母様! ロザンナ・キンバリーの言葉は全て戯言です。野菜だけを食べるのは却って体に良くないのです。あらゆる食品をバランス良く食べることが大切で、そうしなければ健康な体は作られないのです」
「ルクス!」
母は金切り声を上げた
「誰に何を吹き込まれたのルクス! ロザンナ先生が戯言を言うわけないでしょう! ロザンナ先生は、国で一番の栄養学士なのよ。ああ、あの子なのね。あの子に何を吹き込まれたの? 信じてはいけないわルクス。あの子は双子の呪いのせいでお前の体が病弱になったのを、ロザンナ先生のせいにしようとしているのよ。なぁんて悪い子なのかしら。まるで悪魔よ!」
そう言った母の海の色の瞳の中で、得体の知れない黒いものがぐるぐると渦巻いていた。
そして、僕は気づく。
母は、とうに正気を失っていたのだ。
(このままではダメだ)
だってアイリス。
僕達は何の力も持たない子供だ。君は、自分の境遇を改善するだけで精一杯だっただろう。
それなのに、君は僕の為に行動を起こしてくれた。
僕を救うために。
その思いに、僕は応えなくてはならない。
(生きなければ……!)
高熱を出して死んだ16歳までには、まだ時間がある。時間がかかってもいい。この現状を変えなくては。
ここは地獄なのかもしれない。いや、地獄だっていい。それでも、僕は抗い、立ち向かうんだ。
生きるために。
最初の目標は、ガゼボまで休まず歩けるようになることだ。
それから、卵パンをいくつか作って持ってきてほしいとキース先生にお願いする。
メイドがティーセットを取りに行っている隙に、キース先生が持ってきてくれた卵パンにかぶりつく。普段食べている草と比べ物にならないくらい美味しいけれど、固いものを食べ慣れていない喉は、気持ちとは裏腹に卵パンを受け付けない。それでも、これが僕の体で栄養になるのだと思い懸命に飲み込む。
残りは、勉強道具に紛れさせて部屋に持ち帰る。小分けにしてポケットに忍ばせ、母やメイドの目を盗みながら口に運んだ。
幸い、キース先生の言葉に乗っかって、「将来立派な当主になる為にも、僕は一人でいることに慣れるべきでしょう」と話すと、監視の目が少し和らいだ。
キース先生の授業がない日は、少しベッドで休むとメイドを下がらせ、それでも部屋の外で見張っているメイドの隙をついて、森へ行った。
舗装されていないけもの道を、一歩一歩踏みしめながら歩く。それから、いつもの岩の上で日の光を目一杯浴びた。
アイリスに会えるかもと期待したが、あの日以来アイリスに会うことはなかった。
数ヶ月過ぎた頃には、休まずにガゼボまで歩けるようになった。息は苦しいが、上がる体温と滲む汗が心地いい。卵パンも楽に喉に入っていく。
あんなに重苦しかった体が少し軽くなり、動くようになる。頭痛が和らぎ、頭の中がすっきりとする。それから、週に二度は出ていた熱が、2週に一度になった。
僕がこの体に舞い戻ってから8ヶ月が過ぎた頃、母が言った。
「今年のあなたの誕生日パーティーは、家族以外の者も何人か呼びましょう」
僕が熱を出す頻度が減ったので、母は上機嫌だ。
「ロザンナ先生の健康法が、やっと効いてきたのね」
なんて、見当違いのことを言っている。
まず、キース先生に渡す招待状を書いた。
それからもう1枚。
僕は、アイリスを呼ぼうと決めていた。
協力者には、姉のセリーヌを選んだ。
セリーヌとアイリスは、最近本を通じて仲良くしているらしい。
それに、「セリーヌ姉様に勉強を教えてもらいたい」と頼むと、「まあ、セリーヌなら」と、母はセリーヌの部屋に行くことを簡単に許した。
セリーヌの部屋に仕立て屋を呼び、アイリスのドレスを仕立て、アクセサリーを選ぶ。もちろん宝石はペリドットだ。ドレスのサイズは、アイリスのメイドのマリーがこっそり教えてくれた。
マリーは、タチアナのように柔らかく笑う人だ。アイリスの側に、マリーのような人がいてくれて良かったと思う。
誕生日パーティー当日。
セリーヌと連れ立って来たアイリスの姿を見ると、母の顔色が変わった。
海の色の瞳が、凍てつくように冷たく光る。
僕の隣の席に座るようアイリスに促すと、母は、そこはアイリスの席ではないと言った。
「いいえ、お母様。ここはアイリスの席です。今日はアイリスの誕生日でもあります。アイリスは僕の双子の妹なんですから」
母は、いつもの耳障りな金切り声を上げた。
その後は散々だった。誕生日パーティーはめちゃくちゃになった。
だけど、分かったことが幾つもあった。
まず、双子の呪いなど存在しないこと。
それから、僕が頻繁に熱を出していたのは、野菜しか食べず、日に当たらなかったせいで、免疫力というものが低下していたせいであること。
ロザンナ・キンバリーはやはり偽物で、その偽物を母に充てがったのは、母の友人サルバドール子爵夫人と、セリーヌの婚約者アラン・サルバドールであったこと。
そして、全ての黒幕が、二番目の姉ジュリアだったこと。ジュリアが僕を憎んでいたこと。僕を殺す計画を立てるほどに。
それからもう一つ。ジュリアが持っていた赤黒い毒薬。16歳の僕を殺したのは、きっとその毒薬だったのだ。
母とジュリアは、療養のため田舎にある領地に行くことになった。
ジュリアを恨む気持ちはあった。ジュリアが計画を遂行しなければ、僕の長い苦しみはなかったのだから。
簡単に許せるものではない。それ程つらい時間だった。
だけど、ジュリアの気持ちは理解できた。
ジュリアは、ただ欲しかったのだ。母からの愛が。
僕にとって重荷でしかなかった母の愛が、ジュリアにとっては絶対だったのだ。
母とジュリアを見送った後、父が言った。
「ルクス。お前にも謝らなければならない。私が何も見ていなかったせいで、お前を長い間苦しませてしまった。すまなかった」
母を追い詰め、僕たちの苦しみに見て見ぬふりをし続けた父。一番罪深いのは、間違いなく父だ。
僕は、許すとも許さないとも言わなかった。
許すと言わないのは、許さないのと同義だ。
僕の気持ちは、父に伝わっただろう。
父はアイリスにも謝った。
アイリスは、「いいんです」とだけ言った。
それは、許すという意味じゃない。
最初からあなた達からの愛など望んでいない。だから謝る必要はない。そういう意味だ。
その言葉の意味も、父に伝わったようだ。
僕の答えとアイリスの答え、どちらが父にとって残酷だっただろう。いずれにしろ、父はこの短い間に、随分老け込んだように見える。
僕は思う。
僕たちはまだ何の力も権限もない子供だ。だから、せいぜい利用してやるのだ。僕がクロフォード伯爵家の当主になるその日まで。
それが、僕の復讐だ。
その後、僕に本物の栄養学士が付いた。
肉、魚、卵、野菜、牛乳、チーズ、海藻。
栄養満点のバランスの良い食事が、毎日テーブルに並ぶ。
始めはおじやだったのが、柔らかめのライスになり、そのうちみんなと同じようにパンが食べられるようになった。
僕が初めて食事を平らげた日、コックは厨房で泣いたらしい。僕が野菜しか食べていないことに、ずっと心を痛めていたようだ。
そして思う。
ここは地獄なんかじゃない。
僕とアイリスは、人生をやり直すために生まれ変わったんだ。
そうして、1年半が過ぎた。
僕とアイリスは、もうすぐ王立学園に入学する。




