家族の食卓
「おまけ令嬢」
それが、伯爵令嬢アイリス・クローフォードの仇名だ。
家族に愛されず、虐げられたアイリス・クローフォードは、18歳のある朝、降りしきる雪の中ひとりぼっちで死んでいった…………はずだった。
(あったかい……。このままずっとこうしていたい)
心地の良いまどろみを遮ったのは、懐かしい声だった。
「アイリスお嬢様、お目覚めの時間ですよ」
反射的に飛び起きたものの、そのまま固まってしまう。目の前にいたのが、1年前に死んだはずのマリーだったから。
「マリー!?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまう。
「なんで!? どうして生きてるの!?」
マリーは面食らったような顔をしたが、
「お嬢様、寝ぼけてるんですか?」
と言って、栗色の瞳を三日月の形にして笑った。
その時、マリーの姿越しに、鏡に映る自分の姿が目に入る。
少し癖のある薄茶色の髪に、ペリドットの瞳。
そう、私だ。確かに私。
だけど……。
そこに映っていたのは、幼い少女の姿だった。
(なんで!? 私って今18歳よね?)
小さな手で、バラ色に染まる柔らかな頬をつねってみる。
「痛い!!」
(痛い……めちゃくちゃ痛い。だけど……)
そう、これは夢だ。どう考えたって夢。
そうでなければ、子供の頃の姿をしているわけがない。
(それにしても、何で子供の頃の夢なんて……)
良いことなんて、一つもなかった子供時代。
(と言っても、私の人生、良い時なんて一度もなかったけどね)
「お嬢様、身支度を整えて食堂へ行きましょう」
マリーにされるがまま身支度を整えて、食堂に向かう。屋敷の外れにある私の部屋から、食堂は遠い。
暗く冷たい廊下を過ぎると、曲がり角に大きな窓が現れ、そこから溢れんばかりの陽光が差し込んでいる。窓の向こうには色とりどりの花が咲く美しい庭園。華やかな調度品や美術品が、最高級の絨毯が敷かれた廊下を彩る。全てが夢とは思えないほど鮮明だ。
マリーは、幼い頃から側にいてくれる私付きのメイドだ。この屋敷の中で、唯一の私の味方といっていい。だけど、私が17歳の時に流行り病で死んでしまった。
「マリーって、今何歳?」
私の後ろを歩くマリーに尋ねると、マリーは少し呆れたようにくすくすと笑う。
「お嬢様、まだ寝ぼけてるんですか? 私は17歳ですよ」
(なるほど。私とマリーは7歳違いだから……。私は今、10歳の頃の夢を見ているってことね)
そんなことを考えているうちに、食堂へ到着した。
「お嬢様、こちらでお待ちしていますね」
下級メイドのマリーは、食堂の中へ入ることができない。
ひとり食堂のドアの前に立つと、“ドクン”と小さく心臓が跳ねた。
(夢だってわかってるのに、足がすくむなんてね)
「ふぅ……」
小さく深呼吸して、私は重い扉を開けた。
繊細な光を放つクリスタル製のシャンデリア。
その下の細やかな細工が施された巨大なダイニングテーブルで、私以外の家族はみな食事を始めていた。
お父様に上の姉のセリーヌ、二番目の姉ジュリアは私の向かいの席。そして、お母様は私の双子の兄ルクスに付きっきりだ。
私は静かに席に着く。
誰もこちらを一瞥すらしない。
まるで、私が見えていないかのようだ。
(夢の中でも同じなのね)
彼らにとって、私は透明で、いてもいなくてもどちらでもいい存在なのだ。
メイドが食事を運んでくる。
ドレッシングがかかっていない萎びた野菜のサラダ、具の入っていない冷めたスープ、カチカチに固い黒いパン。
誰の差し金かはわかっていた。
顔を上げると、目の前に座るジュリアがにやりと笑う。
(いてもいなくてもどちらでもいい存在っていうのは、訂正しないとね)
少なくともジュリアにとっては、虐げて快感を得る為の道具として、私はいなくてはならない存在なのだろう。
父は気づいているのかいないのか、こちらを見向きもしない。徹底的な無関心だ。
母に至っては、ルクスのことしか見えていない。私が入ってきたことすら気付いていない可能性がある。
これが私の日常だった。
けれど、この屋敷で暮らしている間、ただの一度も食堂での食事を欠かしたことはなかった。私にとって、家族と一緒にいられる唯一の時間だったから。
今日はこちらを見てもらえるかもしれない、話しかけてもらえるかもしれない。
そんな小さな期待を抱きながら、あの重いドアを開け続けた。
今なら思う。
こんな人達からの関心を、なぜあんなに求めていたのだろう。ただ黙って耐えていた自分を笑ってやりたい。
それに、これは夢だ。
(夢の中でまで、我慢しなくたっていいんじゃない?)
「食欲がないので、これで失礼します」
そう言って、席を立つ。
父がちらりと目線を上げた。
ジュリアが驚いた顔をして手を止めた。
それだけだった。
「具合が悪いのか?」
その一言でもあれば、どんなに救われたかしれないのに。
(夢の中ですら、私は愛されないのね)
だけど……。食堂を出る私の足取りは、頗る軽かった。