キッチンの幽霊②
「で、お嬢様の定義って?」
「……わかりません」
てへへとヒナタは笑った。
「食べないの? ほらほら」
「リビングのピアノ、もう弾かないんですか?」
ヒナタ、オレンジには見向きもしない。しかたないから、私の口のなかにおさめる。
「ん? 弾きたいならいつでもいいよ。鍵かかってないと思う」
「桑山レイコさんは、僕の好きな歌手のひとりでした」
「……そ?」
突然ママの話になって戸惑う。
「僕の母が好きで、小さい頃から良く聞いていました」
オレンジから味も香りも消えた。
モシャモシャとした、感触だけが口の中にある。
「残念です、奏さんが音楽を辞めたこと」
「どうして、私が音楽やってたって思った?」
「だってトロフィーの棚、4分の1は奏さんのピアノで獲得したものじゃないですか」
「そっか、良く見てるね」
「他にもヴァイオリン、歌、英才教育受けてましたね」
「うんまぁ。……辞めたというかダメなんだ。ピアノの前に座っても、全然動かないの」
ヒナタが目を細めて私を見る。
多分、コンタクトが入ってないから、よく見えないんだろう。
「指」
私は両手を宙にあげ指を広げて見せる。
「桑山レイコは、ママは私のせいで死んだから」
「違いますよ、飛行機事故です。奏さんのせいじゃない」
ヒナタが強い口調で否定した。
「アメリカにいたママに、1日早く帰って来て欲しいって頼んだの。学校の合唱コンクールで伴奏するの、見に来て欲しかったから」
別に初めて伴奏するわけでもなかったし、帰国を急がせる程、大事な舞台って訳でもなかった。
「予定通りの日に帰国していれば、ママは事故に遇わなかったと思う」
オレンジの酸味が苦く喉の奥を掻き回す。
「僕は……」
ヒナタは言葉をのみ込んで、口を尖らせた。これは怒っているときのヒナタの癖。
「僕は気のきいた事が言えないから……歌いますね」
ヒナタがひっそり静かに歌い始めた。
桑山レイコの代表曲で、誰もがよく知っている曲だ。
パパがママと初めて会った日の夜に、ひと晩で作った曲だって、二人から何度も聞かされていた。
桑山レイコをイメージした初恋の歌。
ヒナタの高音はとても綺麗で不思議だ。女性の高音を地声で歌えるほど音域が広くて、しかも安定している。
地声だから、ミックスボイスや裏声の癖や変な悪さがない。
徐々に、あの頃の楽しかった思い出が甦ってきた。
罰のように、ずっと封印していたママとの思い出。
ママの顔、表情、そして声。
「どんなに遠くにいても、ママはいつも奏ちゃんのこと思っているから、心はいつも側にいるから、安心して眠るのよ? いつも愛してる、忘れないで」
仕事で海外に行くとき、いつもそう言って抱き締めてくれた。
一年の半分も家にいなかったし、私はいつも一人だった。
それでも、寂しくはなかった。
帰ってくれば、ずっと一緒にいてくれたし、話もたくさん聞いてくれた。
ピアノやヴァイオリンも、帰ってくる度に、上手くなったといつも褒めてくれたし、それが嬉しくて、待っている間はたくさん練習した。
また、褒めてもらうために。
「ちゃんと、お別れ出来なかったんですね」
「……うん」
悲しみと後悔と怒りと喪失がぐちゃぐちゃになった感情が、また甦ってくる。
お葬式までも、お葬式のときも、お葬式の後も、私はずっと泣いていた……
たった一人で。
10歳の、あの頃の私にはこうやって抱き締めて、背中をさすって一緒に泣いて悲しみ合う人が必要だったのに。
だけど、あの時パパは私を避けていた。
お酒を飲んで、ぐでんぐでんになって、何日も部屋に閉じこもって。
叔母さんが一緒にいてくれはしたけれど、ママとの思い出を一緒に弔って、嘘でもいいから、お前のせいじゃないって、今のヒナタみたいに言ってくれていたら……
「僕は、ずっとある人を憎んでいました」
ヒナタの普段話す音程は男性にしては少し高くて(E)ミから(G)ソぐらい。
今は下がって(C)ドから始まった。
「死んじゃえばいいのにって、ずっと思ってて」
「でも口に出したら駄目だっていうふうにも思ってて……」
「けど、ある時頭にきてとうとう言っちゃったんです、本人に。お前なんか死んじゃえっ! って」
「そしたら、本当にいなくなったんです」
フっとヒナタが小さく笑った。
「あ、本当に死んだわけじゃなくて……母が離婚したんです。後で、僕のその言葉で目が覚めたって言ってました」
「それまでに僕たちはたくさん殴られていたから、僕がもっと早く言ってればよかった」
お父さんから暴力を受けていたの?
「もしかして、外で寝ていたっていうのは……追い出されていたとか?」
「……まぁ、そうだったり、自分から出たり」
なんか、田舎の長閑な夏の夜を想像してたけど、ちっともそんなんじゃなかったのか。
「母は僕のために我慢してて、僕は母のために我慢してたみたい。ちゃんと言わなきゃ、わからないことあるんですね。親子でも」
離婚してお母さんが遅くまで働いていて、ヒナタはおばあちゃんに預けられていた。だから、2回の夕飯。
ご飯を食べたいんじゃなくて、その時間を共有したかっただけ。
私と同じように、お母さんとの大事な時間。お腹がいっぱいだと言えばその時間は得られないから。
「母は僕の歌をすごく褒めてくれて、僕の歌を聞いたら元気になるって。だからそれが僕の歌う意味で原点なんです」
「……ごめん」
「え、何がですか?」
「ヒナタに、並、だって言ったこと。凄く傲慢で馬鹿な言い方だった」
誰も誰かの価値を一方的に決めることなんて出来ないのに。
「でも……僕は、そんなに嫌な感じではなかったかも……素直に嬉しかったです。もし……僕から歌がなくなったら……僕は、生きていられるかな」
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ヒナタの歌声ロールモデルはMaddoxさん。この曲を『勝手にOST選曲』しています。
Knight / Maddox
https://youtu.be/GGYem9as15U?si=1PPoKF0fBvox8jyS




