ジェレミーの初恋(後編)
「俺のこと知ってる?」と聞くと、
「ごめんなさい」と答える。
彼女のことがますます気に入った。
学園に行くのがあんなに億劫だったのに、朝が来るのが楽しみになった。
コックに友達と食べるから弁当を作ってくれと頼むと、馬鹿でかい弁当箱三段分の弁当を渡された。
(さすがにでか過ぎるだろ!)
だけど、これで昼休みにアイリスを誘う口実ができた。
昼休みはアイリスとケイトと一緒だ。女の子達を撒いてきたルクスがそこに加わる。
ケイトは、ベアールという医者の娘だ。
街で暮らす平民で、ベアール先生を知らないやつはいない。腕がよく、誰にでも優しく、貧しい者からは診療代を受け取らない、そんな立派な医者だ。
(……それよりも、ケイトのあの目)
一度見たら忘れない、特徴的なローズピンク色の瞳。
(まあ、アイリスは気付いていないみたいだし、余計な詮索はよそう)
ある日の昼休み。将来の話になった時、アイリスが言った。
「私、学校を作りたい。その学校では誰でも学べるの。字の読み書きを覚えたい子は誰でも! もちろん大人だっていいの。大人になるまで学ぶ機会がなかったけど、字が読めるようになりたいって人は誰でも入学できる、そんな学校が作りたい!」
「それ、いいよ!」
思わず大きな声が出る。
だけど、アイリスの夢は、俺がずっと実現したいと思っていた事と同じだったから。
アイリスの事が、ますます好きになった。
その日、食堂の前でばったり会ったのは、カスティル公爵家の三男ドミニク・カスティルだった。
黒い髪、黒い瞳、鉄壁の無表情のいけ好かないやつ。
何より、父親のカスティル公爵がろくでもない。
平民どころか自分より身分の低い人間を皆見下し、おまけに金にがめつい。極めつけは、自分に商才のないことに気付いていないことだ。
一度カスティル公爵と取り引きした親父は、二度と関わり合いになりたくないと怒りを顕にしていた。
父親がああだからといって、息子も同じだとは思っていない。
だけど、俺とケイトのタイとリボンに宝石がないと気付いた時のあいつの目。
一瞬で侮蔑の色に染まったその真っ黒い瞳を見た時、思った。所詮こいつもカスティル公爵の血を継いだ、カスティル家の一員なのだと。
(まあ、この先カスティル家と関わることもないだろうし、関係ないか)
そう思っていたのに……。
「君は僕の婚約者だ!」
(……婚約者?)
ルクスに聞いた事があった。婚約者はいるのかと。
ルクスはいないと答えた。
後継ぎで長男のルクスに婚約者がいないのだから、当然アイリスにもいないものと思い込んでいた。
貴族の世界は身分が全てだ。
ろくでもない人間が当主だろうと、カスティル公爵家はこの国で王族の次に身分の高い大貴族。
平民の俺に勝算がないことは、痛い程わかっていた。
それでも諦め切れずに、最後のチャンスと心に決めて、ダンスパーティーのパートナーを申し込むつもりだった。
だけどアイリスは、すでにあいつからの黄色い薔薇を受け取っていた。
行き場を失くした俺の黄色い薔薇は、俺の手でぐしゃぐしゃに握り潰されて、花壇に捨てられた。
放課後、思い直して花壇を見に行くと、潰れた黄色い薔薇はもう何処にもなかった。
俺の初恋は、そこで終わる筈だった。
「婚約破棄裁判!?」
アイリスとドミニク・カスティルの婚約破棄裁判が行われることを知ったのは、学園祭最終日の朝だった。
ダンスホールの真ん中で、貴族たちの好奇の目に晒されながら、ドミニク・カスティルと並び立っているアイリス。いっそこのまま、アイリスを攫って、何処か遠くへ行ってしまいたいとさえ思った。
落ち着きのない俺を見て、ルクスが言った。
「大丈夫だ。ジェレミー」
その時、父兄席で、「宜しいですか?」と声を上げる女性がいた。
アイリスと同じ薄茶色の髪をしている。
ルクスが言った。
「あれ、こないだ話した僕たちの上の姉さん。作戦は万全だ。心配ない。アイリスは大丈夫だ」
きっぱりとそう言い放ったルクスを信じて、俺は裁判を見守った。
アイリスとドミニク・カスティルの婚約は、アレクサンドル王子の名の下で破棄された。アイリスは屈辱に耐え、乗り越えたのだ。
ホッとするも束の間、婦人達のこんな声が聞こえてきた。
「聡明なセリーヌ様や美しいジュリア様のことは知っていたけれど、三女があれほど健気で真面目なお嬢様だったとは。うちの嫁に欲しいくらいだわ」
「お顔立ちも、ジュリア様のように派手ではないけれど整っているものね。ああいう子は将来美人になるのよ」
「それに、カスティル家の借金の為にポンと500億ゴールドも出すなんて、さすがはクロフォード家。この騒動が収まったら、うちの二男との婚約を打診しようかしら」
そうだ。アイリスは貴族令嬢だ。
いくら平民の俺やケイトに屈託なく接してくれていても、それは揺るぎない事実だ。
それに、婚約破棄裁判は大騒動に発展したけれど、アイリスの名誉に傷はつかなかった。新しい婚約者がすぐに決まってしまうかもしれない。
近づいてきたルクスが、耳元で囁く。
「ぼーっとしてていいのかよ。今は地味だけど、アイリスは将来絶対に綺麗になるぜ」
「……わかってる」
わかってる。
それに、アイリスは今も綺麗だ。
その日、俺はある決心をする。
そしてその夜、親父の書斎のドアをノックした。
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