クロフォード家の三姉妹
ある日の夕方、私の部屋に来た執事長が告げた。
「旦那様が、久しぶりに食堂で食事をされてはどうかと仰っています」
食堂で食事をしなくなってから、3ヶ月程が過ぎていた。
(今まで何も言ってこなかったくせに、今さら何だっていうのよ)
どう返事をしたものか考えあぐねていると、
「今日はルクス坊ちゃまの体調が悪く、奥様と坊ちゃまは食堂へはいらっしゃいません」
と付け加えた。
(ルクス……、また熱を出したのね)
ルクスの事は気になったが、私にはどうすることも出来ない。
「わかりました。行くと伝えて下さい」
そう返事をして、支度に取り掛かった。
身支度を整えて、食堂へ向かう。
廊下は冷たくて暗く、食堂のドアは相変わらず重い。
父とセリーヌとジュリアが自分の席に着いていたが、まだ食事を始めていなかった。
(まさか私を待っていたの? こんなこと、今まで一度もなかったのに……)
席に座ると、食事が運ばれてくる。
(どうせ、萎びた野菜と具のないスープでしょ)
そう思っていたけれど、運ばれてきたのは皆と同じまともな料理だった。
ジュリアが、悔しそうに顔を歪めている。
(私が食堂に来ることを知らなくて、前もって使用人に指示を出せなかったのね)
カチャリ……カチャリ……
会話もなく、カトラリーの音だけが広い室内に響く。
はっきり言って気まずい。
(こんなに気まずいなら、大人しく部屋で食事をすればよかった)
その時、やって来た執事長が父に耳打ちをした。ナプキンを無造作にテーブルに置き、席を立つ父。それから、
「仕事の件で席を外す。お前たちは食事を続けなさい」
と言って、食堂から出ていった。
(呼び出しておいて、一体何なのよ!)
父の背中に向けて、心の中で文句を言う。
それより……。
父がいなくなれば、ジュリアが何を言ってくるかわかったものではない。
(面倒な事になる前に、席を立ったほうがよさそうね)
だけど、一足遅かった。
「あんた、キース先生の授業を受けているんですってね。この間まで字も読めなかったくせに、随分生意気になったじゃない」
久しぶりに私を痛めつけられるのが余程嬉しいのか、ジュリアの顔は恍惚と輝いている。その時、
「えっ?」
と言って、セリーヌが食事をする手を止めた。
「それはどういうこと?」
ジュリアが、よくぞ聞いてくれたとばかりに捲し立てる。
「この子ってばお母様に家庭教師をつけるのを忘れられて、この間まで字も読めなければ、まともなカーテシーも出来なかったのよ。とんだ落ちこぼれ! クロフォード家の恥よ! お姉様もそう思うでしょ?」
セリーヌは、持っていたカトラリーを置いて、ナプキンで口を拭った。
「教える者がいなかったせいで、字が読めずマナーを知らないなら、それはそういう環境を作った人間が悪いのであって、この子に落ちこぼれと言うのは筋違いね」
セリーヌの言葉に、ジュリアは呆れたように息を吐いた。
「お姉様ってば、そんなに固いことばかり言って! だからアラン様に愛想を尽かされるんですよ」
アランとは、セリーヌの婚約者である、サルバドール子爵家の令息アラン・サルバドールのことだ。
「ジュリア、あなたの言っていることは今の会話とは無関係よ。それよりアイリス」
私の右隣に座っているセリーヌが、私を見て私の名前を呼んだ。
名前を呼ばれてハッとする。
前世まで思い返してみても……。
セリーヌに名前を呼ばれるのも、話しかけられるのも、憶えている限り初めてのことだった。
「今、キース先生に何を習っているの?」
「今は、歴史とボードルーの詩を習っています。暗唱が課題で……」
私が答えると、すかさずジュリアが口を挟む。
「この間まで字も読めなかった分際で、何が暗唱よ! 出来るわけないじゃない!」
これには流石にカチンときた。
「出来るか出来ないか、お姉様が確かめて下さい」
ひとつ深呼吸をして、覚えたてのボードルーの詩を暗唱する。
『君は見たか? 空と海が交わる瞬間を 青と青が溶け合う瞬間を 私は見た 海と太陽が交わる瞬間を 青と赤が溶け合う瞬間を―――――――――――――――』
「素晴らしいわ」
セリーヌが、薄らとした笑みを浮かべて私を見る。
真正面に座るジュリアは、悔しそうに顔を歪め、唇を小刻みに震わせていた。
ジュリアのことだ。これ以上ここにいれば、もっと面倒な事になるだろう。
(こんな時は、逃げるが勝ちよ)
「もうお腹がいっぱいなので、これで失礼します」
そう言って席を立ち、逃げるように食堂を後にした。
セリーヌが私の部屋を訪ねてきたのは、次の日の夕暮れ時だった。
屋敷の外れにあるこの部屋を訪ねて来るなんて、余程の事だろう。何事かと心配していると、セリーヌは私に1冊の本を差し出した。
紺地に銀色の刺繍が光る、美しい装丁の本だ。
「私のお気に入りの詩集よ。読んでみて」
「……貸してくれるんですか?」
「ええ。気に入ってくれるといいのだけれど……」
「あっ……ありがとうございます」
これまで、私に本を贈ってくれたり、貸してくれる人は一人もいなかった。
(本を貸して貰えるって、こんなに素敵な気分なのね)
その時、セリーヌが躊躇いがちに口を開く。
「アイリス……」
それから、私の顔をじっと見つめた。
「私はあなたを、少しも理解していなかったのね」
「えっ?」
「……何でもないの。それより、今度ボードルーの詩について語り合いましょう」
そう言って、セリーヌは帰って行った。
一人になり、前世でのセリーヌとの記憶を呼び起こす。
何の思い出もなかった。
思い出すのは、食堂で私の隣に座るセリーヌの、凛とした横顔だけ。
お父様譲りの薄茶色の髪を結い上げて、お母様譲りの海の色をした瞳で、真っ直ぐに前を見つめていた。
セリーヌは、私の名前を呼ぶことも、話しかけてくることもなかった。
だけど、それは他の誰に対しても同じだった。
話しかけられれば答えたけれど、余程のことがなければ自分から話しかけることはない。
(もしかして……。無視されていたわけじゃなかったの?)
私に対しても、他の人と同じ様に接していただけなのかもしれない。
(話しかけていれば、答えてくれていた?)
今となってはわからない。
だけど、何だか心が温かかった。
その時、セリーヌが貸してくれた本に、何かが挟まっていることに気がつく。
(手紙?)
檸檬色の綺麗な封筒の中に、一通の手紙が入っていた。
親愛なるアイリス
私はあなたのことを何も理解していなかった。
私はこれまでずっと、あなたがマナーを知らず品位に欠けた振る舞いをするのは、あなたが学ぶことを軽んじているせいだと思っていたの。
授業を真剣に聞かず、勉強を疎かにして遊んでばかりいると、全てはあなたの怠慢のせいだと思っていた。
だから、あなたの置かれた状況は、あなたの自業自得だと思っていたのよ。
まさか、学ぶ機会すら与えられていなかったなんて。
自分のことで精一杯で、私は何も見えていなかった。いえ、見ようとしていなかったのね。
アイリス、どうか愚かな姉を許して。
そして、私にもう一度機会を与えてちょうだい。あなたの姉になる機会を。
セリーヌ
その夜、私はその手紙を抱きしめて眠った。




