アイリス・クローフォードの一生
男爵令嬢だった母マリアンヌは、18歳の時、伯爵位を継いだばかりの父、ケイン・クロフォードと結婚した。
妻となった貴族令嬢の務めは、跡取りとなる男子を産むこと。
半年後、母は妊娠したが、生まれてきたのは女の子だった。
「次こそは男子を」
そんな周囲からのプレッシャーに耐えながら、1年後、母は二度目の出産をしたが、生まれてきたのはまたしても女の子だった。
それからの途方もない時間を、母がどんな思いで生きてきたか、私には計り知ることができない。
きっと、母にとって悪夢のような日々だったろう。
次に母が妊娠するまで、6年という月日が経っていた。母のお腹にいたのは双子の胎児だった。
産婆が最初に取り上げた赤子が男子だとわかった時、父は喜びの涙を流し、母は悪夢から解放された。
父は、その子に『ルクス』という名前を付けた。
大切な跡取り息子。クロフォード家の『光』。
そしてこの世界には、光があれば影がある。
もうひとりの赤子を取り上げた産婆が、「女の子です」と言った瞬間、そこにいた誰もがその子のことを忘れた。
それが、私、アイリス・クロフォードだ。
大切な跡取り息子のついでに生まれた子。
生まれても生まれなくてもどちらでもよかった子。
そんな私に与えられたのは、家族からの無関心と、家族から見向きもされない子供に対する使用人たちの蔑みだった。
それでも、この時までが、私の人生で最も平和な時間だったのかもしれない。
5歳を過ぎた頃、高熱を出し何日も寝込んだことをきっかけに、ルクスは頻繁に熱を出し、床に伏せるようになった。
母の悪夢が、再び始まったのだ。
この国では、双子は縁起が悪いと言われていた。
『双子の呪い』
双子に生まれると、両方、もしくはどちらかが、病弱になると言い伝えられていたのだ。
そんな言い伝えを信じた母は、ルクスが病弱になったのは私のせいだと決めつけ、私を憎むようになった。
表立って虐待したり、責め立てたり、そんなことはしない。そんなことは、貴族令嬢として生きてきた母の矜持が許さない。
母が私にしたことは、徹底的な無視。
それは、父の無関心とは違う。
私を憎み、嫌悪し、その存在を否定するためのもの。
そして、私を見る母の恐ろしい程に冷たい目。
幼い頃は、なぜ自分だけが母に愛されないのか理解できなかった。
ルクスにするように頭を撫でて欲しい。
姉達と同じように話しかけて欲しい。
一度、勇気を出して、食堂で母に話しかけたことがある。母や家族に会えるのは、一日二度の食堂での食事の時間だけだったから。
けれど、何度話しかけても無視された挙げ句、
「食事時に騒ぎ立てるなんて、分別のない獣以下の者がいるようね」
と、まるで関係のない方角に目を向けながら、独り言のように呟やかれただけだった。
こんなこともあった。
雷鳴が絶えず鳴り響く夜、その轟音のあまりの恐ろしさに、自分の部屋を出た私は、母の姿を探してルクスの部屋に向かった。母がルクスの部屋にいることはわかっていた。
昼間よりも更に暗く冷たい廊下を歩いて母の元まで向かったのは、ただ、大丈夫と頭を撫でてほしかったから。
ルクスの部屋の前にいた母にかけ寄った私は、その腕に力いっぱい振り払われ、その場に尻もちをついた。
凍てつくように冷たい目で私を見下ろした母は、
「服が汚れてしまったわ。着替えないといけないわね」
と、私が触れた袖を払う仕草をしながら、誰に言うともなく呟いた。そして、探しにきたマリーに抱きかかえられ部屋に戻った私は、一晩中声を殺して泣き続けたのだった。
こんなことは何度となくあった。それでも、どうしても諦めることが出来なかった。
母からの愛だけは、どうしても。
いつかルクスが健康を取り戻せば、母は私を愛してくれるだろう。
そう願いながら、日々を耐えた。
だけど、私のその願いは叶うことはなかった。
16歳の夏、ルクスは死んだ。
「おまえが死ねばよかったのに!」
それが、最後に聞いた母の言葉。
茹だるような暑さの夏だった。
強い雨が何日も降り続いていた。
まるで、永遠に止むことがないみたいに。
高熱を出したルクスは、下がらない熱に何日もうなされ、そのまま息を引き取った。
母は半狂乱になり、私をその身ひとつで屋敷から追い出した。
「お嬢様をひとりにはしません」
そう言って、私を追いかけてきたマリー。そんなマリーと、クロフォード家の領地の街の外れに、小さな部屋を借りて暮らし始めた。
私を養うために、マリーは朝から晩まで働いた。昼は食堂の給仕、夜は居酒屋の皿洗い。
私は、ただの役立たずだった。
マリーひとりを働かせ、全てをマリーに押し付けて、私がやっていたことといえば、父が私を迎えに来てくれるのをただ待っていることだけ。
(きっと、お母様の気持ちが落ち着くのを待っているんだ。お母様の気持ちが落ち着いたら、すぐに迎えに来てくれるはず)
そうしている間にも、休みなく働き、自分よりも私の食事を優先していたマリーは、流行り病に罹りあっけなく死んだ。
心底後悔した。
なんて愚かで、なんて無知だったんだろう。
だけど、どんなに嘆き悲しんでも、死んだ人間は帰ってこない。
そして私には、後悔し嘆き悲しむ時間さえなかった。家賃を払えず部屋を追い出され、食べ物を買うお金すらなかったから。
結局、父は迎えに来なかった。伯爵家の力を以てすれば、領地内にいる私を探すことなど造作もないことだったろう。
きっと、始めから探してもいなかったのだ。
このまま死ぬのはあまりに悔しかった。
今死ねば、私を生かすために身を粉にして働き、死んでいったマリーに申し訳が立たない。
「生きなければ……」
何日も街をさまよった末、住み込みの宿屋の仕事にありつく事ができた私は、そこで下働きの女中として働き始めた。
最初は仕事ができなくていじめられた。必死に仕事を覚えて人並みにできるようになると、今度は喋り方が気取っている、自分たちを見下すような態度が気に入らないといじめられた。
つねられる、叩かれる、そんなことは日常茶飯事。一番つらいのは、支給される食事や暖炉の薪を隠されること。
そこでのいじめは、死に直結していた。やられっぱなしでは生きてはいかれない。
やり返すようになるといじめは止んだが、よほど嫌われていたのか、今度は客の財布を盗んだという濡れ衣を着せられた。
女将さんに無実を訴えても信じてもらえず、罰として鞭打ちされた挙げ句、私は宿屋を追われることになった。
雪がしんしんと降り続く、底冷えのする朝だった。
鞭で打たれた背中が焼けたように痛み、まともに歩くことができない。やっとの思いで人気のない路地裏に辿りつくと、もう身体は動かない。私はその場に倒れ込んだ。
私の上に、真っ白い雪が降り積もる。
(このまま死ぬのかな? 死んだらマリーに会える? 会ったら謝らなくちゃ。ごめんね、マリー……マリーに会いたい……もう、疲れたわ………………)
そして、完全なる暗闇がやってきた。