ルクス・クロフォード 第二章
言うことを聞かない重たい体。
膜が張ったように働かない頭。
少し動くだけで息苦しくなる呼吸。
10歳の自分に戻ったからといって、死ぬ前と何も変わりはしない。それなら、僕は何のために人生をやり直しているんだろう。
(ああ、そうか。ここは地獄だ。苦しみしかない人生をもう一度繰り返す地獄。僕はその地獄に落ちたんだ)
そうとわかれば、やることは一つだけ。
この苦しみに耐え、ただ刻まれるだけの時間をやり過ごせばいい。死ぬ前と同じように。
母とメイド達に監視されながら、母の言いつけ通りに行動する。食べるものも、食べる順番も母が決める。僕は黙って、味のない新鮮な草を食べるだけ。なんてことはない。僕の人生はずっとこうだったのだ。
唯一の救いは、タチアナが側にいてくれることだ。もしこの地獄で何かを変えられるなら、僕はタチアナを救わなければならない。
勉強の時間は、死ぬ前と変わらず苦ではなかった。
特に好きなのはキース・キャンベル先生の授業。一度習っているので、前回理解しきれなかった部分も理解できる。
キース先生は、体の弱い僕を前にしても、同情や憐れみの表情を決して見せない。出来れば褒めて、出来なければ的確な指摘をするだけ。そして何より嬉しいのは、キース先生が嫌がるので、授業中は母が側にいないことだ。
その代わり、美丈夫のキース先生の目に止まろうと、その日の授業に付き添う権利を、目を吊り上げたメイド達が争っていた。
勉強の時間は好きだったけれど、授業の後は、疲れからかいつも以上に体が怠い。何かに押さえつけられたように重たい体を、やっとの思いで辿り着いたベッドに沈めた。
(大丈夫。いつものことさ)
地獄は死ぬ前と変わらずに、僕に苦しみを与えながら時を刻んだ。
そして、あの人がやって来た。
ベアール先生。
母に出入り禁止にされても、僕を診察しようと屋敷に通い詰めたあの町医者だ。その目は、やはり全てを包み込むように温かかった。
この先何が起こるのか、僕は知っている。
だけど、僕は失敗した。タチアナを救うことができなかった。
あの日と同じようにパンとチーズを持ってきたタチアナは、あの日と同じように母に見つかり、あの日と同じようにメイド達に引きずられ連れて行かれた。そして、二度と姿を現さなかった。
僕は思う。
僕を苦しめる為に存在するこの地獄の中で、何かを変えることなどできないのだ。
時々、母やメイドの目を盗んで、窓から外を眺めた。日に当たるのは体に悪いと、窓辺に立つことすら禁じられていたから。
日光には、体の害になる物質が含まれているらしい。だから、屋敷の外に出ることも許されなかった。それに、外に出て万が一怪我でもすれば、傷口から悪いものが入り大変なことになるのだという。
母はいつも、最悪の事態ばかり考え、恐れていた。
ある日、庭を足早に歩いて行く“あの子”を見つけた。
(アイリス……!)
この終わりのない地獄の中で、アイリスは変わらず家族に無視され、母に憎まれていた。
庭を突っ切ったアイリスは、その先にある小さな森へ入っていった。あんな所へ行ったら、どんな怪我をするかわかったものじゃないのに。
だけど、僕は気になって仕方がなかった。あの先に、何があるんだろうかと。
ある日、チャンスが巡って来た。
ちょうど、母が定期的に屋敷に来る客人に会う為、僕の側を離れた時だった。
ロザンナ・キンバリー。
香水の匂いをプンプンさせて、蛇のような目でいやらしく笑う嫌な女。あれで国一番の栄養学士らしい。
たけど、考えてみたら妙な話だ。
ロザンナ・キンバリーの教え通りにしても、僕の体は一向に良くならないし、それどころか、僕は16歳で死ぬのだから。それなのに、母はロザンナ・キンバリーを盲目的に信じ、僕の体の不調を全て双子の呪いのせいにしているのだ。
(あの女は大嫌いだ)
二人は話し始めると長い。メイドの隙をついて、森へ向かった。
だけど、すぐに後悔した。舗装されていない道のせいで、一歩進むだけで体力が奪われる。森に近づくにつれて、どんどん呼吸が激しくなった。
(引き返したほうがいいだろか……)
けれど、自分の部屋にはどうしても戻りたくなかった。
(あの部屋で、お母様やメイドに一挙手一投足を監視されるのはもううんざりなんだ)
僕は、重たい体を引きずるようにしながら先を進んだ。
森を少し入った所に、開けた場所があった。
そこにある大きな岩の上に、空から光が降り注いている。やっとの思いで岩に登ると、光の柱が僕を包んだ。
(やっぱりそうだ。ここは地獄なんだ。そして、あの光の先に天国があるんだ)
その時、人の気配を感じて体を起こし、そちらを見た。
「アイリス……?」
アイリスが立っていた。
ペリドットの瞳を眩しそうに細めながら、こちらに向かって歩いてくる。
僕と一緒に生まれてきた、僕の片割れ、アイリス・クロフォード。
死ぬ前と違うことが起こり出したのは、それからだ。
ある日の授業の始まりに、キース先生が言った。
「本日から、庭園の奥にあるガゼボで授業をしましょう。もちろん、クロフォード伯爵夫人の許可は得ていますよ。さあ、帽子を被って下さい」
屋敷からガゼボまでの道を歩く。
少し歩くだけで息が上がり、足を一歩前に出すのがつらい。
息苦しさと、思うように進まないもどかしさ。体は鉛のように重怠く、ガゼボまで永遠に辿り着かないような気さえする。
だけど思う。
日の光とは、こんなにも気持ちの良いものなのかと。
ガゼボに着いた後、キース先生に尋ねた。
「どうして急にガゼボで授業をすることになったのですか?」
「提案したのはアイリス様ですよ。屋敷からガゼボまで歩けば、いい運動になると」
(……? 僕が以前と違う行動をして森でアイリスに会ったせいで、アイリスの行動が変わったのか? ……いいや、違う、そうじゃない)
僕は、最近感じていた違和感を思い出した。
死ぬ前の人生で、キース先生がアイリスの家庭教師をしたことなどなかった。それに、僕がこの地獄へ来た直後から、アイリスは食堂に来ていなかった。以前は、食堂での食事を欠かしたことなどなかったのに。
(アイリス……、もしかして君も?)
アイリスがやって来た。
包み紙を開けて、丸くて黄色いものを僕に差し出す。
「これは、卵パンです」
疑問が確信に変わる。
この地獄で、僕が死ぬ前の人生と違う行動をしているのはアイリスとキース先生だけだ。
だけど、キース先生は違う。何故なら、キース先生に違う行動をさせているのはアイリスだからだ。
(アイリス、君もそうなんだね)
それは、強い確信だった。
(アイリス。君は一度死に、人生をやり直しているんだね。僕と同じように)




