セリーヌの苦悩
美しい音楽の音色と人々の喧騒が、屋敷の外れにある私の部屋まで届く。
ジュリアの誕生日パーティーが、屋敷の大広間で開かれていているのだ。
前世では、悲しみと淋しさが入り混じったような気持ちでこの音を聞いていた。
だけど、今は違う。
(うるさくって、眠れないじゃない!)
って思うだけ。
(ルクスはどうしてるかな?)
ふと、暫く会っていないルクスのことを考える。
ルクスは自室にいるだろう。
大勢の人に会うのはルクスの体に負担がかかるからと、母がパーティーや集いには参加させないようにしていたから。
その母も、パーティーに顔を出すのは最初だけで、父の挨拶が終わる頃には、ルクスの元に戻るために大広間を後にする。
私といえば、“体の弱い双子の兄を思い、自らパーティーや集いへの参加を自粛する心優しい妹”ということになっているらしい。
テラスに出て、ひんやりとした外の空気を吸い込む。
パーティーは朝まで続くだろう。
(今夜は朝まで眠れそうにないわね)
そんな事を考えていると、
「――――――――――!!!」
「―――――――――!!」
何処からか、男女の言い争う声が聞こえてきた。
「セリーヌ姉様!」
テラスの近くに立つ大きな欅の木の陰に、ドレス姿のセリーヌの姿を見つけた。
私の声に驚いた男が、辺りを見渡した後で足早に去っていく。
下の階の窓から漏れる明かりのおかげで、その姿がはっきりと見えた。赤茶色の髪に体格のいい体。
アラン・サルバドール。
セリーヌの婚約者だ。
「アイリス……」
こちらを見上げたセリーヌは、憔悴しきったような顔をしながら、頼りなげな声で呟いた。
迎えにやったマリーに支えられながら、セリーヌが私の部屋の椅子に身を委ねる。マリーが淹れてくれたハーブティーを飲むと、少し落ち着きを取り戻したようだ。
「ごめんね、アイリス。驚かせたわね」
「いえ……。一緒にいたのは、婚約者のアラン様でしたね」
「ええ」
ティーカップを置いたセリーヌは、少し躊躇いがちに口を開いた。
「婚約破棄して欲しいと言ったの。そうしたら、物凄く怒り出して……」
「婚約破棄……ですか?」
セリーヌの言葉がすぐには飲み込めずに聞き返すと、セリーヌは私の顔を真っ直ぐに見た。
「私はね、アイリス。弁護士になりたいのよ」
母とジュリアと同じ、太陽に照らされた海のように煌めくセリーヌの青い瞳。
その瞳が、射抜くような強さで私を見つめる。
まるで、自分は本気だと言うように。
「伯爵家の令嬢が弁護士を目指すなんて、許されることではないわ。それに私には婚約者もいる。だから、叶わない夢だと思っていた。いえ、夢ですらなかったわね。夢は努力すれば叶うこともあるけれど、そんな単純なことではなかったから。だけどアイリス、あなたを見ていたら、私はこのまま定められた道を行くのが嫌になってしまったの」
「私……ですか?」
セリーヌが静かに頷く。
「悲惨な環境に置かれても、あなたは学ぶことを諦めなかった。そんなあなたを見ていたら、欲が出てしまったのよ。自分の人生を諦めたくない。夢を叶える為に、全身全霊で努力してみたいという欲がね」
セリーヌの隣に膝をついて座ると、セリーヌが私の方へ体を向けた。それから、
「だけど、やっぱりそう簡単にはいかないみたいね」
と呟いた。
「クロフォード伯爵家の長女として恥ずかしくないように。ルクスの良い見本となるように。慎ましく品行方正に。幼い頃からそう言われ続けてきたわ。それが私の存在価値だった。7歳の私に、何人の家庭教師がいたか知ってる? 9人よ。授業に復習、次の日の予習、朝起きた時から眠りにつく瞬間まで、息つく暇もなかった。だけど、期待に応えられるよう必死で努力したわ。それなのに……。お父様は、あの男、アラン・サルバドールと私を婚約させた。お父様はね、あの男を婿にして、ルクスがこのまま健康を取り戻せなければ、あの男を伯爵代理にして伯爵家を任せるつもりなの。そのチャンスを逃したくない為に、あの男は私の婚約者でいることにしがみついている。婚約破棄を受け入れることは絶対にありえないわ」
セリーヌが、婚約者をあの男呼ばわりしたことに驚く。
「もしルクスが健康を取り戻せば、あの男は伯爵領にある何処かの領地を貰い受け領主になる。どちらにしても損はしない。私にある選択肢は二つだけ。クロフォード家の伯爵代理となったアランの妻として生きるか、何処かの領地の領主となったアランの妻として生きるか。そして、そのどちらかすらも自分で選べない。分かってる。夫人として家を守ることも大切な仕事だって。だけど……。そんな未来しかないなら、どうして私は血反吐を吐く思いで勉強しなくてはならなかったの? 学ぶことに全てを捧げた私の時間は? 私の努力は? 私は一体何のために生きてきたの?」
セリーヌの声は落ち着いていたが、私にはそれがセリーヌの悲鳴のように聞こえた。
「セリーヌ姉様……!」
「アイリス、今だけ、今だけ泣かせてちょうだい」
両手で顔を覆い、声を押し殺しながら、セリーヌは泣いた。
小刻みに震えるその体を抱きしめると、その泣き声は、次第に嗚咽に変わっていった。
(私だけじゃなかった。私だけが、つらい思いをしているわけじゃなかった……!)
セリーヌもこんなにも苦しんでいた。
そして、ルクスも。
もしかしたらジュリアだって……。
抱き合った私達は声を上げて泣き続けたけれど、私達の泣き声は、美しい音楽と人々の喧騒に掻き消され、誰の耳にも届かなった。




