秘密兵器は卵パン
それから数日後の授業の日、私は言った。
「キース先生、お願いがあります」
授業を終え、帰り支度をしていたキース先生が、眼鏡のブリッジを上げながら私を見る。
「何でしょう? アイリス様」
「屋敷の東側にある庭園の奥に、ガゼボがあります。ルクスの授業、そのガゼボでやって欲しいんです」
キース先生の菫色の瞳が、不思議なものでも見るように瞬きを繰り返す。私は話を続けた。
「屋敷から少し距離はありますが、ガゼボまでの道はきちんと舗装されています。キース先生の授業がある週4日、あの道を往復したらいい運動になると思うんです。それに……」
「それに?」
キース先生の声はとても優しい。
「庭園は日当たりがいいでしょ? 日に当たりすぎるのは良くないけど、適度な日光浴は体に良いと、最近読んだ本に書いてあったんです」
そこまで言うと、キース先生は全てを理解したように頷いた。
「わかりました。アイリス様のご期待に沿えるよう、努力してみます」
私はほっと胸を撫で下ろす。キース先生に断られていたら、この計画はそこでお終いだったから。
他の誰が頼んても、母は決して許しはしないだろう。
外は危険だからとルクスを屋敷に閉じ込めて、常に目を光らせているくらいだ。
だけど、この国で最も人気のある家庭教師、キース・キャンベルに頼まれたら話は別だ。
機嫌を損ねて屋敷を鞍替えされては困るし、他の貴族の屋敷でクロフォード家の悪口を言われては困る。
(キース先生なら、きっと上手くやってくれるわ)
もちろん、これでルクスが健康になるとは思っていない。きっと気休めにもならないだろう。
(だけど、何もやらないよりはマシよ)
ルクスの授業をガゼボで行うことが決まったのは、それから2週間後のことだった。
(そうと決まれば、重要なことがもうひとつ)
「マリー、お願いがあるの。マリーにしかできないことよ」
ルクスの授業が初めてガゼボで行われる日、私はこっそり様子を見に行った。
屋敷を出て、手入れの行き届いた庭園を15分ほど歩くと、美しい装飾が施された白いガゼボが見えてくる。
赤いつるバラの咲くパイプアーチの影から覗くと、キース先生のすらりとした背中越しに、ルクスの姿を発見した。
(少し肩で息をしているけど、大丈夫そうね)
母やメイドに見張られながらの授業かと思っていたが、母の姿はなく、メイドは一人しかいなかった。そのメイドも、ガゼボから少し離れた所に立っている。キース先生が説得してくれたのだろう。
ふいにこちらを見たルクスと目が合うと、ルクスがメイドに向かって、
「そろそろ休憩にするから、お茶を用意して」
と声をかけた。
(なかなか察しがいいじゃない)
メイドが背中を向けたのを確認して、ガゼボに向かう。ガゼボの短い階段を登り、ルクスの隣の椅子に腰を下ろすと、キース先生が驚いたように声を上げた。
「これはこれはアイリス様、どうされました?」
「実は、ルクスに渡したい物がありまして……」
持ってきたあるものをテーブルの上に置いて、包み紙を開ける。
「これは、一体何でしょうか?」
キース先生が、眼鏡の縁をくいくいと動かしながらあるものを凝視した。
「これは、卵パンです」
「卵パン?」
これは、マリーお手製の卵パン。
「お嬢様、このパンには砂糖と牛乳と卵が入っているので、とても栄養があるんですよ」
そう言って、ジュリアや使用人の嫌がらせでまともな食事が出来なかった私の為に、マリーが夜な夜な厨房に忍び込んで作ってくれた私の栄養源。
私が健康に育ったのは、マリーとこの卵パンのおかげといっていいだろう。
マリーにお願いして、昨日の夜に作ってもらっていたのだ。
「あんた、野菜しか食べてないでしょ? これを食べてみて」
「野菜しか食べていない……?」
ルクスに向けた私の言葉を聞いて、キース先生が訝しげに目を細める。
「そうなのですか?」
「……はい。母の方針で」
ルクスが弱々しい声で答える。
お母様お抱えの栄養学士の、オススメの健康法らしい。
「そして、これは卵パン」
キース先生が、もう一度卵パンを見つめた。
「はい。砂糖と牛乳と卵が入っていて栄養があると、萎びた野菜と具のないスープしか食べていない私の為に、メイドのマリーが作ってくれたものなんです」
「萎びた……野菜?」
本格的に険しくなったキース先生の表情を見た私は、
「もちろん、今はちゃんとした食事を食べています」
と慌てて付け加えた。
「確かに、砂糖も牛乳も卵も滋養がありますから、ルクス君にはとても良い食べ物かもしれませんね」
頷くキース先生。ルクスが、不思議そうに目をぱちぱちと瞬かせた。
「キース先生、卵や牛乳や砂糖は、体に良い食べ物なのですか?」
「どんなものでも摂り過ぎは毒になりますが、卵と牛乳はたんぱく質が豊富で、砂糖はエネルギーになるのですよ」
「野菜よりも、体に良いということでしょうか?」
「もちろん、野菜も体に良い食べ物です。食べ物には、それぞれ異なった栄養素が含まれているのですよ。大切なのは、バランス良く食べることですから」
「先生は、そのようなことにも詳しいのですね」
私が尋ねると、キース先生は薄い笑みを浮かべながら、
「私の姉は王宮に勤める栄養学士なのです。早くに両親を亡くし、姉に育てられたようなものなので、いつも口酸っぱく言われてきました。食べた物が人間の体を作ると」
と教えてくれた。
その時、ティーセットを抱えたメイドが、こちらに向かって歩いてくる姿が目に入る。
(お母様に告げ口されたら面倒ね)
「とにかく、このパン絶対に食べるのよ!」
そう言い残して、私は逃げるようにガゼボを後にした。
屋敷に向かって足早に歩いていると、庭園の入口に、私を待つマリーの姿を見つける。
「マリー、卵パンありがとう」
「ルクス坊ちゃまに差し上げる為だったんですね」
「実はそうなんだ」
「お嬢様はお優しいですね」
そう言って、満足気に微笑むマリー。
私は思う。
優しくなんかない。
ただ、知っているだけ。
ルクスが死んでしまう未来を。
「優しくなんかないよ」と否定すると、マリーは静かに首を振って、「いいえ、お優しいです」と再び微笑んだ。
マリーに言われると、本当にそうなんじゃないかという気がしてくるから不思議だ。
そうして私の胸の奥は、少しだけくすぐったくなるのだった。




