アイリスの決意(前編)
(もしかして……。私、あの時死んだ?)
いつのまにか空は茜色に染まり、部屋の中には暗い影が落ちている。
(いやいや、それはないわ。だって、死んだら夢なんて見ないでしょ? 今夢を見てるってことは、私は生きてるってことよ。それより……。夢から覚めたら、あの路地裏にいるってことよね。それはそれで気が重いわ)
小さく伸びをして、夕日が木々の枝葉の間から差し込み、木漏れ日を描く様を眺めた。
(目が覚めたら、住むところと仕事を探さないと)
そんなことを考えていた時、
「アイリスお嬢様」
私を呼ぶマリーの声で我に返る。
温もりのある声で私の名前を呼ぶ唯一の人。
笑うと三日月の形になる、優しげな栗色の瞳が好きだった。
(夢から覚めたら、マリーにはもう会えないのね)
ただ、それだけが悲しかった。
「夕食はどうなさいますか?」
マリーが尋ねる。
(夕食か……)
「部屋で食べるわ。執事長に伝えてちょうだい。それから……。夕食は二人分用意して」
「二人分ですか?」
「そう、二人分。それから、ルーシーとリリカに今日はもう休んでいいと伝えて」
「かしこまりました」
マリーが部屋から出ていくと、私はテーブルのセッティングを始めた。2時間後……。
「まぁ!」
食事を運んできたマリーが、感嘆の声を上げる。
スカーフを敷いて、庭で摘んだ花を飾ったテーブルはなかなかいい感じだ。
「座って、マリー」
「いけません、お嬢様。私は使用人です。お嬢様と一緒にテーブルに着くなんて……」
「マリー。この部屋にいるのは私とあなただけ。咎める人なんていないわ。私はね、あなたと食事がしたいのよ」
(あんな家族とじゃなくってね!)
マリーと向い合せに座って、美味しい料理を頂く。
オムレツにサラダ、パンとチーズに温かなスープ。豪華な食事ではないけれど、私には十分すぎるほどだ。
マリーが笑い、私も笑う。
その夜は、私の人生の中で、最も素晴らしい夜になった。
(といっても、夢の中なんだけどね)
部屋着に着替え、ベッドに入る。マリーにお休みなさいを言い、静かに目を閉じた。
目が覚めたら、この夢は終わっているだろう。
(色々思うところはあるけど……。何はともあれ、なかなかいい夢だったわ)
そして、そのまま眠りについた。
それなのに…………。
「夢じゃなーーーーーーーーーい!?」
目が覚めると、私は10歳のままだった。
夢の中と同じ寝間着にベッド。鏡に映るのは、薄茶色の髪にペリドットの瞳をした少女、アイリス・クロフォード……紛れもなく私だ。
(やっぱり……。あの時、私は死んだんだ)
だとしたら、私はなぜ10歳の姿で生きているのだろうか。
可能性は二つ。
一つ、18歳で死ぬまでの、長い夢を見ていた。
私が自分の人生だと思っていたのは、長い長い夢。
(だけど……。あれは確かに“死”だった)
降り積もる雪、動かない体、遠のく意識、その先にあった完全なる暗闇。
私は死んだ。夢なんかじゃない。
だとしたら、もう一つの可能性。
私は一度死に、10歳の自分に戻ってきた。
こっちの方が余程しっくりくる。
(なんだって、こんなことになったのよ)
ベッドの上で、まだ慣れない、小さな体を丸めて蹲った。
(こんな人生、もう一度やり直すなんて冗談じゃないわよ)
その時、
「お嬢様、大丈夫ですか?」
私の顔を心配そうに覗き込む、マリーの栗色の瞳と視線が混じり合う。
(あぁ、だけど……。マリーが生きてる)
家族にも誰にも愛されなかった私に、ただ一人寄り添い、私のせいで死んでいったマリー。
そのマリーが生きている。人生をやり直すことができる。
(マリーが人生をやり直せるなら……、巻き戻ったことにも意味があるのかもしれない)
だけど、今のままではダメだ。
16歳になったらルクスは死ぬ。それは、きっと変わることのない運命。そして、ルクスが死ねば私は屋敷を追われることになる。
マリーは私をひとりぼっちにはしないだろう。私達はまた一緒に生きていくことになる。
だけど………。
今のままでは、私はまたマリーのお荷物になってしまう。もう一度、マリーを死なせてしまうかもしれない。
(それだけはだめ! そんなことには絶対にさせないんだから!)
私は、ある決意を固めた。
「マリー、お父様が帰ったら知らせてほしいと、執事長に伝えてちょうだい」
「かしこまりました、お嬢様」
父が帰って来たと連絡があったのは、夜の10時を過ぎた頃だった。こんな時間に訪ねても、門前払いされて終いかもしれない。
だけど、私は絶対に父に会わなければならなかった。
父の書斎に着く。細やかな細工が施された豪奢なドア。私はこのドアを一度も開けたことはない。
グランベール伯爵家の当主である父は、王都の西側に広がる領地を治める他に、貿易で財を成していた。
詳しいことはわからないが、暮らしぶりをみるに商売は成功しているのだろう。
ドアをノックしようとした時、中から言い争う声が聞こえてきた。
「あの子のせいで、ルクスは……!」
これは母の声。
「少し落ち着かないか!」
これは父の声。
「あの子が生まれてこなければ、ルクスは健康だったのに! ルクスの健康を奪って生まれてきたあの子が、私は許せないのです」
前世でも、二人のこんな会話を聞いたことがあった。
ちなみに、わけがわからなくなりそうなので、18歳で死んだ過去の人生を前世、10歳で目覚めてからを今世と呼ぶことにした。
(あの時は、ショックを受けて一晩中泣いていたっけ)
だけど、今はもう何も感じない。
どうせ私のことを捨てる人達だ。
この人達に何を言われようが、どう思われようが、もうどうだっていいではないか。
(家族からの愛なんて、もういらないのよ)
ドアをノックして、返事を待たずに部屋に入る。
母は嫌なものでも見るかのように顔を背け、父は眉の一つも動かさなかった。
「こんな時間に何をしている」
名前も知らない使用人にかけるような父の無機質な声は、私の手足を冷たくさせる。
だけど、私は怯まない。
「大事な話があります。お時間を下さい」
「話なら明日聞く」
(そんなこと言って、どうせすぐに忘れるくせに)
こちらを一瞥もしない父を無視して、話を続けた。
「お願いがあります。私に家庭教師をつけて下さい」
「家庭教師?」
父の眉がピクリと動く。私は畳み掛けるように言った。
「私はこれまで家庭教師をつけてもらったことがありません。だから、私は字も読めないし、まともなカーテシーもできません」
「なっ……!」
言葉にならない声を発して、父が母を見た。
母は真っ白い能面のような顔をして、その場に立ち尽くしていた。