家庭教師、キース先生視点
10歳になるまで家庭教師がつけられず、字の読み書きが出来ない令嬢、アイリス・クロフォードの家庭教師を任せたいと言われた時、正直思った。
(面倒な事になったな)
だけど……。最初の授業の日、学びたいという意欲に満ち溢れたその薄緑色の瞳を見た時、その考えは覆された。
(こういう子に教えるのは、嫌いじゃありませんよ)
事実アイリス・クロフォードは、私が教える知識を、まるで新品のスポンジみたいにどんどん吸収していった。
この間まで字の読み書きが出来なかったなど、誰が信じるだろう。
私は、彼女に教えることが何より楽しみになった。
ある日、アイリス嬢が言った。
「ルクスの授業、庭園の先にあるガゼボでやってほしいんです」
彼女の境遇には、何となくだが気がついていた。
貴族の子供が受けるべき教育を、10歳になるまで受けていなかったのだ。察するに余りある。
そんな境遇に身を置きながらも、彼女は病弱な双子の兄の為に、自分が出来ることを模索していた。
私は、すっかり絆されてしまった。
(これは、協力しないわけにはいきませんね)
私の提案を、クロフォード伯爵夫人は激しく拒絶した。
外は危険だ。体の弱いルクスが怪我をすれば大変なことになる。
他にも色々言っていたけれど、国一番の家庭教師のプライドに賭けて、口八丁手八丁で説得した。
何とか許しを得たが、今度は自分も一緒に授業を受ける、メイドは最低でも5人は必要だと言って聞かない。
「ルクス様の今後の人生を考えると、夫人やメイドのいない環境に慣れておいた方がいいでしょう」
と説得し、メイド一人を付き添わせることで、何とか話はまとまった。
屋敷からガゼボまでは、800m程だろうか。
ルクス君は普段よほど体を動かさないのか、100m歩いただけで息を切らし、苦しそうに肩を上下させていた。
こまめに水分補給をし、一歩一歩足を進め、時間をかけてガゼボに辿り着く。
ルクス君の顔は蒼白で、頬に赤みはなく、全く汗をかいていなかった。
休憩を挟みつつ授業をしていると、アイリス嬢がやって来た。
それから、少し歪な丸くて黄色いものを見せるとこう言った。
「これは、卵パンです」
こうも言っていた。
「あんた、野菜しか食べてないでしょ?」
ツッコミどころが満載だ。
その日の夜、仕事から帰ってきた姉ソフィアと一緒に夕食を食べた。
ソフィアは、王宮に勤める栄養学士だ。
早くに両親を亡くし、姉に育ててもらったも同然の私は、姉に頭が上がらない。
「何か考え事?」
食事を終えた後、ソフィアが私に尋ねた。
「えっ?」
「眉間に皺ができてるわよ」
姉には全てお見通しのようだ。
「今日、アイリス嬢が……」
「こないだまで字が読めなかったのに、学ぶ意欲満々なあなたのお気に入りのアイリス嬢」
「ルクス君に……」
「体が弱いのに、勉強に手を抜かないルクス君」
「卵パンを……」
「卵パン!?」
私は、その日ガゼボであった出来事を掻い摘んで話した。
最初はわけが分からないという表情だったソフィアの顔が、だんだんと険しくなっていく。
そうして私が話し終えると、僅かばかり声を強張らせながらこう言った。
「キース、それは………緩やかな殺人よ」
それから8ヶ月程が過ぎた。
最初は100m歩くだけで息を切らしていたルクス君は、ガゼボまで休まずに歩けるようになった。
肩で息はしているものの、頬には赤みが差し、額や首筋に汗が滲んでいる。
頗る良い傾向だ。
それから、秘密兵器の卵パン。
アイリス嬢のメイド、マリーにレシピを教わって、私が作るようになったのだ。
ルクス君に命じられたメイドがティーセットを取りに行っている間に、隠し持っていた卵パンを渡す。
普段本当に野菜しか食べていないのか、卵パンが余程美味しいらしく、無我夢中で食べているルクス君を、私は微笑ましく見守っていた。
時々、熱が出たと授業が休みになることがあった。それでも、
「これまで週に二度は出ていた熱が、2週に一度になったんです」
と、嬉しそうに笑っていた。
そんなある日、ルクス君が、手づから作った誕生日パーティーの招待状をくれた。
「これまでは家族だけに祝ってもらっていたんですが、最近は少し体調が良いので、親しい人を招待することにしたんです。ぜひ、ご家族といらして下さい」
「ありがとう。姉のソフィアと参加させてもらうよ」
それから、心なしか晴れ晴れしたような顔で、こう呟いた。
「今年は、きっといい誕生日になります。きっと……」




