ドミニクの憂鬱(婚約者ドミニク・カスティル視点)
月に一度、婚約者との茶会の為にクロフォード家を訪ねる。
この2年間欠かさず続けている習慣だ。
目の前の婚約者アイリス・クロフォードは、薄茶色の髪を風になびかせ、ティーカップを見つめている。
アイリス・クロフォードと初めて会ったのは、僕が12歳の時のことだ。
平凡な顔。まともに出来ないカーテシー。
普通ならがっかりするところだが、どうということもない。彼女が両親の選んだ人ならば、僕はそれを受け入れるだけだ。
カーテシーが出来ずよろめく彼女に、手を差し伸べる。驚いたように見開かれたペリドットの瞳の中に、何かが生まれる瞬間を見た。
彼女と結婚し、公爵家が所有する領地の領主となり、将来公爵家を継ぐ兄を支える。そんな未来に何の不満もなかった。
それなのに……。
帰りの馬車の中で、母が嘆いた。
「カーテシーもまともに出来ない娘がドミニクの婚約者だなんて、なんてことなの!」
「クロフォードの奴め! 婚約者候補が山程いるジュリアを差し出すのが惜しくなったのだ。その上、顔合わせに夫婦ともども顔を出さないとは、こちらを舐めているにもほどがある!」
父と母にこんなにも嫌われている令嬢と、生涯を共にしなくてはならない。
途端に心が冷えていった。
(だけど……。そんな相手なら、父上が早々に婚約破棄を言い渡すだろう)
けれども、婚約破棄は一向になされなかった。
それどころか、月に一度、アイリス・クロフォードと茶会の時間を設けるよう釘を刺された。
僕とアイリスの婚約が、カスティル家の借金を、クロフォード家に肩代わりしてもらうことへの見返りだと知ったのは、随分後になってからだ。
貴族の婚約が、利害関係で結ばれるのはよくあることだ。それはいい。両親が決めたこの婚約に異議を唱えるつもりもない。
ただ僕は、未来に希望を抱けなくなっただけだ。
両親に嫌われている令嬢を妻にし、その妻の実家に借金のことで引け目を感じながら、生きていかなくてはならないのだから。
その日は最初からおかしかった。
いつもなら、取るに足らない話を息つく間もなく喋り続けているアイリスが、席に着いてから一言も話さない。
その上、マナーを知らないせいで響かせていた、食器がぶつかる耳障りな音も聞こえてこない。
不思議に思い顔を上げると、彼女のペリドットの瞳と目が合った。
彼女の顔をまともに見たのはいつ以来だろうか?
初めて会った、顔合わせの時以来かもしれない。
彼女はこんな事を言った。
「月に一度のこの茶会、止めにしませんか?」
月に一度のこの茶会を、止めることなど出来ない。
そんな事をすれば、婚約者としての義務を果たしていないということになってしまう。
そのせいで婚約破棄にでもなれば、肩代わりしてもらった借金を、クロフォード家に返済しなくてはならなくなる。
そして、ふと気づく。
僕が婚約者としてしていることは、月に一度クロフォード家を訪れ、一杯の紅茶を飲む。ただそれだけだということに………。
1ヶ月後、再びクロフォード家を訪れた。
不機嫌そうな顔をしたアイリスは、やはり一言も話さない。
(何か話した方がいいだろうか……)
その時、クロフォード家の使用人達が、いつもより忙しなく働いているのが目に入った。
「今日は随分騒がしいのだな」
「今夜は姉のジュリアの誕生日パーティーがあるので」
「それは、忙しい日に来てしまったな」
「いいえ、私は参加しないので」
「そういえば、君の誕生日パーティーに招待されたことがなかったな」
「私の誕生日パーティーは、これまで一度も開かれたことがないので」
「君の双子の兄は体が弱いのだったな。それでパーティーを開かないか」
「いいえ、ルクスの誕生日パーティーは毎年開かれています。身内だけの集まりですけど」
「では、その時に君も一緒に祝われるのだな」
「いいえ、私は誕生日を祝われたことは一度もありません」
わけがわからない。
けれども、次にアイリスが放った捲し立てたるような言葉を聞いた時、点と点が繋がったような気がした。
「知らなかったんですか? 私がクロフォード家でどんな扱いをされているか? 兄が病弱になったのは私のせいだと母に憎まれ、父に無視されて、姉にいじめられ、使用人にまで嘲笑われる、それが私の日常なんです」
アイリスがまともなカーテシーも出来ず、お茶の作法も知らないのは、彼女の怠慢のせいだと思っていた。
ろくに勉強せずに、努力を怠っているのだと。
これまでずっと、そう思い続けていた。
2年もの間、ずっと。
だけど、そうではなかった。
これまでの茶会のことを思い出す。
彼女はいつも、僕の茶の飲み方を盗み見ながら、それを真似しようとしていた。
少しでもマナーを身に付けようと、努力していたではないか。
彼女の怠慢などではない。
彼女には、学ぶ機会が与えられなかったのだ。
信じ難いことだが、彼女の言葉を聞く限り、きっとそれが真実なのだ。
それに、僕は見ていたではないか。
誰かの為に仕立てられたような似合わないドレスを着て、サイズの合わない靴を履き、足を引きずりながら歩いてくる彼女の姿を。
(アイリス)
出会ってから、一度も呼ぶことのなかった名前だ。
声に出して、呼ぼうとする。
だけど……。言葉は喉に突っかかり、僕の口から零れ出ることはなかった。




